85 / 96
第五章 竜が啼く
破邪の光 4
しおりを挟む
「は……ああ!」
ダリュスカインの口から、血が溢れ出す。
彼は崩れるように膝をつき、その胸に刺さった剣の柄を握った啼義もまた、引き摺られるように膝をついた。息が上がって、何も考えられない。歯の根が合わないほど、全身が震えている。
「はあ、はあ……」
血まみれになり、満身創痍ながら啼義に向けられたダリュスカインの瞳は未だ強い光を湛え、声にならぬ何かを物語っている。
「……あ」
そこにある深緋色を纏う赤の瞳には、確かに見覚えがあった。
「ダリュスカイン──」
その名を口にした途端、啼義の心は急激に現実に呼び戻された。
剣を引き抜こうとした手が、凍りついたように動きを止める。
「何を……している」
躊躇っている啼義の耳に、ダリュスカインの声が届いた。
「早く、剣を抜け」ダリュスカインは苦しげに目を伏せながら言った。「仇を……討ちたかったのだろう」
そうだ。ダリュスカインは靂を弑し、自分の命をも脅かした仇だ。これを引き抜けば、ようやく決着がつく。
なのに──
<出来ない>
狂気の消えたダリュスカインの目を見てしまったら、あまりに様々な感情が渦巻いて、先ほどまでの怒りと憎悪がどこかへ行ってしまったように思考がバラバラになった。
意識が混乱したまま、彼は口を開いた。
「どうして……こんなこと──何も、こんな……」
無関係な者たちまで、巻き込んで。
思わず柄から手を離し、啼義はダリュスカインの肩を支えて顔を覗きこんだ。鱗のように透けて見えていたひびの気配は消え、その額には玉のような汗が浮いている。幾筋かが、顔にこびりついた泥を巻き込みながら流れ落ちた。
「俺は」
ダリュスカインは、皮肉そうな笑みを浮かべる。
「お前に、分かる……わけがない」
抱えてきた劣等感も。啼義への羨望も。
「ずっと、お前が……憎かった」
声を発するたび、息が乱れて呼吸が浅くなるような気がした。真っ直ぐに向けられた啼義の、こんな時ですら翳りのない眼に見えるのは──
もう、分かっている。けれど、どう仕様もなかった。
「靂様の……愛情も。その、力も──俺にはないものを、なぜ、お前が……なんの、苦労もなく……」
黙したままの啼義の目が、僅かに揺れる。
なんの苦労もなく? そんなことはない。でもそれは、ダリュスカインと比べて答えの出る話ではない。けれど確かに、あの頃の自分はあまりに無自覚だったのも事実だ。それに気づいても、やり直せないことも。
「俺──」啼義の黒い瞳に浮かんだ思いを、ダリュスカインがどれほど汲み取ったのかは分からない。彼は口を歪めた。
「笑うだろう……こんな、淵黒の、竜……なんかに」
囚われ、操られて。じわじわと自我を失いながら人の魂を喰らう己は更なる昏い闇に飲まれ、生きた屍も同然だ。
「──これ以上、堕ちるくらいならば」
ダリュスカインが、震える左手で、自身を貫いた剣の柄を掴む。今のうちに、この身体を動かす最後の血液を完全に排出してしまわなければ、やがてあたりに漂う魔気を吸収し、この核と身体は復活するだろう。
「……これで──俺は、やっと……終われる」
ダリュカインは微かに笑み──
刺さっていた剣を、一気に引き抜いた。
「──あっ!」
引き抜いた箇所から、おびただしい鮮血が吹き出す。
「ダリュスカイン!」
再び口から血を吐き、痛みに声をあげて倒れかかるダリュスカインの身体を、啼義が支えた。
とめどない血が溢れ続ける胸元から、今度は黒々とした煙が噴き上げる。
「あ!」
ダリュスカインの手から落ちた啼義の剣が強烈な蒼い光を放ち、それは黒煙を追いかけ巻き込むように捉えると、そこにビリビリと稲妻が走り、空を破るような咆哮が数度、響いた。
──おのれ蒼空の竜め!
声は、最後に確かにそう言った。
が。次には爆発のような衝撃と共に地面が振動し、黒煙も、それを抱きこんだ蒼い光も消えた。
啼義が、光が掻き消えた空を呆然と見つめる。
再び──空は静けさを取り戻した。
風が鳴る音だけが、崩落してできた崖の下から物哀しげに聞こえてくる。
「これで……いい」
ダリュスカインは、虚ろな目を空へ向け、小さく呟いた。
「駄目だ。待ってくれ」
啼義の懇願も虚しく、ダリュスカインの胸から流れ出る血は、彼を支える啼義の身体を伝って、あっという間に地面に血溜まりを作っていく。
「ダリュスカイン!」
呼びかけると、ダリュスカインはゼエゼエと喉を鳴らしながら、もはや思い通りに動かぬ左手で懸命に自身の腰のあたりをまさぐった。
「……頼みが、ある」
「──え?」
血に染まる手で、腰に付いていた巾着を必死に外し、なんとか啼義の目の高さに上げる。
「これを……星莱の社の……結迦という、女性に……返してくれ」
啼義の視線が汚れた巾着を捉え、ダリュスカインへと動く。「誰……?」彼は少し自嘲気味に笑うと、掠れる声で言った。
「俺の……」
だが、その先は聞き取れなかった。
ダリュスカインの瞼が、ゆっくりと閉じていく。そうして目を瞑った表情はひどく穏やかで、吐いた血で汚れた口元は、ほのかに笑っているように見えた。
ダリュスカインの口から、血が溢れ出す。
彼は崩れるように膝をつき、その胸に刺さった剣の柄を握った啼義もまた、引き摺られるように膝をついた。息が上がって、何も考えられない。歯の根が合わないほど、全身が震えている。
「はあ、はあ……」
血まみれになり、満身創痍ながら啼義に向けられたダリュスカインの瞳は未だ強い光を湛え、声にならぬ何かを物語っている。
「……あ」
そこにある深緋色を纏う赤の瞳には、確かに見覚えがあった。
「ダリュスカイン──」
その名を口にした途端、啼義の心は急激に現実に呼び戻された。
剣を引き抜こうとした手が、凍りついたように動きを止める。
「何を……している」
躊躇っている啼義の耳に、ダリュスカインの声が届いた。
「早く、剣を抜け」ダリュスカインは苦しげに目を伏せながら言った。「仇を……討ちたかったのだろう」
そうだ。ダリュスカインは靂を弑し、自分の命をも脅かした仇だ。これを引き抜けば、ようやく決着がつく。
なのに──
<出来ない>
狂気の消えたダリュスカインの目を見てしまったら、あまりに様々な感情が渦巻いて、先ほどまでの怒りと憎悪がどこかへ行ってしまったように思考がバラバラになった。
意識が混乱したまま、彼は口を開いた。
「どうして……こんなこと──何も、こんな……」
無関係な者たちまで、巻き込んで。
思わず柄から手を離し、啼義はダリュスカインの肩を支えて顔を覗きこんだ。鱗のように透けて見えていたひびの気配は消え、その額には玉のような汗が浮いている。幾筋かが、顔にこびりついた泥を巻き込みながら流れ落ちた。
「俺は」
ダリュスカインは、皮肉そうな笑みを浮かべる。
「お前に、分かる……わけがない」
抱えてきた劣等感も。啼義への羨望も。
「ずっと、お前が……憎かった」
声を発するたび、息が乱れて呼吸が浅くなるような気がした。真っ直ぐに向けられた啼義の、こんな時ですら翳りのない眼に見えるのは──
もう、分かっている。けれど、どう仕様もなかった。
「靂様の……愛情も。その、力も──俺にはないものを、なぜ、お前が……なんの、苦労もなく……」
黙したままの啼義の目が、僅かに揺れる。
なんの苦労もなく? そんなことはない。でもそれは、ダリュスカインと比べて答えの出る話ではない。けれど確かに、あの頃の自分はあまりに無自覚だったのも事実だ。それに気づいても、やり直せないことも。
「俺──」啼義の黒い瞳に浮かんだ思いを、ダリュスカインがどれほど汲み取ったのかは分からない。彼は口を歪めた。
「笑うだろう……こんな、淵黒の、竜……なんかに」
囚われ、操られて。じわじわと自我を失いながら人の魂を喰らう己は更なる昏い闇に飲まれ、生きた屍も同然だ。
「──これ以上、堕ちるくらいならば」
ダリュスカインが、震える左手で、自身を貫いた剣の柄を掴む。今のうちに、この身体を動かす最後の血液を完全に排出してしまわなければ、やがてあたりに漂う魔気を吸収し、この核と身体は復活するだろう。
「……これで──俺は、やっと……終われる」
ダリュカインは微かに笑み──
刺さっていた剣を、一気に引き抜いた。
「──あっ!」
引き抜いた箇所から、おびただしい鮮血が吹き出す。
「ダリュスカイン!」
再び口から血を吐き、痛みに声をあげて倒れかかるダリュスカインの身体を、啼義が支えた。
とめどない血が溢れ続ける胸元から、今度は黒々とした煙が噴き上げる。
「あ!」
ダリュスカインの手から落ちた啼義の剣が強烈な蒼い光を放ち、それは黒煙を追いかけ巻き込むように捉えると、そこにビリビリと稲妻が走り、空を破るような咆哮が数度、響いた。
──おのれ蒼空の竜め!
声は、最後に確かにそう言った。
が。次には爆発のような衝撃と共に地面が振動し、黒煙も、それを抱きこんだ蒼い光も消えた。
啼義が、光が掻き消えた空を呆然と見つめる。
再び──空は静けさを取り戻した。
風が鳴る音だけが、崩落してできた崖の下から物哀しげに聞こえてくる。
「これで……いい」
ダリュスカインは、虚ろな目を空へ向け、小さく呟いた。
「駄目だ。待ってくれ」
啼義の懇願も虚しく、ダリュスカインの胸から流れ出る血は、彼を支える啼義の身体を伝って、あっという間に地面に血溜まりを作っていく。
「ダリュスカイン!」
呼びかけると、ダリュスカインはゼエゼエと喉を鳴らしながら、もはや思い通りに動かぬ左手で懸命に自身の腰のあたりをまさぐった。
「……頼みが、ある」
「──え?」
血に染まる手で、腰に付いていた巾着を必死に外し、なんとか啼義の目の高さに上げる。
「これを……星莱の社の……結迦という、女性に……返してくれ」
啼義の視線が汚れた巾着を捉え、ダリュスカインへと動く。「誰……?」彼は少し自嘲気味に笑うと、掠れる声で言った。
「俺の……」
だが、その先は聞き取れなかった。
ダリュスカインの瞼が、ゆっくりと閉じていく。そうして目を瞑った表情はひどく穏やかで、吐いた血で汚れた口元は、ほのかに笑っているように見えた。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
宿敵の家の当主を妻に貰いました~妻は可憐で儚くて優しくて賢くて可愛くて最高です~
紗沙
恋愛
剣の名家にして、国の南側を支配する大貴族フォルス家。
そこの三男として生まれたノヴァは一族のみが扱える秘技が全く使えない、出来損ないというレッテルを貼られ、辛い子供時代を過ごした。
大人になったノヴァは小さな領地を与えられるものの、仕事も家族からの期待も、周りからの期待も0に等しい。
しかし、そんなノヴァに舞い込んだ一件の縁談話。相手は国の北側を支配する大貴族。
フォルス家とは長年の確執があり、今は栄華を極めているアークゲート家だった。
しかも縁談の相手は、まさかのアークゲート家当主・シアで・・・。
「あのときからずっと……お慕いしています」
かくして、何も持たないフォルス家の三男坊は性格良し、容姿良し、というか全てが良しの妻を迎え入れることになる。
ノヴァの運命を変える、全てを与えてこようとする妻を。
「人はアークゲート家の当主を恐ろしいとか、血も涙もないとか、冷酷とか散々に言うけど、
シアは可愛いし、優しいし、賢いし、完璧だよ」
あまり深く考えないノヴァと、彼にしか自分の素を見せないシア、二人の結婚生活が始まる。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双
四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。
「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。
教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。
友達もなく、未来への希望もない。
そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。
突如として芽生えた“成長システム”。
努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。
筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。
昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。
「なんであいつが……?」
「昨日まで笑いものだったはずだろ!」
周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。
陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。
だが、これはただのサクセスストーリーではない。
嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。
陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。
「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」
かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。
最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。
物語は、まだ始まったばかりだ。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる