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第十章:蹄跡
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辞表は、封筒に入れて二日間、出すかどうか迷っていた。
最初は「休職」を考えていた。
けれど、出勤の朝、満員電車に押し込まれた瞬間――
「もう戻れない」と確信した。
彼女の中では、何かが完全に“切り替わって”いた。
オフィスの空気は、いつもと同じだった。
機械的な挨拶、薄い笑顔、敬語とため息の往復。
上司のデスクに辞表を置いたとき、誰も何も言わなかった。
声をかけられたのは、最後の退勤時、年下の派遣女性だけだった。
「……お疲れさまでした。早田さん、馬が好きなんですよね?」
一瞬、息が詰まった。
「……え?」
「私、フォローしてます。“あの動画”のアカウント。声でわかりました」
言葉が出なかった。
「ちょっとだけ、救われました。ああ、生き方ってバラバラでいいんだなって」
光映は、そっと笑った。
「ありがとう」
馬のように、静かに首を下げた。
退職後の暮らしは、朝が中心になった。
夜明け前に起き、空き地まで歩く。
四肢の動きを確かめるストレッチ。
草のにおいをかぎ、土を踏み、風を吸う。
毎朝、スマホを床に置いて、自分の姿を動画で記録した。
それはもはや“パフォーマンス”ではなかった。
“自己存在の証明”だった。
そしてその動画たちが、少しずつ、届き始めていた。
フォロワーは3000を超え、メッセージも多く寄せられた。
・「あなたの存在が、私の救いです」
・「自分の中にも、馬のような記憶があります」
・「初めて“狂っている自分”が許された気がしました」
・「一緒に走りたい、ただそれだけです」
光映は、すべてに丁寧に返信をした。
感情ではなく、静かに、まるで蹄で土を踏むように。
ある日、北海道から届いた一通のメッセージ。
私の牧場で、しばらく暮らしませんか?
馬たちは、あなたをきっと受け入れてくれる。
人間ではなく、動物として、ただ過ごせる時間があります。
送り主は、50代の女性。
「馬との対話」を研究する元女性騎手で、現在は半自給自足の生活をしているという。
メッセージには、こう添えられていた。
私も若い頃、自分の中に馬がいると気づきました。
けれど、あなたほど正直に生きられなかった。
だから、今のあなたに会ってみたいと思いました。
光映は、深く息を吸い、そしてメールに返した。
行きます。
きっと、あの子たちと走れる気がするので。
その夜、光映は夢を見た。
深い森。
湿った地面。
風を切る感覚。
走っている。
誰にも止められず、振り向きもせず。
自分が「馬である」ことを、疑う者のいない世界。
夢の中で、光映は初めて“涙を流していなかった”。
翌朝、彼女は玄関に小さな文字でこう書いた紙を貼った。
人間はおやすみしています。
必要な方は、走ってきてください。
最初は「休職」を考えていた。
けれど、出勤の朝、満員電車に押し込まれた瞬間――
「もう戻れない」と確信した。
彼女の中では、何かが完全に“切り替わって”いた。
オフィスの空気は、いつもと同じだった。
機械的な挨拶、薄い笑顔、敬語とため息の往復。
上司のデスクに辞表を置いたとき、誰も何も言わなかった。
声をかけられたのは、最後の退勤時、年下の派遣女性だけだった。
「……お疲れさまでした。早田さん、馬が好きなんですよね?」
一瞬、息が詰まった。
「……え?」
「私、フォローしてます。“あの動画”のアカウント。声でわかりました」
言葉が出なかった。
「ちょっとだけ、救われました。ああ、生き方ってバラバラでいいんだなって」
光映は、そっと笑った。
「ありがとう」
馬のように、静かに首を下げた。
退職後の暮らしは、朝が中心になった。
夜明け前に起き、空き地まで歩く。
四肢の動きを確かめるストレッチ。
草のにおいをかぎ、土を踏み、風を吸う。
毎朝、スマホを床に置いて、自分の姿を動画で記録した。
それはもはや“パフォーマンス”ではなかった。
“自己存在の証明”だった。
そしてその動画たちが、少しずつ、届き始めていた。
フォロワーは3000を超え、メッセージも多く寄せられた。
・「あなたの存在が、私の救いです」
・「自分の中にも、馬のような記憶があります」
・「初めて“狂っている自分”が許された気がしました」
・「一緒に走りたい、ただそれだけです」
光映は、すべてに丁寧に返信をした。
感情ではなく、静かに、まるで蹄で土を踏むように。
ある日、北海道から届いた一通のメッセージ。
私の牧場で、しばらく暮らしませんか?
馬たちは、あなたをきっと受け入れてくれる。
人間ではなく、動物として、ただ過ごせる時間があります。
送り主は、50代の女性。
「馬との対話」を研究する元女性騎手で、現在は半自給自足の生活をしているという。
メッセージには、こう添えられていた。
私も若い頃、自分の中に馬がいると気づきました。
けれど、あなたほど正直に生きられなかった。
だから、今のあなたに会ってみたいと思いました。
光映は、深く息を吸い、そしてメールに返した。
行きます。
きっと、あの子たちと走れる気がするので。
その夜、光映は夢を見た。
深い森。
湿った地面。
風を切る感覚。
走っている。
誰にも止められず、振り向きもせず。
自分が「馬である」ことを、疑う者のいない世界。
夢の中で、光映は初めて“涙を流していなかった”。
翌朝、彼女は玄関に小さな文字でこう書いた紙を貼った。
人間はおやすみしています。
必要な方は、走ってきてください。
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