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第十一章:走行
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北海道の空気は、思っていたより重く、やさしかった。
新千歳空港から送迎車に乗り、舗装のない道を抜けると、牧場が見えた。
柵の向こう、風にたてがみをなびかせて、馬たちが立っていた。
その姿に、光映は何も言えず、ただ頷いた。
「おかえりなさい」
牧場主の女性はそう言った。名前は竹川さん。
彼女の手は大きく、温かかった。
その手が、光映の背中を“撫でる”ように迎え入れた。
最初の一週間は、ただ「人間としての体」を慣らすことに使った。
朝は放牧の準備。
昼は飼葉の管理。
夕方は馬体の手入れ。
夜はストーブの前でストレッチと瞑想。
それは「世話」ではなかった。
むしろ、「同族との時間」に近かった。
馬の目が、光映を見るたびに変わっていくのが分かった。
最初は警戒、次に興味、そしてある日、明確に“受け入れ”の眼差しを向けてきた。
「彼らは、嘘を見抜くよ」
竹川さんが言った。
「あなたの歩き方、最初から少し馬だった。たぶん、あなたの芯はずっとそれなんだと思う」
ある朝、竹川さんがこう言った。
「今日は、鞍も手綱もなしで、走ってみたらどう?」
「私が……?」
「そう。“騎手”としてじゃない。“同じ四肢の存在”として、ね」
朝の牧草地。風は強く、空は広かった。
光映は、膝にプロテクターをつけ、肘を軽く包み、両腕を地面についた。
地面の感触は冷たく、しかし“背中の線”を思い出させてくれた。
馬たちは遠くでこちらを見ていた。
一頭の栗毛が、静かに近づき、鼻を鳴らした。
「……行くよ」
そう小さく言って、光映は地面を蹴った。
四肢が交差し、重心が前へと移動する。
体が倒れず、自然に前へ進んでいく。
音がする。
パカ……パカ……
自分の呼吸と、地面の音がひとつになる。
速度が上がる。
腕と足が一致する。
背中の軸が弓のようにしなる。
風が、皮膚ではなく“たてがみ”をなびかせる感覚を生んだ。
そして――隣に、馬が並走していた。
彼女の動きに、同じリズムで寄り添うように、
一頭の芦毛が、光映とまったく同じテンポで草原を駆けていた。
走っている。
人ではなく、馬として。
何分走ったのか分からなかった。
止まったとき、膝は土に沈み、息は荒れていたが、苦しくはなかった。
美咲は、地面に顔を近づけ、ただひとこと、呟いた。
「……生きてる」
誰かに見せるためでも、理解されるためでもない。
“自分のための速度”を、初めて得た瞬間だった。
その夜、竹川さんがノートを差し出してくれた。
表紙には手書きでこうあった。
《馬になるまでの日々》
― 早田光映の記録 ―
「動画も日記も、そろそろまとめたほうがいいんじゃない? これは“人間の記録”じゃない。“馬が、かつて人間だった記録”として」
光映はうなずき、静かにノートを開いた。
ペンを取り、1ページ目に書いた。
これは、失われたわけではない“帰還”の記録です。
私は人間であった。そして今、馬として生き始めています。
草原の空に、星が瞬いていた。
遠くで、他の馬たちが草を食む音がする。
光映はその音に耳を澄ませながら、目を閉じた。
そして夢の中で、また走った。
今度は誰にも追われず、誰も追い越さず。
ただ自分のリズムで。
【了】
新千歳空港から送迎車に乗り、舗装のない道を抜けると、牧場が見えた。
柵の向こう、風にたてがみをなびかせて、馬たちが立っていた。
その姿に、光映は何も言えず、ただ頷いた。
「おかえりなさい」
牧場主の女性はそう言った。名前は竹川さん。
彼女の手は大きく、温かかった。
その手が、光映の背中を“撫でる”ように迎え入れた。
最初の一週間は、ただ「人間としての体」を慣らすことに使った。
朝は放牧の準備。
昼は飼葉の管理。
夕方は馬体の手入れ。
夜はストーブの前でストレッチと瞑想。
それは「世話」ではなかった。
むしろ、「同族との時間」に近かった。
馬の目が、光映を見るたびに変わっていくのが分かった。
最初は警戒、次に興味、そしてある日、明確に“受け入れ”の眼差しを向けてきた。
「彼らは、嘘を見抜くよ」
竹川さんが言った。
「あなたの歩き方、最初から少し馬だった。たぶん、あなたの芯はずっとそれなんだと思う」
ある朝、竹川さんがこう言った。
「今日は、鞍も手綱もなしで、走ってみたらどう?」
「私が……?」
「そう。“騎手”としてじゃない。“同じ四肢の存在”として、ね」
朝の牧草地。風は強く、空は広かった。
光映は、膝にプロテクターをつけ、肘を軽く包み、両腕を地面についた。
地面の感触は冷たく、しかし“背中の線”を思い出させてくれた。
馬たちは遠くでこちらを見ていた。
一頭の栗毛が、静かに近づき、鼻を鳴らした。
「……行くよ」
そう小さく言って、光映は地面を蹴った。
四肢が交差し、重心が前へと移動する。
体が倒れず、自然に前へ進んでいく。
音がする。
パカ……パカ……
自分の呼吸と、地面の音がひとつになる。
速度が上がる。
腕と足が一致する。
背中の軸が弓のようにしなる。
風が、皮膚ではなく“たてがみ”をなびかせる感覚を生んだ。
そして――隣に、馬が並走していた。
彼女の動きに、同じリズムで寄り添うように、
一頭の芦毛が、光映とまったく同じテンポで草原を駆けていた。
走っている。
人ではなく、馬として。
何分走ったのか分からなかった。
止まったとき、膝は土に沈み、息は荒れていたが、苦しくはなかった。
美咲は、地面に顔を近づけ、ただひとこと、呟いた。
「……生きてる」
誰かに見せるためでも、理解されるためでもない。
“自分のための速度”を、初めて得た瞬間だった。
その夜、竹川さんがノートを差し出してくれた。
表紙には手書きでこうあった。
《馬になるまでの日々》
― 早田光映の記録 ―
「動画も日記も、そろそろまとめたほうがいいんじゃない? これは“人間の記録”じゃない。“馬が、かつて人間だった記録”として」
光映はうなずき、静かにノートを開いた。
ペンを取り、1ページ目に書いた。
これは、失われたわけではない“帰還”の記録です。
私は人間であった。そして今、馬として生き始めています。
草原の空に、星が瞬いていた。
遠くで、他の馬たちが草を食む音がする。
光映はその音に耳を澄ませながら、目を閉じた。
そして夢の中で、また走った。
今度は誰にも追われず、誰も追い越さず。
ただ自分のリズムで。
【了】
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