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第5部 不自然な表現・誤字脱字
2 よくある間違った表現・言葉遣い
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なろう作家の多くは、妄想力・構想力については人並み以上のものを持ち合わせているが、国語力については人並み以下で、耳コピ日本語話者であり、耳コピしたあと正確な表現を調べず、知ったかぶりして誤用する。舞台設定、キャラクター造形からイベントまですべてが猿真似ななろう作家は、話作りどころか日本語能力まで猿真似なのである。猿真似の猿真似でストーリーからキャラクターから言葉の間違いまで全部が伝播していく過程は、バカが再生産される過程であり、本書が最も危惧するところである。素直で受け身で不勉強なネット小説読者への悪影響はいかばかりであろうか。もっとも、これはなろう作家に限らず、ブログやSNS、情報サイト、解説記事などのネット投稿をしている者の多くにも言えることではあるが。
特に、法令用語・行政用語は、「契約」大好きななろう作家にとっては、使っておけばなんだか本格的な感じを出せた気になれるし、異世界の王侯貴族を登場させることもあって使用頻度がなおさら高く、しかしそれでいて法学政治学を勉強することはなく、聞きかじりのイメージだけで使うものだから、誤用頻度が極めて高い。そのため、なろう作家のほぼ全員が間違った使い方をしている「通達」「直系」「適応」「要件」すなわち<なろう四大誤用>はすべて法令・行政用語である。
頻繁に登場する誤用は、法律の「適用」と「適応」、「権利」「権能」「権限」、「取得」と「所得」と「所有」、「嫡流」・「本家」と「直系」、「擁する」と「有する」と「要する」、「要件」と「用件」と「条件」、「信用」と「信頼」、「移動」と「異動」などであり、いずれもごっちゃにしている。
もちろん、基礎的な日常語もあやふやなので、日本で生まれ育ったかが極めて怪しい者が多い。
(1)誤用(間違った理解に基づく使用)
「権利」「権能」「権限」がごっちゃになっている
権利とは、一定の利益を請求し、主張し、享受することができる法律上正当に認められた力をいう。相手方に対して作為又は不作為を求めることができる権能であり、相手方はこれに対応する義務を負う。権利は法によって認められ、法によって制限される。私法関係で認められる権利としては、物権、債権、親権などがあり、公法関係で認められる権利としては、刑罰権等の国家的公権と、選挙権等の参政権、訴権等の受益権、自由権などの個人的公権とがある。
権能とは、権限、権利又は権利の機能の意味で用いられる。「権限」が限界に力点を置いた表現であるのに対し、能力の内容に力点を置いている。例、「天皇は、…国政に関する権能を有しない」(憲四①)、「地方公共団体は、…及び行政を執行する権能を有し」(憲九四)。
権限とは、行政法上、国家又は公共団体の機関が法令の規定に基づいてその職権を行い得る範囲。私法上、ある人が他人のために法令、契約に基づいてすることができる権能の範囲。
権利能力とは、
(以上、『有斐閣 法律用語辞典 第4版』より。)
「権能」
本来、権能とは、その事柄をすることが認められている資格。権利を主張・行使し得る能力(これは法的能力)であり、権限、権利又は権利の機能の意味で用いられる。「権限」が限界に力点を置いた表現であるのに対し、能力の内容に力点を置いている。
ところが、なろうでは、権利など本来の法的な資格・能力ではなく、攻撃力や実力を意味している。無教養な作者が、巷間で、又は他作品群でそれっぽい熟語を聞きかじって誤用しているものである。
用例としては、「神の権能で○○した」等があるが、神などがその能力を発揮(実力を行使)して敵を殲滅するなどする際に「権能」という語を用いるのはおかしい。権能はあくまで「内閣の権能」のように用いる法令用語であって、「その人・機関の権限として法的にできること」の意味である。
「破棄」
破棄とは、約束や契約、条約、判決その他書面又は取り決めを破り捨てることであって、人や動物を殺傷したり、物を損壊・毀棄・破壊・毀損することについては用いられないにも関わらず、なろうでは用いられている。ひどい場合には、廃棄や遺棄と混同して用いられる。耳コピ日本語話者であるなろう作家は「廃棄」の「い」の音を聞き逃してしまうのだろう。
また、一旦成立した契約を取りやめることに対しては、正確には「解除」というべきである。相変わらず無教養な作者が、巷間で、又は他作品群で聞きかじって意味を勘違いして誤用しているものである。
「保有」「所有」「領有」「所持」「保持」
語彙力の足りないなろう作家は「持っていること」という意味の熟語を「所有」しか知らない。
彼らのほとんどが大好きな「スキル」を持っていることですら「所有」と書いてしまうが、才能関係には「具有」とするのが正解である。
スキルを「所有」・「所持」
所有や所持は、動産・不動産など有形物に対していうものであって、能力・才能のような無形のものについては「具有」というし、資格については「保有」や「保持」という。なお、権利や(法的な)能力については「享有」という。なろうファンタジーにおけるスキルは、資格ではなく特殊能力なのだから、「具有」が正解である。
「取得」「所得」
取得とは入手することであり、所得とは収入から経費を差し引いた額であるから、全く意味が異なるが、これをごっちゃにする耳コピ日本語話者であるなろう作家は少なくない。
「現代」「現代人」
あくまで中世ヨーロッパ風というだけで、当該世界の未来=現代から過去にタイムトラベルしたわけでもなく、地球とは無関係の異世界であるのに、「現代人」を自称したり、地球・日本の知識・技術などを「現代知識」と称したりする。現代ではなく、「地球人」「日本人」「地球の知識」などと言うべきである。
なお、古代文明を登場させる作品や、古代人からの転生者を主人公とする作品なども数多く存在するが、それらの作品における登場人物は、自身の生きる時代を「現代」とか「今の時代」などとは決して言わない。もしかすると、なろう作家の中では「現代」といえば、専ら現代日本を指すのかもしれない。
「チート」
チートとは、いかさまや不正行為を指す英単語であり、ゲームでいえば、ゲームシステムにハッキングしてパラメータ等のプログラムを無断で改ざんして自キャラクターに強い能力を与えたり敵キャラクターを弱体化させたりするような行為をいう。しかし、なろう界隈では、作者も読者も敵を圧倒する主人公の極めて高い能力をチートとレッテル貼りするという不可思議な現象が生じている。一応どの作品でも作中では、地球での死後から異世界への転生までの間に神を自称する者からスキルを与えられたとか、そうでなくとも転生に伴い意図せず強い能力を授かっていたとかいう設定であって、神を自称する者が当該異世界の秩序に対してハッキングを行ってまで主人公に高い能力を与えたというような描写は通常は見られず、いずれにせよ決して主人公自らが強い能力を得ようとして不正行為をしたわけではないから、チートという評価は的外れである。
このような表現が使用されるようになったのは、ゲーマーの間で強いキャラに対してチートと評するようになった誤用がなろう界隈にまで波及したという情報がある。ゲーマーの間で使用するようになったきっかけがハッキングによる不正行為だったのかは定かではないが、世の中には、高い学力・財力・体力などを持つ者に対して、羨ましいとか、「自分も頑張ろう」とかいうような感情を跳び越えて、「ずるい」という気持ちを抱いてしまう人たちがそこそこいる。もちろん、高い学力・財力・体力などを持つ者は一般的にはズルをしたわけではなく、天賦の才能であったり、祖先から継承したものであったり、自力で獲得したものであったりするのであって、「ずるい」という評価は的外れなのだが、そのような評価をしてしまう非理知的な者もそこそこいる。こういった者が高い能力を持つ者に対して不正行為の有無に関わらずチートという評価を与えた可能性はそれなりに高いと思われる。そして、他の用語・概念と同様、語源も調べず、みんなが使っているから使うという者があふれかえって、誤用が一般化してしまったのだろう。
なお、チート批判者たちは、努力至上主義者・天賦の才能否定主義者であって、努力せずに強い能力を得るという話を許せないために批判しているようであるが、努力することと強い能力を得ること(得ていること)とは、多少の相関関係は認められるにしても、完全なイコール関係ではないため、この批判は的外れである。
「通達」
なろう作者に限らず、一般的に誤用されている言葉。通達とは、行政機関内部の上位機関から下位機関への文書による命令等(あくまで内部用)であって、外部、つまり民間(国民)に対する通知・命令等や外国への通告・通報等については用いられない。
通常は、「通知」、「通告」、「通報」、「伝達」あたりが用いられる。
ある国が他国に対して「通達」するというのは、対等な関係ではなく、まるで属国や傀儡国家のような関係であることを示唆する。
「法令を適応する」
法令は「適用」するものであって、「適応」は絶対にしない。この間違いをしている作者は、どんなに料理や歴史、技術に詳しくても法的素養ゼロ、どんなに正論風のものを力説していても説得力半減。法律学において法令が適用(準用、類推適用もあるが)するものであることは、数学でいったら小学校1年生の算数の授業で「1・2・3・…」の数字の書き方を教わる頃に習うもの、国語でいったら平仮名の書き方を教わる頃に習うもの、すなわち基礎中の基礎である。この間違いをする者は、法治国家に生きているはずなのに恥ずかしい奴。
「当該の」
小難しい表現を使おうと背伸びした素人が誤用しがち。「当該」は「その」という意味なので、「当該の」だと「そのの」になってしまう。
「該当の」
「当該の」に似ているが意味は異なる。
「該当」は「該当する」というサ行変格活用動詞であり、名詞を修飾するなら連体形「該当する」であって、「該当の」とするのはおかしい。
「当該」と「該当する」の混用
「該当の」「該当する」を「当該」すなわち「その」の意味で誤用する者がいるが、「(ある条件に)該当する」と連体詞「その」がイコールにはならないのは明らかである。「当該」は、特定されているものに対して用いるが、「該当する」は、先に何らかの条件が提示され、その条件に合致するものの範囲内では未だに不特定のものに対して用いるからである。
具体例を用いれば、「ある自動車が云々」という話題が出たとして、次からは「その自動車」という意味で「当該自動車」というように用いるのが「当該」の使い方。このケースで「該当する自動車」と言った場合、聞き手は「どんな条件に該当する自動車なのか?」という疑問が浮かぶ。逆に、「白い花を集めて欲しい」という話題が出たときに「該当する花」というのであれば、「白い」と「花」が条件なので聞き手は「ユリとか白バラとかかな?」と想像できるが、「当該花」といわれると「どの花?」という疑問が浮かぶ。ただし、「~な車両」という条件が提示され、「その条件に該当する車両は1両のみである」というのであれば車両が特定されたといえるので、「当該車両は云々」というのは問題ない。
もっとも、行政文書でもときたまこの「該当の」という誤用が見受けられるので、不勉強で国語力は足りないくせにそれっぽい文章を書こうとするなろう作家が間違えるのも無理はないのかもしれない。
本家の意味で「直系」
直系を本家の意味で使うのは間違い。直系とは、親の親の親…、子の子の子…といった生物学的関係である。傍系とは、ある人物ないし先祖の兄弟姉妹とその子孫をいい、これも生物学的関係である。決して本家とか分家などという家の社会的関係を意味しない。分家の人間からすれば本家は傍系である。
本家のことを別の言い方でいいたいのであれば嫡流、分家のことをいいたいのであれば傍流というべきである。
なろうでは「王家の直系(が絶えた)」などといった表現がしばしば使われ、それは実際には「王家の嫡流」や「現・国王の子孫」を指しているのだが、先述した通りこれらは同じ範囲を指さない。王家とは現在の王族だけではなく、初代国王のみならず初代国王が即位する前からある家柄であれば(初代国王が家祖ではなく中興の祖である場合もある)、家祖以下、当該家系を継承してきた者全員が含まれるわけである。「王家の嫡流」であれば、家祖・初代国王~先代国王―現・国王―王太子―王太孫を指す。一方、「王家の直系(子孫)」の場合、当該王家の家祖を祖先に持つ全ての人々がこれに該当する。つまり、家臣や外国王室に嫁や婿に行った者の子孫も全て含まれる。これが「現・国王の子孫」であれば、王弟やその子孫は含まず、現・国王の王太子その他の王子、王女、王孫(いずれも他家に降嫁したり婿入りした者や分家した者も含む)に限定される。
なお、テレビ番組などでも「〇〇の傍系子孫」とか「〇〇の直系子孫」という言い方がなされることがあるが、〇〇の子孫は全員が〇〇の直系であり、傍系は子孫ではないのだから、いずれもおかしな言い方である。こういっても未だにピンと来ない読者向けにさらに言えば、「自分の甥姪の子を自分の子孫と言われてどう思いますか」ということである。
国王の「就任式」、国王に「就任する」
言わずもがな、王位に就くことは「即位」であって「就任」とはいわない。このような間違いをする者は、地位と任務(仕事)をごっちゃにしているものと思われる。
国王の「在任」「在職」
同上。在位が正解。
国王の「免職」「罷免」「辞職」
同上。国王を退かせるのは「廃位」、国王が自ら退くのは「退位」、国王が自ら次代に位を譲るのは「譲位」。
爵位を「授与する」
まるで褒美や勲章のように主人公に爵位を与えさせようとするなろう作家は数多いが、爵位は「叙爵」というように「叙す」ものであって、「授与」とか「下賜」するものではない。しかも、爵位を叙された者はその後は国王へ臣従することになるのであるから、褒美代わりに与えようという考え方はおかしい。臣従関係を考えないのであれば、爵位ではなく勲章を選択するべきであり、勲章も正確には「叙勲」といって「叙す」ものではあるが、これについては「授与」でもよい。
貴族に「任命する」
同上。
「内政」
内政とは、国内政治ないし領内政治のことであって、外交や軍事を含まないが、主人公が内政のみならず外交や軍事を含めた統治全般を行うストーリーを内政系と呼ぶ読者(おそらく作者も)が多い。そのようなストーリーについては、正確には、統治系とか政治系というべきである。
契約
他の小説群に比べて「契約」という語の使用率が高めである。しかし、契約の概念理解がおかしい。主にモンスターや精霊等との「主従契約」という名称の片務的な援護助力契約で、人間同士の契約のほとんどは「奴隷契約」(←意味不明)か命懸けの「秘密保持契約」である。商人と従業員は出てくるが、雇用契約は明示的には出てこない。
借金の契約名
借金の契約名は、「金銭消費貸借契約」である。ところが、契約法に疎いなろう作家たちは「金銭賃借契約」とか「金銭貸借契約」などとデタラメな名称を書きがちである。
「事由」
事由とは、理由となる事実というような意味だが、単なる事実とか事柄というような意味で用いる作者は少なくない。
「殺した」
なろう作家に限らず、「人を死なせた」行為全般について「殺した」と表現する者はかなり多い。しかし、日本の刑法において、「殺した」つまり殺人は、殺意を以て人を死なせる行為だけをいうのであり、殺意がない場合は殺人罪(強盗殺人等の殺人系の犯罪も)は成立しない。殺意(殺すつもり)はなかったが暴行・傷害の故意で、つまりぶん殴るだけのつもりで、人を死なせた場合は傷害致死だし、そのような害意がなく、過失により、つまりうっかり人を死なせた場合には過失致死になるというように、どのような故意によって人を死なせたのかというのが人を死なせる系犯罪を区別するための重要な指標(構成要件)になっている。保護責任者遺棄致死と不作為殺人の区別も殺意の有無で区別するし、強盗致死や監禁致死などもそうである。
(2)誤字
「立ち振舞い」
耳コピ日本語話者であるなろう作家は、しばしば「立ち居振舞い」の「居」を聞き取れない。
「あの」「あれ」
目の前にある物、いる者に対しては通常は「これ」「この」「それ」「その」というが、なろう作家たちはなぜか「あれ」「あの」という。距離感がおかしいか、まるでその場にいないかのようである。さすがにこそあどを間違えるなど考えにくいことであるが、実際にそういう作家は少なくない。
「様子を呈した」
様相を呈した、が正解。さすがはなろう作家、耳コピ日本語話者の本領発揮といったところか。「一応」を「いちよう」、体育を「たいく」、雰囲気を「ふいんき」、洗濯機を「せんたっき」などと思い込んでいる連中と同類である。
「時より」
文脈的に「時々」の意味で使っている作者がいるが、正解は「時折」である。「一応」を「いちよう」と書いてしまう連中である。
「味合う」「味合わせる」
正解は、「味わう」「味わわせる」。
(3)無理解・無教養・誤解から来る間違ったフレーズ
「特権(権利)には義務が伴う」
「自由には責任が伴う」とか「権利を主張する前に義務を果たせ」とかをまるで絶対的真理であるかのように言っている作者は、法的素養がゼロで聞きかじったもっともらしい言葉をよく考えずにオウム返ししてるバカか、共産主義者(社会主義憲法的発想なので)。
なろうでは褒美を与えるという場面でこの言葉が地の文に記述されるが、権利と義務の主体と順序、性質をよく考えればおかしいことに気づけるはず。
行きがかり上モンスターを討伐するなどしたことを契機とする褒美は、その契機となったモンスター討伐等に対するものであって、贈与である。贈与とは片務契約であって、贈与者に義務(正確には債務だが)、受贈者には、寄越せという権利(正確には債権)が生じるのに義務は生じない。
もちろん、先履行関係がある双務契約であれば話は別であり、予めモンスター討伐等を仕事としそれに対するある種の出来高報酬として褒美を支払う旨の請負契約が締結され、それに従ってナローシュがモンスター討伐等をし、褒美を与えるというのであれば、褒美の授与者たる国王等は先に債務を履行せよとはいえる。一方、ナローシュの側からすれば、「モンスター討伐等をせよという権利を主張する前に褒美を与える義務を果たせ」といえるか。これがおかしいことはいくら頭の弱い作者でもわかると思うが、「権利を主張する前に義務を果たせ」をナローシュに適用するとこういうことになる。
そして、履行時期に関する特約のない双務契約や、性質上先履行関係のない双務契約の場合は、通常は同時履行の抗弁権があり、当事者双方ともに「俺も履行するから同時にお前も履行せよ」といえるのであって、「権利を主張する前に義務を果たせ」などという主張は認められない。
以上のとおり、褒美をもらうことに対する義務は、贈与契約であれば存在しないし、先履行債務があっても履行後に褒美をもらうのだから、いずれにせよ、褒美をもらうことから義務は発生しない。しかし、多くのナローシュは、褒美をもらうことで何か義務が発生すると考える。
例えば、不逮捕特権があるからといって、特に犯罪を犯してはならない義務が発生するわけではない(そのような一般人よりも強い義務を負わせたところで、義務違反を問えないのであれば意味がない。もちろん、国はナローシュを逮捕することはできないが捕まえずに処刑することはできるというなら別だが)し、免税特権の代わりに何か義務が課されたとすればそれ自体が税のようなもの(賦役)となり免税の意味がない(褒美授与式後の依頼は、決して褒美の対価(前払い)ではなく、新たな依頼の申込である)。功労に対する褒美(御礼)として特権を与えるのに、それに伴って義務も課すというのがおかしい。
もっとも、褒美自体の特性により、多少作業が必要ということはありえる。領地を貰ったという場合、なろう作者の多くは、ペットを譲り受けたというのと同様に、当然ながら領地経営をする必要が出てくると考える。だが、自分が主導して飼い始めた犬の散歩を次第に家族任せにするように、領地経営は代官にでも任せ、上納金だけもらうということもありであるし、統治経験のないナローシュが不自然に頑張るよりも、プロに権限を委任した方が間違いはない。とすると、ナローシュがするべきことは、プロに任せるという作業であり、そのプロ選定作業は国王に任せるとか、あるいは配下の官僚機構からの助言を元に任命するようにすればさほどの労力もかからない。それにそもそも、もらった領地を経営せずに荒れ地にすること自体が禁止されていなければ、放置してもよい。他の貴族が上納金を納めており、その財源が領地収入であったとしても、ナローシュ自身は交渉してそれを免除してもらうなり、別に得た財源から納めてもよい。日本で土地を持っている作者・読者ないしその親戚は固定資産税の納税義務と、せいぜい隣地に隣接したところの工作物責任を負っているに過ぎないのだから、住民を追放し、領境付近の物は撤去しておく程度の労力で済む。したがって、ナローシュが厭わなければならないほどの面倒な義務を必ずしも伴っているとはいえない。
領地を貰ったなら従軍義務なり出仕義務が生じるのではないかとの反論もあろう。しかし、それは領地の授受自体に必然的に伴うものではなく、あくまでオプション(慣例的に通常は付随しているとしても)なのだから、まず交渉してそのような義務を負わないこととしてもらえばよい。
そもそもそのような義務を伴うものが褒美といえるかという問題がある。領地授与や貴族叙任に伴ってそのような義務を負わせるというのであれば、それは褒美ではなく雇用契約とか請負契約の申込みと解するべきではないか。領地や貴族としての名誉や特権と対となる従軍・出仕・上納等の義務を負うとなると、プラマイゼロということになるから、では、功労に対する褒美とは何だろうということになり、そうすると、この理解の下では、褒美とは国家元首との雇用契約締結権(ナローシュの承諾の意思表示で雇用契約が成立する)ということになる。しかし、一般的には、そのようなものを褒美とはいえないだろう。
したがって、以上のとおり、絶対的真理であるかのように「権利を主張する前に義務を果たせ」と主張するのはおかしい。
「自由には責任が伴う」
この概念は、要するに「やりたいことをやったなら、後始末は自分でつけろ」とか、「どのような結果になっても受け入れろ」などというような意味で使われている。
しかし、自由とか責任という言葉は法律用語でもあり、これらを用いる以上は、法学的に妥当かが問われるところ、日本国憲法を含めた自由主義憲法体制において、責任とは主に刑事責任・民事責任であり、責任が生じるのは、自由が保障される範囲の外にある行為を行った場合であり、自由が保障される範囲内の行為に対しては責任は生じない。例えば、殺人は自由として保障されていない行為であるから、人を殺せば刑事責任を負うことになる。
したがって、「自由には責任が伴わない」「やってはいけない行為を行った場合には責任が生じる」が正解である。すなわち、「自由には責任が伴う」というのは、憲法学とは完全に真逆の主張である。
ここで、この概念にある責任とは、法的責任ではなく道義的責任であるから、妥当しないという主張もありえるだろう。
しかし、道義的責任だとしても、自由にやっていいはずの行為に責任が生じるのであれば、自由にやってはいけない行為には責任が生じないのか、すなわち「不自由には責任が伴わない」という概念が成り立つがそれは道義的に妥当なのか、という反論がありえる。やむを得ずにした行為すなわち自由にやったわけではない行為であっても道義的責任を感じて引責辞任するなどという選択を採る者は少なくないわけであり、そうすると結局のところ「すべての行為には(道義的)責任が伴う」ということになって、「自由には」と限定する意味がなくなる。とすると、やはり「自由には責任が伴う」という概念は、少なくとも文言上は正確ではないということになる。
よって、法的にも道義的にも「自由には責任が伴う」という概念は成り立たない。
そのため、「やりたいことをやったなら、後始末は自分でつけろ」とか、「どのような結果になっても受け入れろ」などといいたいのであれば、「自由には責任が伴う」というような聞きかじりのおかしな表現ではなく、「やりたいことをやったなら、後始末は自分でつけろ」とか、「どのような結果になっても受け入れろ」などというべきである。
(4)その他
「気にしなくてもいいよ」
なろう作家としては十中八九「気にしなくていい」「大丈夫だよ」という趣旨での発言だと考えて書いているのだろうが、「も」があることで、文理上、「気にしたければ気にしてもよい」ということにもなり、深読みすれば、「本当に申し訳ないと思っているなら、気にしろ、誠意を見せろ」という意味にも取れる。
特に、法令用語・行政用語は、「契約」大好きななろう作家にとっては、使っておけばなんだか本格的な感じを出せた気になれるし、異世界の王侯貴族を登場させることもあって使用頻度がなおさら高く、しかしそれでいて法学政治学を勉強することはなく、聞きかじりのイメージだけで使うものだから、誤用頻度が極めて高い。そのため、なろう作家のほぼ全員が間違った使い方をしている「通達」「直系」「適応」「要件」すなわち<なろう四大誤用>はすべて法令・行政用語である。
頻繁に登場する誤用は、法律の「適用」と「適応」、「権利」「権能」「権限」、「取得」と「所得」と「所有」、「嫡流」・「本家」と「直系」、「擁する」と「有する」と「要する」、「要件」と「用件」と「条件」、「信用」と「信頼」、「移動」と「異動」などであり、いずれもごっちゃにしている。
もちろん、基礎的な日常語もあやふやなので、日本で生まれ育ったかが極めて怪しい者が多い。
(1)誤用(間違った理解に基づく使用)
「権利」「権能」「権限」がごっちゃになっている
権利とは、一定の利益を請求し、主張し、享受することができる法律上正当に認められた力をいう。相手方に対して作為又は不作為を求めることができる権能であり、相手方はこれに対応する義務を負う。権利は法によって認められ、法によって制限される。私法関係で認められる権利としては、物権、債権、親権などがあり、公法関係で認められる権利としては、刑罰権等の国家的公権と、選挙権等の参政権、訴権等の受益権、自由権などの個人的公権とがある。
権能とは、権限、権利又は権利の機能の意味で用いられる。「権限」が限界に力点を置いた表現であるのに対し、能力の内容に力点を置いている。例、「天皇は、…国政に関する権能を有しない」(憲四①)、「地方公共団体は、…及び行政を執行する権能を有し」(憲九四)。
権限とは、行政法上、国家又は公共団体の機関が法令の規定に基づいてその職権を行い得る範囲。私法上、ある人が他人のために法令、契約に基づいてすることができる権能の範囲。
権利能力とは、
(以上、『有斐閣 法律用語辞典 第4版』より。)
「権能」
本来、権能とは、その事柄をすることが認められている資格。権利を主張・行使し得る能力(これは法的能力)であり、権限、権利又は権利の機能の意味で用いられる。「権限」が限界に力点を置いた表現であるのに対し、能力の内容に力点を置いている。
ところが、なろうでは、権利など本来の法的な資格・能力ではなく、攻撃力や実力を意味している。無教養な作者が、巷間で、又は他作品群でそれっぽい熟語を聞きかじって誤用しているものである。
用例としては、「神の権能で○○した」等があるが、神などがその能力を発揮(実力を行使)して敵を殲滅するなどする際に「権能」という語を用いるのはおかしい。権能はあくまで「内閣の権能」のように用いる法令用語であって、「その人・機関の権限として法的にできること」の意味である。
「破棄」
破棄とは、約束や契約、条約、判決その他書面又は取り決めを破り捨てることであって、人や動物を殺傷したり、物を損壊・毀棄・破壊・毀損することについては用いられないにも関わらず、なろうでは用いられている。ひどい場合には、廃棄や遺棄と混同して用いられる。耳コピ日本語話者であるなろう作家は「廃棄」の「い」の音を聞き逃してしまうのだろう。
また、一旦成立した契約を取りやめることに対しては、正確には「解除」というべきである。相変わらず無教養な作者が、巷間で、又は他作品群で聞きかじって意味を勘違いして誤用しているものである。
「保有」「所有」「領有」「所持」「保持」
語彙力の足りないなろう作家は「持っていること」という意味の熟語を「所有」しか知らない。
彼らのほとんどが大好きな「スキル」を持っていることですら「所有」と書いてしまうが、才能関係には「具有」とするのが正解である。
スキルを「所有」・「所持」
所有や所持は、動産・不動産など有形物に対していうものであって、能力・才能のような無形のものについては「具有」というし、資格については「保有」や「保持」という。なお、権利や(法的な)能力については「享有」という。なろうファンタジーにおけるスキルは、資格ではなく特殊能力なのだから、「具有」が正解である。
「取得」「所得」
取得とは入手することであり、所得とは収入から経費を差し引いた額であるから、全く意味が異なるが、これをごっちゃにする耳コピ日本語話者であるなろう作家は少なくない。
「現代」「現代人」
あくまで中世ヨーロッパ風というだけで、当該世界の未来=現代から過去にタイムトラベルしたわけでもなく、地球とは無関係の異世界であるのに、「現代人」を自称したり、地球・日本の知識・技術などを「現代知識」と称したりする。現代ではなく、「地球人」「日本人」「地球の知識」などと言うべきである。
なお、古代文明を登場させる作品や、古代人からの転生者を主人公とする作品なども数多く存在するが、それらの作品における登場人物は、自身の生きる時代を「現代」とか「今の時代」などとは決して言わない。もしかすると、なろう作家の中では「現代」といえば、専ら現代日本を指すのかもしれない。
「チート」
チートとは、いかさまや不正行為を指す英単語であり、ゲームでいえば、ゲームシステムにハッキングしてパラメータ等のプログラムを無断で改ざんして自キャラクターに強い能力を与えたり敵キャラクターを弱体化させたりするような行為をいう。しかし、なろう界隈では、作者も読者も敵を圧倒する主人公の極めて高い能力をチートとレッテル貼りするという不可思議な現象が生じている。一応どの作品でも作中では、地球での死後から異世界への転生までの間に神を自称する者からスキルを与えられたとか、そうでなくとも転生に伴い意図せず強い能力を授かっていたとかいう設定であって、神を自称する者が当該異世界の秩序に対してハッキングを行ってまで主人公に高い能力を与えたというような描写は通常は見られず、いずれにせよ決して主人公自らが強い能力を得ようとして不正行為をしたわけではないから、チートという評価は的外れである。
このような表現が使用されるようになったのは、ゲーマーの間で強いキャラに対してチートと評するようになった誤用がなろう界隈にまで波及したという情報がある。ゲーマーの間で使用するようになったきっかけがハッキングによる不正行為だったのかは定かではないが、世の中には、高い学力・財力・体力などを持つ者に対して、羨ましいとか、「自分も頑張ろう」とかいうような感情を跳び越えて、「ずるい」という気持ちを抱いてしまう人たちがそこそこいる。もちろん、高い学力・財力・体力などを持つ者は一般的にはズルをしたわけではなく、天賦の才能であったり、祖先から継承したものであったり、自力で獲得したものであったりするのであって、「ずるい」という評価は的外れなのだが、そのような評価をしてしまう非理知的な者もそこそこいる。こういった者が高い能力を持つ者に対して不正行為の有無に関わらずチートという評価を与えた可能性はそれなりに高いと思われる。そして、他の用語・概念と同様、語源も調べず、みんなが使っているから使うという者があふれかえって、誤用が一般化してしまったのだろう。
なお、チート批判者たちは、努力至上主義者・天賦の才能否定主義者であって、努力せずに強い能力を得るという話を許せないために批判しているようであるが、努力することと強い能力を得ること(得ていること)とは、多少の相関関係は認められるにしても、完全なイコール関係ではないため、この批判は的外れである。
「通達」
なろう作者に限らず、一般的に誤用されている言葉。通達とは、行政機関内部の上位機関から下位機関への文書による命令等(あくまで内部用)であって、外部、つまり民間(国民)に対する通知・命令等や外国への通告・通報等については用いられない。
通常は、「通知」、「通告」、「通報」、「伝達」あたりが用いられる。
ある国が他国に対して「通達」するというのは、対等な関係ではなく、まるで属国や傀儡国家のような関係であることを示唆する。
「法令を適応する」
法令は「適用」するものであって、「適応」は絶対にしない。この間違いをしている作者は、どんなに料理や歴史、技術に詳しくても法的素養ゼロ、どんなに正論風のものを力説していても説得力半減。法律学において法令が適用(準用、類推適用もあるが)するものであることは、数学でいったら小学校1年生の算数の授業で「1・2・3・…」の数字の書き方を教わる頃に習うもの、国語でいったら平仮名の書き方を教わる頃に習うもの、すなわち基礎中の基礎である。この間違いをする者は、法治国家に生きているはずなのに恥ずかしい奴。
「当該の」
小難しい表現を使おうと背伸びした素人が誤用しがち。「当該」は「その」という意味なので、「当該の」だと「そのの」になってしまう。
「該当の」
「当該の」に似ているが意味は異なる。
「該当」は「該当する」というサ行変格活用動詞であり、名詞を修飾するなら連体形「該当する」であって、「該当の」とするのはおかしい。
「当該」と「該当する」の混用
「該当の」「該当する」を「当該」すなわち「その」の意味で誤用する者がいるが、「(ある条件に)該当する」と連体詞「その」がイコールにはならないのは明らかである。「当該」は、特定されているものに対して用いるが、「該当する」は、先に何らかの条件が提示され、その条件に合致するものの範囲内では未だに不特定のものに対して用いるからである。
具体例を用いれば、「ある自動車が云々」という話題が出たとして、次からは「その自動車」という意味で「当該自動車」というように用いるのが「当該」の使い方。このケースで「該当する自動車」と言った場合、聞き手は「どんな条件に該当する自動車なのか?」という疑問が浮かぶ。逆に、「白い花を集めて欲しい」という話題が出たときに「該当する花」というのであれば、「白い」と「花」が条件なので聞き手は「ユリとか白バラとかかな?」と想像できるが、「当該花」といわれると「どの花?」という疑問が浮かぶ。ただし、「~な車両」という条件が提示され、「その条件に該当する車両は1両のみである」というのであれば車両が特定されたといえるので、「当該車両は云々」というのは問題ない。
もっとも、行政文書でもときたまこの「該当の」という誤用が見受けられるので、不勉強で国語力は足りないくせにそれっぽい文章を書こうとするなろう作家が間違えるのも無理はないのかもしれない。
本家の意味で「直系」
直系を本家の意味で使うのは間違い。直系とは、親の親の親…、子の子の子…といった生物学的関係である。傍系とは、ある人物ないし先祖の兄弟姉妹とその子孫をいい、これも生物学的関係である。決して本家とか分家などという家の社会的関係を意味しない。分家の人間からすれば本家は傍系である。
本家のことを別の言い方でいいたいのであれば嫡流、分家のことをいいたいのであれば傍流というべきである。
なろうでは「王家の直系(が絶えた)」などといった表現がしばしば使われ、それは実際には「王家の嫡流」や「現・国王の子孫」を指しているのだが、先述した通りこれらは同じ範囲を指さない。王家とは現在の王族だけではなく、初代国王のみならず初代国王が即位する前からある家柄であれば(初代国王が家祖ではなく中興の祖である場合もある)、家祖以下、当該家系を継承してきた者全員が含まれるわけである。「王家の嫡流」であれば、家祖・初代国王~先代国王―現・国王―王太子―王太孫を指す。一方、「王家の直系(子孫)」の場合、当該王家の家祖を祖先に持つ全ての人々がこれに該当する。つまり、家臣や外国王室に嫁や婿に行った者の子孫も全て含まれる。これが「現・国王の子孫」であれば、王弟やその子孫は含まず、現・国王の王太子その他の王子、王女、王孫(いずれも他家に降嫁したり婿入りした者や分家した者も含む)に限定される。
なお、テレビ番組などでも「〇〇の傍系子孫」とか「〇〇の直系子孫」という言い方がなされることがあるが、〇〇の子孫は全員が〇〇の直系であり、傍系は子孫ではないのだから、いずれもおかしな言い方である。こういっても未だにピンと来ない読者向けにさらに言えば、「自分の甥姪の子を自分の子孫と言われてどう思いますか」ということである。
国王の「就任式」、国王に「就任する」
言わずもがな、王位に就くことは「即位」であって「就任」とはいわない。このような間違いをする者は、地位と任務(仕事)をごっちゃにしているものと思われる。
国王の「在任」「在職」
同上。在位が正解。
国王の「免職」「罷免」「辞職」
同上。国王を退かせるのは「廃位」、国王が自ら退くのは「退位」、国王が自ら次代に位を譲るのは「譲位」。
爵位を「授与する」
まるで褒美や勲章のように主人公に爵位を与えさせようとするなろう作家は数多いが、爵位は「叙爵」というように「叙す」ものであって、「授与」とか「下賜」するものではない。しかも、爵位を叙された者はその後は国王へ臣従することになるのであるから、褒美代わりに与えようという考え方はおかしい。臣従関係を考えないのであれば、爵位ではなく勲章を選択するべきであり、勲章も正確には「叙勲」といって「叙す」ものではあるが、これについては「授与」でもよい。
貴族に「任命する」
同上。
「内政」
内政とは、国内政治ないし領内政治のことであって、外交や軍事を含まないが、主人公が内政のみならず外交や軍事を含めた統治全般を行うストーリーを内政系と呼ぶ読者(おそらく作者も)が多い。そのようなストーリーについては、正確には、統治系とか政治系というべきである。
契約
他の小説群に比べて「契約」という語の使用率が高めである。しかし、契約の概念理解がおかしい。主にモンスターや精霊等との「主従契約」という名称の片務的な援護助力契約で、人間同士の契約のほとんどは「奴隷契約」(←意味不明)か命懸けの「秘密保持契約」である。商人と従業員は出てくるが、雇用契約は明示的には出てこない。
借金の契約名
借金の契約名は、「金銭消費貸借契約」である。ところが、契約法に疎いなろう作家たちは「金銭賃借契約」とか「金銭貸借契約」などとデタラメな名称を書きがちである。
「事由」
事由とは、理由となる事実というような意味だが、単なる事実とか事柄というような意味で用いる作者は少なくない。
「殺した」
なろう作家に限らず、「人を死なせた」行為全般について「殺した」と表現する者はかなり多い。しかし、日本の刑法において、「殺した」つまり殺人は、殺意を以て人を死なせる行為だけをいうのであり、殺意がない場合は殺人罪(強盗殺人等の殺人系の犯罪も)は成立しない。殺意(殺すつもり)はなかったが暴行・傷害の故意で、つまりぶん殴るだけのつもりで、人を死なせた場合は傷害致死だし、そのような害意がなく、過失により、つまりうっかり人を死なせた場合には過失致死になるというように、どのような故意によって人を死なせたのかというのが人を死なせる系犯罪を区別するための重要な指標(構成要件)になっている。保護責任者遺棄致死と不作為殺人の区別も殺意の有無で区別するし、強盗致死や監禁致死などもそうである。
(2)誤字
「立ち振舞い」
耳コピ日本語話者であるなろう作家は、しばしば「立ち居振舞い」の「居」を聞き取れない。
「あの」「あれ」
目の前にある物、いる者に対しては通常は「これ」「この」「それ」「その」というが、なろう作家たちはなぜか「あれ」「あの」という。距離感がおかしいか、まるでその場にいないかのようである。さすがにこそあどを間違えるなど考えにくいことであるが、実際にそういう作家は少なくない。
「様子を呈した」
様相を呈した、が正解。さすがはなろう作家、耳コピ日本語話者の本領発揮といったところか。「一応」を「いちよう」、体育を「たいく」、雰囲気を「ふいんき」、洗濯機を「せんたっき」などと思い込んでいる連中と同類である。
「時より」
文脈的に「時々」の意味で使っている作者がいるが、正解は「時折」である。「一応」を「いちよう」と書いてしまう連中である。
「味合う」「味合わせる」
正解は、「味わう」「味わわせる」。
(3)無理解・無教養・誤解から来る間違ったフレーズ
「特権(権利)には義務が伴う」
「自由には責任が伴う」とか「権利を主張する前に義務を果たせ」とかをまるで絶対的真理であるかのように言っている作者は、法的素養がゼロで聞きかじったもっともらしい言葉をよく考えずにオウム返ししてるバカか、共産主義者(社会主義憲法的発想なので)。
なろうでは褒美を与えるという場面でこの言葉が地の文に記述されるが、権利と義務の主体と順序、性質をよく考えればおかしいことに気づけるはず。
行きがかり上モンスターを討伐するなどしたことを契機とする褒美は、その契機となったモンスター討伐等に対するものであって、贈与である。贈与とは片務契約であって、贈与者に義務(正確には債務だが)、受贈者には、寄越せという権利(正確には債権)が生じるのに義務は生じない。
もちろん、先履行関係がある双務契約であれば話は別であり、予めモンスター討伐等を仕事としそれに対するある種の出来高報酬として褒美を支払う旨の請負契約が締結され、それに従ってナローシュがモンスター討伐等をし、褒美を与えるというのであれば、褒美の授与者たる国王等は先に債務を履行せよとはいえる。一方、ナローシュの側からすれば、「モンスター討伐等をせよという権利を主張する前に褒美を与える義務を果たせ」といえるか。これがおかしいことはいくら頭の弱い作者でもわかると思うが、「権利を主張する前に義務を果たせ」をナローシュに適用するとこういうことになる。
そして、履行時期に関する特約のない双務契約や、性質上先履行関係のない双務契約の場合は、通常は同時履行の抗弁権があり、当事者双方ともに「俺も履行するから同時にお前も履行せよ」といえるのであって、「権利を主張する前に義務を果たせ」などという主張は認められない。
以上のとおり、褒美をもらうことに対する義務は、贈与契約であれば存在しないし、先履行債務があっても履行後に褒美をもらうのだから、いずれにせよ、褒美をもらうことから義務は発生しない。しかし、多くのナローシュは、褒美をもらうことで何か義務が発生すると考える。
例えば、不逮捕特権があるからといって、特に犯罪を犯してはならない義務が発生するわけではない(そのような一般人よりも強い義務を負わせたところで、義務違反を問えないのであれば意味がない。もちろん、国はナローシュを逮捕することはできないが捕まえずに処刑することはできるというなら別だが)し、免税特権の代わりに何か義務が課されたとすればそれ自体が税のようなもの(賦役)となり免税の意味がない(褒美授与式後の依頼は、決して褒美の対価(前払い)ではなく、新たな依頼の申込である)。功労に対する褒美(御礼)として特権を与えるのに、それに伴って義務も課すというのがおかしい。
もっとも、褒美自体の特性により、多少作業が必要ということはありえる。領地を貰ったという場合、なろう作者の多くは、ペットを譲り受けたというのと同様に、当然ながら領地経営をする必要が出てくると考える。だが、自分が主導して飼い始めた犬の散歩を次第に家族任せにするように、領地経営は代官にでも任せ、上納金だけもらうということもありであるし、統治経験のないナローシュが不自然に頑張るよりも、プロに権限を委任した方が間違いはない。とすると、ナローシュがするべきことは、プロに任せるという作業であり、そのプロ選定作業は国王に任せるとか、あるいは配下の官僚機構からの助言を元に任命するようにすればさほどの労力もかからない。それにそもそも、もらった領地を経営せずに荒れ地にすること自体が禁止されていなければ、放置してもよい。他の貴族が上納金を納めており、その財源が領地収入であったとしても、ナローシュ自身は交渉してそれを免除してもらうなり、別に得た財源から納めてもよい。日本で土地を持っている作者・読者ないしその親戚は固定資産税の納税義務と、せいぜい隣地に隣接したところの工作物責任を負っているに過ぎないのだから、住民を追放し、領境付近の物は撤去しておく程度の労力で済む。したがって、ナローシュが厭わなければならないほどの面倒な義務を必ずしも伴っているとはいえない。
領地を貰ったなら従軍義務なり出仕義務が生じるのではないかとの反論もあろう。しかし、それは領地の授受自体に必然的に伴うものではなく、あくまでオプション(慣例的に通常は付随しているとしても)なのだから、まず交渉してそのような義務を負わないこととしてもらえばよい。
そもそもそのような義務を伴うものが褒美といえるかという問題がある。領地授与や貴族叙任に伴ってそのような義務を負わせるというのであれば、それは褒美ではなく雇用契約とか請負契約の申込みと解するべきではないか。領地や貴族としての名誉や特権と対となる従軍・出仕・上納等の義務を負うとなると、プラマイゼロということになるから、では、功労に対する褒美とは何だろうということになり、そうすると、この理解の下では、褒美とは国家元首との雇用契約締結権(ナローシュの承諾の意思表示で雇用契約が成立する)ということになる。しかし、一般的には、そのようなものを褒美とはいえないだろう。
したがって、以上のとおり、絶対的真理であるかのように「権利を主張する前に義務を果たせ」と主張するのはおかしい。
「自由には責任が伴う」
この概念は、要するに「やりたいことをやったなら、後始末は自分でつけろ」とか、「どのような結果になっても受け入れろ」などというような意味で使われている。
しかし、自由とか責任という言葉は法律用語でもあり、これらを用いる以上は、法学的に妥当かが問われるところ、日本国憲法を含めた自由主義憲法体制において、責任とは主に刑事責任・民事責任であり、責任が生じるのは、自由が保障される範囲の外にある行為を行った場合であり、自由が保障される範囲内の行為に対しては責任は生じない。例えば、殺人は自由として保障されていない行為であるから、人を殺せば刑事責任を負うことになる。
したがって、「自由には責任が伴わない」「やってはいけない行為を行った場合には責任が生じる」が正解である。すなわち、「自由には責任が伴う」というのは、憲法学とは完全に真逆の主張である。
ここで、この概念にある責任とは、法的責任ではなく道義的責任であるから、妥当しないという主張もありえるだろう。
しかし、道義的責任だとしても、自由にやっていいはずの行為に責任が生じるのであれば、自由にやってはいけない行為には責任が生じないのか、すなわち「不自由には責任が伴わない」という概念が成り立つがそれは道義的に妥当なのか、という反論がありえる。やむを得ずにした行為すなわち自由にやったわけではない行為であっても道義的責任を感じて引責辞任するなどという選択を採る者は少なくないわけであり、そうすると結局のところ「すべての行為には(道義的)責任が伴う」ということになって、「自由には」と限定する意味がなくなる。とすると、やはり「自由には責任が伴う」という概念は、少なくとも文言上は正確ではないということになる。
よって、法的にも道義的にも「自由には責任が伴う」という概念は成り立たない。
そのため、「やりたいことをやったなら、後始末は自分でつけろ」とか、「どのような結果になっても受け入れろ」などといいたいのであれば、「自由には責任が伴う」というような聞きかじりのおかしな表現ではなく、「やりたいことをやったなら、後始末は自分でつけろ」とか、「どのような結果になっても受け入れろ」などというべきである。
(4)その他
「気にしなくてもいいよ」
なろう作家としては十中八九「気にしなくていい」「大丈夫だよ」という趣旨での発言だと考えて書いているのだろうが、「も」があることで、文理上、「気にしたければ気にしてもよい」ということにもなり、深読みすれば、「本当に申し訳ないと思っているなら、気にしろ、誠意を見せろ」という意味にも取れる。
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