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十四、属国
しおりを挟む「ええっ、お前いつの間にそんなに……? すごいな!」
国史記を習いに書き写しているのを見たタシホは感嘆を上げた。
「うわあ、知らない漢字がいっぱいだ。ユタ、もうこんなに覚えたの?」
「ううん、わからない漢字を書きだしておいて、会原様に聞こうと思って」
「ひええ……。恐れ入るよ」
「ユタに歌を教えるどころじゃないよ。これじゃあ僕がユタに漢字を教わらなきゃいけないくらいだ」
「僕もまだ自分では読めないんだ。ゼロ様が内容をさらって教えてくださったんだよ。だから、早く自分で読めるようになりたい」
「えっ、ゼロ様が直接教えてくださったのか?」
「本当に? すごいな! ユタ、僕らにも教えてくれないかい?」
「教えるといっても、僕はまだ……」
「いいだろ! 女と男の神様が人の世を開いた後、この世に戦が起こったんだろ? その戦の部分を聞きたい!」
「そこはなんとなく習ったから、僕はそのあとが聞きたい」
「戦のところを話してくれよ!」
「戦のあとはどうなったの?」
「え、えっと……」
ユタは戸惑いながら筆をおいた。
御用郎の御指南は、およそ一年から二年かけられる。その習熟度の個人差は大きい。床の技や歌や楽器と違い、歴史を知ったからと言って、直接的に女を楽しませられるわけではない。そのため、進んで歴史を学ぼうという者は少なかった。
(忌夜良比売神王様のお怒りや、そのせいで男が虐げられることになったことを知っている御用郎も少ないのでは……)
「……あの、僕、どうしたらいいかわからないよ。アリマ様に聞いてみてからでもいい?」
「またそれかよ」
「しょうがない。アリマ様のお許しが出たら、きっと教えておくれよ」
「うん、もちろんだよ……」
(でも、忌夜良比売神王様の話を聞いたら、ふたりはどう思うのかな……)
それを思うと、ユタは気分が沈むのがわかった。自分の中でもまだこのことは消化しきれていない。幸いにもゼロという保護者ができたユタは、その庇護のもとで生きていられるが、コミカとタシホはそうではない。同室同士のよしみはあっても、その立場は同じではなかった。
「あ、そういえば、アリマ様に聞いてみたけど、御用郎にシュウという人はいないみたいだよ」
「えっ、本当?」
「うん。アリマ様がここへ来てから今まで、そういう名前の男には会ったことがないし、聞いたこともないって」
「そうなんだ……」
「で、そのシュウってのは一体何者なんだ。アリマ様に聞いてみるはなしだぞ」
「う……、い、言えない……」
「なんだよ、なんにも言えないじゃ、協力してやりたくってもできないだろ」
「まあまあ、タシホ。あとはノアミ様に聞いてみるかだね。戸籍を管理している金森様に聞ければ一番いいけど、簡単に教えてもらえるとは思えないしね」
「そうだなあ、お前に金森様をヒイヒイ言わせるくらいのものがあれば別かもな」
「ひいひい……」
「僕ならできるな」
「俺もできる」
自信満々なふたりのことはそれとして、ユタは日を改めてノアミを訪ねてみることにした。
コミカを共にして、ノアミの部屋を訪ねると、マチホが笛を習っているところであった。
「構わぬ、入れ」
マチホがユタに席を譲った。
「訪ねて来てくれてうれしいぞ、ユタ」
「あの、すみません。お稽古の最中に。ノアミ様に伺いたいことがあって」
「ほう、なんであろう」
「シュウ、という名前に聞き覚えはありませんでしょうか」
「シュウ……。珍しい響きだな。はて、わたしの記憶にはないが、御用郎か、それとも官吏様か?」
「あ……、えっと、それはちょっとわからなくて……」
ノアミがくすくすと口元を隠した。
「枕元でゼロ様がおこぼしなさったか」
「あっ、いや……」
「まあ、よくあることよ。ことを終えると女も男も心身ともに無防備になる。心の片隅の思いもよらぬ名がぽろりと出てしまうものよ」
「……」
訳知り顔のノアミを前に、やっぱりそうかと思うユタだった。
「残念だが、わたしにはわからぬ。すでに淘汰された者か、もしくは、ゼロ様のお国の方かもしれぬな」
(お国の方……?)
「聞きたいことはそれだけか? であれば、わたしから話したいのだが」
「えっ、はい」
「このマチホへのお咎めはないと、藤村様からお達しがあった」
「えっ、本当ですか! それはよかったですね!」
見ると、マチホが笑って見せた。
「それから、どうやら村木がどこぞに飛ばされたそうだ」
「え……っ」
「お前がゼロ様に告げたのではないのか?」
「……あっ」
そういえば、ヒノリの話をするときに、村木の名前を出した気がする。
「その様子からすると、お前に意図はなかったのか。今に官吏たちがお前のご機嫌取りを始めかねぬのう」
「僕はなにも……」
「お前にその気はなくとも、他の者たちは自然とその先にいるゼロ様の顔色を伺うのだ」
「……」
「気を付けることだ。お前を利用しようとする者も出てくるぞ」
「アリマ様にも注意されました。僕はまだいろんなことがわかっていないから……。すみません……」
「わたしに謝る所以はない。まあ、アリマの手に余るようなら、お前を引き取ってやってもよいがな」
「え、えと……」
「さて、せっかく訪ねてきたのだから、歌の一首でも教えてやろうかのう」
「あの……。さっきの、ゼロ様のお国の方って言うのは、どういう意味ですか?」
「ああ、それは。ゼロ様は他国からこの国へと派遣された国司様なのだ」
「えっ……? く、国というのは、この国の他にもあるのでございますか?」
「そうだ。ここムクロヒを治めるために、国司長官様が赴任されるのだ。派遣している大きな国を、我々は神が居ると書いて、居神国と呼んでいる」
「居神国……。だから、ゼロ様はこの国の者とどこか面立ちが違うのですね。驚きましたが、納得いたしました……」
「わたしが裾の宮に上がってから数えて、十五人目の国司長官様だ。これまでの国司様と比べると、いささか感じが違うが、いずれは任期を終えたら再びお国へ戻るのだろう」
「えっ? 戻る?」
「およそ、一、二年でな」
「そ、そんな……」
「これまでも国司様が御寵郎を抱えることはあったが、お前は滓児ゆえ、面食らうことが多かろう。今のうちにゼロ様が去っても、ここで生きてゆけるだけの力と術を身につけておくのだ。ただでさえ、お前に嫉妬や敵がい心を燃やす者は多い」
「その居神国とは、どのような国なのですか? 誰か行ったことのある者はいるのでしょうか?」
「綿貫様の話では、誰もその国へは行けぬらしい。いつも一方的に国司様がやってきて、時期が来れば入れ替わるのだそうだ」
(……僕は、なにも知らないんだ……、この国のこと、居神国のこと、ゼロ様のこと……!)
ノアミの部屋を辞した後、コミカが急いたように口走った。
「すごいことを聞いてしまったね。僕も、国司長官様が他の国から来ていたなんて知らなかった。さすがはノアミ様だよ、アリマ様でもご存知かどうか……」
「僕、いろんなことを知らないってことがわかったよ、本当に……」
「僕もだよ。この国の名前なんて、考えたこともなかった。ムクロヒ国、居神国。ねえ、もしかしたら、国って他にもいくつもあるのかな」
「いくつも……?」
「うん、だって、少なくとも二つの国があるってわかったんだよ。それも、ゼロ様のいた居神国は、この国に統治者を送り込むだけの力がある。ムクロヒ国は、その支配下っていうことだろう?」
「支配下……」
「つまり、女が強くて男が弱い。それと同じだよ。居神国が強くてムクロヒ国が弱い。ムクロヒ国は居神国の支配下ということだよ。偉い人だとはわかっていたけど、ゼロ様って、ただの官吏とは違う。はるかに格上の存在なんだよ!」
コミカの興奮する様を間近に、ユタの足は地をつかみ切れていなかった。この世は、自分が思っていたよりもはるかに大きいらしい。それが、歴史であり、国であり、ゼロなのだ。
(ゼロ様、お会いして、なにもかもをお聞きしたい……!)
でも、その前にできることもある。もっと歴史を学ぶことだ。ノアミの言うように、生きていく術を身に着けること。ユタはゼロさえいれば、無事に生きていけると思っていたが、実際ゼロはユタが思うよりはるかに雲の上の存在らしい。ゼロには帰るべき故郷があり、おそらく待ち人もいる。時期が来れば、ユタを置いてこの国を去るのだ。ゼロと別れることを思うと、ユタの心はひどく乱れたが、それでも、納得せざるを得ない。ユタにとっては、それだけ途方のない話だった。
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