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第三部
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「一条さんが怪しくないですか?」
サンドウィッチを頬張りながら、高部美里愛が小声で言った。
「やっぱ、そうだよねえ」
アイスコーヒーを飲みながら、唯香が答えた。
「でも、証拠がないですもんね。さすがに、一条さんに『これ書いたのあなたですか?』って訊くのは無謀ですもんね」
「だよねえ。まあ、もう少し様子見てみるわ。話きいてくれてありがとうね。曲作り頑張って!」
山崎洋子が退職してから、高部はデスクの所有者がいなくなった唯香の右隣のデスク昼ご飯を持参して、ふたり並んでランチをするようになった。食事を終えると、残りの時間はお互い好きなことをして貴重な昼休みを過ごすのが暗黙のルールになっている。
それから一週間、また、唯香のデスクの引き出しに薄黄色の手紙が入れられていた。内容は一通目と同様で、
――国際営業課の岡崎遼とは関わらない方がいい
と書かれていた。そして、その一文が、日を追うごとに、二行、三行……と増えていった。さすがに、気味が悪くなった唯香は、八角重工の社内の人間関係に詳しい小川美希に相談することにした。
短い間とはいえ、ホステスとして働いていた唯香にとって、『スナック美沙』は、もうひとつの実家のような居場所となっていた。初めてこの店を訪れた時は、悪趣味だと思っていた店の前の紫色の電飾スタンド看板も、場末感漂う雰囲気も、今となっては、趣深いとさえ感じる。少し斜めに傾いた重い扉を開けると、店内から、「いらっしゃいませ」という艶っぽい声と、元気いっぱいの声が聴こえてきた。艶っぽい方の声の主は美奈ママで、元気いっぱいの方の声の主は美希だ。カウンター席では、常連客の源さんがボトルキープした芋焼酎を吞みながら、美奈ママと楽しそうに話をしている。店の奥の小さなステージでは、唯香が知らない仕立ての良さそうなグレーのスーツを身に纏った五十代くらいの恰幅の良い男性が、おそらく、アルバイトであろう若いホステスと『銀座の恋の物語』をデュエットしている。今晩は、なかなか景気が良いようだ。来店客が唯香であると気付いた美奈ママは、
「あら、唯香ちゃん、お久しぶりね」
と、今までの人生でいったいどれだけの男たちを虜にしてきたのだろうかと邪推したくなるような微笑を浮かべて言い、カウンターでおつまみを作っていた美希は、
「あっ! 唯香じゃんっ! 久しぶりー!」
と、丸顔に満面の笑みを浮かべて言った。
(八角重工では犬猿の仲だった私たちが、お互い下の名前で呼び合うようになるまで仲良くなるなんて、人生って面白いわね)
と、唯香は思った。
サンドウィッチを頬張りながら、高部美里愛が小声で言った。
「やっぱ、そうだよねえ」
アイスコーヒーを飲みながら、唯香が答えた。
「でも、証拠がないですもんね。さすがに、一条さんに『これ書いたのあなたですか?』って訊くのは無謀ですもんね」
「だよねえ。まあ、もう少し様子見てみるわ。話きいてくれてありがとうね。曲作り頑張って!」
山崎洋子が退職してから、高部はデスクの所有者がいなくなった唯香の右隣のデスク昼ご飯を持参して、ふたり並んでランチをするようになった。食事を終えると、残りの時間はお互い好きなことをして貴重な昼休みを過ごすのが暗黙のルールになっている。
それから一週間、また、唯香のデスクの引き出しに薄黄色の手紙が入れられていた。内容は一通目と同様で、
――国際営業課の岡崎遼とは関わらない方がいい
と書かれていた。そして、その一文が、日を追うごとに、二行、三行……と増えていった。さすがに、気味が悪くなった唯香は、八角重工の社内の人間関係に詳しい小川美希に相談することにした。
短い間とはいえ、ホステスとして働いていた唯香にとって、『スナック美沙』は、もうひとつの実家のような居場所となっていた。初めてこの店を訪れた時は、悪趣味だと思っていた店の前の紫色の電飾スタンド看板も、場末感漂う雰囲気も、今となっては、趣深いとさえ感じる。少し斜めに傾いた重い扉を開けると、店内から、「いらっしゃいませ」という艶っぽい声と、元気いっぱいの声が聴こえてきた。艶っぽい方の声の主は美奈ママで、元気いっぱいの方の声の主は美希だ。カウンター席では、常連客の源さんがボトルキープした芋焼酎を吞みながら、美奈ママと楽しそうに話をしている。店の奥の小さなステージでは、唯香が知らない仕立ての良さそうなグレーのスーツを身に纏った五十代くらいの恰幅の良い男性が、おそらく、アルバイトであろう若いホステスと『銀座の恋の物語』をデュエットしている。今晩は、なかなか景気が良いようだ。来店客が唯香であると気付いた美奈ママは、
「あら、唯香ちゃん、お久しぶりね」
と、今までの人生でいったいどれだけの男たちを虜にしてきたのだろうかと邪推したくなるような微笑を浮かべて言い、カウンターでおつまみを作っていた美希は、
「あっ! 唯香じゃんっ! 久しぶりー!」
と、丸顔に満面の笑みを浮かべて言った。
(八角重工では犬猿の仲だった私たちが、お互い下の名前で呼び合うようになるまで仲良くなるなんて、人生って面白いわね)
と、唯香は思った。
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