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第三幕 第三場2
しおりを挟む清花が、再び成城の北原邸を訪ねたのは九月中旬だった。日中はまだまだ暑く、三十度を超える日もあったが、朝晩は肌寒く感じる日が多く、日差しの色も、極彩色豊かな油絵から、透明感溢れる水彩画へと変貌していた。相変わらず、自分のようなみすぼらしい貧乏人にはおよそ似つかわしくない街ではあったが、二度目ともなると、多少冷静に周囲を見渡すことができるようになっていた。最初にこの高級住宅街に足を踏み入れた時は、道行く人たちから嘲笑われているような気持ちになったが、それは自意識過剰の被害妄想であったと清花は確信した。生活に余裕がある人々は貧乏人を見下したりしない。彼女たちの視界に入るのは、自分よりもより豊かで優雅な人であって、清花のことなど端から眼中にないのだから。そう思ったら少し気が楽になった。
「いらっしゃい。今日は、主人も息子も家に居て騒がしいと思うけど許してね」
綾芽からは、事前に家族が在宅であることを聞いていたので、清花にはそれなりの心の準備はできていた。
「いいえ。とんでもない。貴重な家族団欒の日を邪魔しちゃって、こちらこそ本当にごめんなさい。長居はしないわ」
そう言って、清花は、なけなしのお金で買った高級洋菓子店の焼き菓子の詰め合わせを綾芽に手渡した。子どもの頃、悠介と清花が「白亜の城」に招かれた時に、綾芽の母に振る舞われた高級菓子。清花は母親に持たされた下町商店街の饅頭をそっとバッグの奥底に隠した。子どもながらに恥ずかしかった。悔しかった。あんな惨めな思いを二度としたくなかったのだ。
「そんな……気を遣わないでいいのに」
「いいえ。綾芽には大恩があるの。これは私のほんの気持ちなの」
「わかったわ。それじゃ遠慮なくいただくわね。後でみんなでお茶しましょうね!」
リビングに足を踏み入れると、アンティーク風のダークブラウンのレザーソファに、先日写真で見た綾芽の旦那さんと息子の「だいちくん」が座って、大画面のテレビに釘付けになっていた。子供向けのアニメが画面に色鮮やかに映し出されていた。
「あなた、大智、お客様がいらっしゃったわよ」
綾芽の声にびっくりした様子の二人は、慌てて立ち上がって、清花に挨拶をした。
「これは、失礼いたしました。本日はお暑い中お越しいただきありがとうございます。私は、綾芽の夫の、『横山竜司』と申します」
色白でとても美しい顔立ちの男性だった。声もとても綺麗だった。
「横山さん?」
「ああ。清花にはまだ話していなかったかしら? うちは夫婦別姓なのよ。門のところの表札も『横山・北原』になっているわよ。私の母はネイリスト業界ではちょっとした有名人だから、私は母の威光をかさにきて『北原』姓のままでお仕事しているの。戸籍上は『横山綾芽』なのよ」
「そうだったのね。そうよね。現状では夫婦別姓は法律で認められていないものね」
「めんどうよね」
と言って、綾芽は苦笑した。
「そして、この子は、『横山大智』。『大きい』に『叡智』の『智』で『大智』よ。賢い子に育って欲しいと願ってつけた名前なの。はい、大智、おねえさんにご挨拶は?」
「よこやまだいち、六さいです! きょうは、ゆっくりしていってください!」
「ありがとう。大智くん。また少しだけ、ママとお話しさせてね」
「はい! きょうはパパもいるので、さびしくないです」
そう言うと、竜司は、清花に会釈をして、大智を連れてリビングを出て行った。
「また、こうして訪ねて来てくれてありがとう、清花。とても嬉しいわ」
綾芽がアイスティーとガムシロップを清花の前にことりと置いた。風に煽られゆらゆらと揺蕩うカーテンのように、ガムシロップがアイスティーに溶け込んでいった。
「綾芽のお陰で、借金を完済することができたわ。ありがとう。言葉では言い表せないくらい感謝しているの」
「気にしないで。幸いお金には困っていないの。それより、悠介がまた借金を増やしていないかが心配だわ。悠介には、家を飛び出してから一度も会っていないの?」
「ええ。もし会ったら、私、殺されるかもしれない」
「そう……もう、昔の悠介とは別人になってしまったのね」
綾芽は寂しそうな顔をした。
「それで、今日の相談っていうのは?」
清花は、重い口を開いた。
「借金を返済してから、私、アパートに引っ越して転職活動をしているんだけど。すごく苦戦していて、本当に情けない話なんだけど、家賃滞納してて……早急に仕事を決めないと追い出されてしまうの。図々しいお願いだというのは重々承知しているのだけど、綾芽のお友達や知人で社員を募集しているところがあったら紹介してほしくて……本当、ごめんなさい。もう、どうしていいか分からなくなってしまって」
骨ばった両手で顔を覆った清花の長袖のシャツが捲れあがって、自傷跡とその他にもいろんな種類の傷跡が露わになった。
「紹介してあげられなくもないんだけど、清花、受付事務とかできる? おそらく、私が知っている清花の性格からして、人と接する時間が多い仕事はあまり得意じゃないと思っているのだけど、どう?」
「それは、綾芽の言う通りなんだけど……私を雇ってくれる会社があるのなら、得意とか不得意とか我儘言ってられないわっ! なんだってやるわっ!」
「そう。清花の意気込みは伝わってきたわ。そうしたら、清花、私の母が経営している『北原 紫ネイルスクール』で働いてみない? 先月、受付事務の子が一人退職してしまって、今、受付は一人で回しているのよ。今、彼女にかかる負担が大きくて、早急に社員を雇い入れたいと思っていたところなの」
綾芽は立ち上がり、サイドボードの引き出しから書類を取り出して、清花の前に差し出した。『北原 紫ネイルスクール』の採用条件が入力された書類だった。
「ハローワークの求人票とWEBの求人サイトに掲載しようと思っていたところなの。この条件で良ければ、直ぐにでも来てほしいわ」
清花は、採用条件が記載された書類を見て目を丸くした。今まで自分で探してきたどの企業の採用条件よりも厚待遇だったからだ。
「わ……私なんかで良ければ、ぜひお願いしたいのだけれど……綾芽のお母さまが反対するんじゃないかしら?」
「ああ、それなら大丈夫よ。『取締役会長』は母だけれど、『代表取締役社長』は私なのよ。母は他にもいろいろな事業に携わっていて手が回らないから、ネイルスクールは私が一任されているの。それに、私、母には、あの時のこと一切話していないから安心して」
清花は、過去に綾芽にした裏切りに対し、じくじくと心が痛んだ。沈鬱な表情をして俯いている清花を見て、綾芽が、
「べつに、清花を責めているわけじゃないのよ。ただ、清花が私の母に嫌われていると感じているのは、私の口から母へ、あの時のことが伝わっているかもしれないと勘繰ったからでしょう? だから、私は、清花を安心させるために言っただけなの。前にも言ったけど、私の中ではとうに風化した過去の話なの。だから、もう、昔のことで気に病んだりしないで。お願い」
全部、綾芽の言う通りだった。
「わかった。もう、過去は過去で割り切れるように努力するわ」
綾芽の表情が花のようにほころびた。「北原 紫ネイルスクール」の雇用契約書などの事務手続きをひととおり済ませた綾芽は、
「せっかくだから、清花にいただいたお菓子でお茶していかない? これから、うちのスクールで働いてもらう大切なスタッフだもの。うちの家族とも仲良くしていただけたら嬉しいわ」と言った。
「ええ。喜んで!」
清花は安堵の表情で答えた、この時の清花はまだ気付いていなかった。じわじわと浸食され、綾芽に依存しなければ生きていけなくなっている自分自身に。
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