片翼を失ったピアニスト

喜島 塔

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第十章

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 田辺医師からの「クリスマス・コンサート」出演のオファーを正式に受けた俺は、人が変わったように、ピアノの練習に打ち込んだ。毎朝五時に起床して、ストレッチで身体をほぐしてから、5kmのジョギングをすることを日課とした。俺は、無意識のうちに、院内コンサートの後のことも見据えていたのかもしれない。本気でピアニストを目指すなら、体力づくりは必須だ。ソロのリサイタルなら、二、三時間、ぶっ続けで一瞬たりとも集中力を切らすことなく曲を弾き続けなければならないのだ。ピアノ演奏をする以前に、体力と強靭な精神力を伴わなくては話にならない。朝食後は、『ハノン』を通しで弾いて指をならす。その後は母の見舞いに行き、帰宅後はひたすら楽曲の練習をした。そんな俺を見て、祖母は、
「舜くん、今、樹の容態もだいぶ良いから、毎日お見舞いに行かなくてもおばあちゃんが行くから大丈夫だよ。気が向いた時に顔を出してくれればいいから、舜くんは、その調子で全力でピアノに立ち向かいなさい! それが、樹のためにもなると、私は思ってるよ。私も、舜くんの演奏が今から楽しみで仕方ないんだよ」
 と言った。俺は、祖母の言葉に遠慮なく甘えることにした。

 “神童”と持て囃された子ども時代。世間からチヤホヤされることが心地良かった。ピアノに対しては鬼のように厳しい母がたまに見せてくれる優しい笑顔と褒め言葉。俺は、その笑顔と褒め言葉が欲しいという理由のみでピアノを弾いていた。一度たりとも、ピアノが好きだと思ったことも楽しいと思ったこともなかった。九歳の時に、泉の凄まじい努力が実を結び、泉の中に潜んでいた才能が覚醒し“神童”の称号が俺から泉の手に渡ってからは「ピアノが好きではない」から「ピアノが憎い」へ。「ピアノを弾くことが楽しくない」から「ピアノを弾くことが苦しい」へと変化し、俺は一刻も早く「ピアノ」という呪縛から逃れたかった。

 そんな俺が、不思議なことに、生まれて初めて、自分の本当の意志によって、ピアノと真正面から向き合っている。マリカお姉さんに好かれるためでもない、皆にチヤホヤされて優越感に浸るためでもない、母の笑顔を見るためでもない……俺は、俺がピアノを弾きたいから、誰のためでもない“俺のために”ピアノを弾いているんだ! 基礎練習や体力づくり……納得できない箇所があれば納得できるまで、何十回も何百回も、それこそ、時間が経つのを忘れ、繰り返し繰り返し練習する。あれだけ、鬱陶しいものに感じていた、努力する、ということが、少しも苦に感じなかった。昨日より今日、今日より明日……少しずつ少しずつ、自分が求める“音”に近づいているという実感は、俺の心を充足させ、日に日にピアノを弾くことが楽しくなっていった。

 そして、あっという間に時は過ぎ「卯左木総合病院 クリスマス・コンサート」の当日の朝を迎えた。
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