「お前が死ねばよかった」と言われた夜【新章スタート】

白滝春菊

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消えた居場所

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 突然、お母様に肩を掴まれ、私は無力にも壁へと押しやられた。息を呑む間もなく、冷たい石壁が背中に当たり、圧迫感に包まれる。
 その強い手のひらと鋭くも冷徹な眼差しに私は震え上がる。言葉にできない恐怖がじわりと身体中に広がって、目の前にいるのは私を産んだ母なのになぜこんなにも遠く感じるの。

「ヴィクトル様に何か失礼なことをしていないでしょうね?」

 その言葉が冷たい刃のように胸に突き刺さる。お母様の瞳は私を見つめるその先に私の答えを確かめるように鋭く光っていた。私は下を向きそうになるが怖くて目を逸らすことができない。

「わ、わからな……」

 口の中が乾き、言葉が喉に絡みつく。私の心は必死に言い訳を探すけれど、どれも虚しく響く。
 私はヴィクトル様の妻として何もできていない。夜の営みすら、彼は拒んでいる。私には何の魅力もなく、夫婦としての役目も果たせない。

「あの方の妻としてきちんとやっているの?」

 その問いかけに、私は言葉を詰まらせ、ただ無意識に小さく頷いてしまった。胸の中で不安がぐるぐると渦巻き、答えを出せないまま心は宙を彷徨っている。

「いい?ユミルリアがヴィクトル様に嫌われたら、この家はおしまいなのよ?わかったわね?」

 その言葉が重くのしかかり、私はただ黙って返事をするしかなかった。お母様の声が耳の中で響き、冷徹に響く。
 それがまた私の胸を痛ませる。もし私が離婚したら家族全体が困る。私一人のせいですべてを失うのではないか。それはどうしても避けたい現実だった。

 お母様の手が離れ、去っていった後。私は呆然とその場に立ち尽くしていた。ただ自分の立場を思い知らされる。
 この家にとって私の存在はただの足手まといでしかない。ヴィクトル様と結婚し、ここに帰ってきても私は何一つ変わっていなかった。
 空気のように扱われる日々はあまりにも長すぎて、どこか麻痺していたけれど今そのことを改めて感じさせられる。

 しばらく歩いて屋敷をうろつきながら、久しぶりに見るマーシャル家の屋内に胸が何とも言えない空虚感で満たされていく。
 使い慣れた廊下、馴染みのある家具の数々、すれ違う使用人たちの顔に見覚えがあり、軽く会釈をされるその瞬間だけが私を昔の自分に引き戻す。
 少しだけ自分の足を止め、深呼吸をした。あまりに懐かしすぎるこの場所にどうしてこんなにも胸が痛むのだろう?

 嫁ぐ前まで使っていた自分の部屋の前にたどり着く。鍵のかかっていない扉が静かに私を迎え入れてくれる。
 しかし、開けた瞬間、その部屋には一切の温もりが残されていなかった。かつて私が物心がついた時からずっと過ごした部屋は家具一つ、カーテン一つない、冷たい空間。全てが取り払われ、そこに残されたのは無機質な空白。

 その空っぽな部屋の中で私はぐるりと視線を巡らせ、溜息をつく。私がここに帰ってきてもこの家に居場所はない。もう居場所はどこにもないことが痛いほどわかってしまった。

 見るのが嫌になって扉を閉め、廊下の壁に背を預けると目を閉じる。心の中で一つ、再び誓う。これ以上、ヴィクトル様に嫌われないようにせめて、顔を合わせても平気でいられるように。
 彼に拒絶されることが怖くて、心は痛むけれど今は耐えるしかない。どんなに扱われても、離縁されないようにしないと。

 待っている間にどこに行こうかと悩んでいるとこちらに向かってくる黒髪を綺麗に纏めたの女性の登場に一歩退いた。
 目の前に現れたその女性は無表情で私を見つめている。その瞳の中に浮かんだのはどこか冷たく、無感情なものに私は息を呑んだ。

「エレノアお姉様……」

 その名を呼ぶと彼女の顔に微かな変化があったように見えたがそれはほんの一瞬のことだった。エレノアお姉様は私の目をじっと見つめながらもまるで何も感じていないかのように相変わらず表情を崩すことはなかった。

 エレノアお姉様はミーティアお姉様と違って控えめな女性だ。
 父親譲りの金髪に緑色の瞳を持つミーティアお姉様に対し、エレノアお姉様はお母様譲りの黒髪に黒い瞳。ミーティアお姉様がふわふわしてて光り輝く美しさを持っているのに対して、エレノアお姉様はキッチリと静かな雰囲気を漂わせている。
 私のお姉様なのに彼女の表情からは感情が一切読み取れない。まるで無機質な人形のようにどんな状況でも表情を変えることはない。

「お久しぶりです」

 私は微笑みを作りながら頭を下げたがエレノアお姉様は静かに一度頷き、私の顔をじっと見つめるだけだった。その視線の冷たさに私は少しだけ心をひやっとさせられた。

「どうされましたか?」

 私は緊張しながら尋ねるとエレノアお姉様は無感情な声で淡々と答えた。

「これを取りに来たのでしょう」

 その言葉とともに彼女は私の前に一冊の本を差し出した。それは私が密かに部屋に隠して読んでいた官能小説。恥ずかしさとともに冷や汗が一気に流れる。

 こっそりと父の書庫に忍び込み、何度も目を通した本があった。それは大人のために書かれた本でミーティアお姉様に見つかれば確実に怒られるのを知っていながら自室で隠してまで読んだ本。その本はここに忘れてきてしまったのを今思い出した。

「いや……その……」

 言葉が出ない。私はエレノアお姉様の顔を見つめるがその顔は相変わらず変化のない。ヴィクトル様みたいな冷徹な表情。

「貴女の部屋を片付けた時に隠してあったのを見つけたの」

 エレノアお姉様は淡々と告げ、私の恥を晒すかのように無表情でその本を渡す。私は慌てて、その本を受け取って背後に隠した。

「……あ、ありがとうございます……」

 エレノアお姉様はその後も私をじっと見つめ続け、まるで私の心の奥を覗き込むかのように冷徹な眼差しを向けてきた。

「ヴィクトル様とは上手くいっていないみたいね?」

 その一言に私の心は一瞬で凍りついた。聞かれたくなかったことを何の前触れもなく、エレノアお姉様は淡々と口にした。
 その冷たい問いに私は無意識に表情を固くし、言葉を探す。
 しかし、どんな言葉を出しても結局は自分の恥をさらけ出すことになってしまうことを私は理解していた。

「……上手くいっていないように見えますか?」

 無理に返事をしようとして私の声は震えてしまった。それをエレノアお姉様は無表情のまま、じっと待ち続ける。私はその冷たい視線に圧倒されながら、やっと答えた。

「あの……ご想像されている通りだと思います。夫婦仲はそんなによろしくないかと……」

 心の中で何度も自分を呪いながら、私は正直に答えた。私のことを知らない陛下を騙すことはできても家族に隠し通すことなどできるはずもない。みんなが私をどう思っているのか、もう隠す必要もなかった。
 ミーティアお姉様以外の人間とまともに接したこともなく、社交性や教養が足りてない末妹が優秀なミーティアお姉様の代わりに公爵家の軍人へ嫁いで上手くやるとは誰も思っていない。

 その沈黙の後、エレノアお姉様は再び口を開いた。その言葉は予想もしていなかった真実だった。

「姉様が死んだ時、代わりに嫁がせる予定だったのは私だったの」
「え?」

 私は驚きのあまり、間抜けな声を上げてしまった。
 そんな話は一度も聞いたことがなかった。エレノアお姉様にはすでに相手がいるとばかり思っていたのにどうして私が選ばれたのか理解が追いつかない。

「そうしたらヴィクトル様は何故かユミルリアでいいと言ってきたの。何故か」
「どうして……」
「さぁ、自暴自棄にでもなっていたのかしら?」

 彼女はそう言いながらもほんの少しだけ溜息を吐いた。表情は変わらないがその瞬間、彼女の瞳の奥に微かな揺らぎが見えたような気がした。
 まるで自分の心の中で何かを抱えているように感じたがすぐにそれは消えてしまった。

「でも……上手くいかないとなればユミルリアを戻して改めて私とヴィクトル様を結婚させようということになるかもしれないわね」
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