七月の夏風に乗る

白野よつは

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■10.ありがとう、ありがとう、ありがとう ◆浅石佑次

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 それからの展開は、本当に早かった。
 教頭から許可が下りた翌日には、学校側からの決定事項として正式に吹奏楽応援を行うという知らせが校内掲示板に貼られることになり、それとほぼ同時に吹奏楽部によるデモンストレーションの開催日時も決まった。
 野球部はそれを受けて声で地域に浸透させる役割を果たしてくれ、生徒会は美術部に所属しているという湯川の協力を得てポスターを作り、校内外の掲示板、商店やコンビニなどに貼らせてもらえるよう足で活動し、吹奏楽応援を盛り上げる役を一手に引き受けてくれた。
 吹部もコンクール曲の練習と並行してピックアップが終わったばかりの応援曲の練習を強化し、校内を徐々に吹奏楽応援ムードに持っていく。応援団も以前と変わらずビラ配りと、忙しくなった吹部の署名活動を引き継いで続ける傍ら、曲に合わせた振り付けを考える毎日が続いた。

 一週間もすると、それらの活動はさらに加速した。
 地域の人たちを招いたデモンストレーションは野球部の声での周知やポスターの効果で期待以上の人が集まり、また校内の様子も、吹奏楽応援に積極的な意見が多く聞こえるようになった。日本人はみんなと同じ方向に向くことで安心感を得る民族だけれど、そこに乗らない手はないとばかりに、全校での応援練習にも熱が入っていった。
 次はなんの曲で誰の応援をする、というボードも生徒会と湯川が作ってくれ、最悪佑次の汚い字で筆書きかと思われたそれも、いつの間にか回避されていて、心底ほっとした。
 野外用に譲り受けた楽器も揃い、吹部はメンテナンスや調整に忙しい。
 七月に入ってすぐに綿貫先生も退院し、吹奏楽応援一色に様変わりした学校に足を踏み入れるなり教職員や生徒たちに大きな花束とともに「おかえりなさい」と迎え入れられた先生は、感極まって涙をこぼしながら何度も何度も「ただいま」と繰り返して笑った。

 *

 そうして七月某日――。
 厳正なる抽選結果を受けて、二回戦、県営球場での第一試合という幸運を引き当てた北高野球部は、一回戦を見事に勝ち抜き、テレビ中継枠での試合に臨んでいる。もちろん応援する佑次たちも、全県に〝バンカラだけじゃない北高〟を初披露するべく、気持ちよすぎるほどに晴れ渡った夏空のもと、楽器を鳴らし、声の限りに応援を続けていた。
 試合は七回裏の北高の攻撃、一点のビハインド。対戦校は、佐々木曰く、毎年いいところまで勝ち進んでくる手強い相手だという山田西高校だ。後攻なので精神的にはいくらか余裕が持てるかもしれないが、序盤に三点、二点と点を取り合ったあとは、両チームともスコアボードに綺麗に0が並んでいる。
 山田西も中盤以降はバットが沈黙しているが、北高も打てていないのだ。このままリードを守られては敵わないと、アルプス席で応援する佑次たち北高生も、楽器の演奏に負けじと声の限りに応援歌を大熱唱する。
 七回裏の初めのバッターは、打順がちょうど前の回で一巡していたので一番の佐々木からだ。会長のひらりの提案どおり、バンカラ応援と吹奏楽応援を交互に繰り返すことにした七回の攻撃は、回が九回あるのに対して応援パターンが二つのために割り切れないことと、ラッキーセブンにあやかり、全バッターとも応援歌第一を吹奏楽の演奏付きで熱唱することに決まっていた。
 ヒットが出れば出塁時の音楽にすぐさまスイッチするが、あとはずっと応援歌第一を熱唱とともに繰り返すのだ。よその高校では七回の攻撃時に水色のビニール傘を広げて〝傘踊り〟なるもので選手を盛り立てるところもある。それくらい、どこの学校でも七回の攻撃はなにかを予感させるにはうってつけの回となっているようだ。
 アルプス席に広がる北高の大応援団と向かい合い、腹の底から声を絞り出しながら、佑次はもう何度となく見回した観戦席を再度、大きくぐるりと見回す。
 佑次の向かって左側には、太陽の光に楽器をギラギラと反射させながら応援歌を吹く吹奏楽部の姿とともに、楽器調達のために尽力してくれた三浦先生が指揮棒を振っている。そこから全体を見渡すように視線を右にスライドさせていけば、一年から三年まで綺麗に整列した生徒たちが応援歌を歌いながら一心にグラウンドを見つめている姿がある。
 その中にひらりの姿があった。景吾の姿があった。湯川の姿も見える。なずな、中島、小田島も、指揮を見つつ、やはり試合の様子も気になるようでグラウンドを気にしながら楽器を演奏していて、その顔は真剣そのものだ。
 通路に高さ一メートルほどの台を三つ並べて応援の指揮を執る応援団側も、湯川たちが作ってくれたボードを高く掲げたり、一番上の通路で夏の熱風に吹かれてたなびく校旗を支えたりと、それぞれに役をこなしてくれている。
 佐々木がフォアボールで出塁し、続く二番バッター。
「……っ」
 その途中、佑次はふと、万感の思いにとらわれ声を詰まらせてしまった。
 なんとか立て直そうとするが、今までどうにかして堰き止めていたものが一気に溢れ出してしまい、なかなか声が出てこない。涙と汗が一緒くたになったものが、とめどなく佑次の頬を伝い落ちていくのだ。ついには腕で顔を隠して、ひとり咽び泣いてしまうほどに、涙は止まらない。
 代々受け継がれてきたボロボロの学ランと学生帽、足元の下駄。それは北高の応援のシンボルで、創立以来、何千、何万という数の卒業生たちがずっと守り抜いてきたものだ。でも、一番に守り抜かなければいけないのは、北高生であることの誇りなのだと佑次は思う。
 どんなに時代や状況が変わっても、応援の形が新しくなっても、その魂と誇りさえ自分たちの胸にしっかりと火を灯していれば、なんだってできる。やってやれないことはないんだと、応援歌の大熱唱を聞きながら、この三ヵ月間が走馬灯のように脳裏をよぎるのだ。
 バンカラ応援を守り抜いてきた北高に吹奏楽を取り入れたことが、のちのち、どういう評価を受けるのかは、わからない。それでも佑次は、今しかできないことに全力で打ち込んだこの三ヵ月間にひとつも悔いはなかった。
〝俺が見てみたいから〟という理由に賛成してくれたみんな、知らず知らずのうちに影でサポートしてくれた先生たち、校長、教頭の理解や、実際に吹奏楽応援を実現してくれたたくさんの生徒たちに、感謝の思いが止まらない。
「おいおい、泣くのはまだ早えぞ、佑次!」
 どこからか野次が飛ぶ。たぶん景吾の声だ。心の中でうっせー! と反論しながら、ボロボロの学生服の袖で涙をこする。顔を上げると、応援席の景吾も少し泣いているようだ。なんだよ、お前もじゃねーか、と苦笑し、再び応援歌を歌いだす。
 応援歌の大熱唱に後押しされているのか、試合はノーアウト一、二塁。確実に一点を狙いにいくならバントが定石だが、フォアボールに続いてヒットで出塁していた。
 三番バッターが打席に入る。変わらず応援歌を歌い叫びながら、ふと、そういえばノンフレームに名前を呼ばれたのはこれが初めてかもしれないと佑次は思った。いつも浅石やお前と呼ばれていたが、ちゃんと名前を知っていたんだなと思うと、なんだかおかしい。
 その近くでは、ひらりが呆れ顔で笑っていた。ひらりと景吾は、そろそろ付き合いはじめてもいい頃なんじゃないかと佑次には思えるのだが、果たしてどうだろうか。景吾のほうは同じ男なのでなんとなく察せるものがあるが、ひらりのほうはわからないので、頑張ってくれとしか言いようがないのがつらい。
 そして彼女は、なずなと話していると、なぜか佑次に向けて非難がましい、じっとりとした目を向けてくるのだ。……なにもしていないというのになぜだろう? 女心は謎であるのと同時に、理解不能である。
 気になり、ちらりとそのなずなを盗み見る。一心にトランペットを吹いている彼女は、こちらに気づく様子もなく、全力で音を飛ばしていた。中古の楽器だが、丁寧に手入れされていたらしいそれは夏空を真っ二つに割いてどこまでも高く真っ直ぐに響いていくような、そんな力強い音がする。
 彼女は俺になにか言いたいことがあるんだろうか。ふと思うが、今は応援に集中しようと気持ちを切り替え、腹の底から声を出す。
 残念ながら三番バッターはゴロでアウトになってしまったが、応援歌の熱唱は小さくなるどころか、ますます大きなひとつの音となって球場全体に響き渡る。続く四番バッターが打席に入ると、その音の塊は観戦席の床をぶち抜くんじゃないかと思うほどに大きなうねりとなってバッターに注がれた。
 ワンアウト、一、二塁で打者は四番だ。なにかを起こしてくれるんじゃないかという期待と祈りが、北高の応援席を熱く熱く包んでいく。
 そしてそれは、そのとおりの結果を生む。
 応援の最中でもバットの芯でボールを捉えた快音が佑次の耳に届き、はっと振り向いたときには、白球はセンターを抜けて超ロングヒットになっていた。山田西高校が返球している間に走者は一掃され、北高に一挙三点が追加される。応援席は湧きに湧き、よりいっそう音の塊はひとつとなって球場全体を怒涛の如く揺るがす。
「……そうだよ、これが見たかったんだよ、俺は」
 佑次の目に再び涙の膜が張る。
 最高にクレイジーな時間を学校中のみんなと共有したい――その我儘で勝手すぎる願望に今この瞬間も付き合ってくれている北高のひとりひとりがいなかったら、こんな光景はきっと一生目にすることはできなかった。
「みんな、ありがとう」
 ひとりひとりの顔を目に焼き付けておきたいと思うのに、涙が邪魔をして視界が安定しなくて困る。喉の奥をひくつかせながら、ようやく絞り出したその声も、すでに掠れきってしまっていて、この音の塊の中ではきっと誰の耳にも届いていないだろう。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……」
 それでも佑次は、そう言わずにはいられなかった。まだ試合は終わっていないのに、二回戦なのに、決勝で勝ったわけでもないのに、気持ちが溢れて仕方がないのだ。
 さらにもう一点追加し、六―三とした七回裏の北高の攻撃が終わり、応援は山田西高校に移る。佑次は太陽の熱で熱くなった足元のスポーツドリンクをがぶりと飲むと、グラウンドに体を向けて抜けるような夏の青空に目をすがめた。
 これからどんな未来が待っているかは、わからない。自分になにができるのかも、どんなことに向いていて、なにができるのかもまだわからない。学生という庇護の下から世界に出ても、ちゃんとやっていけるのかどうかさえわからなくて、今から卒業が怖い。
 でも、胸を張って断言できるものが確かにある。
 これが俺の青春のすべてであると。これが青春の筆頭に上ることは間違いないと。
「おっしゃぁぁっ‼」
 八回表の山田西高校の攻撃を三者凡退で抑えた北高ナインが、グラウンドから全速力で駆け戻ってくる。裏の北高の攻撃は、伝統に則りバンカラ応援だ。
「校歌よーい!」
 体を反転させ、席に座って一時休憩を取っていた生徒たちに起立を促す。吹奏楽部もバンカラ応援のときは楽器を置いてほかの生徒と一緒に声の限りに歌う。
 呼びかけるまでもなく、すでに全員が立ち上がり合図を待つ壮観なる光景を目に捉えながら、佑次は肩に掛けていた応援旗を勢いよく振り下ろした。


【終】
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