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■第二話 人にはいくつも顔がある
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それから一週間ほどして、夏芽から『今週末に彼と会うことになりました』と連絡が入った。今日は週の後半、木曜日。ちょうど昼休みの時間帯だった。
なんでも三好は、先週するはずだったデートを原稿の急な直しが入ったとかでドタキャンしたそうだ。それが落ち着いた今週末、埋め合わせにとデートに誘ってくれたらしい。
直接電話で連絡を受けたのだが、夏芽の声は、弾んだ声の隙間、隙間に、不安に思う気持ちもちらほらと見え隠れしているような、少しちぐはぐな声色だった。会えることになって嬉しい反面、いよいよかと緊張しているのだろう。とりわけこちらは、わざわざ探偵を雇って三好の身の回りを調べさせている。〝好きだからこそ、相手のことをきちんと知りたい〟という純粋な気持ちから起こした行動とはいえ、やはり後ろめたさもある。
そんな夏芽に蓮実は、探偵は初めてだって言うし無理もないと思いつつ、
「今までの依頼主のみなさんは、デートがはじまってしばらくもすると、探偵が近くにいることなんてすっかり忘れちゃいますから。普通にしようと思うと、かえって普通じゃなくなってしまうものなんです。思いっきりデートを楽しむのが一番ですよ」
電話口でそう言い、フォローを入れた。
病は気から、とはよく言うが、本当にそうだと思う。要は気の持ちようなのだ。
少し極端かもしれないけれど、私は正当な理由で身辺調査を頼んでいるんだから、と開き直ればいいと思う。年齢のこともあるだろうが、結婚するなら大介君しかいないと思っていると、きっぱり言うくらいだ。それだけ三好大介に本気だということなのだから、それを逆手に取るではないけれど、彼女のほうは堂々としていればいいと思う。
『……そうですよね。先週するはずだったデートは、実は約一ヵ月半ぶりだったんです。せっかく大介君に会えるんだから、めいいっぱい楽しまなきゃ損ですよね』
夏芽の声にはまだ若干、迷いがあったが、蓮実のフォローに後押しされ、電話を切るときには久しぶりのデートを楽しみにしている比重のほうが大きいようだった。
夏芽は、都内の不動産会社で営業事務をしているそうだ。書類の作成や資料をまとめたり取引先や顧客にアポイントを取ったりと、営業担当のフォロー役といった感じらしい。
バンバン契約を取ってきたり昇進を目指したりしているようなバリバリのキャリアウーマンではないそうだけれど、蓮実には十分、夏芽もそう見える。だってこっちは探偵だ。職業を尋ねられれば無難に「事務員です」と答えてはいるけれど、内心では、どこに張り込みや尾行をする事務員がいるんだと思ったりしなくもない。……まあ、なんだかんだ、この仕事にやりがいも持っているし、好きだから別に構わないけれど。
「所長。田丸さんのデート、今週末だそうです。尾行しますね」
電話を切ると、一抹の羨ましさを覚えながらレトルトカレーを昼食にしている谷々越に言う。基本的に谷々越は通販で食料を調達しているため、たまのランチ外出以外はレトルト食品に頼っているところが多い。最近では蓮実も、そんな谷々越の健康を気遣って果物や野菜を持ってきたりもする(もちろん経費で落としてもらっている)が、やはり以前から抱いていた、極力外出させないことへの後ろめたさはまだ完全には払拭できていない。
簡単でいいならサラダとスープでも作ってあげようか、私の健康も兼ねられるし、と思いつつ谷々越の反応を窺うと、スプーンを口に咥えたまま物憂げな目をされた。
「……連れて行きませんからね、所長は」
「なな、なんで?」
「だってまだ特定できてないじゃないですか、三好さんの作品」
言うと谷々越はぐっと押し黙った。痛いところを突かれたらしい。
と言うのも、知り合いの探偵に声をかけて情報を集めているが、作家自身が公表していないだけで実は合作で作品を発表している作家も多いらしいのだ。出版社の数も多いし、それに加えてやはり一番のネックは個人情報の取り扱いが徹底されていることだという。
デビューした時期や作品のジャンルによって多少絞り込むことはできるものの、その作者がひとりで作品を書いているか、それとも複数人で合作しているかは、出版社と担当編集者のみが知ることだ。警察でもない限り、その情報を知り得ることはひどく難しい。
編集者を囲い込むのが手っ取り早いけれど、そうするにはやはり、ある程度、出版社を絞り込む必要がある。編集者に個人情報を話してもらうにしても、こちらが探偵であることは絶対にバレてはならない。肉体関係も、もちろんご法度だ。要するに親密になるには時間がかかるのだ。蓮実と谷々越だけでは、一体どれだけ夏芽を待たせることになるだろうか。
こと夏芽から受けた依頼は、三好大介の職業が本当に作家かどうかという身辺調査。作家なら、どれくらい名前が売れているか――つまりきちんと休めているかどうかだ。
嬉しい悲鳴だけれど、体を壊してしまったら元も子もない。連載やシリーズものを抱えているのだとしたら、休載になったり発売時期が伸び伸びになってしまう。
知名度がなければ作品は売れないし執筆依頼も来ない。知名度があっても、コケたり飽きられたり新しい作品を生み出せなかったりすれば、すぐに消えてしまう。作家の世界のことはよく知らないけれど、デビューして三年後には半分、五年後にはほんの一握りの作家しか残らない、なんて話もあるくらいだから、相当シビアな世界であることは想像がつく。息が長く、かつ安定して面白い作品を生み出し続けられる技術や筆力やアイデアがなければ、たとえ情熱だけは誰にも負けないものを持っていたとしても、出版社からも読者からも簡単に忘れ去られてしまうのだろう。だから三好は、そうならないために体を酷使している。
夏芽はそれを心配しているのだ。彼女の心配はむしろ、もしそうなったときに三好大介がどうなるか、支えきれるかといったところに重きが置かれているのかもしれない。
彼女は大学卒業後、新卒で入社して勤続七年。それなりに貯金もあるし、仕事をやめるつもりもないという。とても堅実な人なのだ。もしそうなったら支えるのは自分の役目だと思っているそうなので、生活は保たれるだろうけれど、体を壊してしまった三好自身のフォローや、作家としての再起をどう支えていったらいいのだろうか――と。
相手の収入で結婚するかどうかを決めるような人には見えないだけに、彼女はこの身辺調査で、なにかしらの覚悟を決めるつもりなのかもしれない。
であれば、できるだけ早く結果を出したほうがいいだろうと思う。結婚に踏み切るにしても、なかったことにするにしても、あまり長い時間、やきもきさせたくはない。
「……あれ、ていうか、紙の書籍なんですかね、三好さんと相棒さんが書いてる作品って」
するとふと、蓮実の頭にそもそもの疑問が浮かんだ。
「ど、どういうこと?」
「ほら、電子書籍ですよ。普通に紙書籍で本を出していると思ってましたけど、コミックだけじゃなく、小説も電子で買うって人もけっこう多いと思うんですよ。置き場所にも困りませんし、暗くても読めます。持ち歩くときもスマホやタブレットひとつでどこでも読めますから便利なんですよ、これが。電子だけでしか販売されない、電子レーベルもあるじゃないですか。そっちの方面も調べてみる価値はあるかもしれないですよね」
目をしばたたく谷々越に自分のスマホを見せながら説明する。アプリを開くと「ほら、こういうのが電子で買えるんですよ」と、コミックスの電子版や紙書籍の電子版、電子レーベルでしか販売されていない作品をつらつらと指でスクロールして見せる。
「へえ。すごいな、スマホで読めるなんて」
「え、インスタはやってるくせに電子書籍は知らなかったんですか?」
素直に感嘆のため息を漏らす谷々越に、ついインスタを引き合いに出してしまった。一瞬にして谷々越の顔はこの上なく切ないものに変わったが、けれどSNSは頻繁にやるのに電子書籍のことは知らなかったなんて、なかなかどうして思えなかった。
「う、うん。僕は漫画も小説も紙派なんだよね。本を手に持ってるっていう質量や感覚や、ページをめくる感触や紙の匂い、それに文字の装丁も出版社ごとだったりレーベルごとに違うから。そういうのが僕は楽しみなんだよ。外に出ないと、仕事以外はネットをするか本を読むかくらいしか、することもないし。だったら僕は紙で本を読みたいんだ」
すると谷々越はそう言う。
「ブックライトがあれば不自由はしないし、例えば、あのとき読んだあの本のあの場面が読みたい、って唐突に思ったりしたときにも、確かここら辺だったかなってパラパラとページをめくってるうちに感覚で思い出したりできるんだ。なにより〝作品〟として手に取ることができるんだよ。もちろん電子書籍もそうだし、電子には電子にしかない便利さがあるけど、紙の本にも紙の本にしかない味があると思う。何百回って読み返した本は、そのぶんボロボロになっちゃうけど、そうすることでしか出てこない深みが生まれるし」
そして続けてそうも言い、そちらに本棚があるのだろう、寝室に使っている部屋のほうへ視線を向けた。ここは雑居ビルが立ち並ぶビルの一室だ。事務所に使っているのはメインフロアで、トイレにバスルーム、洗面台や簡単なキッチンスペースが出入り口のドアを入って左側に備え付けられてある。メインフロアを挟んで右側の奥にもう一部屋ある造りだ。そこに谷々越は住んでいる――というか、蓮実の懇願で住まわされている。
谷々越のプライベートスペースに入ったことはないし、今までさしたる興味もなかったけれど、その眼差しは穏やかで、とても温かだ。一瞬、外出を制限する自分への当てつけかとも思ったけれど、眼差しを見ればすぐにそうじゃないことがわかる。
喋り出しがどもるだけで、一度喋りはじめたらスラスラと言葉が出てきたことに、谷々越の紙の本に対する熱量の大きさを存分に見せられた気分だった。谷々越は本当に紙の本が好きなのだ。穏やかで温かな眼差しからは、本へのこだわりとともに、本をこよなく愛し、一冊一冊を大切に扱っていることがとてもよく感じられた。
「へえ。でも、そう言われれば、そうですよね。電子版の小説だと、字体はだいたい統一されちゃいますし、そうなると出版社やレーベルのこだわりも薄れちゃうような気がします」
蓮実が素直に感心すると、谷々越は「うん」と嬉しそうに顔をほころばせた。
便利だ、手軽だと電子書籍で本なりコミックなりを読んでいるけれど、そういう楽しみ方があるなら、書店に行って実際に本を手に取ってみようかなと蓮実は思う。貸し借りができるのも紙書籍ならではの醍醐味だ。電子だったら、なかなかそうはいかない。
「あ、ごご、ごめん。話が脱線しちゃったね。――ええと、電子レーベルで作品を出しているかどうかも調べたほうがよさそうって話だったよね。うん、それなら紙書籍で見つからないに決まってる。紙書籍と並行して電子も手分けして調べてみようか」
「そうですね。そうしましょう……」
そうして蓮実たちは、紙書籍から範囲を広げ、電子レーベルも視野に入れて三好大介と、彼と合作で書いているという相棒の作品を探していくことにした。蓮実自身の健康も兼ねて、追加でサラダと、玉ねぎと人参、キャベツの簡単なトマトスープを作ってふたりでそれを食べると、午後一からはさっそくその作業に取りかかることにする。
しかし作業中、蓮実はだいぶ遅れて、本の貸し借りも――と普通に考えた自分に気づいて内心で驚きを隠せなかった。紙の書籍にそんな楽しみ方もあるんだなと感銘を受けたまではよかった。けれど、そこから当たり前のように貸し借りまで考えた自分の思考回路になかなか付いていけないのだ。だって所長だよ、と蓮実はパソコンに隠れて頭を振る。
外に出れば高確率でややこしいことに巻き込まれるし、コミュ障だし、かと思えばひとりもフォロワーがいないのにインスタ映えする写真を撮って上げ続けるような鋼の心の持ち主だ。見た目も変わり者っぽいし、こんなにわけのわからない人なのに、と。
散々な言いようだが、これが蓮実の知る谷々越のだいたいの姿だから仕方がない。おまけに入るのに躊躇するような店ばかりを選んでランチ外出だ。この依頼が終わったら一体どんな店に行きたいと言われるのかと思うと、今からけっこうだいぶ恐怖かもしれない。
「――さ、仕事、仕事」
それらの雑念を振り払うように、蓮実は姿勢を正してパソコンに向き直る。三好大介と相棒の作家名や作品名を調べることも重要だけれど、報告書や見積もりの作成、経理などの細々としたデスクワークも蓮実の仕事だ。三好大介に動きがなかったので、この一週間はデスクワーク中心だったものの、それでもやはりそれなりの仕事量は常にある。
「なな、なにか言った? 蓮実ちゃん」
「あ、いえ。なにも」
零した呟きを拾われ、蓮実はパソコンから顔を上げて笑顔を作った。それからすぐにまたパソコンに向き直る蓮実に谷々越は少し不思議そうに首をかしげたが、大したことではないと思い直したようで、少しするとカチカチとまたマウスをクリックする音がした。
なんでも三好は、先週するはずだったデートを原稿の急な直しが入ったとかでドタキャンしたそうだ。それが落ち着いた今週末、埋め合わせにとデートに誘ってくれたらしい。
直接電話で連絡を受けたのだが、夏芽の声は、弾んだ声の隙間、隙間に、不安に思う気持ちもちらほらと見え隠れしているような、少しちぐはぐな声色だった。会えることになって嬉しい反面、いよいよかと緊張しているのだろう。とりわけこちらは、わざわざ探偵を雇って三好の身の回りを調べさせている。〝好きだからこそ、相手のことをきちんと知りたい〟という純粋な気持ちから起こした行動とはいえ、やはり後ろめたさもある。
そんな夏芽に蓮実は、探偵は初めてだって言うし無理もないと思いつつ、
「今までの依頼主のみなさんは、デートがはじまってしばらくもすると、探偵が近くにいることなんてすっかり忘れちゃいますから。普通にしようと思うと、かえって普通じゃなくなってしまうものなんです。思いっきりデートを楽しむのが一番ですよ」
電話口でそう言い、フォローを入れた。
病は気から、とはよく言うが、本当にそうだと思う。要は気の持ちようなのだ。
少し極端かもしれないけれど、私は正当な理由で身辺調査を頼んでいるんだから、と開き直ればいいと思う。年齢のこともあるだろうが、結婚するなら大介君しかいないと思っていると、きっぱり言うくらいだ。それだけ三好大介に本気だということなのだから、それを逆手に取るではないけれど、彼女のほうは堂々としていればいいと思う。
『……そうですよね。先週するはずだったデートは、実は約一ヵ月半ぶりだったんです。せっかく大介君に会えるんだから、めいいっぱい楽しまなきゃ損ですよね』
夏芽の声にはまだ若干、迷いがあったが、蓮実のフォローに後押しされ、電話を切るときには久しぶりのデートを楽しみにしている比重のほうが大きいようだった。
夏芽は、都内の不動産会社で営業事務をしているそうだ。書類の作成や資料をまとめたり取引先や顧客にアポイントを取ったりと、営業担当のフォロー役といった感じらしい。
バンバン契約を取ってきたり昇進を目指したりしているようなバリバリのキャリアウーマンではないそうだけれど、蓮実には十分、夏芽もそう見える。だってこっちは探偵だ。職業を尋ねられれば無難に「事務員です」と答えてはいるけれど、内心では、どこに張り込みや尾行をする事務員がいるんだと思ったりしなくもない。……まあ、なんだかんだ、この仕事にやりがいも持っているし、好きだから別に構わないけれど。
「所長。田丸さんのデート、今週末だそうです。尾行しますね」
電話を切ると、一抹の羨ましさを覚えながらレトルトカレーを昼食にしている谷々越に言う。基本的に谷々越は通販で食料を調達しているため、たまのランチ外出以外はレトルト食品に頼っているところが多い。最近では蓮実も、そんな谷々越の健康を気遣って果物や野菜を持ってきたりもする(もちろん経費で落としてもらっている)が、やはり以前から抱いていた、極力外出させないことへの後ろめたさはまだ完全には払拭できていない。
簡単でいいならサラダとスープでも作ってあげようか、私の健康も兼ねられるし、と思いつつ谷々越の反応を窺うと、スプーンを口に咥えたまま物憂げな目をされた。
「……連れて行きませんからね、所長は」
「なな、なんで?」
「だってまだ特定できてないじゃないですか、三好さんの作品」
言うと谷々越はぐっと押し黙った。痛いところを突かれたらしい。
と言うのも、知り合いの探偵に声をかけて情報を集めているが、作家自身が公表していないだけで実は合作で作品を発表している作家も多いらしいのだ。出版社の数も多いし、それに加えてやはり一番のネックは個人情報の取り扱いが徹底されていることだという。
デビューした時期や作品のジャンルによって多少絞り込むことはできるものの、その作者がひとりで作品を書いているか、それとも複数人で合作しているかは、出版社と担当編集者のみが知ることだ。警察でもない限り、その情報を知り得ることはひどく難しい。
編集者を囲い込むのが手っ取り早いけれど、そうするにはやはり、ある程度、出版社を絞り込む必要がある。編集者に個人情報を話してもらうにしても、こちらが探偵であることは絶対にバレてはならない。肉体関係も、もちろんご法度だ。要するに親密になるには時間がかかるのだ。蓮実と谷々越だけでは、一体どれだけ夏芽を待たせることになるだろうか。
こと夏芽から受けた依頼は、三好大介の職業が本当に作家かどうかという身辺調査。作家なら、どれくらい名前が売れているか――つまりきちんと休めているかどうかだ。
嬉しい悲鳴だけれど、体を壊してしまったら元も子もない。連載やシリーズものを抱えているのだとしたら、休載になったり発売時期が伸び伸びになってしまう。
知名度がなければ作品は売れないし執筆依頼も来ない。知名度があっても、コケたり飽きられたり新しい作品を生み出せなかったりすれば、すぐに消えてしまう。作家の世界のことはよく知らないけれど、デビューして三年後には半分、五年後にはほんの一握りの作家しか残らない、なんて話もあるくらいだから、相当シビアな世界であることは想像がつく。息が長く、かつ安定して面白い作品を生み出し続けられる技術や筆力やアイデアがなければ、たとえ情熱だけは誰にも負けないものを持っていたとしても、出版社からも読者からも簡単に忘れ去られてしまうのだろう。だから三好は、そうならないために体を酷使している。
夏芽はそれを心配しているのだ。彼女の心配はむしろ、もしそうなったときに三好大介がどうなるか、支えきれるかといったところに重きが置かれているのかもしれない。
彼女は大学卒業後、新卒で入社して勤続七年。それなりに貯金もあるし、仕事をやめるつもりもないという。とても堅実な人なのだ。もしそうなったら支えるのは自分の役目だと思っているそうなので、生活は保たれるだろうけれど、体を壊してしまった三好自身のフォローや、作家としての再起をどう支えていったらいいのだろうか――と。
相手の収入で結婚するかどうかを決めるような人には見えないだけに、彼女はこの身辺調査で、なにかしらの覚悟を決めるつもりなのかもしれない。
であれば、できるだけ早く結果を出したほうがいいだろうと思う。結婚に踏み切るにしても、なかったことにするにしても、あまり長い時間、やきもきさせたくはない。
「……あれ、ていうか、紙の書籍なんですかね、三好さんと相棒さんが書いてる作品って」
するとふと、蓮実の頭にそもそもの疑問が浮かんだ。
「ど、どういうこと?」
「ほら、電子書籍ですよ。普通に紙書籍で本を出していると思ってましたけど、コミックだけじゃなく、小説も電子で買うって人もけっこう多いと思うんですよ。置き場所にも困りませんし、暗くても読めます。持ち歩くときもスマホやタブレットひとつでどこでも読めますから便利なんですよ、これが。電子だけでしか販売されない、電子レーベルもあるじゃないですか。そっちの方面も調べてみる価値はあるかもしれないですよね」
目をしばたたく谷々越に自分のスマホを見せながら説明する。アプリを開くと「ほら、こういうのが電子で買えるんですよ」と、コミックスの電子版や紙書籍の電子版、電子レーベルでしか販売されていない作品をつらつらと指でスクロールして見せる。
「へえ。すごいな、スマホで読めるなんて」
「え、インスタはやってるくせに電子書籍は知らなかったんですか?」
素直に感嘆のため息を漏らす谷々越に、ついインスタを引き合いに出してしまった。一瞬にして谷々越の顔はこの上なく切ないものに変わったが、けれどSNSは頻繁にやるのに電子書籍のことは知らなかったなんて、なかなかどうして思えなかった。
「う、うん。僕は漫画も小説も紙派なんだよね。本を手に持ってるっていう質量や感覚や、ページをめくる感触や紙の匂い、それに文字の装丁も出版社ごとだったりレーベルごとに違うから。そういうのが僕は楽しみなんだよ。外に出ないと、仕事以外はネットをするか本を読むかくらいしか、することもないし。だったら僕は紙で本を読みたいんだ」
すると谷々越はそう言う。
「ブックライトがあれば不自由はしないし、例えば、あのとき読んだあの本のあの場面が読みたい、って唐突に思ったりしたときにも、確かここら辺だったかなってパラパラとページをめくってるうちに感覚で思い出したりできるんだ。なにより〝作品〟として手に取ることができるんだよ。もちろん電子書籍もそうだし、電子には電子にしかない便利さがあるけど、紙の本にも紙の本にしかない味があると思う。何百回って読み返した本は、そのぶんボロボロになっちゃうけど、そうすることでしか出てこない深みが生まれるし」
そして続けてそうも言い、そちらに本棚があるのだろう、寝室に使っている部屋のほうへ視線を向けた。ここは雑居ビルが立ち並ぶビルの一室だ。事務所に使っているのはメインフロアで、トイレにバスルーム、洗面台や簡単なキッチンスペースが出入り口のドアを入って左側に備え付けられてある。メインフロアを挟んで右側の奥にもう一部屋ある造りだ。そこに谷々越は住んでいる――というか、蓮実の懇願で住まわされている。
谷々越のプライベートスペースに入ったことはないし、今までさしたる興味もなかったけれど、その眼差しは穏やかで、とても温かだ。一瞬、外出を制限する自分への当てつけかとも思ったけれど、眼差しを見ればすぐにそうじゃないことがわかる。
喋り出しがどもるだけで、一度喋りはじめたらスラスラと言葉が出てきたことに、谷々越の紙の本に対する熱量の大きさを存分に見せられた気分だった。谷々越は本当に紙の本が好きなのだ。穏やかで温かな眼差しからは、本へのこだわりとともに、本をこよなく愛し、一冊一冊を大切に扱っていることがとてもよく感じられた。
「へえ。でも、そう言われれば、そうですよね。電子版の小説だと、字体はだいたい統一されちゃいますし、そうなると出版社やレーベルのこだわりも薄れちゃうような気がします」
蓮実が素直に感心すると、谷々越は「うん」と嬉しそうに顔をほころばせた。
便利だ、手軽だと電子書籍で本なりコミックなりを読んでいるけれど、そういう楽しみ方があるなら、書店に行って実際に本を手に取ってみようかなと蓮実は思う。貸し借りができるのも紙書籍ならではの醍醐味だ。電子だったら、なかなかそうはいかない。
「あ、ごご、ごめん。話が脱線しちゃったね。――ええと、電子レーベルで作品を出しているかどうかも調べたほうがよさそうって話だったよね。うん、それなら紙書籍で見つからないに決まってる。紙書籍と並行して電子も手分けして調べてみようか」
「そうですね。そうしましょう……」
そうして蓮実たちは、紙書籍から範囲を広げ、電子レーベルも視野に入れて三好大介と、彼と合作で書いているという相棒の作品を探していくことにした。蓮実自身の健康も兼ねて、追加でサラダと、玉ねぎと人参、キャベツの簡単なトマトスープを作ってふたりでそれを食べると、午後一からはさっそくその作業に取りかかることにする。
しかし作業中、蓮実はだいぶ遅れて、本の貸し借りも――と普通に考えた自分に気づいて内心で驚きを隠せなかった。紙の書籍にそんな楽しみ方もあるんだなと感銘を受けたまではよかった。けれど、そこから当たり前のように貸し借りまで考えた自分の思考回路になかなか付いていけないのだ。だって所長だよ、と蓮実はパソコンに隠れて頭を振る。
外に出れば高確率でややこしいことに巻き込まれるし、コミュ障だし、かと思えばひとりもフォロワーがいないのにインスタ映えする写真を撮って上げ続けるような鋼の心の持ち主だ。見た目も変わり者っぽいし、こんなにわけのわからない人なのに、と。
散々な言いようだが、これが蓮実の知る谷々越のだいたいの姿だから仕方がない。おまけに入るのに躊躇するような店ばかりを選んでランチ外出だ。この依頼が終わったら一体どんな店に行きたいと言われるのかと思うと、今からけっこうだいぶ恐怖かもしれない。
「――さ、仕事、仕事」
それらの雑念を振り払うように、蓮実は姿勢を正してパソコンに向き直る。三好大介と相棒の作家名や作品名を調べることも重要だけれど、報告書や見積もりの作成、経理などの細々としたデスクワークも蓮実の仕事だ。三好大介に動きがなかったので、この一週間はデスクワーク中心だったものの、それでもやはりそれなりの仕事量は常にある。
「なな、なにか言った? 蓮実ちゃん」
「あ、いえ。なにも」
零した呟きを拾われ、蓮実はパソコンから顔を上げて笑顔を作った。それからすぐにまたパソコンに向き直る蓮実に谷々越は少し不思議そうに首をかしげたが、大したことではないと思い直したようで、少しするとカチカチとまたマウスをクリックする音がした。
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