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■第二話 人にはいくつも顔がある
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それから二日。
やはり一週間そこそこでは、これだ! と思える作家も作品も見つからず、蓮実はパソコンと向き合いすぎてカラカラに渇いた目をしょぼしょぼさせながら、待ち合わせ場所だという新宿に来ていた。時刻は午前十時ちょっと過ぎ。今日はこれから新宿御苑に行き、適当にランチを食べたあとは、夕方には別れるらしい。仕事は落ち着いたものの、やはりまだ細かい作業が残っているのだそうだ。気心の知れた仲とはいえ、自分がいないとどうにも進まない仕事もあるから、と三好大介は電話口でしきりに夏芽に謝ったそうだ。
さしずめ今の蓮実は、言わなくても顔を見ればわかる、といった状態だろうか。なにはともあれ、酷使しすぎた目に植物の緑や花の色といった自然の色はありがたい。
そうして東京メトロ丸ノ内線新宿御苑駅前の出口で張り込むこと十数分。
先に来て待っていた夏芽より少し遅れてやってきた三好大介は、三十二歳という年齢通りカジュアルな中に落ち着いた雰囲気も含ませていて、むしろ服にはあまり頓着しないほうなのか、若干の野暮ったさも覗かせるような、そんな格好でやって来た。
一緒に撮った写真で顔は頭に入っていたが、実際にこの目で見ると思っていたよりずっと背が高く、ひょろひょろっとした痩身の男性だった。野暮ったく見えるのは、たぶん写真ではわからなかったが猫背がわりとひどいからだと思う。天然パーマなのだろう、もっさりとした頭をしているのも、そうかもしれない。整えれば天パは武器になるだろうけれど、残念ながら三好大介は伸ばしっぱなしでこうなりました、的な印象が強かった。
ただ、遠目からでも夏芽に向けられる瞳が本当に優しい色をしていることはわかった。その瞳を一身に注がれる夏芽もまた、幸せそうに目尻を下げて笑っていた。
ただ、常に寝不足気味だというのは本当のようだった。ふらつくことはないものの、何度も目を擦ったり、ぎゅっとつぶって開けたりと、眠気を追い払う仕草が多い。
夏芽がそれを心配しながら、やがてふたりは新宿御苑のほうへゆっくりと歩きだす。蓮実は週末で三割増しほどになった人混みに紛れて見失ってしまわないよう、土曜日の休日にひとりで外出しているОL風を装いつつも注意深くふたりのあとを追っていった。
のだけれど。
「ひとりでも平気かと思ったけど、これじゃあ、かえって変に目立つかも……」
入園料を支払い、いざ新宿御苑内を散策しはじめたはいいものの、週末だけあって、なかなかどうして家族連れやカップルが多い。ひとり者の蓮実は早々に浮いてしまった。
中にはひとりで来ている人もいることにはいる。けれど、ここはアニメ映画で印象的なシーンのひとつに取り上げられた、いわば聖地だ。立派なカメラを提げて写真を撮っている人がほとんどで、そういう人は独特の雰囲気を放っている。同じ〝ひとり〟でも、目的がはっきりしているぶん蓮実とは根本から毛色が違っているので、思いのほか浮かないのだ。
「所長にも付いてきてもらえばよかったかな……」
事前に聞いていたデートプランに合わせて、いつものパンツスーツから街中でも目立たず浮かずの〝普通〟を意識した服を選んで着て来たけれど、どうやらそれが仇となってしまったようだ。堂々とすればいいのだろうが、こういうところで蓮実は気が小さかった。
――と。
「もしかして、ひとり? せっかくのデートをすっぽかされたとか」
「ひゃあっ⁉」
ふいに肩越しに声をかけられ、蓮実は悲鳴とともに飛び上がった。振り返りざまに身構えれば、けれどその顔には見覚えがあり、蓮実は「は……」と口から空気を漏らす。
「なんだ、菖吾じゃん……。びっくりさせないでよもう……」
本当に心臓が口から飛び出るか、驚きすぎたショックで止まってしまうかと思った。まったく、どうしてそんな声の掛け方をするのか。まあ、昔からだけれど。
「ははっ。健在だな、その驚き方。やっぱ蓮実の反応が一番面白いわ」
むっとして見上げると、菖吾――橋岡(はしおか)菖吾は、どこ吹く風でからからと笑った。
彼とは大学時代からの友人だ。学部は違ったが、偶然にも『虫むしキャッチャーズ』という虫全般を捕獲して飼育しながら生態を観察するサークルの新歓で出会い、さらには名前に〝蓮〟と菖蒲(しょうぶ)の〝菖〟という植物繋がりの字が入っていることから一気に打ち解けた。
卒業後はお互いに都内で就職した。確か菖吾はデパート勤務だったはずだ。
ただ蓮実は、虫むしキャッチャーズに入ったことは、わりと黒歴史だと思っている。
そもそもサークル名からしておちゃらけているし、活動内容だって都内の公園に出かけて各自虫を捕まえ飼育するだけだった。ほとんど童心に返って遊んでいるのと同じだ。
それでも蓮実が虫むしキャッチャーズを辞めなかったのは、いい歳になって虫も触れないなんてと思ったからだ。蓮実は子供の頃から虫が大の苦手だった。それをよく周りの男子にからかわれて悔しい思いをした。だからせめて蟻やトンボ、蝶々やカタツムリなど一般的に好意的に受け入れられている可愛らしい虫だけでも触れるようになりたかったのだ。
今さら仕返しをしようと思ったわけではないけれど、大学生にもなっても通学に使っていた自転車にてんとう虫が止まっていただけで大騒ぎをした日には、もうたまらない気持ちになった。てんとう虫なんて虫の中でも一番可愛いやつじゃんか……! それさえ触れない自分にひどく落ち込んだ蓮実は、そうして一念発起し、翌日には虫嫌いを克服するべく虫むしキャッチャーズの門を叩いたのだった。――けれど。
菖吾の目的は別のところにあった。こちらも大学生にもなって幼稚なのだが、純粋な動機で入ってきた人にわざと見た目がアレな虫を見せて気持ち悪がったり逃げたりする姿を見るのが目的だったのだ。なんてジャイアニズム甚だしい男だろうか。
そうして早々に目をつけられた蓮実は、それから虫むしキャッチャーズを引退するまで散々、菖吾にからかわれた。おかげで今ではだいぶ虫に触れるようになったけれど。
ただ、どんなに驚かされたり嫌な目に遭わされても嫌いになれなかったのは、本気の本気で嫌がる虫はけして見せてこなかったからだ。尺取虫とか、成虫になれば奇麗だったり格好よかったりするけれど、アゲハチョウの幼虫だったりトンボのヤゴだったり、わけがわからない。なんであんなんなんだろう。敵から身を守るためとか、エサを獲るためとか、図鑑にはいろいろと説明が載っているけれど、なにもそこまでしてあんなフォルムにならなくてもよかっただろうにと思うと、不憫に思うのと同時に気持ち悪さも込み上げるのだ。
「で? どうしてまた蓮実はひとりでこんなとこに?」
改めて菖吾に聞かれ、蓮実は「……暇だったから」と答えた。
菖吾にも事務員をしていると言っている。嘘をついている心苦しさはあるが、探偵は特殊な職業だ。もし素直に探偵をしているなんて言えば、そこからどんな情報が漏れてしまうかわからない。いや、菖吾がそういう人だからというわけでは、けっしてない。どんな仕事もそうだけれど、守秘義務は絶対だ。依頼主のこともそうだし、自分のこともそうだし。
「ぷっ。彼氏もいないのか」
「しょうがないでしょ、出会いがないんだから」
菖吾に笑われ、蓮実はさらにむっと頬を膨らませる。
余計なお世話だ。いい出会いがあったら飛びつくさ、こんな職業じゃなかったら。
……いや、この三年で少なからずターゲットの〝裏の顔〟を見てきたこともあって、恋愛そのものに臆病になっているところがあるかもしれない。中には依頼頼主の裏の顔を見たこともあった。そのときには、さすがにしばらく軽い人間不信に陥ったくらいだ。
人間誰しも複数の顔を持っている。とはいえ、その中でも思わず鼻の頭にしわを寄せてしまうような〝顔〟を持っていたり、目を背けたくなるような〝顔〟を持っている人は一定数いる。一般的な人よりそういった顔に触れる機会が多いぶん、変に深読みしすぎてしまうのだろう。それはこの職業の悲しい宿命かもしれない。出会いがないのも本当だけれど。
「そう言う菖吾は? 土曜日の昼間っからひとりでなにしてんのよ?」
「いや、俺も暇だったから。散歩がてらって感じで、ブラブラと」
聞くと菖吾は、ややバツが悪そうな笑みを浮かべて頭の後ろに手を当てた。
「なによ、人のこと言えないじゃん。彼女にドタキャンでもされたんですかーぁ?」
蓮実はさっきの仕返しとばかりに言ってやる。もしそうだったら、お互い様ではないか。
とはいえ、菖吾は学生時代からよくモテていた。どんなにバカなことをしても格好がつくというか、菖吾だからバカでも許せるというか、見た目が整っていることもあって『虫むしキャッチャーズ』で虫を片手に蓮実やほかの女子メンバーをガキ大将よろしく追いかけ回していても、それが逆に可愛いらしく、言い寄る女子は多かったようだ。
意味がわからない。こっちは本気で怖かったというのに。
「うっせーよ。いねーよ今は。友達も接客業だったり仕事が忙しかったりで都合が合わないんだよ。社会人になるとこれだからなー。まあ、しょうがないことだけど」
「まあねえ。これも大人になったってことなのかもね」
さり気なく〝今は〟を強調する菖吾に蓮実も苦笑交じりに同意する。なかなか友達に会えないこともそうだけれど、恋人ともそういう理由で別れることは、ままある。
菖吾の職業なら、むしろそのリスクは高いかもしれない。百貨店やデパートは週末こそ多くの人が訪れる場所だ。今日はたまたまシフト休みなのだろうけれど、主に平日に休みを取る菖吾と土日が休みの彼女なら、まあ、だいたいの別れの理由は想像できる。
「ご愁傷様です」
「お前もな」
「……間髪入れないでよ。けっこう気にしてるんだから」
菖吾の胸のあたりを軽くグーで小突き、蓮実は辺りを見回した。その傍ら、バッグからスマホを取り出し、夏芽からなにか連絡が来ていないかを確める。
思わぬところで菖吾に会い、立ち話なんてしてしまったけれど、あまり時間をかけられない理由がこちらにはある。だって尾行中だ。一瞬だけ、ひとりで来ているという菖吾と歩けばそれなりに格好がつくだろうかと思ったものの、やはり一般人の彼を隠れ蓑にしながらの尾行は、夏芽たちのためにも自分のためにもやめたほうがいい。
「じゃあね。しばらく連絡してなかったけど、近々、飲みにでも行こうよ」
そう言って蓮実は菖吾の横を通り過ぎる。立ち話はしたが、夏芽たちは見失っていない。ふたりは立派な藤棚のほうへと、ゆっくり遊歩道を進んでいた。東京近郊での藤花の盛りは四月中旬から五月上旬にかけてと短いが、葉だけでも見ごたえは十分だろう。
「え、せっかくだし、このままふたりでブラブラしようよ」
すると菖吾が意表を突かれた顔で蓮実の手首を取った。知らない仲でもあるまいし、お互いにひとりで来ているんだから一緒に行動するのは自然な流れだろう――そう言いたげな瞳で、掴まれた手首と菖吾の顔を交互に見る蓮実を見下ろす。
「いや、うううん……ああっ!」
「な、なんだよ、でっけー声出して」
なんて言っているそばから、ふたりの姿は徐々に、けれど確実に遠ざかっていく。蓮実は視力はいいほうだが、これ以上離れてしまうと見失ってしまうかもしれない。それに、三好大介がどんな人なのかを知るためには、それなりに近くにいたほうがいい。
「しょうがないなあ、もう」
「しょうがなくないだろ、お互い、ひとりモンなんだし」
「はいはい、わかったから行くよ」
「おまっ……」
内心では焦りを滲ませながら、けれど表面上はそれを悟られないよう、蓮実は仕方なく菖吾を連れてふたりを追うことにした。三好だけではなく菖吾にも尾行していることを勘付かれないようにするのは二倍骨が折れるけれど、会ってしまったから仕方がない。
「どこ見て回る?」
「とりあえず、あっちかな。藤棚があるでしょう。あそこも確か、アニメ映画でよく使われてた場所だから、せっかく来たんだし見ておきたいと思って」
「ああ、あれなー。雨の日にしかここで会わない、とかいうやつ」
「そうそう、それそれ」
そうして蓮実は、それからも菖吾をうまく誘導しながらふたりを追い、昼近くになって昼食を食べに行くときも、その後、場所をサンシャイン水族館に移してまったりとデートを楽しんでいるときも、適度な距離を保ちながら尾行を続けた。
やはり一週間そこそこでは、これだ! と思える作家も作品も見つからず、蓮実はパソコンと向き合いすぎてカラカラに渇いた目をしょぼしょぼさせながら、待ち合わせ場所だという新宿に来ていた。時刻は午前十時ちょっと過ぎ。今日はこれから新宿御苑に行き、適当にランチを食べたあとは、夕方には別れるらしい。仕事は落ち着いたものの、やはりまだ細かい作業が残っているのだそうだ。気心の知れた仲とはいえ、自分がいないとどうにも進まない仕事もあるから、と三好大介は電話口でしきりに夏芽に謝ったそうだ。
さしずめ今の蓮実は、言わなくても顔を見ればわかる、といった状態だろうか。なにはともあれ、酷使しすぎた目に植物の緑や花の色といった自然の色はありがたい。
そうして東京メトロ丸ノ内線新宿御苑駅前の出口で張り込むこと十数分。
先に来て待っていた夏芽より少し遅れてやってきた三好大介は、三十二歳という年齢通りカジュアルな中に落ち着いた雰囲気も含ませていて、むしろ服にはあまり頓着しないほうなのか、若干の野暮ったさも覗かせるような、そんな格好でやって来た。
一緒に撮った写真で顔は頭に入っていたが、実際にこの目で見ると思っていたよりずっと背が高く、ひょろひょろっとした痩身の男性だった。野暮ったく見えるのは、たぶん写真ではわからなかったが猫背がわりとひどいからだと思う。天然パーマなのだろう、もっさりとした頭をしているのも、そうかもしれない。整えれば天パは武器になるだろうけれど、残念ながら三好大介は伸ばしっぱなしでこうなりました、的な印象が強かった。
ただ、遠目からでも夏芽に向けられる瞳が本当に優しい色をしていることはわかった。その瞳を一身に注がれる夏芽もまた、幸せそうに目尻を下げて笑っていた。
ただ、常に寝不足気味だというのは本当のようだった。ふらつくことはないものの、何度も目を擦ったり、ぎゅっとつぶって開けたりと、眠気を追い払う仕草が多い。
夏芽がそれを心配しながら、やがてふたりは新宿御苑のほうへゆっくりと歩きだす。蓮実は週末で三割増しほどになった人混みに紛れて見失ってしまわないよう、土曜日の休日にひとりで外出しているОL風を装いつつも注意深くふたりのあとを追っていった。
のだけれど。
「ひとりでも平気かと思ったけど、これじゃあ、かえって変に目立つかも……」
入園料を支払い、いざ新宿御苑内を散策しはじめたはいいものの、週末だけあって、なかなかどうして家族連れやカップルが多い。ひとり者の蓮実は早々に浮いてしまった。
中にはひとりで来ている人もいることにはいる。けれど、ここはアニメ映画で印象的なシーンのひとつに取り上げられた、いわば聖地だ。立派なカメラを提げて写真を撮っている人がほとんどで、そういう人は独特の雰囲気を放っている。同じ〝ひとり〟でも、目的がはっきりしているぶん蓮実とは根本から毛色が違っているので、思いのほか浮かないのだ。
「所長にも付いてきてもらえばよかったかな……」
事前に聞いていたデートプランに合わせて、いつものパンツスーツから街中でも目立たず浮かずの〝普通〟を意識した服を選んで着て来たけれど、どうやらそれが仇となってしまったようだ。堂々とすればいいのだろうが、こういうところで蓮実は気が小さかった。
――と。
「もしかして、ひとり? せっかくのデートをすっぽかされたとか」
「ひゃあっ⁉」
ふいに肩越しに声をかけられ、蓮実は悲鳴とともに飛び上がった。振り返りざまに身構えれば、けれどその顔には見覚えがあり、蓮実は「は……」と口から空気を漏らす。
「なんだ、菖吾じゃん……。びっくりさせないでよもう……」
本当に心臓が口から飛び出るか、驚きすぎたショックで止まってしまうかと思った。まったく、どうしてそんな声の掛け方をするのか。まあ、昔からだけれど。
「ははっ。健在だな、その驚き方。やっぱ蓮実の反応が一番面白いわ」
むっとして見上げると、菖吾――橋岡(はしおか)菖吾は、どこ吹く風でからからと笑った。
彼とは大学時代からの友人だ。学部は違ったが、偶然にも『虫むしキャッチャーズ』という虫全般を捕獲して飼育しながら生態を観察するサークルの新歓で出会い、さらには名前に〝蓮〟と菖蒲(しょうぶ)の〝菖〟という植物繋がりの字が入っていることから一気に打ち解けた。
卒業後はお互いに都内で就職した。確か菖吾はデパート勤務だったはずだ。
ただ蓮実は、虫むしキャッチャーズに入ったことは、わりと黒歴史だと思っている。
そもそもサークル名からしておちゃらけているし、活動内容だって都内の公園に出かけて各自虫を捕まえ飼育するだけだった。ほとんど童心に返って遊んでいるのと同じだ。
それでも蓮実が虫むしキャッチャーズを辞めなかったのは、いい歳になって虫も触れないなんてと思ったからだ。蓮実は子供の頃から虫が大の苦手だった。それをよく周りの男子にからかわれて悔しい思いをした。だからせめて蟻やトンボ、蝶々やカタツムリなど一般的に好意的に受け入れられている可愛らしい虫だけでも触れるようになりたかったのだ。
今さら仕返しをしようと思ったわけではないけれど、大学生にもなっても通学に使っていた自転車にてんとう虫が止まっていただけで大騒ぎをした日には、もうたまらない気持ちになった。てんとう虫なんて虫の中でも一番可愛いやつじゃんか……! それさえ触れない自分にひどく落ち込んだ蓮実は、そうして一念発起し、翌日には虫嫌いを克服するべく虫むしキャッチャーズの門を叩いたのだった。――けれど。
菖吾の目的は別のところにあった。こちらも大学生にもなって幼稚なのだが、純粋な動機で入ってきた人にわざと見た目がアレな虫を見せて気持ち悪がったり逃げたりする姿を見るのが目的だったのだ。なんてジャイアニズム甚だしい男だろうか。
そうして早々に目をつけられた蓮実は、それから虫むしキャッチャーズを引退するまで散々、菖吾にからかわれた。おかげで今ではだいぶ虫に触れるようになったけれど。
ただ、どんなに驚かされたり嫌な目に遭わされても嫌いになれなかったのは、本気の本気で嫌がる虫はけして見せてこなかったからだ。尺取虫とか、成虫になれば奇麗だったり格好よかったりするけれど、アゲハチョウの幼虫だったりトンボのヤゴだったり、わけがわからない。なんであんなんなんだろう。敵から身を守るためとか、エサを獲るためとか、図鑑にはいろいろと説明が載っているけれど、なにもそこまでしてあんなフォルムにならなくてもよかっただろうにと思うと、不憫に思うのと同時に気持ち悪さも込み上げるのだ。
「で? どうしてまた蓮実はひとりでこんなとこに?」
改めて菖吾に聞かれ、蓮実は「……暇だったから」と答えた。
菖吾にも事務員をしていると言っている。嘘をついている心苦しさはあるが、探偵は特殊な職業だ。もし素直に探偵をしているなんて言えば、そこからどんな情報が漏れてしまうかわからない。いや、菖吾がそういう人だからというわけでは、けっしてない。どんな仕事もそうだけれど、守秘義務は絶対だ。依頼主のこともそうだし、自分のこともそうだし。
「ぷっ。彼氏もいないのか」
「しょうがないでしょ、出会いがないんだから」
菖吾に笑われ、蓮実はさらにむっと頬を膨らませる。
余計なお世話だ。いい出会いがあったら飛びつくさ、こんな職業じゃなかったら。
……いや、この三年で少なからずターゲットの〝裏の顔〟を見てきたこともあって、恋愛そのものに臆病になっているところがあるかもしれない。中には依頼頼主の裏の顔を見たこともあった。そのときには、さすがにしばらく軽い人間不信に陥ったくらいだ。
人間誰しも複数の顔を持っている。とはいえ、その中でも思わず鼻の頭にしわを寄せてしまうような〝顔〟を持っていたり、目を背けたくなるような〝顔〟を持っている人は一定数いる。一般的な人よりそういった顔に触れる機会が多いぶん、変に深読みしすぎてしまうのだろう。それはこの職業の悲しい宿命かもしれない。出会いがないのも本当だけれど。
「そう言う菖吾は? 土曜日の昼間っからひとりでなにしてんのよ?」
「いや、俺も暇だったから。散歩がてらって感じで、ブラブラと」
聞くと菖吾は、ややバツが悪そうな笑みを浮かべて頭の後ろに手を当てた。
「なによ、人のこと言えないじゃん。彼女にドタキャンでもされたんですかーぁ?」
蓮実はさっきの仕返しとばかりに言ってやる。もしそうだったら、お互い様ではないか。
とはいえ、菖吾は学生時代からよくモテていた。どんなにバカなことをしても格好がつくというか、菖吾だからバカでも許せるというか、見た目が整っていることもあって『虫むしキャッチャーズ』で虫を片手に蓮実やほかの女子メンバーをガキ大将よろしく追いかけ回していても、それが逆に可愛いらしく、言い寄る女子は多かったようだ。
意味がわからない。こっちは本気で怖かったというのに。
「うっせーよ。いねーよ今は。友達も接客業だったり仕事が忙しかったりで都合が合わないんだよ。社会人になるとこれだからなー。まあ、しょうがないことだけど」
「まあねえ。これも大人になったってことなのかもね」
さり気なく〝今は〟を強調する菖吾に蓮実も苦笑交じりに同意する。なかなか友達に会えないこともそうだけれど、恋人ともそういう理由で別れることは、ままある。
菖吾の職業なら、むしろそのリスクは高いかもしれない。百貨店やデパートは週末こそ多くの人が訪れる場所だ。今日はたまたまシフト休みなのだろうけれど、主に平日に休みを取る菖吾と土日が休みの彼女なら、まあ、だいたいの別れの理由は想像できる。
「ご愁傷様です」
「お前もな」
「……間髪入れないでよ。けっこう気にしてるんだから」
菖吾の胸のあたりを軽くグーで小突き、蓮実は辺りを見回した。その傍ら、バッグからスマホを取り出し、夏芽からなにか連絡が来ていないかを確める。
思わぬところで菖吾に会い、立ち話なんてしてしまったけれど、あまり時間をかけられない理由がこちらにはある。だって尾行中だ。一瞬だけ、ひとりで来ているという菖吾と歩けばそれなりに格好がつくだろうかと思ったものの、やはり一般人の彼を隠れ蓑にしながらの尾行は、夏芽たちのためにも自分のためにもやめたほうがいい。
「じゃあね。しばらく連絡してなかったけど、近々、飲みにでも行こうよ」
そう言って蓮実は菖吾の横を通り過ぎる。立ち話はしたが、夏芽たちは見失っていない。ふたりは立派な藤棚のほうへと、ゆっくり遊歩道を進んでいた。東京近郊での藤花の盛りは四月中旬から五月上旬にかけてと短いが、葉だけでも見ごたえは十分だろう。
「え、せっかくだし、このままふたりでブラブラしようよ」
すると菖吾が意表を突かれた顔で蓮実の手首を取った。知らない仲でもあるまいし、お互いにひとりで来ているんだから一緒に行動するのは自然な流れだろう――そう言いたげな瞳で、掴まれた手首と菖吾の顔を交互に見る蓮実を見下ろす。
「いや、うううん……ああっ!」
「な、なんだよ、でっけー声出して」
なんて言っているそばから、ふたりの姿は徐々に、けれど確実に遠ざかっていく。蓮実は視力はいいほうだが、これ以上離れてしまうと見失ってしまうかもしれない。それに、三好大介がどんな人なのかを知るためには、それなりに近くにいたほうがいい。
「しょうがないなあ、もう」
「しょうがなくないだろ、お互い、ひとりモンなんだし」
「はいはい、わかったから行くよ」
「おまっ……」
内心では焦りを滲ませながら、けれど表面上はそれを悟られないよう、蓮実は仕方なく菖吾を連れてふたりを追うことにした。三好だけではなく菖吾にも尾行していることを勘付かれないようにするのは二倍骨が折れるけれど、会ってしまったから仕方がない。
「どこ見て回る?」
「とりあえず、あっちかな。藤棚があるでしょう。あそこも確か、アニメ映画でよく使われてた場所だから、せっかく来たんだし見ておきたいと思って」
「ああ、あれなー。雨の日にしかここで会わない、とかいうやつ」
「そうそう、それそれ」
そうして蓮実は、それからも菖吾をうまく誘導しながらふたりを追い、昼近くになって昼食を食べに行くときも、その後、場所をサンシャイン水族館に移してまったりとデートを楽しんでいるときも、適度な距離を保ちながら尾行を続けた。
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