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第一章 5月6月
三波さんのご紹介
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仕事というものには、何かとトラブルはつきものだ。小さなものから大きなものまで。
あてにしていた友人が急に来られなくなった、初めての人たちの中に単身飛び込む、そんなことはトラブルの範ちゅうにも入らないだろう。
今日はとにかく、場に慣れるようがんばろう。
学校の階段を上って行く間も、紀美は何度も自分に言い聞かせた。
どこからか、子どもたちがピアノに合わせて歌う声が響いてくる。たどたどしさからして、低学年のようだ。ルイの声も混じっているのだろうか、紀美はふと、足を止めて歌に聴き入る。
かすかにまた、懐かしい匂い。今度はクレヨンだろうか、印刷機のインクの匂い?
じぶんはこんな学校のノスタルジックなあれこれを、娘のため、お金のためなんて言いながらも実は密かに味わいたいとおもっていて、ここまで来ているのだろうか?
ふと浮かんだ疑念の泡を意識の外に押しやり、紀美は少し急ぎ足になる。
すでに数分遅刻していた。
二階のはしっこの教室、というのは多分、空き教室だ。
PTAの分科会の打合せなどに使われる、俗に『作業室』と呼ばれている、と転入当初の校内案内で聞いた記憶がある。
階段を上っていってすぐ右の突き当たりにようやくたどり着いた。
室内には灯りがついていて、入口の引き戸が十センチほど開いている。
中は驚くほど静まり返っていた。
紀美はおそるおそる
「失礼しまーす」
と小声で足を踏み入れた。
入って左側の壁に沿って黒板と教壇があり、左手前方が広くなっている。
ほぼ正方形に近い広めの教室には、子どもらが使うような小さな机ではなく、長机とパイプ椅子がいくつも置かれていた。長机はロの字に配置され、その回りを椅子が取り囲んだ形になっていた。
机の上には、ゴミなのだろうか、紙やビニールの切れ端、イチゴのパックなどが雑然と散らばっている。
一番奥まった、左側の窓際の席に、誰かがかがみこむように座っていた。
横顔にはさらりとしたワンレングスの前髪が落ちて、にわかに表情はみえない。
「あのお」
何度か声をかけたが、その人は何か口の中でぶつぶつ言いながら相変わらず机上を見つめ続けている。
近づいてみると、彼女は何か小さな紙切れの山に向き合い、ピンセットで一枚ずつ拾い上げては、顔を近づけてまた他の山に戻している。
「1点くん、1点くん、2点くん……そしてこれは」
「あの」
ひっ、と息を吸い込む音とともに、彼女は椅子の上で小さく飛び上がった。
こちらを見上げる眼鏡越しの目は、いつもならば切れ長なのだろうが、今は大きく見開かれている。
驚いたことに、ほんとうにこの距離になるまで人が来ていることに気づかなかったらしい。
「すみません、サンマークのお仕事に来たんですが」
彼女はピンセットに一センチ四方ほどの小さな紙切れを挟んだまま、固まっている。
「あの……おひとりなんでしょうか?」
彼女が急に、激しく首をふった。
「いやいやいやいやおひとりではありません、おひとりでなんてそんなこんな」
なおもブツブツ言っているのをあまり無視した感じにならないよう、紀美が訊ねる。
「他の方も、いらっしゃるんですか?」
「ホカノカタ? え、ええ、ええ、もちろんおりますとも。委員長に副委員長に、みなさん、いらっしゃいますってば」
そこに、がやがやと教室に数人がなだれ込んできた。
「はぁ~、何だよ教頭のあの態度! 相変わらずイヤミばっかり言いやがって」
「フジコさん、最後のローキック、見られてましたわよ」
「ミドリコはいっつも澄まし返ってさ、あの教頭とだったらお似合いだよ、次はアンタが教頭と対決したら? あああ、思い出しただけでも腹立つ」
腹立つ、と毒づいていた先頭は、背の高い茶髪のショートカット、小さな段ボール箱をいからせた右肩に担いで、大股で入ってくる。
後ろの人物に喰ってかかっているせいか、中にいた紀美には気づいていない。
続けて入ってきたのは、先頭ほどではないが、すらりとした長身に、今どきあまり見かけない縦ロールのロングヘア、ブルーグレイのワンピースというセレブな女性、その後ろに
「重い! ふたりとも早く入ってくださいって」
大きな段ボールの前方を両手に捧げ持って、後ろ向きにやってきたのはやや小柄なタイプ、後ろ側を持ってしんがりに入ってきたのが、もっとずんぐりした感じのオカッパだった。
「今回はカートリッジがメッチャ、大漁でしたねー!」
後ろ向きになった方が大声で叫んで教室の中をふり返った。が、
「あれ、委員長は……?」
素に返ったその声と同時に誰もがぴたりと足を止めた。
ようやくみんな、紀美の存在に気づいたようだ。
「どちらさまですか」
ミドリコと呼ばれていた縦ロールがすっと一歩前に出た。
名前からして縦ロール的だな、と紀美は心の中でつぶやく。声は優しげだが、毅然とした雰囲気だ。
「あの……今日は、あの、実は三波さんに誘っていただいて」
「ミナミ……?」
「一年に転入してきた、如月と言います」
「キサラギ……」
紀美の脇に座ったままだったワンレンの女性は、銀縁眼鏡の奥の目を泳がせたまま、
「一年にテンニュウ、テンニュウしてきたキサラギさん」
そうつぶやいている。どうも復唱癖があるようだ。
いちばん戸口に近い所にぼさっと立っていたコケシみたいな人が、無表情なまま唐突に口をはさんだ。
「六月の第一週の金曜日に、吉岡学級に転入してきた如月ルイちゃんちだ。川上団地の建売に愛知から越してきた」
まるきり初対面の人間から、まさかそこまで把握されているとは……しかも言い方がなんとなくぶしつけな気もして、紀美はややむっとしながらも、軽く頭を下げた。
ミドリコとフジコとが顔を見合わせている。ようやく、二人とも何か気づいたように目を見開き、ああ、とうなずいてからまた紀美の方を向く。
ミドリコが言った。
「三波さんのご紹介ですのね、初めまして」
あまりにも丁寧なあいさつに、紀美は「はい」今度はめんくらってまた頭を下げた。
「よろしくお願いします」
フジコが乱暴に吐き捨てた。
「アイツ……」そのまま窓の外をみているが、なぜか笑っているようだ。
「あのぉ」
どうにも居心地が悪い。
目を合わせようとしない復唱魔、乱暴そうな茶髪のヤンキー母さん、片田舎に似合わない縦ロールのセレブ系、妙に個人情報に詳しいずんぐりしたコケシ……
コケシの前にいた背の低めの人だけ、何となく明るそうで親しみやすい感じがした。しかし、まだ初対面だ。
それに、彼女はなぜか不安げに教室内を見渡している。
「委員長、委員長は? カスガさんお部屋に一緒にいたんでしょ」
さっきからイインチョーイインチョーとうるさい。イインチョーフェチなのか。
カスガと呼ばれた眼鏡のワンレンが
「イインチョウ、委員長は確か、事務室に書類を取りに行くからみんなで先に進めていて、と」
言うと同時に
「何やってるのかな、みんな」
入口からよく通る声が響き、誰もが一斉にそちらに目をやった。
あてにしていた友人が急に来られなくなった、初めての人たちの中に単身飛び込む、そんなことはトラブルの範ちゅうにも入らないだろう。
今日はとにかく、場に慣れるようがんばろう。
学校の階段を上って行く間も、紀美は何度も自分に言い聞かせた。
どこからか、子どもたちがピアノに合わせて歌う声が響いてくる。たどたどしさからして、低学年のようだ。ルイの声も混じっているのだろうか、紀美はふと、足を止めて歌に聴き入る。
かすかにまた、懐かしい匂い。今度はクレヨンだろうか、印刷機のインクの匂い?
じぶんはこんな学校のノスタルジックなあれこれを、娘のため、お金のためなんて言いながらも実は密かに味わいたいとおもっていて、ここまで来ているのだろうか?
ふと浮かんだ疑念の泡を意識の外に押しやり、紀美は少し急ぎ足になる。
すでに数分遅刻していた。
二階のはしっこの教室、というのは多分、空き教室だ。
PTAの分科会の打合せなどに使われる、俗に『作業室』と呼ばれている、と転入当初の校内案内で聞いた記憶がある。
階段を上っていってすぐ右の突き当たりにようやくたどり着いた。
室内には灯りがついていて、入口の引き戸が十センチほど開いている。
中は驚くほど静まり返っていた。
紀美はおそるおそる
「失礼しまーす」
と小声で足を踏み入れた。
入って左側の壁に沿って黒板と教壇があり、左手前方が広くなっている。
ほぼ正方形に近い広めの教室には、子どもらが使うような小さな机ではなく、長机とパイプ椅子がいくつも置かれていた。長机はロの字に配置され、その回りを椅子が取り囲んだ形になっていた。
机の上には、ゴミなのだろうか、紙やビニールの切れ端、イチゴのパックなどが雑然と散らばっている。
一番奥まった、左側の窓際の席に、誰かがかがみこむように座っていた。
横顔にはさらりとしたワンレングスの前髪が落ちて、にわかに表情はみえない。
「あのお」
何度か声をかけたが、その人は何か口の中でぶつぶつ言いながら相変わらず机上を見つめ続けている。
近づいてみると、彼女は何か小さな紙切れの山に向き合い、ピンセットで一枚ずつ拾い上げては、顔を近づけてまた他の山に戻している。
「1点くん、1点くん、2点くん……そしてこれは」
「あの」
ひっ、と息を吸い込む音とともに、彼女は椅子の上で小さく飛び上がった。
こちらを見上げる眼鏡越しの目は、いつもならば切れ長なのだろうが、今は大きく見開かれている。
驚いたことに、ほんとうにこの距離になるまで人が来ていることに気づかなかったらしい。
「すみません、サンマークのお仕事に来たんですが」
彼女はピンセットに一センチ四方ほどの小さな紙切れを挟んだまま、固まっている。
「あの……おひとりなんでしょうか?」
彼女が急に、激しく首をふった。
「いやいやいやいやおひとりではありません、おひとりでなんてそんなこんな」
なおもブツブツ言っているのをあまり無視した感じにならないよう、紀美が訊ねる。
「他の方も、いらっしゃるんですか?」
「ホカノカタ? え、ええ、ええ、もちろんおりますとも。委員長に副委員長に、みなさん、いらっしゃいますってば」
そこに、がやがやと教室に数人がなだれ込んできた。
「はぁ~、何だよ教頭のあの態度! 相変わらずイヤミばっかり言いやがって」
「フジコさん、最後のローキック、見られてましたわよ」
「ミドリコはいっつも澄まし返ってさ、あの教頭とだったらお似合いだよ、次はアンタが教頭と対決したら? あああ、思い出しただけでも腹立つ」
腹立つ、と毒づいていた先頭は、背の高い茶髪のショートカット、小さな段ボール箱をいからせた右肩に担いで、大股で入ってくる。
後ろの人物に喰ってかかっているせいか、中にいた紀美には気づいていない。
続けて入ってきたのは、先頭ほどではないが、すらりとした長身に、今どきあまり見かけない縦ロールのロングヘア、ブルーグレイのワンピースというセレブな女性、その後ろに
「重い! ふたりとも早く入ってくださいって」
大きな段ボールの前方を両手に捧げ持って、後ろ向きにやってきたのはやや小柄なタイプ、後ろ側を持ってしんがりに入ってきたのが、もっとずんぐりした感じのオカッパだった。
「今回はカートリッジがメッチャ、大漁でしたねー!」
後ろ向きになった方が大声で叫んで教室の中をふり返った。が、
「あれ、委員長は……?」
素に返ったその声と同時に誰もがぴたりと足を止めた。
ようやくみんな、紀美の存在に気づいたようだ。
「どちらさまですか」
ミドリコと呼ばれていた縦ロールがすっと一歩前に出た。
名前からして縦ロール的だな、と紀美は心の中でつぶやく。声は優しげだが、毅然とした雰囲気だ。
「あの……今日は、あの、実は三波さんに誘っていただいて」
「ミナミ……?」
「一年に転入してきた、如月と言います」
「キサラギ……」
紀美の脇に座ったままだったワンレンの女性は、銀縁眼鏡の奥の目を泳がせたまま、
「一年にテンニュウ、テンニュウしてきたキサラギさん」
そうつぶやいている。どうも復唱癖があるようだ。
いちばん戸口に近い所にぼさっと立っていたコケシみたいな人が、無表情なまま唐突に口をはさんだ。
「六月の第一週の金曜日に、吉岡学級に転入してきた如月ルイちゃんちだ。川上団地の建売に愛知から越してきた」
まるきり初対面の人間から、まさかそこまで把握されているとは……しかも言い方がなんとなくぶしつけな気もして、紀美はややむっとしながらも、軽く頭を下げた。
ミドリコとフジコとが顔を見合わせている。ようやく、二人とも何か気づいたように目を見開き、ああ、とうなずいてからまた紀美の方を向く。
ミドリコが言った。
「三波さんのご紹介ですのね、初めまして」
あまりにも丁寧なあいさつに、紀美は「はい」今度はめんくらってまた頭を下げた。
「よろしくお願いします」
フジコが乱暴に吐き捨てた。
「アイツ……」そのまま窓の外をみているが、なぜか笑っているようだ。
「あのぉ」
どうにも居心地が悪い。
目を合わせようとしない復唱魔、乱暴そうな茶髪のヤンキー母さん、片田舎に似合わない縦ロールのセレブ系、妙に個人情報に詳しいずんぐりしたコケシ……
コケシの前にいた背の低めの人だけ、何となく明るそうで親しみやすい感じがした。しかし、まだ初対面だ。
それに、彼女はなぜか不安げに教室内を見渡している。
「委員長、委員長は? カスガさんお部屋に一緒にいたんでしょ」
さっきからイインチョーイインチョーとうるさい。イインチョーフェチなのか。
カスガと呼ばれた眼鏡のワンレンが
「イインチョウ、委員長は確か、事務室に書類を取りに行くからみんなで先に進めていて、と」
言うと同時に
「何やってるのかな、みんな」
入口からよく通る声が響き、誰もが一斉にそちらに目をやった。
応援ありがとうございます!
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