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第二章 7月
救世主?ヤマダ
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風に乗って、プールからの歓声が遠く近く、耳に届く。
ようやく長い梅雨も明け、夏の日差しが目にまぶしい季節となった。
しかし、サンマークの作業室はすでに、グラグラと煮え立つ釜の中に近かった。
「窓、グランド側も開けましょーよぉ」
珍しく春日がグチっている。
「あたし、北国生まれなんですよぉ。暑さ、めっちゃ弱いんです。融けます」
「今日の風向きだと、マークが飛んじゃうからダメ。この地で融けて果てなさい」
「ひえー、オニ、委員長のオニ。血も涙もないオニよ」
「はい、オニです。血も涙も汗も出ないっす」
委員長はそう言いながらも首に巻いたフェイスタオルで額を拭いている。
委員長だけではなく、他のみんなも首からタオルを下げている。
ただミドリコだけが、小さなレースのハンカチを時おり首すじに当てているくらいだ。一応形だけデスケド、みたいに表情も涼しげで特に汗ばんでいる様子もない。
紀美は、教室一番奥手、北側の窓を開け放した場所で、フジコとともにインクカートリッジの仕分けの最中だった。
メンバーはその日の作業量に応じて、人が足りない箇所を分担するが、フジコはもとから
「細っけえことはムリムリ。力仕事しかできねえから」
と、重いものを運んだり、使用済みインクカートリッジの汚れをざっとふき取ってから箱詰めしたり、などの、どちらかと言えば大雑把な作業を担当していた。
たまに人手がなくてマークの仕分けに回ることもあったが、たいがい十分以内に
「ぎょわ~~~ぁあああわぁぁ!!発狂するわ!」
とブチ切れて雄たけびを上げて立ち上がり
「空気すってくる」
と、教室から飛び出して行く。
たいがい十分かそこらで帰ってくるが、三十分以上席を外すことも、まれにあるようだった。
確か前回も、そうだ。
結局紀美は時間中、一度もフジコの姿を見ていなかった。
委員長が管理している出席簿には、確かに『○』がついていたのだが。
今日のフジコは、慣れた作業のせいか発狂することもなく、淡々と作業をこなしている。
と、そこへ
「今日もごくろうさまですー」
若い男性の声にまず、智美が反応した。
「ヤマダ先生ェ!」
委員長に向けるのと同じ、いやもっと甘い声で応え、席から立ち上がって出迎える。
「皆さんすみませんお忙しいところ」
紀美もふり向いてみた。
見おぼえはあった。
確かヤマダという理科の教師だ。詳しくはヤマダカイト、日大出身二十六歳独身、鴨池小に勤務二年目(林エミリ情報)、そしてフジコの次男・四年二組ヨウジロウの担任でもある。
目の前で同じく、インクカートリッジを放っていたフジコが
「ああ?」
面倒くさげに声を上げてから、低くつぶやく。
「ヨージロ、またなんかやらかしたか?」
ヤマダは長身を縮めるように、部屋の中ほどまでやってくると、ようやく気づいたように
「ここ、熱気がすごいっすねー」
と手で顔を仰いだ。それから不思議そうに
「クーラー、点けないんすか?」
伊藤がここぞとばかりに声をあげる。
「だって教頭先生が~」ね、委員長? と上目遣いに委員長をみる。
何なのだ、この甘えんぼモードは。
紀美の二の腕に軽く鳥肌がたつレベルだ。
委員長はいつものことなのだろうか、平気な顔をしながらこう言った。
「サンマーク作業はボランティア活動なので、エアコンは遠慮してくれ、と言われてますから」
紀美には初耳だった。確かに作業室には立派なエアコンがついている。
それに、つい先日の学年懇談会でもこの教室を使って、新入生の特別活動について説明会をやったのだが、エアコンが効き過ぎていて肌寒かったくらいだ。
単に、委員長の趣味で点けていないのだと思っていたのだが、教頭からの指示だったとは。
この活動は学校内で微妙な位置にあるらしい。
現に、懇談会の時に挨拶に入ってきた教頭に紀美はあまりいい印象を持たなかった。
教壇前に行こうとしてよろめいた拍子に、教頭、部屋の隅に積んであったサンマークの段ボール箱に肩を当ててしまい
「痛! 何だよこりゃ」
と口を尖らせてから、中をみて
「あー」
と薄く笑ったのをたまたま見てしまい、ナンダヨジャネーヨ、それから、笑うな、と紀美はややヤンキーっぽく心の中で毒づいていた。
「そんな、ひどいなあ」
ヤマダは若さゆえの思慮の無さなのか、単にママさんたちに同情しているだけなのか、案外軽くこう言った。
「点けちゃえば、いいんですよ」
伊藤が失神せんばかりの喜悦の表情で、ヤマダを見つめる。
なぜか紀美の脳内に
『点けちゃえばいいんですよ~褒むべきかな救世主ヤマダ』
勝手に春日ナレーションが再生されている。
それを頭を振って急いで追い出す。
委員長はあくまでも冷静に返した。
「リモコンは、教頭先生がお持ちですんで」
「僕からも頼んでおきますよ。サンマークの活動にもエアコン必要ですよ、あ、そうだ」
急にここに来た理由を思い出したようだった。
「すみません、松江さんちょっと……」
最初から予想していたように、フジコは「はいはい」と渋い顔で立ち上がった。
「で、どこ? 先生。プール?」
「いや……保健室で待たせてます」
無言のまま、フジコとヤマダが出て行くと、教室には妙な静けさだけが残された。
ようやく長い梅雨も明け、夏の日差しが目にまぶしい季節となった。
しかし、サンマークの作業室はすでに、グラグラと煮え立つ釜の中に近かった。
「窓、グランド側も開けましょーよぉ」
珍しく春日がグチっている。
「あたし、北国生まれなんですよぉ。暑さ、めっちゃ弱いんです。融けます」
「今日の風向きだと、マークが飛んじゃうからダメ。この地で融けて果てなさい」
「ひえー、オニ、委員長のオニ。血も涙もないオニよ」
「はい、オニです。血も涙も汗も出ないっす」
委員長はそう言いながらも首に巻いたフェイスタオルで額を拭いている。
委員長だけではなく、他のみんなも首からタオルを下げている。
ただミドリコだけが、小さなレースのハンカチを時おり首すじに当てているくらいだ。一応形だけデスケド、みたいに表情も涼しげで特に汗ばんでいる様子もない。
紀美は、教室一番奥手、北側の窓を開け放した場所で、フジコとともにインクカートリッジの仕分けの最中だった。
メンバーはその日の作業量に応じて、人が足りない箇所を分担するが、フジコはもとから
「細っけえことはムリムリ。力仕事しかできねえから」
と、重いものを運んだり、使用済みインクカートリッジの汚れをざっとふき取ってから箱詰めしたり、などの、どちらかと言えば大雑把な作業を担当していた。
たまに人手がなくてマークの仕分けに回ることもあったが、たいがい十分以内に
「ぎょわ~~~ぁあああわぁぁ!!発狂するわ!」
とブチ切れて雄たけびを上げて立ち上がり
「空気すってくる」
と、教室から飛び出して行く。
たいがい十分かそこらで帰ってくるが、三十分以上席を外すことも、まれにあるようだった。
確か前回も、そうだ。
結局紀美は時間中、一度もフジコの姿を見ていなかった。
委員長が管理している出席簿には、確かに『○』がついていたのだが。
今日のフジコは、慣れた作業のせいか発狂することもなく、淡々と作業をこなしている。
と、そこへ
「今日もごくろうさまですー」
若い男性の声にまず、智美が反応した。
「ヤマダ先生ェ!」
委員長に向けるのと同じ、いやもっと甘い声で応え、席から立ち上がって出迎える。
「皆さんすみませんお忙しいところ」
紀美もふり向いてみた。
見おぼえはあった。
確かヤマダという理科の教師だ。詳しくはヤマダカイト、日大出身二十六歳独身、鴨池小に勤務二年目(林エミリ情報)、そしてフジコの次男・四年二組ヨウジロウの担任でもある。
目の前で同じく、インクカートリッジを放っていたフジコが
「ああ?」
面倒くさげに声を上げてから、低くつぶやく。
「ヨージロ、またなんかやらかしたか?」
ヤマダは長身を縮めるように、部屋の中ほどまでやってくると、ようやく気づいたように
「ここ、熱気がすごいっすねー」
と手で顔を仰いだ。それから不思議そうに
「クーラー、点けないんすか?」
伊藤がここぞとばかりに声をあげる。
「だって教頭先生が~」ね、委員長? と上目遣いに委員長をみる。
何なのだ、この甘えんぼモードは。
紀美の二の腕に軽く鳥肌がたつレベルだ。
委員長はいつものことなのだろうか、平気な顔をしながらこう言った。
「サンマーク作業はボランティア活動なので、エアコンは遠慮してくれ、と言われてますから」
紀美には初耳だった。確かに作業室には立派なエアコンがついている。
それに、つい先日の学年懇談会でもこの教室を使って、新入生の特別活動について説明会をやったのだが、エアコンが効き過ぎていて肌寒かったくらいだ。
単に、委員長の趣味で点けていないのだと思っていたのだが、教頭からの指示だったとは。
この活動は学校内で微妙な位置にあるらしい。
現に、懇談会の時に挨拶に入ってきた教頭に紀美はあまりいい印象を持たなかった。
教壇前に行こうとしてよろめいた拍子に、教頭、部屋の隅に積んであったサンマークの段ボール箱に肩を当ててしまい
「痛! 何だよこりゃ」
と口を尖らせてから、中をみて
「あー」
と薄く笑ったのをたまたま見てしまい、ナンダヨジャネーヨ、それから、笑うな、と紀美はややヤンキーっぽく心の中で毒づいていた。
「そんな、ひどいなあ」
ヤマダは若さゆえの思慮の無さなのか、単にママさんたちに同情しているだけなのか、案外軽くこう言った。
「点けちゃえば、いいんですよ」
伊藤が失神せんばかりの喜悦の表情で、ヤマダを見つめる。
なぜか紀美の脳内に
『点けちゃえばいいんですよ~褒むべきかな救世主ヤマダ』
勝手に春日ナレーションが再生されている。
それを頭を振って急いで追い出す。
委員長はあくまでも冷静に返した。
「リモコンは、教頭先生がお持ちですんで」
「僕からも頼んでおきますよ。サンマークの活動にもエアコン必要ですよ、あ、そうだ」
急にここに来た理由を思い出したようだった。
「すみません、松江さんちょっと……」
最初から予想していたように、フジコは「はいはい」と渋い顔で立ち上がった。
「で、どこ? 先生。プール?」
「いや……保健室で待たせてます」
無言のまま、フジコとヤマダが出て行くと、教室には妙な静けさだけが残された。
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