ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第三章

第三十話

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 大学の後期に入って、秋子は、雪子が化粧するのをたびたび目にした。雪子はふだん、化粧を施さない。それは彼女の外見に頼らないポリシーの表れだったが、第一、秋子も姉は化粧のないほうが似合っていると思った。すっぴんの、人間味のある肌のほうが、雪子の凛々しさを際立たせるのである。

 しかしある快晴の日の雪子は、秋子の考えを超えて遥かに美しかった。

「なあに、アキ、こんなはやくに」と雪子がいった。

「いえ雪ちゃんこそこんな時間に珍しいと思ってつい」

 時間は朝のまだ八時だった。雪子はこんなはやくに、風呂で身を清め、髪を乾かし、一張羅に着替え、最後の仕上げとして口紅を塗っていた。

「これでも遅れたほうなの。これから美容室にも行かないといけない」

「朝ごはんは?」

「食べないってお母さんに言ったわ」

 秋子は口紅を塗り終え、化粧台の鏡をじっと見つめた。顔をあちこちに傾かせては入念に化粧のノリを確認している。見慣れない美肌に馴染んだ艶だった唇は、白夜に浮かぶ赤い三日月のように見えた。想像よりもはやい事の流れに、秋子は現実感を失っていた。

「飯島くんとどこかへいくの?」と秋子は訊いた。

「いいえ、今日は彼の家で」

「家? このまえ映画行ってもう家に?」

「そうよ」

「はやいんじゃない」

「そうかしら。でも彼が観せたい映画があるっていうの」

「大丈夫?」

「なにが?」

 雪子は鏡から目を離さなかった。姉の関心はもう秋子に向いていない。雪子の視線は一種の執着であり、その執着のさなか、姉は微笑んでいた。微笑みは妹の知る雪子らしい、知性と寛容のものではなかった。そういう湖水のような、清らしいやさしみのあるものではなくて、漉しきれない濁りがある、意地の悪いもののようだった。
 
 秋子はその日、家で落ち着かず、夏樹に電話をかけたが、恋人は出ず、それでも人に話さずにいられない秋子は、結局友人の美玖に連絡をかけた。

 美玖と二時ごろにハチ公前で待ち合わせた。せっかくだから、ショッピングもしたいということだった。

「ごめんね。急いだんじゃない?」

秋子が申し訳なくそういった。連絡をとって二時間も経っていない。
 
「いいえ、全然。もともと外出る用事があったからかえって都合がいいの」

 ふたりはショッピングモールをめぐった。建物全体がショーウィンドーで囲まれたそこは、あまりにも狭く晒された世界だった。島に親しんだばかりの秋子は、眩暈を起こしそうだった。

 雪子のことが気になって、陳列された服や帽子やバックはどれも魅力を感じなかった。商品が洒落ていれば洒落ているほど、秋子はそれを身に着けた姉を想った。流行りの服を着る姉、帽子を斜めにかぶる姉、ブランドのバックを肘から提げる姉。樹形図のように広がりをみせるこれらの姉の姿は、なにひとつ秋子の好むところではない。いや、きっと流行りの服も、斜めにかける帽子も、ブランドバックも、秋子と一緒に買い物にでかけて身に着けるならよかった。しかし雪子は、もう秋子のためでなく、会って間もない男のために彩るのだから、秋子の心は靄がかった。

 美玖があらかた目当てのものを買い終わると、ふたりは喫茶店で休憩した。姉のことを話したが、美玖の反応は秋子とちがって、どこか無垢にうらやむようなものだった。

「雪ちゃんの、その好きな人って、まるで幽霊みたいなのよ。どこか暗くって、病気みたいな色白さで」

 秋子は友人の反応に焦ってこんなことまでいった。

「いいじゃない、お姉さんの好みがどんなのか、秋子も知らないでしょう。それに、仮に見た目があれだって、それはそれでいいじゃない。中身がそれだけ好きって中々ないことだと思うわ」

 美玖は秋子のなかで散々議論されたフレーズをつかった。しかしその割にいざ人から言われると秋子は返す言葉もなかった。やはり、これはただの嫉妬なんじゃないか、と秋子は思った。姉をとられたことがすべての批判の中心なのであって、だとしたら、どうにかすべきなのは秋子本人であって、ふたりの恋ではない。しかしその結論も、この数日間で何度も提出されつくしたものだった。

 ふと、秋子は美玖の左の薬指に指輪がはめられているのに気づいた。秋子はおどろき、すこし迷った挙句、訊いた。

「ねえ、いつのまに結婚したの」

 美玖は笑った。そのとき口元を左手で隠したものだから、シルバーの指輪がかえって目立った。

「あ、そういえばつけてたわ。あのね、ちがうの。結婚なんてしてないわ。そうじゃなくて……彼がね、言い寄られるのが怖いから、外出のときはこれをはめてくれってくれたのよ」

 美玖は嬉しそうに手の甲をさすった。
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