ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第四章

第五十七話

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 秋子が海に行きましょうと誘ったのは、その一週間後の、週に一度のデートの途中だった。夏樹はむろん嫌がった。死の気配がもうすぐ首まで手をかけているのである。その手は透明なくせにやたらと握力がある。清潔な手の甲から生えた長い五本指にどうやってその力がやってくるのだろう。

 日は暮れて、道々の規則正しい明るさ、たとえば車の単調な行き来や均一な間隔の街灯が夜を忘れさせている。往来の人々も夜を忘れ、いや忘れたことさえ頭にないような振る舞いである。通り過ぎる人たちは昼より活気に満ちていた。その日はちょうどクリスマスイブで、華やかな話題しか景色に見合わない夜だった。

 恋人たちはもう聖夜らしい会話を済んでいた。しかもそれはたいした盛り上がりもなく、実務的でさえあり、そのうえでのこの会話だから、夏樹はただ窮している。

 夏樹は様々な手段を考えていた。といっても、それはどちらかというと秋子を止める手段でなくて、自らを巻き込まないための手段であったから、秋子が

「ならわたし一人で行くわ」

 と言った途端、その手段がくだらない玩具になり果てるのを感じた。

「なぜそんなに海に行きたいんだ」夏樹はおどおどとそんなことを訊いた。

「たまたまよ。冬の海が気になって仕方ないだけ」

「死ぬつもりなんだろう」

「別に、そうじゃないわ」

「じゃあどうして」

「だから気になっただけ」

 秋子は笑った。「別にとって食うわけじゃないのよ」

 夏樹は黙るよりほかになかった。それでその苦しさから恋人の顔をちらと見て、そしておどろいた。秋子は最近のとは異なって、いや夏樹が今までに見たどの姿より美しかった。表情は晴れやかである。しかし死の匂いもする。美と死がふしぎな接合を果たして、超越的な印象を与えていた。肌がきめ細かい。シルクでは足りない。陽射しに透かされた朝靄のようである。目が潤んでいる。しかし焦点は定まって、悲惨な運命を受け入れた聖女のような瞳だった。唇が赤いこと、まつ毛が緩やかに曲がっていること、豊かでない胸が張っていること、長い指の手のひらがハンドバックの重みに耐えていること、深紅のロングスカートがあたる灯りの加減によって顔色を変えること、それらのことが何やら神聖な、ふしぎで寛容なものに思えた。秋子の美はある到達に至って、柔和性と絶対性を両立させる輝きを放っていた。それはまるで罪人が見つめる教会のステンドグラスのような。……

 夏樹の心に何が起こったのだろう。何か素晴らしく思える着想が沸いたのだろうか。いやそんなことはなかった。彼はほとんど無意識に彼の巨大な歯車を動かしていた。彼の組織が見知らぬ小人たちに改造されて一変した。夏樹は屈したのだった。漁師は殺され、聖女に従う敬虔な信者が現れた。その夜、夏樹は自分を一変させた小人のことを運命と名付けた。

 夏樹は海の誘いに乗った。しかもいちど断ったことを謝ってまで同行させてほしいと頼んだ。

「なんでまた」

 と今度は秋子がおどろいた。

「行きたいんだろう。なら行こう、今からでもさ」

「いえ、今日はちょっと……」

「なら明日だ。約束だよ」

 夏樹はらしくなく指切りを迫った。秋子もそれに応えた。夏樹は濃さのちがう二本の指が絡むところを熱っぽい眼差しで見つめた。
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