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2話 新しい出会い
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「そろそろ涼太のこと諦めなきゃ」
ミクがそう呟いたのは、つい昨日のことだった。
そんなとき、レオが声をかけてきた。
「紹介したい友達がいるんだ。お前に合うんじゃないかと思ってさ」
気休めの言葉だと思った。
けれど、レオの真剣な目に押されて、会う約束をした。
そして現れたのが――ヒカルだった。
鍛えられた大きな体。
けれど威圧感はなく、むしろ大きな体に似合わないくらい穏やかな笑みを浮かべていた。
「はじめまして」
低く響く声に、一瞬だけ胸が高鳴る。
涼太への想いを忘れられるなんて、まだ思えない。でも、ヒカルと話すと不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
一方のヒカルは、目の前に座るミクを直視できなかった。
写真で見るよりも、レオの話で聞いて想像していたよりも――ずっと綺麗だったから。
背筋を伸ばしても、自分の心臓の鼓動がうるさすぎて隠せない。
「なに緊張してんだよ、ヒカル。顔真っ赤だぞ」
レオが茶化すように笑うと、ミクも思わず口元を緩めた。
「や、やめろよ…」
ヒカルは耳まで赤くしながら、グラスの水を一気に飲み干した。
そんな和やかな空気の中、レオが不意に立ち上がる。
「そうだ、もう一人呼んでるんだ。ちょうど来る頃かな」
そして現れたのは…、涼太だった。
ミクの表情が一瞬で凍りつく。
そしてレオだけが、にやにやと悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。
「……なんで」
ミクの唇から、かすれた声が零れ落ちた。
涼太は驚いたようにミクを見つめ、そして視線をヒカルへと移した。
「レオ、これはどういう集まりだ?」
レオは肩をすくめる。
「たまにはこういうのもいいだろ? みんなで混ざった方が、面白いからさ」
ミクの胸の中で、諦めかけていたはずの感情と、新しく芽生え始めた感情が、ぐちゃぐちゃに絡まり始める――。
「涼太も来たんだ」
ヒカルは子どものように嬉しそうに笑った。
ヒカルは涼太とも友人関係のようだ。
その一方で、ミクの胸は乱れていた。
ここに涼太が来るなんて思ってもいなかった。
忘れようと決めたばかりの人が、なぜ今この場に――。
涼太は周囲を見渡して、不思議そうに眉をひそめた。
「お前ら、どういう集まりなんだ? レオ、お前が仕切ってんのか」
「まぁまぁ、偶然の化学反応ってやつだよ」
レオは悪戯っぽく笑いながら答える。
ミクは俯き、声が出なかった。
隣でヒカルが穏やかな笑顔を浮かべているのが、かえって苦しい。
そして涼太は、ミクの視線に気づくことなく、ただ「女友達が一人混ざっている」くらいにしか思っていない様子だった。
けれど、目の前の空気は確実に揺れ始めていた。
「なぁ涼太、聞いてくれよ」
レオがわざとらしく声を張った。
「ヒカルな、ミクのこと気に入ってんだぜ」
「おいっ、レオ…」
ヒカルの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
手を振って否定しようとするけれど、視線はどうしてもミクに向かってしまう。
「えっと…そんな、まだ知り合ったばかりだし」
ミクは困ったように笑みを浮かべ、やんわりと否定した。
心臓が苦しいのは涼太が右斜前にいる、その事実のせいだった。
「そう」
涼太は特に表情を変えず、手を挙げて店員を呼ぶ。
「すみません、生もう一つ」
彼にとって、今の会話はただの場の冗談に過ぎないらしい。
ミクの否定の言葉にも、ヒカルの照れ隠しにも、何一つ反応を見せない。
——涼太は知らない。
自分の一挙一動が、ミクの心をかき乱していることを。
そしてレオだけが、にやりと口角を上げてその様子を眺めていた。
テーブルを囲んで、四人の会話は賑やかに弾んでいた。
レオの冗談にヒカルが大げさに反応し、涼太は笑いながらツッコミを入れる。
——けれど、ミクは会話に集中できなかった。
気づけば視線は涼太を追ってしまう。
笑ったときに少し細くなる瞳も、グラスを持つ大きな手も、何気ない仕草一つ一つが胸を締めつける。
一年前から心の中で見続けてきた人。
彼に彼女ができてもやはり簡単に気持ちを抑えることはできない。
忘れようと決めたはずなのに…
——どうして、まだこんなに——
胸の高鳴りは止まらない。
鼓動の音がみんなに聞こえてしまいそうで、手を膝の上で固く握りしめた。
一方の涼太は、ミクの心の動きをまるで知らない。
レオやヒカルと軽快に会話を続け、ときおり肩を揺らして笑っていた。
ミクは唇を噛み、視線を落とす。
——この想いは、やっぱり届かない。
けれど、目を上げればまた追ってしまう。
どうしても、彼を。
気づけば時間はすっかり遅くなっていた。
店を出ると夜風が心地よく、少し酔った空気を冷ましてくれる。
ミクはほとんど涼太と会話を交わせないまま、帰りの時間を迎えていた。
気が沈んだまま駅へ向かおうとしたとき、背後から声がかかる。
「ミクさん」
振り返ると、ヒカルが少し緊張した表情で立っていた。
夜の街灯に照らされたその体格はやっぱり大きくて、頼もしさを感じさせる。
「よかったら…連絡先、教えてもらえませんか」
言葉はぎこちない。
けれど、その瞳は真剣で、ミクの瞳をまっすぐ見ていた。
胸が一瞬だけざわめいた。
涼太を追い続けた一年間、他の誰かを男性として意識することはなかった。
(どうしよう……)
スマホを取り出す手がわずかに震える。心の奥にはまだ涼太への想いが残っている。
けれど、新しい扉が目の前に開かれようとしていた。
ミクはスマホを握りしめたまま、ふっと涼太の姿を思い浮かべた。
1年間追い続けた背中。けれど今日一日も相変わらず彼は自分に特別な関心を向けることはなかった。それどころか、楽しそうにレオやヒカルと笑っている姿が、胸に突き刺さっていた。
——彼には彼女がいる。
——私には、何もない。
「……はい」
ミクは微笑んで、ヒカルにスマホを差し出した。
ヒカルの目が驚きに見開かれ、すぐに嬉しそうな光を宿す。
大きな指先が少し震えながら番号を打ち込み、確認するように彼女に差し出した。
涼太への想いはまだ消えてはいない。
でも、少なくとも「見てもらえない痛み」からは一歩離れられる。
画面に新しく登録された「ヒカル」の文字を見つめながら、ミクは静かに息を吐いた。
(これで、少しは前に進めるかな……)
夜風がそっと背中を押すように吹き抜けていった。
遠目に涼太がその様子を見ていた。
その夜。
帰宅したミクは、ベッドに座ったままスマホを握りしめていた。頭の中には、涼太の笑顔と、ヒカルの真剣な瞳が交互に浮かぶ。
迷った末に、唯一すべてを話せる相手――紗弥に電話をかけた。
「ねぇ、今日ね……」
出会いから、涼太の無関心、そしてヒカルと連絡先を交換したことまでを、一気に話し終えると、胸の奥に少しだけ軽さが生まれていた。
電話の向こうで紗弥が優しく笑う。
「ミク、よく頑張ったじゃん。涼太に気づいてもらえなくてつらかったよね。でも、新しい人が現れたのはきっと意味があるんだよ」
「…でも、私、まだ涼太のこと…」
「いいの。それは自然なことだよ。でもね、ヒカルさんはミクに真剣そう。まずは友達からでもいいじゃん。前に進むきっかけになると思う」
その言葉に、ミクはじんわりと涙がにじんだ。
(紗弥……ありがとう)
翌日から、ヒカルは途切れることなくメッセージを送ってきた。
「昨日は楽しかったです」
「お仕事お疲れさまです」
「今日は暖かかったですね」
一つ一つが短いけれど、真っ直ぐで温かい。
その積み重ねが、ミクの心の隙間を少しずつ埋めていった。
そしてある日、ヒカルから届いたメッセージ。
「今度の週末、もしよかったらランチに行きませんか?」
画面を見つめるミクの胸が、高鳴る。
涼太に片想いしていた一年間では、一度ももらえなかった誘い。
——これは、新しい扉を開くチャンスなのかもしれない。
メッセージの画面を何度も開いては閉じ、ミクは小さく息をついた。
「ランチに行きませんか?」
ただそれだけの言葉なのに、胸の奥が温かくなる。
もし彼が軽い気持ちなら、きっと夜に誘ったはず。でもヒカルは、昼間の時間を選んだ。
その誠実さが、ミクには嬉しかった。
——この人なら……大丈夫かもしれない
指先が自然に動いていた。
「ぜひ行きましょう。楽しみにしています」
送信ボタンを押した瞬間、思わず笑みがこぼれる。
すぐに返事が返ってきた。
「本当ですか!ありがとうございます。じゃあお店、探しておきますね」
画面越しでも伝わってくるヒカルの喜び。
ミクはスマホを胸に抱きしめて、静かに目を閉じた。
——新しい一歩を、ちゃんと踏み出せた気がした。
ランチの約束をした夜、ミクはすぐに紗弥にメッセージを送った。
「今度の週末、ヒカルくんとランチに行くことになったよ」
数分後、電話が鳴る。
「やったじゃん! ミク!」
電話越しの声は弾んでいて、まるで自分のことのように喜んでくれていた。
「でも……大丈夫かな。私、まだ涼太のこと…」
「うん、わかってるよ」
紗弥の声は優しかった。
「でもね、涼太に興味を持ってもらえなかったのも事実。ヒカルくんは違うよ。ちゃんとミクを見てる。最初はランチってとこも誠実じゃん」
「……そうだよね」
「とにかく行ってみなって! それで判断しても遅くないから」
その言葉に、不安よりも期待の方が少しだけ大きくなった。
週末、待ち合わせ場所に現れたヒカルは、爽やかなシャツ姿だった。
背の高さと整った体格はやっぱり目を引くけれど、笑顔は柔らかい。
「こっちです」
案内されたのは、中華料理店の個室だった。
落ち着いた照明に、木の温もりを感じさせる空間。
「静かな方が、ゆっくり話せるかなと思って」
ヒカルは少し照れたように頭をかいた。
ミクは、そっと息笑みを返した。
「ありがとうございます。素敵なお店ですね」
ヒカルの表情が、ぱっと明るくなった。
個室に運ばれてきた湯気の立つ小籠包に、二人の会話は自然と和やかになった。
ヒカルが慣れた手つきでレンゲにのせてくれる。
「ありがとう。……あつっ」
ふうふうと息を吹きかけながら頬を赤らめるミクを見て、ヒカルも笑った。
「気をつけてね。初めて会ったときも、緊張してワインを一気に飲んでましたよね」
「そうだったっけ?」
(それはきっと涼太がいたからだ……)
「はい。顔が真っ赤でした」
思い出し笑いをするヒカルの顔を見ながら、ミクはふと口を開いた。
「……ねえ、これから敬語はやめない?」
ヒカルの目が少しだけ丸くなる。
「もちろん。なんか……嬉しいな」
それから会話は驚くほど盛り上がった。
仕事の話や休日の過ごし方、好きな音楽や映画のこと――。
気づけば緊張はすっかり消えて、笑い合う時間が心地よかった。
「ミクさんって、話しやすいね」
「そんなことないよ。ヒカルくんが聞き上手なんだよ」
互いに褒め合って、また笑う。
その笑い声が、個室にやさしく響いていた。
杏仁豆腐を食べ終え、香り高いジャスミン茶が運ばれてきた。湯気の向こうで、ヒカルが真剣な眼差しを向けてくる。
ミクは、ふいに視線を受け止めて胸がざわついた。さっきまで笑い合っていた空気とは違う、言葉を探しているような沈黙。
「……ミクさん」
名前を呼ばれただけで、なぜか息が詰まる。
ヒカルはゆっくりと、噛みしめるように言葉を続けた。
「今日、一緒にいてすごく楽しかった。正直に言うと……また会いたいなって思った」
茶器に指を添えたまま、ミクは目を瞬かせる。
「…私も、楽しかったよ、ヒカルくん」
自然にそう口にしていた。
彼の表情が柔らかくほころんだ。
そして、しばらくミクを見つめ、決意したように口を開いた。
「ミクさん」
一瞬ためらうように視線を落としたヒカルだったが、すぐに真っ直ぐな瞳を向ける。
「俺、ミクさんをやっとレオに紹介してもらえて、今日一緒に過ごして…気持ちがはっきりした――好きです。ミクさんのことが」
唐突に響いた「好き」という言葉。
胸の奥に、熱い衝撃が走った。
ミクは言葉を失い、視線が定まらない。
一年間追い続けた涼太からは一度も向けられなかった眼差し。
今、自分の目の前にいるのは誠実で真剣な想いを隠さないヒカルの姿だ。
ミクの頬が熱く染まり、指先が小さく震えた。
「…そんな、急に……」
それでも、ヒカルの言葉は一切揺らがなかった。
「急かすつもりはない。でも、俺はどうしても伝えたかったんです」
ミクはしばらく言葉を失っていた。
胸の奥でいくつもの感情がぶつかり合い、すぐには返事ができなかった。
やがて、小さく息を吸い込み、唇を開く。
「……ありがとう。ヒカルくんの気持ち、すごく嬉しい」
その言葉にヒカルの表情がわずかに緩む。
けれど、次に続いたミクの言葉は、彼の心を静かに揺らした。
「でも…ごめんね。実は私、ずっと好きな人がいるの」
テーブルの上で指を絡めながら、ミクは視線を落とす。
ヒカルは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、黙って耳を傾けていた。
「その人とは付き合ってるわけじゃなくて…ただの片想い。もう1年も続けてて、叶わないってわかってる。だから忘れようとしてるんだけど…」
沈黙が落ちる。
食後の香り高いお茶だけが、二人の間に漂っていた。
ミクは勇気を出して顔を上げる。
「ヒカルくんの気持ちは嬉しかった。でも、嘘はつけないから……」
ヒカルはしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと微笑んだ。
「……そっか。正直に話してくれて、ありがとう」
彼の声は少しだけ寂しげだったが、責める響きは一切なかった。
沈黙の中でミクの言葉を受け止めたヒカルは、しばらく茶器を見つめていた。
「今は答えを出せなくてもいい。ミクさんの気持ちが落ち着くまで俺は待つよ。だから、また一緒にランチに行こう」
にかっと笑うその表情は、朗らかなヒカルそのものだった。その明るさに救われたように、ミクの胸の重さが少しだけ軽くなる。
「…いいの? 私なんかに、待つって言ってくれて」
ヒカルは黙って頷いた。
ミクの頬に、自然と微笑みが浮かんでいた。
「…ありがとう、ヒカルくん」
ジャスミン茶の香りに包まれながら、ミクの心に新しい温かさが静かに芽生えていくのを感じた。
ミクがそう呟いたのは、つい昨日のことだった。
そんなとき、レオが声をかけてきた。
「紹介したい友達がいるんだ。お前に合うんじゃないかと思ってさ」
気休めの言葉だと思った。
けれど、レオの真剣な目に押されて、会う約束をした。
そして現れたのが――ヒカルだった。
鍛えられた大きな体。
けれど威圧感はなく、むしろ大きな体に似合わないくらい穏やかな笑みを浮かべていた。
「はじめまして」
低く響く声に、一瞬だけ胸が高鳴る。
涼太への想いを忘れられるなんて、まだ思えない。でも、ヒカルと話すと不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
一方のヒカルは、目の前に座るミクを直視できなかった。
写真で見るよりも、レオの話で聞いて想像していたよりも――ずっと綺麗だったから。
背筋を伸ばしても、自分の心臓の鼓動がうるさすぎて隠せない。
「なに緊張してんだよ、ヒカル。顔真っ赤だぞ」
レオが茶化すように笑うと、ミクも思わず口元を緩めた。
「や、やめろよ…」
ヒカルは耳まで赤くしながら、グラスの水を一気に飲み干した。
そんな和やかな空気の中、レオが不意に立ち上がる。
「そうだ、もう一人呼んでるんだ。ちょうど来る頃かな」
そして現れたのは…、涼太だった。
ミクの表情が一瞬で凍りつく。
そしてレオだけが、にやにやと悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。
「……なんで」
ミクの唇から、かすれた声が零れ落ちた。
涼太は驚いたようにミクを見つめ、そして視線をヒカルへと移した。
「レオ、これはどういう集まりだ?」
レオは肩をすくめる。
「たまにはこういうのもいいだろ? みんなで混ざった方が、面白いからさ」
ミクの胸の中で、諦めかけていたはずの感情と、新しく芽生え始めた感情が、ぐちゃぐちゃに絡まり始める――。
「涼太も来たんだ」
ヒカルは子どものように嬉しそうに笑った。
ヒカルは涼太とも友人関係のようだ。
その一方で、ミクの胸は乱れていた。
ここに涼太が来るなんて思ってもいなかった。
忘れようと決めたばかりの人が、なぜ今この場に――。
涼太は周囲を見渡して、不思議そうに眉をひそめた。
「お前ら、どういう集まりなんだ? レオ、お前が仕切ってんのか」
「まぁまぁ、偶然の化学反応ってやつだよ」
レオは悪戯っぽく笑いながら答える。
ミクは俯き、声が出なかった。
隣でヒカルが穏やかな笑顔を浮かべているのが、かえって苦しい。
そして涼太は、ミクの視線に気づくことなく、ただ「女友達が一人混ざっている」くらいにしか思っていない様子だった。
けれど、目の前の空気は確実に揺れ始めていた。
「なぁ涼太、聞いてくれよ」
レオがわざとらしく声を張った。
「ヒカルな、ミクのこと気に入ってんだぜ」
「おいっ、レオ…」
ヒカルの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
手を振って否定しようとするけれど、視線はどうしてもミクに向かってしまう。
「えっと…そんな、まだ知り合ったばかりだし」
ミクは困ったように笑みを浮かべ、やんわりと否定した。
心臓が苦しいのは涼太が右斜前にいる、その事実のせいだった。
「そう」
涼太は特に表情を変えず、手を挙げて店員を呼ぶ。
「すみません、生もう一つ」
彼にとって、今の会話はただの場の冗談に過ぎないらしい。
ミクの否定の言葉にも、ヒカルの照れ隠しにも、何一つ反応を見せない。
——涼太は知らない。
自分の一挙一動が、ミクの心をかき乱していることを。
そしてレオだけが、にやりと口角を上げてその様子を眺めていた。
テーブルを囲んで、四人の会話は賑やかに弾んでいた。
レオの冗談にヒカルが大げさに反応し、涼太は笑いながらツッコミを入れる。
——けれど、ミクは会話に集中できなかった。
気づけば視線は涼太を追ってしまう。
笑ったときに少し細くなる瞳も、グラスを持つ大きな手も、何気ない仕草一つ一つが胸を締めつける。
一年前から心の中で見続けてきた人。
彼に彼女ができてもやはり簡単に気持ちを抑えることはできない。
忘れようと決めたはずなのに…
——どうして、まだこんなに——
胸の高鳴りは止まらない。
鼓動の音がみんなに聞こえてしまいそうで、手を膝の上で固く握りしめた。
一方の涼太は、ミクの心の動きをまるで知らない。
レオやヒカルと軽快に会話を続け、ときおり肩を揺らして笑っていた。
ミクは唇を噛み、視線を落とす。
——この想いは、やっぱり届かない。
けれど、目を上げればまた追ってしまう。
どうしても、彼を。
気づけば時間はすっかり遅くなっていた。
店を出ると夜風が心地よく、少し酔った空気を冷ましてくれる。
ミクはほとんど涼太と会話を交わせないまま、帰りの時間を迎えていた。
気が沈んだまま駅へ向かおうとしたとき、背後から声がかかる。
「ミクさん」
振り返ると、ヒカルが少し緊張した表情で立っていた。
夜の街灯に照らされたその体格はやっぱり大きくて、頼もしさを感じさせる。
「よかったら…連絡先、教えてもらえませんか」
言葉はぎこちない。
けれど、その瞳は真剣で、ミクの瞳をまっすぐ見ていた。
胸が一瞬だけざわめいた。
涼太を追い続けた一年間、他の誰かを男性として意識することはなかった。
(どうしよう……)
スマホを取り出す手がわずかに震える。心の奥にはまだ涼太への想いが残っている。
けれど、新しい扉が目の前に開かれようとしていた。
ミクはスマホを握りしめたまま、ふっと涼太の姿を思い浮かべた。
1年間追い続けた背中。けれど今日一日も相変わらず彼は自分に特別な関心を向けることはなかった。それどころか、楽しそうにレオやヒカルと笑っている姿が、胸に突き刺さっていた。
——彼には彼女がいる。
——私には、何もない。
「……はい」
ミクは微笑んで、ヒカルにスマホを差し出した。
ヒカルの目が驚きに見開かれ、すぐに嬉しそうな光を宿す。
大きな指先が少し震えながら番号を打ち込み、確認するように彼女に差し出した。
涼太への想いはまだ消えてはいない。
でも、少なくとも「見てもらえない痛み」からは一歩離れられる。
画面に新しく登録された「ヒカル」の文字を見つめながら、ミクは静かに息を吐いた。
(これで、少しは前に進めるかな……)
夜風がそっと背中を押すように吹き抜けていった。
遠目に涼太がその様子を見ていた。
その夜。
帰宅したミクは、ベッドに座ったままスマホを握りしめていた。頭の中には、涼太の笑顔と、ヒカルの真剣な瞳が交互に浮かぶ。
迷った末に、唯一すべてを話せる相手――紗弥に電話をかけた。
「ねぇ、今日ね……」
出会いから、涼太の無関心、そしてヒカルと連絡先を交換したことまでを、一気に話し終えると、胸の奥に少しだけ軽さが生まれていた。
電話の向こうで紗弥が優しく笑う。
「ミク、よく頑張ったじゃん。涼太に気づいてもらえなくてつらかったよね。でも、新しい人が現れたのはきっと意味があるんだよ」
「…でも、私、まだ涼太のこと…」
「いいの。それは自然なことだよ。でもね、ヒカルさんはミクに真剣そう。まずは友達からでもいいじゃん。前に進むきっかけになると思う」
その言葉に、ミクはじんわりと涙がにじんだ。
(紗弥……ありがとう)
翌日から、ヒカルは途切れることなくメッセージを送ってきた。
「昨日は楽しかったです」
「お仕事お疲れさまです」
「今日は暖かかったですね」
一つ一つが短いけれど、真っ直ぐで温かい。
その積み重ねが、ミクの心の隙間を少しずつ埋めていった。
そしてある日、ヒカルから届いたメッセージ。
「今度の週末、もしよかったらランチに行きませんか?」
画面を見つめるミクの胸が、高鳴る。
涼太に片想いしていた一年間では、一度ももらえなかった誘い。
——これは、新しい扉を開くチャンスなのかもしれない。
メッセージの画面を何度も開いては閉じ、ミクは小さく息をついた。
「ランチに行きませんか?」
ただそれだけの言葉なのに、胸の奥が温かくなる。
もし彼が軽い気持ちなら、きっと夜に誘ったはず。でもヒカルは、昼間の時間を選んだ。
その誠実さが、ミクには嬉しかった。
——この人なら……大丈夫かもしれない
指先が自然に動いていた。
「ぜひ行きましょう。楽しみにしています」
送信ボタンを押した瞬間、思わず笑みがこぼれる。
すぐに返事が返ってきた。
「本当ですか!ありがとうございます。じゃあお店、探しておきますね」
画面越しでも伝わってくるヒカルの喜び。
ミクはスマホを胸に抱きしめて、静かに目を閉じた。
——新しい一歩を、ちゃんと踏み出せた気がした。
ランチの約束をした夜、ミクはすぐに紗弥にメッセージを送った。
「今度の週末、ヒカルくんとランチに行くことになったよ」
数分後、電話が鳴る。
「やったじゃん! ミク!」
電話越しの声は弾んでいて、まるで自分のことのように喜んでくれていた。
「でも……大丈夫かな。私、まだ涼太のこと…」
「うん、わかってるよ」
紗弥の声は優しかった。
「でもね、涼太に興味を持ってもらえなかったのも事実。ヒカルくんは違うよ。ちゃんとミクを見てる。最初はランチってとこも誠実じゃん」
「……そうだよね」
「とにかく行ってみなって! それで判断しても遅くないから」
その言葉に、不安よりも期待の方が少しだけ大きくなった。
週末、待ち合わせ場所に現れたヒカルは、爽やかなシャツ姿だった。
背の高さと整った体格はやっぱり目を引くけれど、笑顔は柔らかい。
「こっちです」
案内されたのは、中華料理店の個室だった。
落ち着いた照明に、木の温もりを感じさせる空間。
「静かな方が、ゆっくり話せるかなと思って」
ヒカルは少し照れたように頭をかいた。
ミクは、そっと息笑みを返した。
「ありがとうございます。素敵なお店ですね」
ヒカルの表情が、ぱっと明るくなった。
個室に運ばれてきた湯気の立つ小籠包に、二人の会話は自然と和やかになった。
ヒカルが慣れた手つきでレンゲにのせてくれる。
「ありがとう。……あつっ」
ふうふうと息を吹きかけながら頬を赤らめるミクを見て、ヒカルも笑った。
「気をつけてね。初めて会ったときも、緊張してワインを一気に飲んでましたよね」
「そうだったっけ?」
(それはきっと涼太がいたからだ……)
「はい。顔が真っ赤でした」
思い出し笑いをするヒカルの顔を見ながら、ミクはふと口を開いた。
「……ねえ、これから敬語はやめない?」
ヒカルの目が少しだけ丸くなる。
「もちろん。なんか……嬉しいな」
それから会話は驚くほど盛り上がった。
仕事の話や休日の過ごし方、好きな音楽や映画のこと――。
気づけば緊張はすっかり消えて、笑い合う時間が心地よかった。
「ミクさんって、話しやすいね」
「そんなことないよ。ヒカルくんが聞き上手なんだよ」
互いに褒め合って、また笑う。
その笑い声が、個室にやさしく響いていた。
杏仁豆腐を食べ終え、香り高いジャスミン茶が運ばれてきた。湯気の向こうで、ヒカルが真剣な眼差しを向けてくる。
ミクは、ふいに視線を受け止めて胸がざわついた。さっきまで笑い合っていた空気とは違う、言葉を探しているような沈黙。
「……ミクさん」
名前を呼ばれただけで、なぜか息が詰まる。
ヒカルはゆっくりと、噛みしめるように言葉を続けた。
「今日、一緒にいてすごく楽しかった。正直に言うと……また会いたいなって思った」
茶器に指を添えたまま、ミクは目を瞬かせる。
「…私も、楽しかったよ、ヒカルくん」
自然にそう口にしていた。
彼の表情が柔らかくほころんだ。
そして、しばらくミクを見つめ、決意したように口を開いた。
「ミクさん」
一瞬ためらうように視線を落としたヒカルだったが、すぐに真っ直ぐな瞳を向ける。
「俺、ミクさんをやっとレオに紹介してもらえて、今日一緒に過ごして…気持ちがはっきりした――好きです。ミクさんのことが」
唐突に響いた「好き」という言葉。
胸の奥に、熱い衝撃が走った。
ミクは言葉を失い、視線が定まらない。
一年間追い続けた涼太からは一度も向けられなかった眼差し。
今、自分の目の前にいるのは誠実で真剣な想いを隠さないヒカルの姿だ。
ミクの頬が熱く染まり、指先が小さく震えた。
「…そんな、急に……」
それでも、ヒカルの言葉は一切揺らがなかった。
「急かすつもりはない。でも、俺はどうしても伝えたかったんです」
ミクはしばらく言葉を失っていた。
胸の奥でいくつもの感情がぶつかり合い、すぐには返事ができなかった。
やがて、小さく息を吸い込み、唇を開く。
「……ありがとう。ヒカルくんの気持ち、すごく嬉しい」
その言葉にヒカルの表情がわずかに緩む。
けれど、次に続いたミクの言葉は、彼の心を静かに揺らした。
「でも…ごめんね。実は私、ずっと好きな人がいるの」
テーブルの上で指を絡めながら、ミクは視線を落とす。
ヒカルは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、黙って耳を傾けていた。
「その人とは付き合ってるわけじゃなくて…ただの片想い。もう1年も続けてて、叶わないってわかってる。だから忘れようとしてるんだけど…」
沈黙が落ちる。
食後の香り高いお茶だけが、二人の間に漂っていた。
ミクは勇気を出して顔を上げる。
「ヒカルくんの気持ちは嬉しかった。でも、嘘はつけないから……」
ヒカルはしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと微笑んだ。
「……そっか。正直に話してくれて、ありがとう」
彼の声は少しだけ寂しげだったが、責める響きは一切なかった。
沈黙の中でミクの言葉を受け止めたヒカルは、しばらく茶器を見つめていた。
「今は答えを出せなくてもいい。ミクさんの気持ちが落ち着くまで俺は待つよ。だから、また一緒にランチに行こう」
にかっと笑うその表情は、朗らかなヒカルそのものだった。その明るさに救われたように、ミクの胸の重さが少しだけ軽くなる。
「…いいの? 私なんかに、待つって言ってくれて」
ヒカルは黙って頷いた。
ミクの頬に、自然と微笑みが浮かんでいた。
「…ありがとう、ヒカルくん」
ジャスミン茶の香りに包まれながら、ミクの心に新しい温かさが静かに芽生えていくのを感じた。
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