3 / 6
3話 揺れる
しおりを挟む
ヒカルとのやりとりは日に日に自然になっていった。
毎日のメールは欠かさず届き、他愛もない内容に笑ったり、気づけばミクの日常に、ヒカルの存在は当たり前になりつつあった。
そんなある日の夜、ミクは久しぶりにレオと電話をした。
「でさ、最近ヒカルくんとよくやりとりしてるんだ」
声のトーンを少し抑えて打ち明けると、スマホの向こうでレオが短く笑った。
「へえ……そうなんだ」
その声色には、からかうような軽さと、どこか含みのある響きが混じっていた。
「なに、その反応」
ミクは苦笑しつつも、胸の奥がざわつく。
レオはすぐには答えず、数秒の沈黙のあと、わざとらしくため息をついた。
「いや、別に。…まあ、ヒカルはいいやつだよ」
レオの言葉にミクは頷いた。
「うん、私もそう思うよ」
「付き合うのかよ」
レオの言葉をミクはすぐに否定した。
「まだ、涼太のこと吹っ切れてないから。こんな気持ちのままヒカルくんとは付き合えないよ」
ミクの一途さにレオは笑うしかなかった。
それから数日後、その日は雲ひとつない秋晴れだった。
ヒカルからの誘いでミクが訪れたのは、街で評判の小さなケーキ屋。白い壁に木の扉、可愛らしいショーケースに並ぶケーキはどれも可愛らしかった。
二人は並んでショーケースを覗き込み、あれこれ悩んだ末に、それぞれ違うケーキを選んでシェアすることにした。
窓際の席に座り、紅茶とケーキが運ばれると、自然に会話が弾む。
仕事の話、最近見た映画、子どものころの思い出……。
「え、ミクさん、水泳やってたの? ちょっと意外」
「そうなの。わりと本格的にね。ヒカルくんは?」
「俺は野球一筋。いまでも友達と草野球やってるよ」
お互いの知らなかった一面が次々と明らかになって、話題は尽きない。
「このチーズケーキ、すごく濃厚だな。……ミクも食べてみてよ」
不意に呼び捨てで名前を呼ばれて、ミクはフォークを止めた。
「……え?」
驚いて顔を上げると、ヒカルは何事もなかったように微笑んでいた。
「え? あ、ごめん。呼び捨てにしちゃった。でも……なんか、そのほうがしっくりくる気がして」
ミクは戸惑いながら頬が少し熱くなる。
「……急にだから、びっくりした」
「嫌?」
真剣な顔で見つめられ、首を横に振った。
「……ううん、嫌じゃない」
「よかった。じゃあ、これからは“ミク”って呼ぶよ」
当たり前のようにそう言って、ヒカルは笑った。
レオからのお誘いは、思いがけないものだった。
もう10月も終わりに差し掛かっていた。
「ミク、今度みんなで集まろうよ。紗弥も来るし、他にも友達呼ぶから」
メッセージにはさらりと書いてあったけれど、続けてこう添えられていた。
「ヒカルと涼太も来るよ。ただ、2人は仕事で少し遅れて合流する」
その一文に、ミクの心は妙にざわついた。
ヒカルと涼太――今の自分の心を揺らす二人が同じ場に現れることを思うと、どうしても落ち着かない。
迎えた当日。
居酒屋の半個室に案内されると、すでに数人が集まっていて、和やかな雰囲気が広がっていた。
「ミク、こっち!相変わらず可愛いな!」
手を振ったのはレオ。その隣の席には、見慣れない青年が座っていた。
「紹介するよ。隼、俺の友達」
「はじめまして、隼です。よろしく」
穏やかな笑顔と落ち着いた声。
「ミクです、よろしくお願いします」
席の流れで、ミクは自然と隼の隣に座ることになった。
彼は聞き上手で、さりげなく会話を広げてくれるタイプだった。
「このお店、雰囲気いいですね。レオが選んだんですか?」
「うん、そうみたい。私も初めて来たけど、いい感じだよね」
気づけば、紗弥も加わって、テーブルは明るい笑い声で満ちていった。
それでも、ミクの心の片隅には
――ヒカルと涼太、いつ来るんだろう
という小さな緊張が、ずっと灯り続けていた。
隼とミク、紗弥の会話がちょうど盛り上がっていたときだった。
入口の方から、ざわめきと共に二人の姿が現れる。
「お待たせ!」
元気な声で入ってきたのはヒカル。そのすぐ後ろには涼太の姿もあった。
ミクの心臓が、瞬間的に跳ねる。
——まさか、同じタイミングで。
「おー、やっと来たか!」
レオが声を上げ、席を詰めるようにみんなに促す。
だがミクの隣はすでに隼で、その反対側には紗弥がいる。
結果的に、ヒカルは少し離れた位置に座るしかなかった。
「……ここしか空いてないか」
小さく呟いて腰を下ろしたヒカルの横顔には、一瞬だけ複雑な影がよぎる。
涼太はというと、特に気にした様子もなく自然に席につき、レオや紗弥とすぐに笑い合い始めた。
その様子を見ながら、ミクの胸は複雑にざわめいていく。
——どうして私は、まだ涼太を目で追ってしまうんだろう。
でも、遠くから見ているヒカルの視線も……確かに感じてしまう。
「でさぁ、最近どうなの? ミクとヒカル」
場が少し落ち着いた頃、レオがわざと大きな声で切り出した。
テーブルの空気が、一瞬ぴんと張りつめる。
ミクは箸を持つ手を止め、思わず声を詰まらせた。
「おい、レオ!」
ヒカルが小声で制止するも、レオはにやりと笑って肩をすくめる。
「結構2人でデートしてんだろ?」
周りからも「えー?」「お似合い」なんて冗談交じりの声が上がり、場は賑やかに。
けれどミクの胸は、ざわめきと戸惑いでいっぱいだった。
斜め向かいに座る涼太が、何気ない表情でグラスを口に運んでいる。
——涼太には知られたくない——
ミクは苦笑いを浮かべ、やんわりと首を振った。
「…ちょっと待って。そんなの全然……ただの友達だから」
「デートしてるくせに?」
レオはわざとらしく言葉を伸ばし、ニヤニヤと笑う。
ミクの視線は自然と涼太を追ってしまう。
だが、涼太は特に興味を示すこともなく、別の友人と会話を始めていた。
その様子を横目で見ながら、ヒカルは黙ってグラスの氷を回していた。
ミクは隣に座る隼と映画や音楽の話で盛り上がっていた。
「へぇ、その監督好きなんだ。意外だな」
「意外かな? 結構、はまっちゃってて」
ヒカルは2人を睨むような目で見つめていた。ミクと隼が楽しそうに話す様子に苛立ちが隠せなかった。
隼との会話がいったん落ち着き、ミクは席を立ちトイレに向かう。
席に戻る際、ミクは自然とヒカルの横を通った。
その瞬間――
ぐいっと腕を掴まれた。
「えっ……」
驚いて振り向くと、ヒカルが真剣な眼差しを向けていた。
「ミク、こっちに移動してきて」
低く抑えた声で囁かれる。
一瞬、テーブルの周囲がざわめいた。
「おお……?」とレオが面白がるように声を上げる。
ミクは頬を熱くしながらも、逆らうことができなかった。
「……うん」
小さく頷いて、そのままヒカルの隣に腰を下ろす。
隼は少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑って「そっか」と引き下がった。
そして――
斜め前の涼太はグラスを持ち、淡々とお酒を口に運んでいた。
どこか遠くを見つめ、まるでこの場の出来事には関心がないかのように。
ミクがヒカルの隣に腰を下ろすと、彼は少し照れたように笑い、柔らかな声で話しかけてきた。
「なんか、ごめん」
ミクは戸惑いながらも首を横に振る。
ミクは斜め前にいる涼太からどうしても目を逸らせなかった。
グラスを持つ手の落ち着いた仕草、低く響く声。
レオと冗談を交わして笑ったときに、ふっと上がる口角――。
(……やっぱり、目で追ってしまう)
隣でヒカルが「美味しいね、このお店」と優しく微笑む。
ミクは笑みを返すけれど、心の奥では涼太の横顔に意識が絡みついて離れなかった。
何をしていても視線は自然と吸い寄せられていき、気づけばじっと涼太を見つめていた。
その瞬間だった。
涼太が何気なく顔を上げ、視線がミクと真っ直ぐに重なった。
ほんの一拍、互いの瞳が絡み合う。
ミクの心臓が大きく跳ね、呼吸が止まる。
けれど――
涼太はすぐに何事もなかったかのように、ゆるやかに目を逸らした。
グラスを口に運び、再びレオの話に穏やかに笑みを返す。
残されたミクの胸には、熱のこもった余韻だけが強く響き続けていた。
涼太のスマホがテーブルの上で震え、軽快な着信音が響いた。
彼は画面を確認すると、柔らかく口角を上げ、何のためらいもなく通話を取る。
「……ああ、うん。今、友達と一緒」
その声は普段よりも穏やかに聞こえた。
彼女だけに見せる特別な響きを帯びている。
「はは、そんなこと言うなよ」
「あとで連絡するから」
穏やかで楽しげな口調。
ミクの胸はぎゅっと締め付けられ、息が詰まる。
(……やっぱり、彼女のことを大切にしてる)
(私が入る余地なんて、最初から――)
笑顔を作ろうとしたけれど、頬が引きつってうまく形にならなかった。
隣のヒカルの気配すら霞んで、耳には涼太の優しい声だけが痛いほど響き続けていた。
「……ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね」
なるべく自然に言葉を出し、席を立つ。
けれど足取りはどこかぎこちなく、背中にヒカルの視線を感じる。
個室のドアを閉めた瞬間、深く息を吐き出した。
鏡に映る自分の顔は、笑顔を張りつけていたはずなのに、今は目が潤んでいる。
(だめだ……まだ、こんなにも涼太を想ってる)
(ヒカルくんがあんなに優しくしてくれるのに……)
手をぎゅっと握りしめ、心の揺れを押さえ込もうとする。
冷たい水で頬を叩き、必死に呼吸を整えた。
——このまま戻れば、きっとまた何事もなかったように笑える。
トイレのドアを押して外に出ると、そこに立っていたのは涼太だった。
コートを手に持ち、どこか帰り支度の雰囲気。
「……あ、ミク」
軽く会釈して、穏やかに微笑む。
「俺、先に帰るから。またね」
そう言って歩き出そうとした瞬間――
ミクの唇が勝手に動いた。
「……帰らないで」
自分でも驚くほどはっきりとした声だった。
涼太の足が止まり、振り返る。
その目は少し驚いたように丸くなり、けれどすぐに困ったような柔らかい笑みに変わった。
「……どうした?」
彼の低い声に、胸が強く鳴り響く。
ミクは言葉を続けたいのに、喉が詰まって声が出ない。
ただ、必死に彼の背中を見送ることだけはしたくなかった。
「……帰らないで」
思わず口にした言葉は、空気を震わせた。
「あ、ミク、ここにいたんだ」
その時、現れたのはヒカルだった。
無邪気な笑顔で二人に歩み寄ってくる。
涼太は一瞬だけミクとヒカルを交互に見やり、柔らかな微笑みを浮かべた。
「……じゃあ、また」
短い挨拶だけを残し、エレベーターへと向かう。
扉が閉まるまでの間、ミクは必死に視線を追ったが、涼太は振り返らなかった。
「ごめん、ちょっと俺もトイレ」
ヒカルは気づかない様子でそう言い、ドアの奥へ消えていく。
残されたミクは、立ち尽くしたまま、心臓は激しく脈打ち、足元が揺れるような感覚に襲われる。
たったひと言の衝動は、何の答えも返ってこないまま宙に消えた。
(……どうして、あんなことを言ってしまったんだろう)
呆然と立ちすくむミクの胸には、熱と冷たさが同時に広がっていった。
席に戻ったミクの顔色は明らかにおかしかった。
グラスに手を伸ばす手は震え、笑顔を作ろうとしても頬が引きつっている。
レオがすぐに異変を感じ取り、身を乗り出した。
「ミク、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
その言葉に堪えていたものが一気にあふれ出す。目に涙が滲み、声はかすれて震えていた。
「……ごめん、帰るね。ヒカルくんによろしく」
最後まで言い切る前に立ち上がり、椅子が音を立てて引かれる。
そのまま駆けるように店の出口へ向かう。
「ミク!!」
紗弥がすぐに立ち上がり、彼女の後を追う。
店内には一瞬、重たい沈黙が落ちた。
ちょうどそのとき、トイレのドアが開き、ヒカルが何も知らない顔で戻ってきた。
「お待たせー……あれ、ミクは?」
彼の問いかけに、誰もすぐには答えられなかった。
「……ミクは、帰ったよ」
レオが短く告げると、ヒカルの表情が一瞬で曇った。
「え? どうして……俺、ちょっと――」
すぐに追いかけようと立ち上がるヒカルの腕を、レオがぐっと掴んだ。
「待て、ヒカル」
低い声に込められた緊張が、場の空気を止めた。
「今のミクを、おまえが追っても余計に混乱させるだけだ」
「なんでだよ…」
ヒカルは必死に、掴まれた腕を振り払おうとする。
そのとき――
店のドアが開き、見覚えのある背恰好の影が戻ってきた。
——涼太だった。
レオの手が止まり、ヒカルも振り返る。
涼太は周囲をぐるりと見渡し、怪訝そうな表情で口を開いた。
「さっき…ミク、なんか様子がおかしくて。もう帰ったのか。まだここにいると思ったんだけど…」
行き場を失った空気の中で、三人の視線が絡み合う。
ヒカルの拳は震え、レオは唇を固く結び、涼太はわずかに眉を寄せていた。
店を飛び出したミクは、近くの街灯の下で立ち尽くしていた。
冷たい夜風に当たっても、胸の痛みは収まらない。
「ミク…」
駆け寄る足音とともに、紗弥が肩に手を置いた。
ミクは振り返り、溢れそうな涙を必死にこらえながらかすれた声を漏らす。
「……私、言っちゃったの。涼太に…“帰らないで”って……」
言葉が途切れると、とうとう涙が頬を伝った。
紗弥はため息をつき、ミクを強く抱きしめる。
「いいんだよ。好きなんだから、言いたくなるのは当たり前じゃん」
「でも……涼太、何も言わずに笑って帰っていった……彼女さんの所に……」
嗚咽混じりの声が夜に溶ける。
紗弥は背中を撫でながら、優しく囁いた。
「泣いていいよ。私がそばにいるから。」
ミクは声を押し殺して泣き、紗弥の肩に顔を埋める。
冷たい夜風の中で、涙だけが温かく、止めどなく流れ続けた。
アパートに戻ったミクは、バッグをソファに置いたままベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめながらも、頭の中では涼太の顔と、ヒカルの無邪気な笑顔が交互に浮かんで消えていく。
テーブルの上でスマホが震えた。
画面には「ヒカル」の名前が何度も並んでいる。
けれどミクの指は動かない。
(今の私じゃ、どんな顔して話せばいいのかわからない……)
また着信音が鳴り響く。
けれど今度画面に表示されたのは――「レオ」
ミクは少し迷ったが、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
声はかすれ、泣き疲れた響きを帯びていた。
『ミク、大丈夫か?』
レオの低く落ち着いた声が耳に広がる。
その安心感に、胸の奥に張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
「……ごめんね、迷惑かけちゃって」
『迷惑なんかじゃない。ヒカルには俺から伝えておく。今は無理するな』
レオの言葉に、ミクは堪えていた涙をまた溢れさせた。
「……ありがとう、レオ…」
『……ミク』
レオの声が一瞬だけ低くなった。
その響きに胸の奥がざわつく。
『涼太のこと、まだ好きなんだろ?』
心臓が大きく跳ねた。
息を呑み、ミクは思わずスマホを耳から離しかけた。
「……っ…」
声が出なかった。
『見てればわかるさ。さっきの店でのミクの目…全部、涼太に向いてた。気づかなかったのは、涼太本人くらいだろ』
胸が締め付けられる。
誰にも気づかれていないと思っていた。自分だけの秘密の痛みだと思い込んでいた。
涙がまた頬を伝う。
「私……隠してたのに……」
『隠せてない。少なくとも俺には。…ミク、無理すんなよ』
レオの声は静かで、優しかった。
涼太はミクを気にしながらマンションに着いた。
『帰らないで』
あの時のミクの表情……
大きくため息を吐き、ドアを開ける。
リビングの明かりがすでに灯っていた。
「おかえり」
キッチンから振り返った梨花は、ワイングラスを片手に微笑んだ。
部屋にはかすかに香水とアルコールの匂いが混ざっていた。
「また来てたのか」
涼太は小さく息を吐き、ネクタイを緩めた。
梨花は何も言わずに近づき、彼の胸に手を当てると、そのまま顔を寄せる。
「……キス、していい?」
涼太の返事を待つ前に、梨花は唇を押し付けた。
涼太は目を閉じる。頭の奥に、ミクの表情がふっと浮かぶ。
──さっきのは一体なんだったんだ
今日見たミクはヒカルと仲が良さそうだった。
それなのにあの時の泣きそうな顔
『帰らないで』
ミクを思い出すたび、胸の奥がざわついた。
梨花の指が首筋をなぞる。
現実へ引き戻されるように、涼太は彼女を抱き寄せた。
しかし心のどこかで気づいていた。
梨花を抱いても自分の心が、どこか別の場所にいることを。
夜が更け、カーテンの隙間から街の灯りが差し込んでいた。
涼太は背中で静かに呼吸を整えていた。
汗の匂いと、まだ消えきらない熱気が部屋に漂っている。
隣では、梨花が満足そうに微笑んでいた。
「……涼太、今日、久々に激しかったね」
彼女は軽く笑いながら、胸を彼の腕に押し当てた。
「ああ」
涼太は短く答える。
言葉よりも先に、胸の奥に溜めていた複雑な思いが少しずつ静まっていくのを感じていた。
ミクは友人であるヒカルの好きな相手だ。
彼女の姿が頭をかすめるが、それを追い払うように、梨花の髪を指で梳いた。
彼女はその動きに応えるように、再び涼太の顔を覗き込み、深く唇を重ねる。
「ねえ……もう一度、しよ?」
囁く声に、涼太は一瞬だけ目を閉じた。
理屈も、整理もつかない感情のまま、再び梨花を抱きしめた。
それから数週間後、ミクはレオに誘われて個室居酒屋に来ていた。
暖かな灯りが二人を包む。
「ミク、今日も可愛いなあ。なんだか最近、余計に眩しく見えるぜ」
レオは大きな手で軽くミクの肩を叩き、にやりと笑う。
「また始まった……」
ミクは少し顔を赤らめて苦笑しながらも満更でない顔をする。
「ところで、ヒカルとはどうだ?」
レオが茶目っ気たっぷりに聞くと、ミクは思わず手元の箸を止めて俯いた。
「うん…最近連絡返してないの…涼太のことがやっぱり忘れられないし…」
ミクの声は小さかった。
相変わらず涼太に一途な彼女が愛おしくてレオの胸がじんわり熱くなる。
抱き寄せたい気持ちをぐっと押さえ、代わりに陽気に話題を変える。
「ま、いいや!今日のおすすめはこの海老のアヒージョだぜ、ミク絶対好きだろ?」
レオが大きく笑いながら差し出すと、ミクも無邪気に笑い返す。
「ほんとだ、美味しそう!」
彼女の笑顔に、レオは心の中でそっとつぶやく。
——ミク…好きだ——
居酒屋での二人のやり取りは、久しぶりに彼女を笑顔にさせ、静かで穏やかな時間を作っていた。
すると、個室居酒屋の扉が静かに開き、涼太が姿を現した。
「え……涼太?」
ミクは驚きの声を漏らし、慌てて顔を赤らめる。
先日『帰らないで』と言ってしまったことを思い出したのだ。
レオはニヤリと笑いながら、陽気に手を振る。
「おお、涼太!こっちこっち、ミクと飯食ってたんだぜ!」
涼太は二人を見て小さく苦笑する。
「おまえら、ほんと仲良いな」
ミクの表情を見て、居たたまれなくなったレオはこっそり涼太を呼び出したのだ。
レオはにこやかにミクのグラスにワインを注ぐ。
「ほら、もっと飲めよ、ミク!」
「えー…そんなに飲めるかな」
ミクは少し戸惑いながらも、笑顔でグラスを傾ける。
レオの冗談が飛ぶたび、ミクはお腹を抱えて笑った。
「もう、レオってほんとに面白いんだけど」
涼太は横で静かに二人を見つめ、たまにクスッと笑うだけだった。
だがしかし、ミクの笑顔に時々ドキッと胸が騒ぐ。無邪気に笑う姿に心が惹かれた。
レオはそんな涼太の視線を意識しながらも、陽気に続ける。
「ミクは俺のお気に入りだからな!ちゃんと笑っててもらわないと!」
ミクはまた笑い声をあげ、無邪気に笑う。
涼太は静かに見守りながら、心の奥で確信した。
——薄々気付いていたが、やはりレオはミクに夢中だ。ヒカルだけでなくレオもまたミクが好きに違いない。
そして、自分もまた、彼女の笑顔を目にすると自然と気持ちが揺れてしまうことを感じていた。
ワインの香りと笑い声に包まれた個室は、いつもと少し違う空気が流れていた。
レオがスマホを取り出して仕事の電話を受けると、個室には自然と涼太とミクの二人だけが残った。
ミクは急に動揺し、何を話して良いのかわからなくなる。
レオがいれば素で笑えていたのに、涼太と二人きりになると緊張で手が少し震えそうだった。
「ミク、もう少しワイン頼む?」
少し考え、笑顔で「うん……」と答えようとしたが、涼太の穏やかな声に少し躊躇う。
「いや、やめとこうか。ミク、酔ってるな…」
涼太のやんわりした止め方に、少し恥ずかしそうにうなずく。
ミクが顔を上げると、涼太と目が合った。
普段ならすぐ逸らしてしまうのに、今日は酔いのせいか、目を離すことができない。
涼太もまた、ミクのその真っ直ぐな視線をじっと見つめ返す。
「…涼太……」
ミクの声が小さく震える。涼太はその声に、心のどこかが揺れるのを感じながら、静かに頷く。
二人だけの空間に、ワインの香りとかすかな緊張感が漂った。
毎日のメールは欠かさず届き、他愛もない内容に笑ったり、気づけばミクの日常に、ヒカルの存在は当たり前になりつつあった。
そんなある日の夜、ミクは久しぶりにレオと電話をした。
「でさ、最近ヒカルくんとよくやりとりしてるんだ」
声のトーンを少し抑えて打ち明けると、スマホの向こうでレオが短く笑った。
「へえ……そうなんだ」
その声色には、からかうような軽さと、どこか含みのある響きが混じっていた。
「なに、その反応」
ミクは苦笑しつつも、胸の奥がざわつく。
レオはすぐには答えず、数秒の沈黙のあと、わざとらしくため息をついた。
「いや、別に。…まあ、ヒカルはいいやつだよ」
レオの言葉にミクは頷いた。
「うん、私もそう思うよ」
「付き合うのかよ」
レオの言葉をミクはすぐに否定した。
「まだ、涼太のこと吹っ切れてないから。こんな気持ちのままヒカルくんとは付き合えないよ」
ミクの一途さにレオは笑うしかなかった。
それから数日後、その日は雲ひとつない秋晴れだった。
ヒカルからの誘いでミクが訪れたのは、街で評判の小さなケーキ屋。白い壁に木の扉、可愛らしいショーケースに並ぶケーキはどれも可愛らしかった。
二人は並んでショーケースを覗き込み、あれこれ悩んだ末に、それぞれ違うケーキを選んでシェアすることにした。
窓際の席に座り、紅茶とケーキが運ばれると、自然に会話が弾む。
仕事の話、最近見た映画、子どものころの思い出……。
「え、ミクさん、水泳やってたの? ちょっと意外」
「そうなの。わりと本格的にね。ヒカルくんは?」
「俺は野球一筋。いまでも友達と草野球やってるよ」
お互いの知らなかった一面が次々と明らかになって、話題は尽きない。
「このチーズケーキ、すごく濃厚だな。……ミクも食べてみてよ」
不意に呼び捨てで名前を呼ばれて、ミクはフォークを止めた。
「……え?」
驚いて顔を上げると、ヒカルは何事もなかったように微笑んでいた。
「え? あ、ごめん。呼び捨てにしちゃった。でも……なんか、そのほうがしっくりくる気がして」
ミクは戸惑いながら頬が少し熱くなる。
「……急にだから、びっくりした」
「嫌?」
真剣な顔で見つめられ、首を横に振った。
「……ううん、嫌じゃない」
「よかった。じゃあ、これからは“ミク”って呼ぶよ」
当たり前のようにそう言って、ヒカルは笑った。
レオからのお誘いは、思いがけないものだった。
もう10月も終わりに差し掛かっていた。
「ミク、今度みんなで集まろうよ。紗弥も来るし、他にも友達呼ぶから」
メッセージにはさらりと書いてあったけれど、続けてこう添えられていた。
「ヒカルと涼太も来るよ。ただ、2人は仕事で少し遅れて合流する」
その一文に、ミクの心は妙にざわついた。
ヒカルと涼太――今の自分の心を揺らす二人が同じ場に現れることを思うと、どうしても落ち着かない。
迎えた当日。
居酒屋の半個室に案内されると、すでに数人が集まっていて、和やかな雰囲気が広がっていた。
「ミク、こっち!相変わらず可愛いな!」
手を振ったのはレオ。その隣の席には、見慣れない青年が座っていた。
「紹介するよ。隼、俺の友達」
「はじめまして、隼です。よろしく」
穏やかな笑顔と落ち着いた声。
「ミクです、よろしくお願いします」
席の流れで、ミクは自然と隼の隣に座ることになった。
彼は聞き上手で、さりげなく会話を広げてくれるタイプだった。
「このお店、雰囲気いいですね。レオが選んだんですか?」
「うん、そうみたい。私も初めて来たけど、いい感じだよね」
気づけば、紗弥も加わって、テーブルは明るい笑い声で満ちていった。
それでも、ミクの心の片隅には
――ヒカルと涼太、いつ来るんだろう
という小さな緊張が、ずっと灯り続けていた。
隼とミク、紗弥の会話がちょうど盛り上がっていたときだった。
入口の方から、ざわめきと共に二人の姿が現れる。
「お待たせ!」
元気な声で入ってきたのはヒカル。そのすぐ後ろには涼太の姿もあった。
ミクの心臓が、瞬間的に跳ねる。
——まさか、同じタイミングで。
「おー、やっと来たか!」
レオが声を上げ、席を詰めるようにみんなに促す。
だがミクの隣はすでに隼で、その反対側には紗弥がいる。
結果的に、ヒカルは少し離れた位置に座るしかなかった。
「……ここしか空いてないか」
小さく呟いて腰を下ろしたヒカルの横顔には、一瞬だけ複雑な影がよぎる。
涼太はというと、特に気にした様子もなく自然に席につき、レオや紗弥とすぐに笑い合い始めた。
その様子を見ながら、ミクの胸は複雑にざわめいていく。
——どうして私は、まだ涼太を目で追ってしまうんだろう。
でも、遠くから見ているヒカルの視線も……確かに感じてしまう。
「でさぁ、最近どうなの? ミクとヒカル」
場が少し落ち着いた頃、レオがわざと大きな声で切り出した。
テーブルの空気が、一瞬ぴんと張りつめる。
ミクは箸を持つ手を止め、思わず声を詰まらせた。
「おい、レオ!」
ヒカルが小声で制止するも、レオはにやりと笑って肩をすくめる。
「結構2人でデートしてんだろ?」
周りからも「えー?」「お似合い」なんて冗談交じりの声が上がり、場は賑やかに。
けれどミクの胸は、ざわめきと戸惑いでいっぱいだった。
斜め向かいに座る涼太が、何気ない表情でグラスを口に運んでいる。
——涼太には知られたくない——
ミクは苦笑いを浮かべ、やんわりと首を振った。
「…ちょっと待って。そんなの全然……ただの友達だから」
「デートしてるくせに?」
レオはわざとらしく言葉を伸ばし、ニヤニヤと笑う。
ミクの視線は自然と涼太を追ってしまう。
だが、涼太は特に興味を示すこともなく、別の友人と会話を始めていた。
その様子を横目で見ながら、ヒカルは黙ってグラスの氷を回していた。
ミクは隣に座る隼と映画や音楽の話で盛り上がっていた。
「へぇ、その監督好きなんだ。意外だな」
「意外かな? 結構、はまっちゃってて」
ヒカルは2人を睨むような目で見つめていた。ミクと隼が楽しそうに話す様子に苛立ちが隠せなかった。
隼との会話がいったん落ち着き、ミクは席を立ちトイレに向かう。
席に戻る際、ミクは自然とヒカルの横を通った。
その瞬間――
ぐいっと腕を掴まれた。
「えっ……」
驚いて振り向くと、ヒカルが真剣な眼差しを向けていた。
「ミク、こっちに移動してきて」
低く抑えた声で囁かれる。
一瞬、テーブルの周囲がざわめいた。
「おお……?」とレオが面白がるように声を上げる。
ミクは頬を熱くしながらも、逆らうことができなかった。
「……うん」
小さく頷いて、そのままヒカルの隣に腰を下ろす。
隼は少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑って「そっか」と引き下がった。
そして――
斜め前の涼太はグラスを持ち、淡々とお酒を口に運んでいた。
どこか遠くを見つめ、まるでこの場の出来事には関心がないかのように。
ミクがヒカルの隣に腰を下ろすと、彼は少し照れたように笑い、柔らかな声で話しかけてきた。
「なんか、ごめん」
ミクは戸惑いながらも首を横に振る。
ミクは斜め前にいる涼太からどうしても目を逸らせなかった。
グラスを持つ手の落ち着いた仕草、低く響く声。
レオと冗談を交わして笑ったときに、ふっと上がる口角――。
(……やっぱり、目で追ってしまう)
隣でヒカルが「美味しいね、このお店」と優しく微笑む。
ミクは笑みを返すけれど、心の奥では涼太の横顔に意識が絡みついて離れなかった。
何をしていても視線は自然と吸い寄せられていき、気づけばじっと涼太を見つめていた。
その瞬間だった。
涼太が何気なく顔を上げ、視線がミクと真っ直ぐに重なった。
ほんの一拍、互いの瞳が絡み合う。
ミクの心臓が大きく跳ね、呼吸が止まる。
けれど――
涼太はすぐに何事もなかったかのように、ゆるやかに目を逸らした。
グラスを口に運び、再びレオの話に穏やかに笑みを返す。
残されたミクの胸には、熱のこもった余韻だけが強く響き続けていた。
涼太のスマホがテーブルの上で震え、軽快な着信音が響いた。
彼は画面を確認すると、柔らかく口角を上げ、何のためらいもなく通話を取る。
「……ああ、うん。今、友達と一緒」
その声は普段よりも穏やかに聞こえた。
彼女だけに見せる特別な響きを帯びている。
「はは、そんなこと言うなよ」
「あとで連絡するから」
穏やかで楽しげな口調。
ミクの胸はぎゅっと締め付けられ、息が詰まる。
(……やっぱり、彼女のことを大切にしてる)
(私が入る余地なんて、最初から――)
笑顔を作ろうとしたけれど、頬が引きつってうまく形にならなかった。
隣のヒカルの気配すら霞んで、耳には涼太の優しい声だけが痛いほど響き続けていた。
「……ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね」
なるべく自然に言葉を出し、席を立つ。
けれど足取りはどこかぎこちなく、背中にヒカルの視線を感じる。
個室のドアを閉めた瞬間、深く息を吐き出した。
鏡に映る自分の顔は、笑顔を張りつけていたはずなのに、今は目が潤んでいる。
(だめだ……まだ、こんなにも涼太を想ってる)
(ヒカルくんがあんなに優しくしてくれるのに……)
手をぎゅっと握りしめ、心の揺れを押さえ込もうとする。
冷たい水で頬を叩き、必死に呼吸を整えた。
——このまま戻れば、きっとまた何事もなかったように笑える。
トイレのドアを押して外に出ると、そこに立っていたのは涼太だった。
コートを手に持ち、どこか帰り支度の雰囲気。
「……あ、ミク」
軽く会釈して、穏やかに微笑む。
「俺、先に帰るから。またね」
そう言って歩き出そうとした瞬間――
ミクの唇が勝手に動いた。
「……帰らないで」
自分でも驚くほどはっきりとした声だった。
涼太の足が止まり、振り返る。
その目は少し驚いたように丸くなり、けれどすぐに困ったような柔らかい笑みに変わった。
「……どうした?」
彼の低い声に、胸が強く鳴り響く。
ミクは言葉を続けたいのに、喉が詰まって声が出ない。
ただ、必死に彼の背中を見送ることだけはしたくなかった。
「……帰らないで」
思わず口にした言葉は、空気を震わせた。
「あ、ミク、ここにいたんだ」
その時、現れたのはヒカルだった。
無邪気な笑顔で二人に歩み寄ってくる。
涼太は一瞬だけミクとヒカルを交互に見やり、柔らかな微笑みを浮かべた。
「……じゃあ、また」
短い挨拶だけを残し、エレベーターへと向かう。
扉が閉まるまでの間、ミクは必死に視線を追ったが、涼太は振り返らなかった。
「ごめん、ちょっと俺もトイレ」
ヒカルは気づかない様子でそう言い、ドアの奥へ消えていく。
残されたミクは、立ち尽くしたまま、心臓は激しく脈打ち、足元が揺れるような感覚に襲われる。
たったひと言の衝動は、何の答えも返ってこないまま宙に消えた。
(……どうして、あんなことを言ってしまったんだろう)
呆然と立ちすくむミクの胸には、熱と冷たさが同時に広がっていった。
席に戻ったミクの顔色は明らかにおかしかった。
グラスに手を伸ばす手は震え、笑顔を作ろうとしても頬が引きつっている。
レオがすぐに異変を感じ取り、身を乗り出した。
「ミク、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
その言葉に堪えていたものが一気にあふれ出す。目に涙が滲み、声はかすれて震えていた。
「……ごめん、帰るね。ヒカルくんによろしく」
最後まで言い切る前に立ち上がり、椅子が音を立てて引かれる。
そのまま駆けるように店の出口へ向かう。
「ミク!!」
紗弥がすぐに立ち上がり、彼女の後を追う。
店内には一瞬、重たい沈黙が落ちた。
ちょうどそのとき、トイレのドアが開き、ヒカルが何も知らない顔で戻ってきた。
「お待たせー……あれ、ミクは?」
彼の問いかけに、誰もすぐには答えられなかった。
「……ミクは、帰ったよ」
レオが短く告げると、ヒカルの表情が一瞬で曇った。
「え? どうして……俺、ちょっと――」
すぐに追いかけようと立ち上がるヒカルの腕を、レオがぐっと掴んだ。
「待て、ヒカル」
低い声に込められた緊張が、場の空気を止めた。
「今のミクを、おまえが追っても余計に混乱させるだけだ」
「なんでだよ…」
ヒカルは必死に、掴まれた腕を振り払おうとする。
そのとき――
店のドアが開き、見覚えのある背恰好の影が戻ってきた。
——涼太だった。
レオの手が止まり、ヒカルも振り返る。
涼太は周囲をぐるりと見渡し、怪訝そうな表情で口を開いた。
「さっき…ミク、なんか様子がおかしくて。もう帰ったのか。まだここにいると思ったんだけど…」
行き場を失った空気の中で、三人の視線が絡み合う。
ヒカルの拳は震え、レオは唇を固く結び、涼太はわずかに眉を寄せていた。
店を飛び出したミクは、近くの街灯の下で立ち尽くしていた。
冷たい夜風に当たっても、胸の痛みは収まらない。
「ミク…」
駆け寄る足音とともに、紗弥が肩に手を置いた。
ミクは振り返り、溢れそうな涙を必死にこらえながらかすれた声を漏らす。
「……私、言っちゃったの。涼太に…“帰らないで”って……」
言葉が途切れると、とうとう涙が頬を伝った。
紗弥はため息をつき、ミクを強く抱きしめる。
「いいんだよ。好きなんだから、言いたくなるのは当たり前じゃん」
「でも……涼太、何も言わずに笑って帰っていった……彼女さんの所に……」
嗚咽混じりの声が夜に溶ける。
紗弥は背中を撫でながら、優しく囁いた。
「泣いていいよ。私がそばにいるから。」
ミクは声を押し殺して泣き、紗弥の肩に顔を埋める。
冷たい夜風の中で、涙だけが温かく、止めどなく流れ続けた。
アパートに戻ったミクは、バッグをソファに置いたままベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめながらも、頭の中では涼太の顔と、ヒカルの無邪気な笑顔が交互に浮かんで消えていく。
テーブルの上でスマホが震えた。
画面には「ヒカル」の名前が何度も並んでいる。
けれどミクの指は動かない。
(今の私じゃ、どんな顔して話せばいいのかわからない……)
また着信音が鳴り響く。
けれど今度画面に表示されたのは――「レオ」
ミクは少し迷ったが、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
声はかすれ、泣き疲れた響きを帯びていた。
『ミク、大丈夫か?』
レオの低く落ち着いた声が耳に広がる。
その安心感に、胸の奥に張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
「……ごめんね、迷惑かけちゃって」
『迷惑なんかじゃない。ヒカルには俺から伝えておく。今は無理するな』
レオの言葉に、ミクは堪えていた涙をまた溢れさせた。
「……ありがとう、レオ…」
『……ミク』
レオの声が一瞬だけ低くなった。
その響きに胸の奥がざわつく。
『涼太のこと、まだ好きなんだろ?』
心臓が大きく跳ねた。
息を呑み、ミクは思わずスマホを耳から離しかけた。
「……っ…」
声が出なかった。
『見てればわかるさ。さっきの店でのミクの目…全部、涼太に向いてた。気づかなかったのは、涼太本人くらいだろ』
胸が締め付けられる。
誰にも気づかれていないと思っていた。自分だけの秘密の痛みだと思い込んでいた。
涙がまた頬を伝う。
「私……隠してたのに……」
『隠せてない。少なくとも俺には。…ミク、無理すんなよ』
レオの声は静かで、優しかった。
涼太はミクを気にしながらマンションに着いた。
『帰らないで』
あの時のミクの表情……
大きくため息を吐き、ドアを開ける。
リビングの明かりがすでに灯っていた。
「おかえり」
キッチンから振り返った梨花は、ワイングラスを片手に微笑んだ。
部屋にはかすかに香水とアルコールの匂いが混ざっていた。
「また来てたのか」
涼太は小さく息を吐き、ネクタイを緩めた。
梨花は何も言わずに近づき、彼の胸に手を当てると、そのまま顔を寄せる。
「……キス、していい?」
涼太の返事を待つ前に、梨花は唇を押し付けた。
涼太は目を閉じる。頭の奥に、ミクの表情がふっと浮かぶ。
──さっきのは一体なんだったんだ
今日見たミクはヒカルと仲が良さそうだった。
それなのにあの時の泣きそうな顔
『帰らないで』
ミクを思い出すたび、胸の奥がざわついた。
梨花の指が首筋をなぞる。
現実へ引き戻されるように、涼太は彼女を抱き寄せた。
しかし心のどこかで気づいていた。
梨花を抱いても自分の心が、どこか別の場所にいることを。
夜が更け、カーテンの隙間から街の灯りが差し込んでいた。
涼太は背中で静かに呼吸を整えていた。
汗の匂いと、まだ消えきらない熱気が部屋に漂っている。
隣では、梨花が満足そうに微笑んでいた。
「……涼太、今日、久々に激しかったね」
彼女は軽く笑いながら、胸を彼の腕に押し当てた。
「ああ」
涼太は短く答える。
言葉よりも先に、胸の奥に溜めていた複雑な思いが少しずつ静まっていくのを感じていた。
ミクは友人であるヒカルの好きな相手だ。
彼女の姿が頭をかすめるが、それを追い払うように、梨花の髪を指で梳いた。
彼女はその動きに応えるように、再び涼太の顔を覗き込み、深く唇を重ねる。
「ねえ……もう一度、しよ?」
囁く声に、涼太は一瞬だけ目を閉じた。
理屈も、整理もつかない感情のまま、再び梨花を抱きしめた。
それから数週間後、ミクはレオに誘われて個室居酒屋に来ていた。
暖かな灯りが二人を包む。
「ミク、今日も可愛いなあ。なんだか最近、余計に眩しく見えるぜ」
レオは大きな手で軽くミクの肩を叩き、にやりと笑う。
「また始まった……」
ミクは少し顔を赤らめて苦笑しながらも満更でない顔をする。
「ところで、ヒカルとはどうだ?」
レオが茶目っ気たっぷりに聞くと、ミクは思わず手元の箸を止めて俯いた。
「うん…最近連絡返してないの…涼太のことがやっぱり忘れられないし…」
ミクの声は小さかった。
相変わらず涼太に一途な彼女が愛おしくてレオの胸がじんわり熱くなる。
抱き寄せたい気持ちをぐっと押さえ、代わりに陽気に話題を変える。
「ま、いいや!今日のおすすめはこの海老のアヒージョだぜ、ミク絶対好きだろ?」
レオが大きく笑いながら差し出すと、ミクも無邪気に笑い返す。
「ほんとだ、美味しそう!」
彼女の笑顔に、レオは心の中でそっとつぶやく。
——ミク…好きだ——
居酒屋での二人のやり取りは、久しぶりに彼女を笑顔にさせ、静かで穏やかな時間を作っていた。
すると、個室居酒屋の扉が静かに開き、涼太が姿を現した。
「え……涼太?」
ミクは驚きの声を漏らし、慌てて顔を赤らめる。
先日『帰らないで』と言ってしまったことを思い出したのだ。
レオはニヤリと笑いながら、陽気に手を振る。
「おお、涼太!こっちこっち、ミクと飯食ってたんだぜ!」
涼太は二人を見て小さく苦笑する。
「おまえら、ほんと仲良いな」
ミクの表情を見て、居たたまれなくなったレオはこっそり涼太を呼び出したのだ。
レオはにこやかにミクのグラスにワインを注ぐ。
「ほら、もっと飲めよ、ミク!」
「えー…そんなに飲めるかな」
ミクは少し戸惑いながらも、笑顔でグラスを傾ける。
レオの冗談が飛ぶたび、ミクはお腹を抱えて笑った。
「もう、レオってほんとに面白いんだけど」
涼太は横で静かに二人を見つめ、たまにクスッと笑うだけだった。
だがしかし、ミクの笑顔に時々ドキッと胸が騒ぐ。無邪気に笑う姿に心が惹かれた。
レオはそんな涼太の視線を意識しながらも、陽気に続ける。
「ミクは俺のお気に入りだからな!ちゃんと笑っててもらわないと!」
ミクはまた笑い声をあげ、無邪気に笑う。
涼太は静かに見守りながら、心の奥で確信した。
——薄々気付いていたが、やはりレオはミクに夢中だ。ヒカルだけでなくレオもまたミクが好きに違いない。
そして、自分もまた、彼女の笑顔を目にすると自然と気持ちが揺れてしまうことを感じていた。
ワインの香りと笑い声に包まれた個室は、いつもと少し違う空気が流れていた。
レオがスマホを取り出して仕事の電話を受けると、個室には自然と涼太とミクの二人だけが残った。
ミクは急に動揺し、何を話して良いのかわからなくなる。
レオがいれば素で笑えていたのに、涼太と二人きりになると緊張で手が少し震えそうだった。
「ミク、もう少しワイン頼む?」
少し考え、笑顔で「うん……」と答えようとしたが、涼太の穏やかな声に少し躊躇う。
「いや、やめとこうか。ミク、酔ってるな…」
涼太のやんわりした止め方に、少し恥ずかしそうにうなずく。
ミクが顔を上げると、涼太と目が合った。
普段ならすぐ逸らしてしまうのに、今日は酔いのせいか、目を離すことができない。
涼太もまた、ミクのその真っ直ぐな視線をじっと見つめ返す。
「…涼太……」
ミクの声が小さく震える。涼太はその声に、心のどこかが揺れるのを感じながら、静かに頷く。
二人だけの空間に、ワインの香りとかすかな緊張感が漂った。
52
あなたにおすすめの小説
義兄様と庭の秘密
結城鹿島
恋愛
もうすぐ親の決めた相手と結婚しなければならない千代子。けれど、心を占めるのは美しい義理の兄のこと。ある日、「いっそ、どこかへ逃げてしまいたい……」と零した千代子に対し、返ってきた言葉は「……そうしたいなら、そうする?」だった。
婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました
ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!
フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!
※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』
……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。
彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。
しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!?
※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる