1 / 10
第一章 またお前か
第一章 またお前か
しおりを挟む
館の大広間は今日、祝いの花束で埋め尽くされている。
噎せかえるような花の香りの中、階上の物陰から、ノクスは広間をそっと見下ろした。着飾った来賓が囁き交わすのが聴こえる。
「世紀の大魔獣デドラを倒し、飛竜をも従えた『黒の大賢者』ノクス様と結婚できるとは、カッシア嬢も光栄ですこと。それにしても大賢者様というくらいですから、お年を召していらっしゃるのかしら?」
「新聞の挿絵では白いお髭を蓄えていらっしゃいましたわよ」
「魔術師も賢者級となれば、魔力操縦のために厳しい禁欲を強いられるそうですぞ。その上ご高齢とあれば、お世継ぎを残すのも一苦労でしょうなあ」
「陛下の思し召しとはいえ、カッシア嬢もお気の毒に……」
――誤解だ。俺は18歳のカッシア嬢と同い年だし、白髭を生やしてもいない。それに。
ノクスはぎゅっと細い手を握りしめた。
ノクスが聴いているのも知らず、広間にはくすくすと侮蔑を含んだ失笑が広がる。焦ったノクスは黒髪を揺らして振り返った。背後にいる白いドレス姿の婚約者は、巻いた焦げ茶の髪を指先でくるくると回しながら、つまらなそうにそっぽを向いている。ノクスは紫の瞳に必死の表情を浮かべ、熱弁をふるい始めた。
「ごっ……誤解されがちですが、魔力操縦のための禁欲は世間で言われる噂とは違うんです! つまり回数よりもその、量が問題でして……」
「あら、そう」
婚約者カッシア嬢は眉をしかめ、つんとノクスから顔を背けた。彼女は宴の群衆の中に純白の礼服を着た男を見つけて、ぱっと顔を輝かせる。
――俺とカッシア嬢が白の装いをすると事前に知っていながら、婚約者披露宴に白い礼服で参列するのか。「俺こそが花婿だ」と言わんばかりだな。いくら『白騎士』の装いとはいえ、礼を欠くぞ。
嫌な予感がして、ノクスの胃がきゅっと痛くなる。まばゆいほどに白い礼服の男の顔には嫌というほど見覚えがあった。輝く白金色の髪の下でにこにこと太陽のような笑顔を振りまき、ドレスの女性陣に囲まれている青い目の美貌の青年は、ノクスの幼馴染の剣士アルバスだ。魔獣討伐の旅ではノクスと苦楽を共にしてきた。王からは『白騎士』の称号を与えられた有名人である。
白騎士アルバスはゆっくり堂々と階段を上りきった。赤い絨毯を敷いた二階の踊り場で満面の笑顔をうかべ、両腕を広げる。ノクスの顔から血の気が引いた。
引き止めようとしたノクスの手をすり抜けて、カッシア嬢は走り出た。アルバスの腕に身を投げたカッシア嬢は振り向き、頬を染めて聴衆の前で叫ぶ。
「ノクス様、婚約は破棄させていただきます。わたくし、運命の人に出会ってしまったの!」
――アルバス、またお前か!
ノクスは声にならない呻きをもらし、目を覚ました。夜明け前らしく、宿の部屋の中はまだ薄暗かった。粗末な漆喰の天井が目に入る。額に滲んだ汗を、ノクスは寝台に横たわったまま手の甲で拭い、もう一度目を閉じた。
ノクスも好きでカッシア・テンペスト男爵令嬢と婚約したわけではない。王陛下のはからいで取り持たれた縁組で、断るわけにはいかなかった。
――ここまで派手にフラれたのは初めてだが、別に驚かない。これまでだって、俺が好きな女の子はみんなアルバスに夢中だった。
波打つ白金の髪に透き通るブルートパーズの瞳、太陽神の顕現のような鍛え上げた肉体をもち、洗練された言葉を軽やかに紡ぎ出すアルバスに引き比べ、黒髪に暗い紫の目、無表情でひょろっと細長いノクスには華がない。話も下手である。話題といえば術式の呪文の短縮化とか、魔獣の特性などで、カッシア嬢は茶会のたびにうつろな顔をしていた。アルバスが相席して助けてくれなかったら、会話も成り立たなかっただろう。
カッシア嬢がアルバスを好きなのは火を見るより明らかだった。あのまま彼女と結婚せずに済んで正直ほっとしている。なのになぜこんなにもやもやするのだろうか。
――まだ俺にも、アルバスと比較されて疼く男のプライドが少しは残っていたということか。
唇をかむノクスの眼裏に、アルバスの腕に抱かれたカッシア嬢の姿がうかんだ。
※ ※ ※
婚約破棄を宣言した娘をめがけて階段を駆け上がってくるのは、顔面蒼白のカッシア嬢の父、テンペスト男爵である。
『カッシア! なんという事を言い出すのだ! 陛下から戴いたご縁を……!』
『こんな縁談を了承したお父様が悪いんですわ! グラディウス伯爵家出身のアルバス様ならともかく、元平民と結婚だなんて……伯爵家以上の子息と結婚させてやると約束してくださったではないですか!? こんな根暗でデリカシーの欠片もない方なんてわたくし絶対に嫌! こんな頼りない人が大魔獣討伐の功労者だなんて嘘よ。どうせ金魚の糞みたいに、アルバス様にくっついていただけですわ!』
しーん、と広間は静まり返った。テンペスト男爵は顔を引き攣らせながら娘をなだめようとする。
『そ……そのような事は……とにかく祝いの場なのだから落ち着いて……ノクス様だって、陛下から子爵位を戴いているじゃないか。声を落として』
『いやですわ! 魔術師は男として役立たずだってお父様も仰ってたじゃない! 私はそんな人と結婚して後ろ指をさされたくありません!』
テンペスト男爵の思惑に反して、カッシア嬢の金切り声が広間に響き渡った。激しい応酬を続ける父娘を目の前に、来賓は眉を顰め、扇子に顔を隠して低く囁き交わし始める。
『あのー……ちょっといいですか』
木石のようにその場に立っていたノクスは、階段脇から一歩踏み出してのっそりと手を挙げる。艶やかな黒髪を揺らし、物憂げな紫の瞳を脇へそらしたまま、よく通る声でぼそぼそとつぶやいた。
『ノクスです。お話、了承いたしました。それでは婚約は破棄、宴は中止ということで。皆さん、お帰りください』
ざわめいていた聴衆が一瞬にして静まり返った。皆、白い礼服で立つノクスを見て目を見ひらき、息をのんでいる。声をひそめて囁き始めた。
『こんなにお若かったのか!? 社交界にまったくお顔を出されないから、皆しなびた爺さんだと噂していたのに』
『なんとも胸がざわつくような……本当に男かね?』
『太陽のようなアルバス様とはまさに対極ね』
『魔術師は恐ろしい見目の者ばかりといいますけれど、これは……』
『カッシア嬢のお気持ちもわかりますわ。私だってあの方と並んで立ちたくありませんもの』
――皆、俺を酷評しているようだな。
ノクスは棒立ちのまま遠い目になった。早く帰ってほしい。
再び広がり始めたざわめきの声を打ち消すように、大きな声が響き渡る。
『待ってくれ! そんなつもりじゃなかったんだ!』
声を上げたのは意外にもアルバスだった。
『そんなつもりじゃない……とおっしゃいますと』
――カッシア嬢をその手で抱きしめながら、よく言うよ。
軽蔑の目で見返ったノクスを見て、アルバスは狼狽を見せた。かすれた声で、懇願するように言い訳を始める。
『やめてくれ、そんな冷たい言い方……。俺とお前の仲だろう? 俺はただ、カッシア嬢もお前も、お互いに気が無いそぶりだったから心配で……。俺は何とかしようとしただけなんだ。勘違いだ!』
『勘違いですって!? 私達、あんなに想いあっていたじゃないの、アルバス様!』
熱弁をふるうアルバスとわめくカッシア嬢から目をそらし、ノクスは醒めた口調で言葉を返す。
『お前、カッシア嬢を抱きしめているじゃないか』
『違うんだよ! 俺は「おめでとう、親友!」って言おうとしただけなんだ。悪気はなかった。信じてくれ、ノクス!』
『信じないわ! わざと白い服を着て来てくれたのは、わたくしを攫うためでしょう!? 旧友を傷つけぬよう嘘を仰っているのね。そうでしょう、アルバス様!?』
修羅場である。
聴衆は『こんなに面白い見ものはない』とばかりに聞き耳を立て、ひそひそと囁き交わしている。帰ろうとする者は一人もいなかった。
アルバスに悪気がなかったのは本当かもしれない。しかしノクスの見る限り、アルバスも勘違いされそうな言動の1つや2つや3つや4つはとっていた。
――わかってるよ。アルバスが魅力的すぎるだけだって。悪意なく、俺よりアルバスが選ばれる。それだけ。単なる事実。でも、もううんざりだ。
『……皆さんが帰らないなら、俺が消えます』
ノクスはそうつぶやき、ぱちっと指を鳴らした。その指先で小さな紫色の火花が散ったのを見て、アルバスはハッと蒼白になり、ノクスへ腕を伸ばす。
ごうと凄まじい風の音が巻き起こった。館の窓という窓がガタガタと激しくわなないたかと思うと、刹那、粉々に割れ、人々の上に硝子の破片が降り注ぐ。めきめきめきという尋常ならざる音と共に、館の屋根が何者かの爪に剥がされて吹っ飛んだ。
星のきらめく夜空があらわになったかと思うと、銀の羽根を広げた飛竜がひょっこりと邸内を覗き込む。着飾った来賓たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。
『竜……飛竜ですわ!』
『逃げろ、食われるぅ!』
銀色の飛竜はノクスを見つけて青い目を細め、喉の奥でくるるると啼いてその優美な長い首をさし出した。ノクスは月光にかがやく飛竜の鱗を撫でる。
『よしよし、いい子だ。やっぱり俺はお前といるほうが楽だよ」
アルバスは血相を変えて叫んだ。
『ノクス、待ってくれ!』
ノクスは待たなかった。アルバスがカッシア嬢を振り切って駆け寄る頃には、飛竜の背に飛び乗ったノクスは遥か夜空へと舞い上がり、遠く飛び去っていたのである。
※ ※ ※
「あーあ、っと……もう終わった事だ」
ノクスは天井を見上げてつぶやき、勢いよく寝台から起き上がった。ベッドを下りて宿屋のテーブルに羊皮紙を置き、羽根ペンを走らせる。丸めて文筒に入れた。
「開け、文の箱よ。我が書簡を王宮事務局へ」
ノクスが口にした招来の言葉に応えて、テーブルが青く光り始める。ノクスが文筒をそこに置いた途端、さっとあたりは暗くなり、青い光と文筒は机上から消えた。
「これでいい。討伐者に戻りたくてもこれまでは許しが出なかったが……さすがの王家も、親友に婚約者を奪われた憐れな失恋男の退職は認めてくれるだろ」
ノクスは顔を洗い、念の為に髪色を魔法で灰色に変えて、部屋を出た。飛竜に乗って失踪したあの宴の日から、もう3日は経っている。連れ戻されてはかなわないので変装しているが、人気の白騎士アルバスのように絵姿が売れているわけでもないので、さほど気をつけなくとも問題ないだろう。
ノクスは宿屋の食堂のある一階へ降りていった。窓際の席に腰かければ、すぐに温かい朝食が運ばれてくる。国境沿いの森に面したこの村では、鹿がよく獲れるらしい。メインは薄く切ってこんがり焼いた鹿の塩漬け肉に果実ソースを添えたものだ。濃密な乳と蕪のスープにカリカリの雑穀パンがよく合う。
爽やかな朝日が照らすテーブルで食後の紅茶に金色の糖蜜をとろりと注げば、ふんわり温かい湯気が上がった。
「平和だなあ……」
温かい紅茶をひと口啜ると、なぜだか、うっすら涙が浮かんできた。
――もう女はこりごりだ。俺には恋愛も結婚も向いてない。討伐に生きよう。辺境の村で魔獣を狩って暮らすんだ。
ノクスは涙目でぼんやりと窓の外を眺める。ちりちりと食堂のドアベルが鳴った。
「おはよう、朝刊だよー! お客さん、一部どう? 特別に1ギルにしとくよ!」
元気な声に驚いて、ノクスは目を上げた。テーブル脇にキャスケット帽をかぶったそばかすの少年が、にかっと笑って丸めた新聞をさし出す。人なつっこい茶色の目は、ノクスを好奇心に満ちた眼差でじっと見つめている。
ノクスは目をこすってうなずいた。
――ちょうど王都の情報が欲しかったところだ。
「もらおうか」
銅貨を渡すと、少年は「まいど!」と元気よく言って、それでもテーブルのそばを離れようとしない。
声を落して顔を寄せ、少年は好奇心いっぱいにひそひそと話しかけてくる。
「ほんとは2ギルなんだ。でもお客さん、飛竜飼いだろ? 森で竜から降りるとこ、俺見ちゃったんだ。あんなでけぇ飛竜を飼い馴らすなんて凄腕だ。心配しないで、内緒にしとくよ。皆恐がるから。でもまけた分、話聞かせてよ」
――どうしたものかな。
ノクスは曖昧に唸って思案顔を伏せ、新聞を開いた。でかでかと大きな文字で書かれたタイトルが目に入る。
『黒の大賢者、失意の失踪! 白騎士アルバスと婚約者の奪い合いか――白騎士、愛憎の真実を語る』
――うわっ。俺の婚約破棄の話が新聞にまで出てる! こんな辺境の村にまで噂が届くのか!? 俺が失踪してからまだ3日しか経ってねぇぞ。
ばさっと閉じかけた新聞を、「おっ」と少年が頭を出して覗き込む。黒いフードを被った『大賢者』の姿絵を指さした。
「大賢者ノクス様だ! かっけぇ!」
「ええ……?」
ノクスは眉をしかめ、白髭と皺を描き込まれた『大賢者』の絵を見つめた。俺はこんなんじゃねえぞ、とかぶりを振る。
「ダサいだろ。公衆の面前で婚約者にフラれて逃げたんだぞ」
――自分で言っておいて何だが、傷つくな。
ずきずき痛む胸を抱えて他人事のように言うと、少年は目を怒らせた。
「婚約者に見る目がなかったんだよ。そもそも、大賢者様に結婚を強いる王様もどうかしてるだろ。いくら魔術の天才に子を残してほしいからってさあ。魔術師の恋人は魔術、その本懐は生きながら術と融合する事だぞ!? 愛欲を捨てて精進しなきゃ、賢者クラスにはなれないんだ。使命に身を捧げた立派な大賢者様を、結婚で堕落させるなんて間違ってる! 大賢者様は孤高のままで至高なんだよ!!」
少年はやたら『大賢者』事情に詳しい。
――ちょっと考え方は行き過ぎてるが、嬉しくなくもないな。
「魔術のこと、詳しいな」
にこ、とノクスは笑った。少年はなぜだか顔を赤くする。何か言いあぐねていたが、そっとノクスの耳に耳打ちした。
「……俺、魔術師になりたいんだ」
「それでいろいろ知ってるわけだ」
――俺もこうだったな。杖一本で魔獣を倒す術師に憧れて、魔術書ばかり読んで。
ノクスは懐かしくなって微笑む。少年はもじもじしていたが、思い切ったようにすとんとノクスの向かいに腰かけた。キャスケット帽を取ると、短い金髪が現れる。
少年は真剣な目で言った。
「今は新聞売りとか、何でも屋してっけどよ……いつか魔術師目指して旅に出るんだ、大賢者様みたいに。あんた、飛竜飼いなんだろ? 村の外の事教えてくれよ」
「いいけど」
ノクスはかしかしと襟首をかいた。
「魔術師になりたいってのは、皆に内緒なのか?」
少年は不満そうに口を尖らせる。
「だってみんな、魔術師を小馬鹿にするんだ」
――なるほど。禁欲必須な魔術師には『女と関係を持つ望みもない男がなる職業だ』って偏見がある。あながち間違ってもいないしな。
ノクスはふうとため息をついた。
「魔術師になったらもっと馬鹿にされるぞ。それでもなりたいか?」
「なりたい!」
少年は茶色い目をきらきらさせて身を乗り出した。
「俺、新聞売りながら、大賢者様の討伐記事をずっと追っかけて読んでたんだ。大賢者様みたいになりたい! 大賢者様は万能なんだぜ! 索敵に攻撃、結界防御に癒しまで! 普通の魔術師は2つできたらいい方なのに」
「あ……あー、そう……」
賛辞に慣れないノクスは照れてぎごちなく相槌を打つ。
――普通なら5~6人で討伐隊を組むところをアルバスと2人で何とかこなそうとして、無駄に器用にはなったな。馬車なしで移動できるよう、飛竜も馴らした。アルバスが人を入れたがらなかったのと、俺の社交性が死んでたせいだけど。
アルバスを思い出して、ノクスはふっと顔色を翳らせた。話を変える。
「大賢者の場合は白騎士がいた。仲間がいるならいいが、一人で修行に出るのは危険だぞ。魔術師になりたいなら、アカデミーに行けばいい」
「そんな金があるかよ。それに、討伐魔術ってのは学問だけじゃダメなんだよ。実地で魔獣を倒しながら覚えなきゃ、使い物になんねえの。アカデミーは魔術学者志望の奴が行くとこだろ。俺は学者じゃなく、ちゃんとした魔術師になりてえの」
――この子、予想以上にきちんと調べてるな。
驚いたノクスは口ごもった。
「ま、魔術学者も討伐こそしないが、立派な魔術師だぞ。学者の研究のおかげで、現代魔術の効率化と発展があるんだから。……アカデミーが無理なら、生活魔術は? 村にいても訓練できるぞ」
「わかってねえなあ」
少年は呆れ顔でため息をついた。
「生活魔術は効率が悪いの! 一見強い火魔法より薪の方が実際は火が続くし、水魔法の水はクソまずいしよ。あんなの誰も喜ばねえよ。村を荒らす魔獣を倒せた方がいいって」
「開発途上だからこそのやりがいもあるけどな……。どうしても討伐魔術がやりたいなら、仕方がない。仲間を募るんだな」
少年一人で修行の旅に出るのは魔獣がいなくとも危険である。
しかし少年は顔を曇らせる。
「……仲間なんていない。みんな村から出るなんて考えもしねえんだ。だからさ!」
少年は急にきっと目を上げて、がっしりとノクスの手を掴んだ。
「あんた、飛竜で飛んできたんだろ!? 旅は道連れっていうし、俺も連れてってよ。迷惑はかけないからさ!」
※ ※ ※
「無理だ、帰れ!」
ノクスはばんと音を立てて扉を閉めた。新聞売りの少年はあれからもノクスから離れず、宿屋の部屋の戸口までついてきたのである。旅への同行は断ったが、それならと旅の話をせがまれ、その後も仕事そっちのけで『飛竜を見せてくれ』とせがむのだから困った。
ノクスはまだ読んでいない新聞を握りしめ、落ち着かない足取りで部屋をぐるぐると歩き回った。
少年が飛竜の周りをうろついて、万が一にでも人目についてはならない。『飛竜に乗ってきた旅人』の噂が村に広まれば、王都の大賢者捜索の手がこの辺境まで伸びるかもしれないのだ。
「落ち着け……俺が飛竜に乗って消えた事までは、きっとまだ公表されてねぇ。もし記事にでもなってたら、あの子も少しは俺を疑うはずだし」
ノクスはテーブルの上でばさりと新聞を開いた。見出しを見て「うっ」と眉をしかめる。
『黒の大賢者、失意の失踪! 白騎士アルバスと婚約者の奪い合いか――白騎士、愛憎の真実を語る』
「読みたくねぇ……。けど、どこまで捜査が進んでるか知るためだ」
ノクスは息をとめて記事を読み始めた。
記事によれば、取材を受けたアルバスは旧友である大賢者の捜索隊に早晩加わるつもりだそうだ。しかしノクス邸の半壊とノクスの失踪事件の取り調べで今は身動きが取れず、もどかしい思いをしている、などなどなど。
「白々しい。余計な事するな。お前はカッシア嬢と楽しくいちゃついてろ」
ノクスは鼻息荒く毒づいて次の行に目を移す。
ノクスは飛竜で飛び去った翌日には婚約破棄の書簡をテンペスタス男爵家と王家へ送った。王家は致し方なく婚約破棄を認め、これで白騎士アルバスとカッシア嬢はめでたく結ばれるかと思われた――が、アルバスには以前からシスラ王女との婚礼の噂も囁かれている。
記事の中でアルバスは意中の人を問われ、『旧友の気持を思うと答えられない』と述べていた。
――そりゃ、親友から奪った婚約者とすぐにくっつくのは外聞が悪いよな。
ノクスはため息をついて、がしがしと髪をかき回した。時期を見て婚約まで漕ぎつけるだろう。もう好きにしてくれ。
挿絵を見る限り新聞社は『大賢者』を白髭の老人だと思っているらしく、記者はカッシア嬢と白騎士アルバスに同情的な論調で記事を締めくくっていた。
『周知の通り、これは王命でなされた政略的な婚約でした。王に賜りし邸宅を自ら破壊して姿を消すほど、老賢者の失恋の傷は大きかったのでしょう。だとしても、望まぬ結婚を強いられ引き裂かれた、うら若き恋人たちを誰が責められましょうか』
「……うあぁあ……」
ノクスは頭を抱えて呻いた。
「なんて書き方するんだよ! これじゃ俺、横恋慕の挙句にフラれてキレて家壊した勘違いじじいじゃねぇか」
ますます己が『大賢者』だとバレるわけにはいかなくなった。恥ずかしすぎる。
ひとしきり狼狽えたら喉が渇いて、ノクスはテーブルの上のグラスに手を伸ばす。震えた手はグラスを掴み損ね、取り落としたグラスはぱりんと派手な音を立てて床の上で割れた。
「……あーあ……」
ノクスは砕けたグラスを目の前にしゃがみ込んで頭を垂れる。閉じた目に涙が浮かんだ。婚約破棄されただけでももう自尊心はズタズタだったが、ここにきて新聞で失恋を公開処刑されたのだ。傷口に塩をすり込まれるようなものである。
「……だからって言い返す術もねぇ。俺、社交性、皆無だし……」
「音、しましたけど、大丈夫ですかー?」
遠慮がちなノックが聴こえた。ノクスは涙目で「はい」と立ち上がる。
「すみません、おかみさん。グラスを割ってしまって」
と言いながらドアを開けたノクスは、そこにいたキャスケット帽の少年の姿に「ひっ」と声を上げて固まる。
「……まだいたの、お前」
「いたよ。お客さん、グラス割ったの?」
「割ったけど、いいから帰れよ、仕事はどうしたんだ? 親御さんも心配……」
みなまで言えなかった。少年はするりと部屋の中にもぐり込むと、さっさとしゃがんで割れたグラスを片付け始めたのだ。ノクスは少年の背後をうろうろしながら戸惑って叱る。
「そんな事頼んでないから! 危ないし、出てけよ!」
「俺、何でも屋だって言ったよね。新聞を売った後はこの宿屋の小間使いもやらせてもらってるんだ。これも仕事だよ」
少年はガラスの破片を手のひらにのせて言う。本当なのか嘘なのかと考えつつも、ノクスは反射的に少年の手首を掴んだ。
「ばか! ガラスを素手で……怪我するぞ!」
少年は「え?」と驚いたようにノクスの顔を見て、はにかんだように笑った。
「こんなのいつもの事だよ」
「いいから」
ノクスはテーブルからさっき読んでいた新聞をひきずり下ろし、少年の手を開かせて破片を新聞の上に払い落とす。怪我がないかじっと少年の手を凝視するノクスに、少年は照れたようにかぶりを振った。
「大袈裟だなあ。俺の事は気にしないで……あ」
少年は何かに目を留めた。手のひらに傷はないようだ。ノクスは安心して破片を新聞で包みにかかった。紙を突き破るガラス片に手こずりながら尋ねる。
「何だよ」
「杖……」
――しまった。
ニワトコの杖を寝台の上に置いたままだった。
少年は顔を跳ね上げると、食いつくような眼差でノクスを見上げた。
「あんた、もしかして魔術師なの!? 魔術師で、しかも飛竜飼いだってこと!?」
「あー……まあね。術師の端くれ……みたいなもんだな……」
ノクスはそっぽを向き、額を押さえて言葉を濁した。引きつり笑いをうかべ、己の身分がバレそうなものが他にないか部屋に視線を巡らせる。
「すげー……!! お、俺、ルカっていいます!」
きらきらと目を輝かせる少年は、もう帰ってくれそうになかった。
「お名前は!? どうやって魔術師になったんですか!?」
「おちついて……。名前はその、ノ……っ、ノヴァ。俺の小さい時はアカデミーも王都にしかなかったから、独学だな。魔術書片っ端から読んで、修行……した……」
ルカは飛びつくようにノクスににじり寄った。
「独学! すげー! 俺もできるかな。このへんじゃ本すら売ってなくて」
「……だろうな」
ノクスは少年時代、魔術書を買いに隣町まで歩いて行ったのを思い出した。稀少な魔術書を手に入れるために、書店を何軒も訪ね歩いた。あの時見つけた一冊がどれだけ光り輝いて見えたことか。
王都でしか売られていない高額な専門書も多い。だからこそ平民出身の魔術師は稀だ。ノクスが必要な魔術書を読めたのは、グラディウス伯爵家出身のアルバスが蔵書を貸してくれたおかげである。
『本当はこの本、帯出禁止なんだけど……俺達だけの秘密だね』
ノクスの粗末な家まで密かに本を持ってきてくれたアルバスは、そう言って白い歯をみせ、涼やかに笑ったものだ。お館の図書室にこっそり入れてくれ、本を読みふけるノクスをただ隣で見守っていてくれた事もある。
初めて会ったのはグラディウス伯爵家のお茶会だった。上質な絹の服を着たアルバスは人形のような美少年だったが、その笑顔はどこか作り物めいていた気がする。
その頃すでにアルバスは【グラディウスの神童】と呼ばれていた。生まれながらに並外れた怪力を持ち、赤子の頃から木製の玩具を掴み潰していたと聞く。アルバスは歩き始めてすぐにグラディウス伯から剣を持たされ、武芸を学んだ。8歳の時には己を狙った誘拐犯をアルバスが自身で取り押さえるという前代未聞の事件があったが、『手加減の仕方を学ぶ前だった』ため、捕まった誘拐犯は両手首と前歯が全て折れていたらしい。その怪力ぶりで領民の間でも噂の人物だったが、聞いた話で予想したより遥かに優美な少年だった。
『急に招待してすまないね。うちに来ている魔術師が言ってたんだ。「村に人間離れした魔力を持つ化け物がいる。幼くして魔術の専門書も理解している」って。君の事だよ、ノクス君。一度会ってみたくて、我儘を言ってこの席を設けてもらったんだ。父上も君の事を知りたがってる。グラディウス専属魔術師になってくれるなら、魔術アカデミーへの学費を援助してもいいって。どうかな、君は魔術師になりたいかい?』
――アカデミーには行かなかったが、俺が魔術師になれたのはアルバスの協力あっての事だ。お前は恩人だよアルバス。貴族でありながら、平民の俺にも優しくしてくれた事は忘れてない。感謝はしてるんだ。ただ、やりきれないだけで。
「……俺が持ってるのをやるよ」
昔を思い出したノクスは壁にかけてあった上着のポケットから薄い教書を取り出した。魔術師のバイブルと呼ばれるもので、肌身離さず持ち歩いている。
ルカはぎょっと目を見開いた。掌に落とされた本とノクスを何度も見比べる。
「えっ……こんな貴重な本をくれるのかい!?」
「大袈裟。言っとくけど、ここに書いてあるのは基礎中の基礎だからな。これを習得しないうちは修行の旅に出ようとは考えるなよ」
ノクスは本を指さして言った。
こうでも言っておけば無謀な冒険に出るのは止められるかもしれない。教書を一冊覚えきる事ができなければ、魔術師になる夢も諦めるかもしれない。
「わあー……!!」
ルカは泣き出しそうな顔で教書を両手に握りしめ、一心に表紙を見つめている。
――こんな基本の教書を一冊読んだくらいじゃ、どうにもならないのに……。
ノクスはちくりと心が痛んだ。教書をさらって取得した後ならば、今より生存率が上がるのは間違いない。だが変に自信をつけたルカは、いずれ余計な危険に身を晒すのではないだろうか。初心者が生半可な知識だけを持って魔獣狩りに出たって、返り討ちに遭うのは目に見えている。
「……ルカは何か覚えた術、あるのか?」
ぼそっと尋ねると、ルカははっとしたようにノクスを見上げてぶんぶんと首を縦に振った。
「ある! あります! 見てくれる!?」
「うん。でも、宿を壊すなよ……」
「大丈夫、そんな威力ねーから!」
ルカは教書を卓上に置き、ノクスに向かって両手を前に身構えた。叫ぶ。
「『カテーナ』!」
呪文と同時に、ノクスの腕に金色の光が巻きつく。
「魔鎖か。……うん、しっかり拘束がかかってる」
ルカの魔力の鎖で縛られたノクスは術の強度を確かめた。
「どう!? 動けないだろ?」
胸を張るルカは誇らしげだ。ノクスが小首をかしげると、するりと鎖は解ける。
「……筋はいいね」
「あーっ! もう解いた!?」
「うん」
ほら、と腕を上げるノクスを見て、ルカは信じられないという顔で口を尖らせる。
「なんで!?」
ノクスはふふと笑った。
「ちゃんとできてる。ただ、環の強度が足りない。賢い魔獣は弱い接合部を見抜いて引きちぎるぞ。あと、この術を人にかけると逮捕される。討伐魔術を許可なく人に向けるのは法で禁じられてるからな。一度でも禁を破った人間には討伐報酬が払われない。討伐者として魔獣を狩りたいなら法を守る事」
「はい……」
しょんぼり俯いてしまったルカを目の前に、ノクスは内心感心していた。討伐者に必須の術『魔鎖』は、決して初心者向けの術ではない。鎖の環一つ一つを集中して維持しなければ失敗する、簡単に見えて難しい術だ。必要な魔力量も多く、禁欲生活を習慣として維持できない者には不可能な技でもある。
「かなり練習したんだな」
「わかる!?」
ルカはぱっと顔を輝かせた。この少年、予想以上に根性があるかもしれない。
「さっきも言ったけど、筋はいい。仲間と一緒なら、魔鼠くらいは狩れるかもな。隣町にでも行って仲間を探すのはどうだ」
「嫌だ。ノヴァが俺に魔術教えてくれない!?」
ルカはノクスの腕に飛びついて見上げる。ノクスは慌てた。
「俺は今そんな事してる場合じゃねぇんだよ! 余裕もないし」
「お願い、弟子にしてください! うすうす思ってたけど、あんためちゃくちゃ不器用だろ? 俺、雑用とか料理とか何でもするよ!」
懇願されたノクスは『料理』の一言に惹かれてぴたりと動きを止めたが、すぐにかぶりを振る。
「俺がこの村にいるうちは教えてやれるけど、それじゃ付け焼刃にしかならねぇ。かといって討伐に同行すれば命の危険があるんだ。親が同意しないぞ」
ルカはふっと無表情になった。
「――親はいない。どっちも魔獣に殺された。俺を地下室に隠して、ちっぽけなナイフで魔獣に立ち向かって……。魔蜘蛛だよ。遺体は食いちぎられて、頭も無かった。……顔すら見送れなかった」
ノクスを見上げる薄茶の瞳は乾いていた。そこに滲んでいるのは涙ではなく、純粋な殺意だ。
ノクスは言葉を失い、小さなルカを見つめ返す。ルカは眉間に深い皺を刻み、拳を白くなるほど握って、静かに言う。
「……仇をとるって決めたんだ」
――同じだ。昔の俺と。
ノクスはぐっと眉を寄せた。
ノクスの父は辺境の木こりだったが、ノクスが物心つく前に魔獣に喰われて死んだ。現場には血痕と足しか残っていなかったそうだ。女手一つでノクスを育ててくれた母も農作業中、魔蛇に襲われた。獣毒感染症に侵された母は床についてしまい、5年後には儚くなった。アルバスが母のために医師を送り、獣毒緩和薬をくれなかったら、1年ともたなかっただろう。
――こういう討伐者を、今まで何度も見た。宿では瞳ばかりぎらぎらさせて誰ともつるまず、一人で森へ出かけていく。翌朝には無残な遺体になって見つかる。この子は諦めないだろう。一人でも討伐の旅に出るだろう。術と頭脳が育つより前に復讐心が先走れば、この子は死ぬ。
「魔獣を倒すためなら何でもやる。連れてって! 俺、どこまででもついてくよ!」
ルカは夢中で、ノクスを掴む手にぎゅうっと力をこめる。
「いたたた、放せ。……考えるだけは考えてやる! 考えるだけだからな!?」
「約束だよ!?」
ルクスはノクスの手首を何度もぶんぶん振って約束させ、大切そうに教書を抱えて帰っていった。
噎せかえるような花の香りの中、階上の物陰から、ノクスは広間をそっと見下ろした。着飾った来賓が囁き交わすのが聴こえる。
「世紀の大魔獣デドラを倒し、飛竜をも従えた『黒の大賢者』ノクス様と結婚できるとは、カッシア嬢も光栄ですこと。それにしても大賢者様というくらいですから、お年を召していらっしゃるのかしら?」
「新聞の挿絵では白いお髭を蓄えていらっしゃいましたわよ」
「魔術師も賢者級となれば、魔力操縦のために厳しい禁欲を強いられるそうですぞ。その上ご高齢とあれば、お世継ぎを残すのも一苦労でしょうなあ」
「陛下の思し召しとはいえ、カッシア嬢もお気の毒に……」
――誤解だ。俺は18歳のカッシア嬢と同い年だし、白髭を生やしてもいない。それに。
ノクスはぎゅっと細い手を握りしめた。
ノクスが聴いているのも知らず、広間にはくすくすと侮蔑を含んだ失笑が広がる。焦ったノクスは黒髪を揺らして振り返った。背後にいる白いドレス姿の婚約者は、巻いた焦げ茶の髪を指先でくるくると回しながら、つまらなそうにそっぽを向いている。ノクスは紫の瞳に必死の表情を浮かべ、熱弁をふるい始めた。
「ごっ……誤解されがちですが、魔力操縦のための禁欲は世間で言われる噂とは違うんです! つまり回数よりもその、量が問題でして……」
「あら、そう」
婚約者カッシア嬢は眉をしかめ、つんとノクスから顔を背けた。彼女は宴の群衆の中に純白の礼服を着た男を見つけて、ぱっと顔を輝かせる。
――俺とカッシア嬢が白の装いをすると事前に知っていながら、婚約者披露宴に白い礼服で参列するのか。「俺こそが花婿だ」と言わんばかりだな。いくら『白騎士』の装いとはいえ、礼を欠くぞ。
嫌な予感がして、ノクスの胃がきゅっと痛くなる。まばゆいほどに白い礼服の男の顔には嫌というほど見覚えがあった。輝く白金色の髪の下でにこにこと太陽のような笑顔を振りまき、ドレスの女性陣に囲まれている青い目の美貌の青年は、ノクスの幼馴染の剣士アルバスだ。魔獣討伐の旅ではノクスと苦楽を共にしてきた。王からは『白騎士』の称号を与えられた有名人である。
白騎士アルバスはゆっくり堂々と階段を上りきった。赤い絨毯を敷いた二階の踊り場で満面の笑顔をうかべ、両腕を広げる。ノクスの顔から血の気が引いた。
引き止めようとしたノクスの手をすり抜けて、カッシア嬢は走り出た。アルバスの腕に身を投げたカッシア嬢は振り向き、頬を染めて聴衆の前で叫ぶ。
「ノクス様、婚約は破棄させていただきます。わたくし、運命の人に出会ってしまったの!」
――アルバス、またお前か!
ノクスは声にならない呻きをもらし、目を覚ました。夜明け前らしく、宿の部屋の中はまだ薄暗かった。粗末な漆喰の天井が目に入る。額に滲んだ汗を、ノクスは寝台に横たわったまま手の甲で拭い、もう一度目を閉じた。
ノクスも好きでカッシア・テンペスト男爵令嬢と婚約したわけではない。王陛下のはからいで取り持たれた縁組で、断るわけにはいかなかった。
――ここまで派手にフラれたのは初めてだが、別に驚かない。これまでだって、俺が好きな女の子はみんなアルバスに夢中だった。
波打つ白金の髪に透き通るブルートパーズの瞳、太陽神の顕現のような鍛え上げた肉体をもち、洗練された言葉を軽やかに紡ぎ出すアルバスに引き比べ、黒髪に暗い紫の目、無表情でひょろっと細長いノクスには華がない。話も下手である。話題といえば術式の呪文の短縮化とか、魔獣の特性などで、カッシア嬢は茶会のたびにうつろな顔をしていた。アルバスが相席して助けてくれなかったら、会話も成り立たなかっただろう。
カッシア嬢がアルバスを好きなのは火を見るより明らかだった。あのまま彼女と結婚せずに済んで正直ほっとしている。なのになぜこんなにもやもやするのだろうか。
――まだ俺にも、アルバスと比較されて疼く男のプライドが少しは残っていたということか。
唇をかむノクスの眼裏に、アルバスの腕に抱かれたカッシア嬢の姿がうかんだ。
※ ※ ※
婚約破棄を宣言した娘をめがけて階段を駆け上がってくるのは、顔面蒼白のカッシア嬢の父、テンペスト男爵である。
『カッシア! なんという事を言い出すのだ! 陛下から戴いたご縁を……!』
『こんな縁談を了承したお父様が悪いんですわ! グラディウス伯爵家出身のアルバス様ならともかく、元平民と結婚だなんて……伯爵家以上の子息と結婚させてやると約束してくださったではないですか!? こんな根暗でデリカシーの欠片もない方なんてわたくし絶対に嫌! こんな頼りない人が大魔獣討伐の功労者だなんて嘘よ。どうせ金魚の糞みたいに、アルバス様にくっついていただけですわ!』
しーん、と広間は静まり返った。テンペスト男爵は顔を引き攣らせながら娘をなだめようとする。
『そ……そのような事は……とにかく祝いの場なのだから落ち着いて……ノクス様だって、陛下から子爵位を戴いているじゃないか。声を落として』
『いやですわ! 魔術師は男として役立たずだってお父様も仰ってたじゃない! 私はそんな人と結婚して後ろ指をさされたくありません!』
テンペスト男爵の思惑に反して、カッシア嬢の金切り声が広間に響き渡った。激しい応酬を続ける父娘を目の前に、来賓は眉を顰め、扇子に顔を隠して低く囁き交わし始める。
『あのー……ちょっといいですか』
木石のようにその場に立っていたノクスは、階段脇から一歩踏み出してのっそりと手を挙げる。艶やかな黒髪を揺らし、物憂げな紫の瞳を脇へそらしたまま、よく通る声でぼそぼそとつぶやいた。
『ノクスです。お話、了承いたしました。それでは婚約は破棄、宴は中止ということで。皆さん、お帰りください』
ざわめいていた聴衆が一瞬にして静まり返った。皆、白い礼服で立つノクスを見て目を見ひらき、息をのんでいる。声をひそめて囁き始めた。
『こんなにお若かったのか!? 社交界にまったくお顔を出されないから、皆しなびた爺さんだと噂していたのに』
『なんとも胸がざわつくような……本当に男かね?』
『太陽のようなアルバス様とはまさに対極ね』
『魔術師は恐ろしい見目の者ばかりといいますけれど、これは……』
『カッシア嬢のお気持ちもわかりますわ。私だってあの方と並んで立ちたくありませんもの』
――皆、俺を酷評しているようだな。
ノクスは棒立ちのまま遠い目になった。早く帰ってほしい。
再び広がり始めたざわめきの声を打ち消すように、大きな声が響き渡る。
『待ってくれ! そんなつもりじゃなかったんだ!』
声を上げたのは意外にもアルバスだった。
『そんなつもりじゃない……とおっしゃいますと』
――カッシア嬢をその手で抱きしめながら、よく言うよ。
軽蔑の目で見返ったノクスを見て、アルバスは狼狽を見せた。かすれた声で、懇願するように言い訳を始める。
『やめてくれ、そんな冷たい言い方……。俺とお前の仲だろう? 俺はただ、カッシア嬢もお前も、お互いに気が無いそぶりだったから心配で……。俺は何とかしようとしただけなんだ。勘違いだ!』
『勘違いですって!? 私達、あんなに想いあっていたじゃないの、アルバス様!』
熱弁をふるうアルバスとわめくカッシア嬢から目をそらし、ノクスは醒めた口調で言葉を返す。
『お前、カッシア嬢を抱きしめているじゃないか』
『違うんだよ! 俺は「おめでとう、親友!」って言おうとしただけなんだ。悪気はなかった。信じてくれ、ノクス!』
『信じないわ! わざと白い服を着て来てくれたのは、わたくしを攫うためでしょう!? 旧友を傷つけぬよう嘘を仰っているのね。そうでしょう、アルバス様!?』
修羅場である。
聴衆は『こんなに面白い見ものはない』とばかりに聞き耳を立て、ひそひそと囁き交わしている。帰ろうとする者は一人もいなかった。
アルバスに悪気がなかったのは本当かもしれない。しかしノクスの見る限り、アルバスも勘違いされそうな言動の1つや2つや3つや4つはとっていた。
――わかってるよ。アルバスが魅力的すぎるだけだって。悪意なく、俺よりアルバスが選ばれる。それだけ。単なる事実。でも、もううんざりだ。
『……皆さんが帰らないなら、俺が消えます』
ノクスはそうつぶやき、ぱちっと指を鳴らした。その指先で小さな紫色の火花が散ったのを見て、アルバスはハッと蒼白になり、ノクスへ腕を伸ばす。
ごうと凄まじい風の音が巻き起こった。館の窓という窓がガタガタと激しくわなないたかと思うと、刹那、粉々に割れ、人々の上に硝子の破片が降り注ぐ。めきめきめきという尋常ならざる音と共に、館の屋根が何者かの爪に剥がされて吹っ飛んだ。
星のきらめく夜空があらわになったかと思うと、銀の羽根を広げた飛竜がひょっこりと邸内を覗き込む。着飾った来賓たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。
『竜……飛竜ですわ!』
『逃げろ、食われるぅ!』
銀色の飛竜はノクスを見つけて青い目を細め、喉の奥でくるるると啼いてその優美な長い首をさし出した。ノクスは月光にかがやく飛竜の鱗を撫でる。
『よしよし、いい子だ。やっぱり俺はお前といるほうが楽だよ」
アルバスは血相を変えて叫んだ。
『ノクス、待ってくれ!』
ノクスは待たなかった。アルバスがカッシア嬢を振り切って駆け寄る頃には、飛竜の背に飛び乗ったノクスは遥か夜空へと舞い上がり、遠く飛び去っていたのである。
※ ※ ※
「あーあ、っと……もう終わった事だ」
ノクスは天井を見上げてつぶやき、勢いよく寝台から起き上がった。ベッドを下りて宿屋のテーブルに羊皮紙を置き、羽根ペンを走らせる。丸めて文筒に入れた。
「開け、文の箱よ。我が書簡を王宮事務局へ」
ノクスが口にした招来の言葉に応えて、テーブルが青く光り始める。ノクスが文筒をそこに置いた途端、さっとあたりは暗くなり、青い光と文筒は机上から消えた。
「これでいい。討伐者に戻りたくてもこれまでは許しが出なかったが……さすがの王家も、親友に婚約者を奪われた憐れな失恋男の退職は認めてくれるだろ」
ノクスは顔を洗い、念の為に髪色を魔法で灰色に変えて、部屋を出た。飛竜に乗って失踪したあの宴の日から、もう3日は経っている。連れ戻されてはかなわないので変装しているが、人気の白騎士アルバスのように絵姿が売れているわけでもないので、さほど気をつけなくとも問題ないだろう。
ノクスは宿屋の食堂のある一階へ降りていった。窓際の席に腰かければ、すぐに温かい朝食が運ばれてくる。国境沿いの森に面したこの村では、鹿がよく獲れるらしい。メインは薄く切ってこんがり焼いた鹿の塩漬け肉に果実ソースを添えたものだ。濃密な乳と蕪のスープにカリカリの雑穀パンがよく合う。
爽やかな朝日が照らすテーブルで食後の紅茶に金色の糖蜜をとろりと注げば、ふんわり温かい湯気が上がった。
「平和だなあ……」
温かい紅茶をひと口啜ると、なぜだか、うっすら涙が浮かんできた。
――もう女はこりごりだ。俺には恋愛も結婚も向いてない。討伐に生きよう。辺境の村で魔獣を狩って暮らすんだ。
ノクスは涙目でぼんやりと窓の外を眺める。ちりちりと食堂のドアベルが鳴った。
「おはよう、朝刊だよー! お客さん、一部どう? 特別に1ギルにしとくよ!」
元気な声に驚いて、ノクスは目を上げた。テーブル脇にキャスケット帽をかぶったそばかすの少年が、にかっと笑って丸めた新聞をさし出す。人なつっこい茶色の目は、ノクスを好奇心に満ちた眼差でじっと見つめている。
ノクスは目をこすってうなずいた。
――ちょうど王都の情報が欲しかったところだ。
「もらおうか」
銅貨を渡すと、少年は「まいど!」と元気よく言って、それでもテーブルのそばを離れようとしない。
声を落して顔を寄せ、少年は好奇心いっぱいにひそひそと話しかけてくる。
「ほんとは2ギルなんだ。でもお客さん、飛竜飼いだろ? 森で竜から降りるとこ、俺見ちゃったんだ。あんなでけぇ飛竜を飼い馴らすなんて凄腕だ。心配しないで、内緒にしとくよ。皆恐がるから。でもまけた分、話聞かせてよ」
――どうしたものかな。
ノクスは曖昧に唸って思案顔を伏せ、新聞を開いた。でかでかと大きな文字で書かれたタイトルが目に入る。
『黒の大賢者、失意の失踪! 白騎士アルバスと婚約者の奪い合いか――白騎士、愛憎の真実を語る』
――うわっ。俺の婚約破棄の話が新聞にまで出てる! こんな辺境の村にまで噂が届くのか!? 俺が失踪してからまだ3日しか経ってねぇぞ。
ばさっと閉じかけた新聞を、「おっ」と少年が頭を出して覗き込む。黒いフードを被った『大賢者』の姿絵を指さした。
「大賢者ノクス様だ! かっけぇ!」
「ええ……?」
ノクスは眉をしかめ、白髭と皺を描き込まれた『大賢者』の絵を見つめた。俺はこんなんじゃねえぞ、とかぶりを振る。
「ダサいだろ。公衆の面前で婚約者にフラれて逃げたんだぞ」
――自分で言っておいて何だが、傷つくな。
ずきずき痛む胸を抱えて他人事のように言うと、少年は目を怒らせた。
「婚約者に見る目がなかったんだよ。そもそも、大賢者様に結婚を強いる王様もどうかしてるだろ。いくら魔術の天才に子を残してほしいからってさあ。魔術師の恋人は魔術、その本懐は生きながら術と融合する事だぞ!? 愛欲を捨てて精進しなきゃ、賢者クラスにはなれないんだ。使命に身を捧げた立派な大賢者様を、結婚で堕落させるなんて間違ってる! 大賢者様は孤高のままで至高なんだよ!!」
少年はやたら『大賢者』事情に詳しい。
――ちょっと考え方は行き過ぎてるが、嬉しくなくもないな。
「魔術のこと、詳しいな」
にこ、とノクスは笑った。少年はなぜだか顔を赤くする。何か言いあぐねていたが、そっとノクスの耳に耳打ちした。
「……俺、魔術師になりたいんだ」
「それでいろいろ知ってるわけだ」
――俺もこうだったな。杖一本で魔獣を倒す術師に憧れて、魔術書ばかり読んで。
ノクスは懐かしくなって微笑む。少年はもじもじしていたが、思い切ったようにすとんとノクスの向かいに腰かけた。キャスケット帽を取ると、短い金髪が現れる。
少年は真剣な目で言った。
「今は新聞売りとか、何でも屋してっけどよ……いつか魔術師目指して旅に出るんだ、大賢者様みたいに。あんた、飛竜飼いなんだろ? 村の外の事教えてくれよ」
「いいけど」
ノクスはかしかしと襟首をかいた。
「魔術師になりたいってのは、皆に内緒なのか?」
少年は不満そうに口を尖らせる。
「だってみんな、魔術師を小馬鹿にするんだ」
――なるほど。禁欲必須な魔術師には『女と関係を持つ望みもない男がなる職業だ』って偏見がある。あながち間違ってもいないしな。
ノクスはふうとため息をついた。
「魔術師になったらもっと馬鹿にされるぞ。それでもなりたいか?」
「なりたい!」
少年は茶色い目をきらきらさせて身を乗り出した。
「俺、新聞売りながら、大賢者様の討伐記事をずっと追っかけて読んでたんだ。大賢者様みたいになりたい! 大賢者様は万能なんだぜ! 索敵に攻撃、結界防御に癒しまで! 普通の魔術師は2つできたらいい方なのに」
「あ……あー、そう……」
賛辞に慣れないノクスは照れてぎごちなく相槌を打つ。
――普通なら5~6人で討伐隊を組むところをアルバスと2人で何とかこなそうとして、無駄に器用にはなったな。馬車なしで移動できるよう、飛竜も馴らした。アルバスが人を入れたがらなかったのと、俺の社交性が死んでたせいだけど。
アルバスを思い出して、ノクスはふっと顔色を翳らせた。話を変える。
「大賢者の場合は白騎士がいた。仲間がいるならいいが、一人で修行に出るのは危険だぞ。魔術師になりたいなら、アカデミーに行けばいい」
「そんな金があるかよ。それに、討伐魔術ってのは学問だけじゃダメなんだよ。実地で魔獣を倒しながら覚えなきゃ、使い物になんねえの。アカデミーは魔術学者志望の奴が行くとこだろ。俺は学者じゃなく、ちゃんとした魔術師になりてえの」
――この子、予想以上にきちんと調べてるな。
驚いたノクスは口ごもった。
「ま、魔術学者も討伐こそしないが、立派な魔術師だぞ。学者の研究のおかげで、現代魔術の効率化と発展があるんだから。……アカデミーが無理なら、生活魔術は? 村にいても訓練できるぞ」
「わかってねえなあ」
少年は呆れ顔でため息をついた。
「生活魔術は効率が悪いの! 一見強い火魔法より薪の方が実際は火が続くし、水魔法の水はクソまずいしよ。あんなの誰も喜ばねえよ。村を荒らす魔獣を倒せた方がいいって」
「開発途上だからこそのやりがいもあるけどな……。どうしても討伐魔術がやりたいなら、仕方がない。仲間を募るんだな」
少年一人で修行の旅に出るのは魔獣がいなくとも危険である。
しかし少年は顔を曇らせる。
「……仲間なんていない。みんな村から出るなんて考えもしねえんだ。だからさ!」
少年は急にきっと目を上げて、がっしりとノクスの手を掴んだ。
「あんた、飛竜で飛んできたんだろ!? 旅は道連れっていうし、俺も連れてってよ。迷惑はかけないからさ!」
※ ※ ※
「無理だ、帰れ!」
ノクスはばんと音を立てて扉を閉めた。新聞売りの少年はあれからもノクスから離れず、宿屋の部屋の戸口までついてきたのである。旅への同行は断ったが、それならと旅の話をせがまれ、その後も仕事そっちのけで『飛竜を見せてくれ』とせがむのだから困った。
ノクスはまだ読んでいない新聞を握りしめ、落ち着かない足取りで部屋をぐるぐると歩き回った。
少年が飛竜の周りをうろついて、万が一にでも人目についてはならない。『飛竜に乗ってきた旅人』の噂が村に広まれば、王都の大賢者捜索の手がこの辺境まで伸びるかもしれないのだ。
「落ち着け……俺が飛竜に乗って消えた事までは、きっとまだ公表されてねぇ。もし記事にでもなってたら、あの子も少しは俺を疑うはずだし」
ノクスはテーブルの上でばさりと新聞を開いた。見出しを見て「うっ」と眉をしかめる。
『黒の大賢者、失意の失踪! 白騎士アルバスと婚約者の奪い合いか――白騎士、愛憎の真実を語る』
「読みたくねぇ……。けど、どこまで捜査が進んでるか知るためだ」
ノクスは息をとめて記事を読み始めた。
記事によれば、取材を受けたアルバスは旧友である大賢者の捜索隊に早晩加わるつもりだそうだ。しかしノクス邸の半壊とノクスの失踪事件の取り調べで今は身動きが取れず、もどかしい思いをしている、などなどなど。
「白々しい。余計な事するな。お前はカッシア嬢と楽しくいちゃついてろ」
ノクスは鼻息荒く毒づいて次の行に目を移す。
ノクスは飛竜で飛び去った翌日には婚約破棄の書簡をテンペスタス男爵家と王家へ送った。王家は致し方なく婚約破棄を認め、これで白騎士アルバスとカッシア嬢はめでたく結ばれるかと思われた――が、アルバスには以前からシスラ王女との婚礼の噂も囁かれている。
記事の中でアルバスは意中の人を問われ、『旧友の気持を思うと答えられない』と述べていた。
――そりゃ、親友から奪った婚約者とすぐにくっつくのは外聞が悪いよな。
ノクスはため息をついて、がしがしと髪をかき回した。時期を見て婚約まで漕ぎつけるだろう。もう好きにしてくれ。
挿絵を見る限り新聞社は『大賢者』を白髭の老人だと思っているらしく、記者はカッシア嬢と白騎士アルバスに同情的な論調で記事を締めくくっていた。
『周知の通り、これは王命でなされた政略的な婚約でした。王に賜りし邸宅を自ら破壊して姿を消すほど、老賢者の失恋の傷は大きかったのでしょう。だとしても、望まぬ結婚を強いられ引き裂かれた、うら若き恋人たちを誰が責められましょうか』
「……うあぁあ……」
ノクスは頭を抱えて呻いた。
「なんて書き方するんだよ! これじゃ俺、横恋慕の挙句にフラれてキレて家壊した勘違いじじいじゃねぇか」
ますます己が『大賢者』だとバレるわけにはいかなくなった。恥ずかしすぎる。
ひとしきり狼狽えたら喉が渇いて、ノクスはテーブルの上のグラスに手を伸ばす。震えた手はグラスを掴み損ね、取り落としたグラスはぱりんと派手な音を立てて床の上で割れた。
「……あーあ……」
ノクスは砕けたグラスを目の前にしゃがみ込んで頭を垂れる。閉じた目に涙が浮かんだ。婚約破棄されただけでももう自尊心はズタズタだったが、ここにきて新聞で失恋を公開処刑されたのだ。傷口に塩をすり込まれるようなものである。
「……だからって言い返す術もねぇ。俺、社交性、皆無だし……」
「音、しましたけど、大丈夫ですかー?」
遠慮がちなノックが聴こえた。ノクスは涙目で「はい」と立ち上がる。
「すみません、おかみさん。グラスを割ってしまって」
と言いながらドアを開けたノクスは、そこにいたキャスケット帽の少年の姿に「ひっ」と声を上げて固まる。
「……まだいたの、お前」
「いたよ。お客さん、グラス割ったの?」
「割ったけど、いいから帰れよ、仕事はどうしたんだ? 親御さんも心配……」
みなまで言えなかった。少年はするりと部屋の中にもぐり込むと、さっさとしゃがんで割れたグラスを片付け始めたのだ。ノクスは少年の背後をうろうろしながら戸惑って叱る。
「そんな事頼んでないから! 危ないし、出てけよ!」
「俺、何でも屋だって言ったよね。新聞を売った後はこの宿屋の小間使いもやらせてもらってるんだ。これも仕事だよ」
少年はガラスの破片を手のひらにのせて言う。本当なのか嘘なのかと考えつつも、ノクスは反射的に少年の手首を掴んだ。
「ばか! ガラスを素手で……怪我するぞ!」
少年は「え?」と驚いたようにノクスの顔を見て、はにかんだように笑った。
「こんなのいつもの事だよ」
「いいから」
ノクスはテーブルからさっき読んでいた新聞をひきずり下ろし、少年の手を開かせて破片を新聞の上に払い落とす。怪我がないかじっと少年の手を凝視するノクスに、少年は照れたようにかぶりを振った。
「大袈裟だなあ。俺の事は気にしないで……あ」
少年は何かに目を留めた。手のひらに傷はないようだ。ノクスは安心して破片を新聞で包みにかかった。紙を突き破るガラス片に手こずりながら尋ねる。
「何だよ」
「杖……」
――しまった。
ニワトコの杖を寝台の上に置いたままだった。
少年は顔を跳ね上げると、食いつくような眼差でノクスを見上げた。
「あんた、もしかして魔術師なの!? 魔術師で、しかも飛竜飼いだってこと!?」
「あー……まあね。術師の端くれ……みたいなもんだな……」
ノクスはそっぽを向き、額を押さえて言葉を濁した。引きつり笑いをうかべ、己の身分がバレそうなものが他にないか部屋に視線を巡らせる。
「すげー……!! お、俺、ルカっていいます!」
きらきらと目を輝かせる少年は、もう帰ってくれそうになかった。
「お名前は!? どうやって魔術師になったんですか!?」
「おちついて……。名前はその、ノ……っ、ノヴァ。俺の小さい時はアカデミーも王都にしかなかったから、独学だな。魔術書片っ端から読んで、修行……した……」
ルカは飛びつくようにノクスににじり寄った。
「独学! すげー! 俺もできるかな。このへんじゃ本すら売ってなくて」
「……だろうな」
ノクスは少年時代、魔術書を買いに隣町まで歩いて行ったのを思い出した。稀少な魔術書を手に入れるために、書店を何軒も訪ね歩いた。あの時見つけた一冊がどれだけ光り輝いて見えたことか。
王都でしか売られていない高額な専門書も多い。だからこそ平民出身の魔術師は稀だ。ノクスが必要な魔術書を読めたのは、グラディウス伯爵家出身のアルバスが蔵書を貸してくれたおかげである。
『本当はこの本、帯出禁止なんだけど……俺達だけの秘密だね』
ノクスの粗末な家まで密かに本を持ってきてくれたアルバスは、そう言って白い歯をみせ、涼やかに笑ったものだ。お館の図書室にこっそり入れてくれ、本を読みふけるノクスをただ隣で見守っていてくれた事もある。
初めて会ったのはグラディウス伯爵家のお茶会だった。上質な絹の服を着たアルバスは人形のような美少年だったが、その笑顔はどこか作り物めいていた気がする。
その頃すでにアルバスは【グラディウスの神童】と呼ばれていた。生まれながらに並外れた怪力を持ち、赤子の頃から木製の玩具を掴み潰していたと聞く。アルバスは歩き始めてすぐにグラディウス伯から剣を持たされ、武芸を学んだ。8歳の時には己を狙った誘拐犯をアルバスが自身で取り押さえるという前代未聞の事件があったが、『手加減の仕方を学ぶ前だった』ため、捕まった誘拐犯は両手首と前歯が全て折れていたらしい。その怪力ぶりで領民の間でも噂の人物だったが、聞いた話で予想したより遥かに優美な少年だった。
『急に招待してすまないね。うちに来ている魔術師が言ってたんだ。「村に人間離れした魔力を持つ化け物がいる。幼くして魔術の専門書も理解している」って。君の事だよ、ノクス君。一度会ってみたくて、我儘を言ってこの席を設けてもらったんだ。父上も君の事を知りたがってる。グラディウス専属魔術師になってくれるなら、魔術アカデミーへの学費を援助してもいいって。どうかな、君は魔術師になりたいかい?』
――アカデミーには行かなかったが、俺が魔術師になれたのはアルバスの協力あっての事だ。お前は恩人だよアルバス。貴族でありながら、平民の俺にも優しくしてくれた事は忘れてない。感謝はしてるんだ。ただ、やりきれないだけで。
「……俺が持ってるのをやるよ」
昔を思い出したノクスは壁にかけてあった上着のポケットから薄い教書を取り出した。魔術師のバイブルと呼ばれるもので、肌身離さず持ち歩いている。
ルカはぎょっと目を見開いた。掌に落とされた本とノクスを何度も見比べる。
「えっ……こんな貴重な本をくれるのかい!?」
「大袈裟。言っとくけど、ここに書いてあるのは基礎中の基礎だからな。これを習得しないうちは修行の旅に出ようとは考えるなよ」
ノクスは本を指さして言った。
こうでも言っておけば無謀な冒険に出るのは止められるかもしれない。教書を一冊覚えきる事ができなければ、魔術師になる夢も諦めるかもしれない。
「わあー……!!」
ルカは泣き出しそうな顔で教書を両手に握りしめ、一心に表紙を見つめている。
――こんな基本の教書を一冊読んだくらいじゃ、どうにもならないのに……。
ノクスはちくりと心が痛んだ。教書をさらって取得した後ならば、今より生存率が上がるのは間違いない。だが変に自信をつけたルカは、いずれ余計な危険に身を晒すのではないだろうか。初心者が生半可な知識だけを持って魔獣狩りに出たって、返り討ちに遭うのは目に見えている。
「……ルカは何か覚えた術、あるのか?」
ぼそっと尋ねると、ルカははっとしたようにノクスを見上げてぶんぶんと首を縦に振った。
「ある! あります! 見てくれる!?」
「うん。でも、宿を壊すなよ……」
「大丈夫、そんな威力ねーから!」
ルカは教書を卓上に置き、ノクスに向かって両手を前に身構えた。叫ぶ。
「『カテーナ』!」
呪文と同時に、ノクスの腕に金色の光が巻きつく。
「魔鎖か。……うん、しっかり拘束がかかってる」
ルカの魔力の鎖で縛られたノクスは術の強度を確かめた。
「どう!? 動けないだろ?」
胸を張るルカは誇らしげだ。ノクスが小首をかしげると、するりと鎖は解ける。
「……筋はいいね」
「あーっ! もう解いた!?」
「うん」
ほら、と腕を上げるノクスを見て、ルカは信じられないという顔で口を尖らせる。
「なんで!?」
ノクスはふふと笑った。
「ちゃんとできてる。ただ、環の強度が足りない。賢い魔獣は弱い接合部を見抜いて引きちぎるぞ。あと、この術を人にかけると逮捕される。討伐魔術を許可なく人に向けるのは法で禁じられてるからな。一度でも禁を破った人間には討伐報酬が払われない。討伐者として魔獣を狩りたいなら法を守る事」
「はい……」
しょんぼり俯いてしまったルカを目の前に、ノクスは内心感心していた。討伐者に必須の術『魔鎖』は、決して初心者向けの術ではない。鎖の環一つ一つを集中して維持しなければ失敗する、簡単に見えて難しい術だ。必要な魔力量も多く、禁欲生活を習慣として維持できない者には不可能な技でもある。
「かなり練習したんだな」
「わかる!?」
ルカはぱっと顔を輝かせた。この少年、予想以上に根性があるかもしれない。
「さっきも言ったけど、筋はいい。仲間と一緒なら、魔鼠くらいは狩れるかもな。隣町にでも行って仲間を探すのはどうだ」
「嫌だ。ノヴァが俺に魔術教えてくれない!?」
ルカはノクスの腕に飛びついて見上げる。ノクスは慌てた。
「俺は今そんな事してる場合じゃねぇんだよ! 余裕もないし」
「お願い、弟子にしてください! うすうす思ってたけど、あんためちゃくちゃ不器用だろ? 俺、雑用とか料理とか何でもするよ!」
懇願されたノクスは『料理』の一言に惹かれてぴたりと動きを止めたが、すぐにかぶりを振る。
「俺がこの村にいるうちは教えてやれるけど、それじゃ付け焼刃にしかならねぇ。かといって討伐に同行すれば命の危険があるんだ。親が同意しないぞ」
ルカはふっと無表情になった。
「――親はいない。どっちも魔獣に殺された。俺を地下室に隠して、ちっぽけなナイフで魔獣に立ち向かって……。魔蜘蛛だよ。遺体は食いちぎられて、頭も無かった。……顔すら見送れなかった」
ノクスを見上げる薄茶の瞳は乾いていた。そこに滲んでいるのは涙ではなく、純粋な殺意だ。
ノクスは言葉を失い、小さなルカを見つめ返す。ルカは眉間に深い皺を刻み、拳を白くなるほど握って、静かに言う。
「……仇をとるって決めたんだ」
――同じだ。昔の俺と。
ノクスはぐっと眉を寄せた。
ノクスの父は辺境の木こりだったが、ノクスが物心つく前に魔獣に喰われて死んだ。現場には血痕と足しか残っていなかったそうだ。女手一つでノクスを育ててくれた母も農作業中、魔蛇に襲われた。獣毒感染症に侵された母は床についてしまい、5年後には儚くなった。アルバスが母のために医師を送り、獣毒緩和薬をくれなかったら、1年ともたなかっただろう。
――こういう討伐者を、今まで何度も見た。宿では瞳ばかりぎらぎらさせて誰ともつるまず、一人で森へ出かけていく。翌朝には無残な遺体になって見つかる。この子は諦めないだろう。一人でも討伐の旅に出るだろう。術と頭脳が育つより前に復讐心が先走れば、この子は死ぬ。
「魔獣を倒すためなら何でもやる。連れてって! 俺、どこまででもついてくよ!」
ルカは夢中で、ノクスを掴む手にぎゅうっと力をこめる。
「いたたた、放せ。……考えるだけは考えてやる! 考えるだけだからな!?」
「約束だよ!?」
ルクスはノクスの手首を何度もぶんぶん振って約束させ、大切そうに教書を抱えて帰っていった。
569
あなたにおすすめの小説
巻き戻りした悪役令息は最愛の人から離れて生きていく
藍沢真啓/庚あき
BL
11月にアンダルシュノベルズ様から出版されます!
婚約者ユリウスから断罪をされたアリステルは、ボロボロになった状態で廃教会で命を終えた……はずだった。
目覚めた時はユリウスと婚約したばかりの頃で、それならばとアリステルは自らユリウスと距離を置くことに決める。だが、なぜかユリウスはアリステルに構うようになり……
巻き戻りから人生をやり直す悪役令息の物語。
【感想のお返事について】
感想をくださりありがとうございます。
執筆を最優先させていただきますので、お返事についてはご容赦願います。
大切に読ませていただいてます。執筆の活力になっていますので、今後も感想いただければ幸いです。
他サイトでも公開中
悪役令嬢のモブ兄に転生したら、攻略対象から溺愛されてしまいました
藍沢真啓/庚あき
BL
俺──ルシアン・イベリスは学園の卒業パーティで起こった、妹ルシアが我が国の王子で婚約者で友人でもあるジュリアンから断罪される光景を見て思い出す。
(あ、これ乙女ゲームの悪役令嬢断罪シーンだ)と。
ちなみに、普通だったら攻略対象の立ち位置にあるべき筈なのに、予算の関係かモブ兄の俺。
しかし、うちの可愛い妹は、ゲームとは別の展開をして、会場から立ち去るのを追いかけようとしたら、攻略対象の一人で親友のリュカ・チューベローズに引き止められ、そして……。
気づけば、親友にでろっでろに溺愛されてしまったモブ兄の運命は──
異世界転生ラブラブコメディです。
ご都合主義な展開が多いので、苦手な方はお気を付けください。
悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放
大の字だい
BL
王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。
嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
冤罪で追放された王子は最果ての地で美貌の公爵に愛し尽くされる 凍てついた薔薇は恋に溶かされる
尾高志咲/しさ
BL
旧題:凍てついた薔薇は恋に溶かされる
🌟第10回BL小説大賞(2022年)奨励賞。2025年11月アンダルシュノベルズより刊行🌟
ロサーナ王国の病弱な第二王子アルベルトは、突然、無実の罪状を突きつけられて北の果ての離宮に追放された。王子を裏切ったのは幼い頃から大切に想う宮中伯筆頭ヴァンテル公爵だった。兄の王太子が亡くなり、世継ぎの身となってからは日々努力を重ねてきたのに。信頼していたものを全て失くし向かった先で待っていたのは……。
――どうしてそんなに優しく名を呼ぶのだろう。
お前に裏切られ廃嫡されて最北の離宮に閉じ込められた。
目に映るものは雪と氷と絶望だけ。もう二度と、誰も信じないと誓ったのに。
ただ一人、お前だけが私の心を凍らせ溶かしていく。
執着攻め×不憫受け
美形公爵×病弱王子
不憫展開からの溺愛ハピエン物語。
◎書籍掲載は、本編と本編後の四季の番外編:春『春の来訪者』です。
四季の番外編:夏以降及び小話は本サイトでお読みいただけます。
なお、※表示のある回はR18描写を含みます。
🌟第10回BL小説大賞での応援ありがとうございました!
🌟本作は旧Twitterの「フォロワーをイメージして同人誌のタイトルつける」タグで貴宮あすかさんがくださったタイトル『凍てついた薔薇は恋に溶かされる』から思いついて書いた物語です。ありがとうございました。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる