一の恋

紺色橙

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10 二人の恋愛

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 いつもより少し遅い時間。乗せてもらった車の中で、ついつい眠ってしまった。あのベッドで一緒に、というか俺の方が彼よりも更に眠っていたのに車の中でも寝てしまった。

 そっと家に帰り着替え、何もなかった顔をする。別れの時には抱き付いて、また来週の約束をした。平日だって日曜だって俺は良いと思ったけれど、「若い子に泊りはさせられないかなぁ」とAさんがおじさんぶって言うもんだから、じゃあ今度は昼間からと無理を言った。

 レースカーテンの向こうからは朝日が射し、それからさほど時間が経たずとも冷房のついた室内の気温が高くなるのを感じた。レースカーテンなんぞでは強い夏の日差しは防げないらしい。日光で明るくなる室内の電気を消して朝のニュースを見ていると、お腹が空いてきた。何か食べようと冷蔵庫や冷凍庫を覗き、パンを取り出して焼く。めんどくさいからとバターもジャムもつけず、口に入れた。
 腹が満たされ日が高くなると、眠気に襲われた。変に寝たからどこかに行ってしまっていた眠気が、血糖値の上昇と共に戻ってくる。『寝る』とAさんに送り付ければ、すぐに『おやすみ』と返ってきた。

 帰ってきたばかりなのに、早く会いたいと思ってしまう。抱き付いていれば熱くなるほどの、あの体温を感じたい。名前を呼べば口元を緩ませ、俺を見て返事をしてくれるあの声が聴きたい。
 文字だけのメッセージで呼びかけて、聞こえない声で返事を貰う。聞こえない声は頭の中で再生されて、少しだけ満たされた。

 昼過ぎに起きると、Aさんは家の片づけをしているらしかった。思ったよりも大変だという愚痴と、ついでだから随分長いこと整理していなかった自分の服も処分していると書かれている。衣替えも模様替えもしてこなかった家は思ったよりも不用品があって、終わる頃には本当にすっきりするだろうと予想されていた。

 昨晩明日も会いたいと言ったけれど、Aさんはあの家の現状を見て「片づけたら」と言った。確かに物は出しっぱなしになっていたけれど、そんなに時間はかからないだろうと思っていた。でも思ったよりも時間がかかるようで、やはり今日は無理だっただろう。会いたいなぁとは思うけれど、Aさんにとって心地よい住環境が整うのは物凄く大切だと思う。何年も手を付けていなかったものをこのタイミングで整理することは、少し元気になっているのかなとも思った。

 Aさんが俺の話を聞いてくれていたように、俺もちょっとだけは彼の話を聞いていた。いつもの行動以外に動く事がめんどくさいと思ってしまうことや、服なんか何年も新しいのを買っていないこと。
 そんな彼が俺に会いに来てくれたのは、気の迷いみたいなものだろう。俺がネットでしか知らないAさんに会うのを少し怖いと感じていたように、Aさんから見た俺だって同じだったはず。もしかしたら、自暴自棄なところもあったのかな。



 電話をしてくれるようになった。
 今週は片付けに時間が取られてしまうとAさんが言うものだから、じゃあ少しだけ声を聞かせて欲しいとねだった。マンションの非常階段の重い扉を開け、階段を囲う胸ほどの高さの手すり壁に腕を乗せ寄り掛かる。大通りを車が走る音を聞きながらコールする。時折下を通る人に聞かれやしないかと、少しだけ恥ずかしくなりながら話をした。

「会いたいな」
「私も」

 そう言ってもらえるだけで安心した。安心しながら、思いが募る。会いたいと何度も独り言のように繰り返す。自分が車を運転できたなら、行き交う光と音だけが見えるあのラインに混じってAさんに会いに行くだろう。最初はきっと合流に緊張して、でも何度も通う内に慣れていく。もし隣に乗せたAさんが眠ってくれたなら、俺も嬉しくなるに違いない。安全運転で、急ブレーキなんかしないように周りをよく見ることが自然と学べるはず。

 腕についた汚れを払い家に戻る。この非常階段を、以前一番上まで上ったことがある。11階建てのマンションの11階までしか続いていない階段。自分が住んでいる階ではないから、もし他階の住人と会ったらどうしようって緊張した。言い訳なんか持っていなかった。
 Aさんと電話するときのように階段から外を見下ろし、飛ぶことを考えた。ちゃんとできるんだろうか、下手に失敗して生き残ってしまったら最悪だなと考える。失敗したら間違いなく障害が残って、次は無くなるだろう。

 消えたいと思っていた。でも死にたいとは思っていなかったと思う。死ぬのは怖くて、だから痛くなく怖くないように消えられたらと思っていた。形を無くすには死ぬしかないけれど、結局その勇気はなかった。俺にできることは学校をさぼって平日の昼間に高層階から下を見ることくらい。この胸ほどの高さの壁に上ったことすらない。口だけで消えたいと言って、自分で自分は可哀想なんだと思い込んだ。



 土曜日になれば約束の通り昼間からAさんが迎えに来てくれた。起きたら連絡するよと言われ、連絡が来たのが昼前。急いで着替えて家を出た。俺が熱中症になることを心配して、Aさんは下に付いたらまた連絡するからと言ってくれた。家の中からでは下に来る車が見えず、どうしても気が急いた。火事になりそうなほど暑い日差しを浴びて車に乗り、Aさんに触りたい気持ちを我慢して家まで連れて行ってもらう。1時間かけて彼が来てくれた道を、そのまま1時間かけて戻るのだ。

 助手席に座っているだけでそわそわした。触りたい。キスしたい。抱きしめて欲しい。それを誤魔化すようにどうでもいい話をして過ごす。高速を降りればあともう少しだと待ちきれなくなった。

 駐車場からAさんちまでの距離。手を繋ぎたくて、でも人目が気になって出来なかった。Aさんの少し後ろを歩く。日陰にいても熱気がすごくて、体が熱を持つのがわかる。どうぞと迎え入れてくれた部屋は涼しい。「外には居られないね」と言うAさんに激しく同意した。外に居られないことは都合がよくもあった。二人だけの部屋なら、Aさんに抱き付いてもいい。

「AさんAさん」
 玄関入ってすぐ、靴も脱がずにドアを閉めたAさんに抱き付く。
「熱いなぁ」
 頭を撫でてくれる手が、熱を持った髪を心配する。短い距離しか直射日光を浴びていないのに、染めていない髪はすぐに熱を吸収してしまう。体だって通常の体温以上に熱くなっている。
 皴のないAさんのシャツ。肩口に顔を寄せて匂いを嗅いだ。もっと触りたい。俺だって男だから、欲求は形になって表れる。
「靴脱げる?」
 抱き付いたまま玄関を上がり、くっついたままリビングに向かう。子供のようなことをしているけれど、払い除けられはしない。ソファまでたどり着ければそこに座らされ、そこでようやく手を離す。冷たいお茶を持ってきてくれるAさんをじっと目で追った。戻ればぴたりと足が付くほど近くに座ってくれるから、俺だけがくっついていたいわけじゃないんだと嬉しくなる。

「片付けは終わり?」
「そうだね。ついでだからって色々捨ててしまった」
「平気なの?」
「必要ならまた買えばいい。片付けようなんて気分に、ずっとなっていなかったから」
 自然と手が繋がれた。散らかっていた部屋は綺麗になっている。前じっくりと見たわけでもないけれど、家具も捨てたのかもしれない。

「あのさ」
「うん?」
 胸の中で言葉がぐるぐると回っている。一言言ってしまうだけなのに言えない。繋がれた手を何度も握り、身を寄せ、Aさんの耳元でこっそり囁く。
「ちゅーしたい」
 Aさんは俺を見て困ったように笑う。その手のひらで頭をわしわしと掻くようにしてから、繋いだ手を包み込んだ。

「イチくんは、今まで同性を好きになったことはある?」
 問われ首を振る。同性どころか異性だって好きになったことは無い。
「私が君の倍ほども年上だということを、分かっているかな」
「分かってるよ」
 何度もおじさんだとAさんは自分のことを卑下して言うから、そんなことは分かっている。
「俺が、子供だからだめ?」
「そうでもあるし、そうでもないかな」
 よくわからないが、引っかかりがあることは分かる。
「私はイチくんを好きだし、同じようにキスしたいとも思ってる。だからこそ、イチくんが本当に良いと思わないと出来ない」
 前も言われた。
「どういうこと?」
「付き合っているとか大きな声で言いまわる必要は一切ないけど、言えないような関係だとするのなら、難しいってこと」
「んん……」
「後悔させたくないんだよ。おじさんと付き合っていたとか、キスをしてしまったとか、そういうことをね」
「後悔なんかするわけない」
 言い切った俺に、Aさんは曖昧に笑った。

 Aさんは手を繋いでくれる。抱きしめてくれる。好きだと言ってくれる。でも、それ以上はしなかった。そこまではきっと恋愛でなくとも出来るっていうことなんだと思う。

 同性愛に偏見があるわけではない。それ以前に興味が無い。異性愛にだって、自分は縁が無いんだからそういうものなんだと思っていた。幼稚園で初恋をしたとか、中学時代から付き合っている恋人がいるだとか、高校ともなれば当たり前のように彼氏彼女が出来るだとか、そんな縁が俺には一切なかった。別に同性にときめくわけでもなく、だから、「どちらも愛さない」というのもあるのかなってぼんやりと思っていた。

 Aさんは男性だ。俺と同じ。年だって確かに上だけど、そんなに問題があるんだろうか。歳の差カップルなんていくらでもいるだろう。そう思うけど、Aさんは心配している。俺が同性を好きになり、しかもそれが随分と歳の離れた相手だということを心配している。人に言えないんじゃないかって、心配している。

 人に言えないような関係はダメ? 恋愛は二人でするものなんだし、別に他人に言う必要もないだろう。俺が彼を好きで、彼も俺を好きだと言ってくれるならそれでいいんじゃないのかな。ぎゅうと抱き付けば同じ強さで抱き返してくれる体温を、ただ喜ぶんじゃダメなのかな。



 その後、時間に余裕のある時は平日にも会ってくれた。少ない彼の夏休みにも会ってくれた。1時間の距離を迎えに来てくれて、1時間かけてAさんの家に行く。抱きしめてもらって、好きだと言われて、Aさんが眠れそうなら一緒に眠った。凄く幸せで、何が悪いんだろうと分からなかった。

 眠る彼にこっそりキスをしようかと近づいてやめる。額を付け、鼻先を付け、唇まであと少しの所で留まった。

 夏休みは充実していた。どこかに行かずともAさんと一緒にいられればそれでよかった。いつ彼に時間が出来てもいいように宿題を終わらせ、スマホの充電をし続けた。

 俺はちゃんと彼を好きだった。
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