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3巻
3-2
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「エーリック、お前なぁ……侯爵は婚姻式がどうなろうと気にしないだろうが、結婚っていうのは相手がいるんだぞ? 花嫁に申し訳ないだろうが」
王太子が盛大にため息をついて弟を窘めた。
「そこは申し訳なく思っています。夫人には何かお詫びさせていただきます」
「好きにしろ。だが次はないぞ」
あの暗殺者に比べれば大したことではないがイルーゼは気にしているかもしれない。こいつには釘を刺しておくべきか。また面倒を起こされても厄介だ。あれに余計な苦労をかけるのはわかり切っている。予想される憂いは出来るだけ遠ざけておくべきだ。
「わかりました。近いうちにお詫びの品をお贈りします。伺っても?」
「構わんが先触れはしろよ」
来るのは構わないがフレディと同じ感覚では困る。
「もちろんです。ありがとうございます」
「いいなぁ、俺も行きたい……」
「兄上は仕方ありませんよ。私とは立場が違いますから」
「はぁ、なんだよ、二人とも。羨ましい……」
盛大にため息をついたが仕方がないだろう。誰かが王位に就かなければならないんだ。
「兄上よりも侯爵の方が王に向いていたかもしれませんね」
「そうだよね! そう思うだろう!」
王太子が目を輝かせた。何を言っているんだ。黒髪緑目の王など誰も歓迎しないだろうが。
「そんな窮屈な立場は御免だ」
「そんなぁ……」
「侯爵、考える余地もなしですか。兄上、諦めてください。いいじゃないですか、侯爵がいてくださるから兄上の治世は安泰ですよ。逆に侯爵の仕事、兄上に出来るんですか?」
「暗殺者が忍んでくる生活だ。退屈はしないだろう」
王太子とブレッケルが黙り込んだ。なんだ?
「どうした?」
「いや……君が冗談を言うなんて思わなくて……」
「ええ、私も驚きました……」
事実を言っただけで冗談を言ったつもりはないのだが。さっきも賊が忍び込んだと言っただろう。どうしてそうなる?
「ふふ、君が少しでも変わってくれたなら嬉しいよ」
「そうですね、父上も母上も喜びますよ」
二人して嬉しそうだがどういう意味だ? 話が見えん。が、問い詰める価値はないように思える。この二人なら尚更だ。
「はぁ、あとは姉上かぁ……生きているのなら早く出てきてほしいよ」
「……そうだな。可能性は低そうだけど……」
王女の行方不明は国王夫妻の表情にも影を落としていた。いずれ死ぬと決まっていたとはいえこんな終わりは望んでいなかっただろう。遺体が見つからないのでは諦めも付かん。厄介だ。
その後ブレッケルが帰るというので共に帰ろうとしたが王太子に呼び止められた。まだあるのか? ちょうどいい、聞いておきたいことがある。
「ナディア王女と親しかった者でまだ生きている者はいるか?」
「え? 祖父の妹だろ? どうかなぁ……亡くなって随分経つし」
世代的には祖父の代、しかも義母が死んだのは異母兄が駆け落ちして俺が家に戻った後だ。あれから二十年近くが経った。生きていれば六十も半ば、同年代は五侯爵家ではミュンターの爺くらいしかいない。
「使用人でもいい」
「君、何考えているの?」
「お前が言っただろう、兄はあの爺の子ではないかと」
「え? あれ本気にしちゃったの?」
お前が言い出したんだろうが。こいつにしてはいい着眼点だったと思ったんだが。
「あの女に仕えていた侍女がまだ屋敷に残っていた。話を聞いたら随分親密だったと答えた。父よりもずっとだ」
それだけで通じていたとは言えないが、あの二人は時折、内々の話があるからと侍女を遠ざけていたという。それは婚姻直後から始まり、義母が死ぬまで続いた。
「……大叔母上は、ミュンターに降嫁する話もあった気がする。わかったよ、調べさせる」
「王女と合わせて報告書を送れ」
「……俺だって暇じゃないんだけど?」
「こうして無駄話をしているくらいには暇だろう」
無駄話だなんて酷いと言っているが、今日聞いた話はとっくに把握済みだ。俺には収穫がないなら無駄話だろう。
「はぁ、イルーゼちゃんも大変だなぁ。こんな男が夫だなんて……」
どうしてそんな話になる?
「特に不満など言っていない」
「今はね。でもいずれそう思うようになるよ」
そうならないように気を付けているがこれでは足りないか? ティオやスージーは問題ないと言っていた。イルーゼからも不満はないと聞いているが。
「フィリーネはどうしているの?」
「変わりなく過ごしている」
「クラウスからの接触は?」
「今のところない。噂を流してあまり日が経っていない。向こうも慎重になるだろう」
それらしい人物が近づいたとの話はない。あの屋敷の周りは我が家の使用人が住んでいて、怪しい動きがあればすぐにわかるようになっている。
「ねぇ君、イルーゼちゃんを囮にしようとか、そんなこと考えていないよね?」
暫く黙っていると思ったら急にしかめっ面で尋ねてきた。囮、か……考えたがあれだけ行動力があると予測が難しくて使い難い。それに……
「そんなことはしない。俺の子がいるかもしれないんだ」
そう言ったら目を大きくして見上げてきた。
「なんだ?」
「いや、君が妻や子を気遣うようなことを言うとは思わなくて……」
「母や兄たちのことを思えばいくら警戒しても足りることはないだろう」
「……確かに」
立て続けに殺された兄たちと兄を庇って死んだ母。フレディが後継を辞退した今、また同じことが起きる可能性は否めない。王太子がソファに身を預けて大きく息を吐くのが見えたが、こうして見るとイルーゼの方が動じていない気がする。いや、こいつの場合は何をしても大袈裟なんだが。
「イルーゼちゃんに同情するよ……こんな男の嫁になったせいでしなくてもいい苦労をする羽目になって……」
「妻にしろと言ってきたのは向こうだ」
「それでも、初夜に賊が侵入することまでは織り込んでなかっただろう?」
そうかもしれないが最初に危険だと伝えてある。辞退する機会は何度もあったが迷っている風はなかったぞ。
「で、イルーゼちゃんとは仲良くやっているの?」
「ああ」
「ああって……ちゃんと会話した? 閨も無理強いしなかっただろうね?」
「話もしたし無理強いもしていない」
これまでにないほどに話をしたし、閨も痛みを感じないように時間をかけた。不満は聞いていないし、ティオやスージーからも苦言はない。大丈夫なはずだ。
「それならいいけど……あんまりがっつくなよ。君の体力に付き合える女性なんかいないに等しいんだから」
「わかっている」
「本当にわかっているのかなぁ。君、仕事ばっかりしているようにしか見えないけど、ちゃんと発散してたの?」
「余計なお世話だ」
「君だから心配なんだよぉ……」
知ったばかりの餓鬼でもあるまいに。少なくともお前よりは発散していたぞ。
「馬鹿な話を続けるなら帰る」
「そんなこと言わないで!」
「用があるのか? ないなら帰る。俺も暇ではない」
明確な答えがなかったからさっさと奴を置いて部屋を出た。後ろで何か言っていたが相手をしている暇はない。この数日の間に仕事が溜まっている。フレディではまだ全てを任せるのは難しい。守るために手配せねばならないことも山のようにある。
屋敷に戻るとティオとイルーゼが出迎えた。イルーゼに王女の生死が不明になっていることを話さねばならんが、ここでは言えん。着替えが終わったら話をすると告げて別れた。途端、ティオに呼び止められた。手には一通の手紙がある。
「ハッセ子爵家の若夫人からフレディ様にお手紙が来ております。いかがいたしましょうか?」
「ハッセ?」
意外な名前が出てきたな。フレディが懸想していた娘か。確か婿を迎えて領地にいるはずだが。そう言えば、クラウスから麻薬を買っていた客のリストに婿の名があった。泣きついてきたか。
「俺から話す。フレディを呼んでくれ」
着替えをしながら命じるとティオが部屋を出ていった。着替えが終わった頃にフレディが現れた。
「叔父上、お戻りでしたか? 何か?」
「ハッセから手紙が届いている」
「……アイシャから? 今更なんの用で……」
フレディが訝しげに手紙を受け取って読み始めた。俺が先に目を通してもよかったがフレディのことは信用している。その姿勢は崩したくない。
「……話になりませんね」
そう言って手紙を渡してきたので目を通した。案の定、夫が麻薬の件で捕縛されたので助けてほしいというものだった。
「どうする?」
「何も。手を貸すつもりはありません。今更です」
「今更か」
「はい」
吹っ切れたのか? その表情に迷いはないように見える。だが、醜聞になるほどに想った相手だろう。本当にいいのか?
「放っておけば爵位返上、あの一家は平民になるかもしれんぞ」
「それでもです。こんな時だけ助けてほしいと言われても困ります。俺から断りの手紙を書きます。ティオ、今後は手紙を受け取らなくていい」
「かしこまりました」
吹っ切ったらしいな。本人がいいのならそれでいい。いつまでも守り続けていては成長出来ん。
「返事を書きます。叔父上、中を確認してから送ってください」
「見せる必要はない」
「……ありがとうございます。ですがけじめとして確認してほしいのです」
「わかった」
頭を下げたフレディは、再度お願いしますと笑みを浮かべながら出ていった。
「変わったか?」
以前は俺の顔色を窺うような自信のなさそうな目をしていた。最近は俯くことも減って顔色もいい。小さい頃から成長を見守ってきたが随分明るくなったように見える。
「左様でございますね。もしかすると奥様の影響かもしれません」
「イルーゼの?」
「はい。奥様と接する機会が増えて色々と考えを改められることがおありだったようです。貴族として情よりも責務を優先すべきとの考えに感化されたご様子です」
「そうか」
あれが隣にいればフレディは当主としてやっていけたかもしれない。その可能性を考えてもよかったな。その場合、確実に尻に敷かれただろうが。
「ティオ、イルーゼから不満は出ていないか」
「いいえ、特には。どうかされましたか?」
「いや……何かあったら教えてくれ」
頷くティオを横目で見ながらイルーゼの元に向かった。
◆ ◆ ◆
ヴォルフ様が王宮からお戻りになった後、衝撃的な話を伺ったわ。あのリシェル様が生死不明になったと。幽閉されている屋敷が火事になり、別の屋敷に移動する間に賊に襲われて馬車ごと川に落ちたらしい。共にいた女性騎士が遺体で見つかり、リシェル様と侍女はまだ所在が知れず捜索中だという。
「移動した頃は既に日が暮れ始めていた。もし身代わりを立てていても気付かなかっただろう」
夕方ならその可能性も否定出来ないわね。誰かがリシェル様を助け出そうとしたってことかしら? 驚きはしたけれどそうであっても不思議じゃない。クラウス様が手を貸したのかしら? それともリシェル様の取り巻きの方々? 彼らは毒虫を使って私を害しようとしたことが発覚して今は不遇の身だと聞いているわ。処分を不満に思い、リシェル様を救い出そうと動いても不思議じゃないわね。
「警備は強化したが警戒は怠るな」
「わかりました」
この前の暗殺者のような例もあるわ。気を抜かないように気を付けないと。誰も傷ついてほしくない。ザーラの二の舞は避けたいわ。
そのザーラだけど、ようやく医師から仕事に戻ってもいいとお墨付きが出た。傷も目立たなくなったと聞いてホッとしたわ。彼女だって未婚の令嬢だもの。男性に興味がないと言っていたけれど、いいご縁があったら幸せになってほしい。この屋敷にはブレンやアベルのように貴族籍を持ち、有能で独身の男性が何人もいるわ。ティオの話では職場で縁を繋いだ人も少なくないという。
「お前の兄から手紙が来ていた。一度話がしたいそうだ」
「それは事業の件で?」
「だろうな」
ヴォルフ様が自力で立つ覚悟があるなら訪ねてくるようにと兄に言っていたけれど、その気になったのかしら。お義姉様が上手く転がしてくれたのならいいけれど。
兄がお義姉様と共に訪ねてきたのはそれから三日後だった。二人を迎えたのは私たちが暮らす東棟ではなく客人を持て成すための南棟の応接室。妻の実兄だから東棟に迎えるかと思ったけれど、ヴォルフ様は兄を信用していないのね。でも仕方ないわ、私も信用していないもの。応接室にヴォルフ様と入ると、ソファに腰かけてお茶を飲んでいた兄とお義姉様が立ち上がった。ヴォルフ様は手で制して座るよう促す。向かい側の席に腰を下ろすとティオがお茶を淹れてくれた。
「それで、どうするつもりだ?」
挨拶もそこそこにヴォルフ様が切り出した。兄相手では形式的な挨拶も不要ってことね。兄は挨拶しようとしていたところを遮られて渋い顔をしたけれど、ヴォルフ様には逆らえない。大人しく今後の計画を説明し始めたものの……
「話が長くて要領を得ないな。もっとわかりやすく説明しろ」
早々にヴォルフ様に指摘されてしまった。でもこれに関しては兄が悪いわ。やたら勿体ぶった言い方で何を言いたいのか私も理解出来なかったもの。この人、計画の内容をちゃんと理解しているのかしら。兄が顔を赤くし、汗を拭きながら必死に話をまとめて説明し直した。
「話にならんな」
ヴォルフ様の答えは簡潔だった。でも仕方がないわ。計画の目標もそれに至るための準備も何もかもが『これから詳しく詰める』ばかりで中身がなかったのだから。こんなの学生のレポートよりも薄くて現実味がないもの。
「しかし、侯爵様……!」
「俺が望むのは現実的に達成可能で、確実に利が見込まれる計画だ。絵空事に興味はない」
「そ、そんな言い方はないでしょう!? これでも一生懸命考えたものなのですよ!!」
兄が唾を飛ばさんばかりに声を上げた。もしかして兄の能力はこの程度しかないの? だったら騙されたのも納得なのだけど、残念すぎるわ……
「考えただけでは意味がないと言っているのだ。俺が求めているのはガウス家の負債を確実に減らし、少なくとも五年後には利益を出せるような計画だ。このやり方では十年経っても利など得られない」
ヴォルフ様は容赦なかったけれど、私でも兄の計画の薄っぺらさは理解出来た。これでは助けようと思っても手が出せないわ。だって成功するとは思えないもの。
「そんな……」
「失敗するとわかっているものに投資する気はない」
私が嫁いだことに胡坐をかいても無駄ってことよね。そんな無駄な優しさはヴォルフ様にはないわよ。
「これでは貴殿が爵位を継ぐのは不安でしかないな」
「な、何を! 我が家の嫡男は私です。私以外に継ぐ者など……」
兄は訳がわからないといった風にヴォルフ様を見上げた。元から察しがいい方ではないけれど、両親の確執やカリーナに子が出来たことは知らないのかしら? 私は話していないし、父が……いえ、あの人が自分の都合の悪いことを話すとは思えないわね。
「ガウス家の後継は貴殿である必要はないということだ」
「ま、まさか、フィリーネの子が……」
「フィリーネだけとは限らん。イルーゼが産んだ子でも問題はない」
「な!」
本当に想定していなかったことに驚いたわ。あんな詐欺に騙されたら普通は廃嫡、最悪勘当されて追放なのに。男子が自分だけだからと、そんな可能性は少しも考えていなかったのね。
「そ、それは乗っ取りではありませんか!」
「嫁いだ娘の二人目三人目の子が実家の後継になるのは珍しくない。より優位に立つために格上の家に嫁いだ娘の子を嫡子にする家もあるくらいだ」
そうね、兄よりもゾルガー家の血を引く私の次男の方が立場が強く発言力も大きい。父は隠居するには早いし、私の子の成長を待つ時間もある。貴族ならいかに利を多く得るかを考えるのは当然だもの。
「ふっ、ふざけないでください!! そのようなこと、許されるはずがない!!」
「決めるのはガウス伯爵と王だ。前にも言ったが俺はガウス家に興味はない。このまま爵位返上になろうと構わん。イルーゼが望むなら王から取り戻して子に渡すくらい造作もないからな」
「な……! ゾルガー侯爵といえどそのような暴言、受け入れかねます。失礼する!!」
そう言うと兄はさっさと腰を上げて行ってしまった。お義姉様が慌てて立ち上がる。
「申し訳ございません、侯爵様。失礼しますわ。イルーゼ様……」
「謝るのはこちらの方ですわ。兄が申し訳ありません。また後日、ゆっくりいらしてください」
私が答えるとお義姉様は眉を下げながら笑みを浮かべて兄を追いかけていった。交渉決裂ね、どうしようもないわ。
「ヴォルフ様、申し訳ございませんでした」
「お前のせいではない」
「ありがとうございます」
「ガウス家はこれから生まれる子に継がせる方がいいかもしれないな」
「そう、ですね」
あの様子では兄を再教育しても期待出来そうにないわね。だったら姉かカリーナの子を後継として育てた方がずっとマシかもしれない。それでもダメなら私の子かしら。
「どうにもならなければお前の子を後継にする」
やっぱりそうなるわね。ガウス家で育てても父や兄の複製品になっては意味がないもの。それくらいならこの家でしっかり教育した方がよさそう。お義姉様はともかく兄には任せられないわ。
兄夫婦が来た翌日、国王陛下がリシェル様の件を公にした。川に落ちて行方不明になっていること、もし発見した者がいたら速やかに騎士団か町や村の有力者に報告すること、一月経っても現れなかったら死亡と見なすとも。こんな風に王家が公表するのは珍しいけれど、身を隠せば王女の身分を失ってしまうから効果はありそうに思えた。
◆ ◆ ◆
それから十日が経った今日はエルマ様とリーゼ様を招いてのお茶会。お二人とは婚姻式以来で、エルマ様の婚姻式は二月後に迫っている。彼女が婚姻したら一層気軽に会えなくなってしまうから、今日はたくさん話をしようと思っていたのだけど……
「エルマ様、どうなさいましたの? なんだかお疲れのようですが……」
いつも凛としたエルマ様の表情に陰りを感じた。リーゼ様も同じように感じているのか心配そうな視線を向けている。
「何か心配事が? 私たちでよければ力になりますわ」
「……ありがとうございます。実は……」
暫くためらっていたエルマ様だったけれど、憂いのこもった息を吐いた後、その理由を話してくれた。
「ええっ? お姉様が離婚?」
「ええ。半月ほど前から家に戻っていますの」
エルマ様の憂いの元は姉のミリセント様だった。後継の座を嫌がって、既成事実を作って逃げるように嫁いだミリセント様。根回しもなく結んだ縁は婚家にとっても不本意だったようで、結婚生活は居心地のいいものではなかったらしい。実家よりも格下の伯爵家での生活と周囲の無理解にミリセント様はこんなはずじゃなかったと夫を責め、不満しか言わない妻に愛想を尽かした夫は愛人に逃げた。三年経っても子が出来ず、愛人を第二夫人として迎える話が持ち上がり、ミリセント様は怒り狂って婚家を出たという。
ベルトラム侯爵は出戻りを許さなかったけれど、夫人が娘可愛さに屋敷に入れてしまった。それがエルマ様の苦悩の始まりだった。ミリセント様はあろうことかギレッセン様に擦り寄ったのだ。婚姻が近づいて彼がベルトラム侯爵家に移り住んでいたのもよくなかった。穏やかな性格の彼はミリセント様を強く拒絶出来ず、母親も傷心中だから暫く大目に見てほしいと言っているのだとか。
「さすがに節操がなさすぎますわ」
「そうですわ。家と婚約者を捨てておきながら今更戻りたいだなんて……」
私もリーゼ様も開いた口が塞がらなかったわ。何をお考えなのかしら?
「御父君は何も仰いませんの?」
そもそもよく侯爵がお許しになったわね。勘当同然ではなかったの?
「父はそんなことで一々騒ぐなと……でも母は姉に同情的で。元々あの二人は母娘というよりも姉妹のような感じでしたから」
「騒ぐなって……お姉様を追い出すのが筋でしょうに」
「ええ、そんなことをされたら私でも家を出ますわ。そんな姉も婚約者もいりませんもの」
いくら仲がいいとはいえ、さすがにそれはないでしょう。エルマ様がどんな思いで後継としての役目を果たそうとしているのかわかっていたら姉の肩など持てないわよ。
「それで、ギレッセン様はなんと?」
「彼は何も。十年以上姉の婚約者だった方です。二人の仲は悪くありませんでしたし、私よりも付き合いが長いのでどうお考えなのか……」
ちょっと待って。ギレッセン様の対応も酷くない? エルマ様は複雑な気持ちを呑み込みながらも歩み寄ろうとしていたのに。
「エルマ様、お気をしっかり。今はエルマ様が後継者です。ミリセント様は逃げ出された方。今更戻ろうとしても世間が許しませんわ」
「そうですとも。こんなことがまかり通ればベルトラム家は筋を通さない家だと後ろ指を指されてしまいますわ。国を導く立場の侯爵様がそのような愚を犯すとは思えません」
私たちの励ましにエルマ様が瞳を揺らして淡い笑みを浮かべたけれど……
「エルマ様、もしかしてギレッセン様のことを……」
「イ、イルーゼ様!」
青褪めて見えたエルマ様の頬にさっと赤みが増した。時折ギレッセン様の話になると表情が強張っていたから苦手なのかと思っていたのだけど、その逆だったのね。よくよく話を聞くと、エルマ様は昔から優しく接してくれたギレッセン様を慕っていたのだとか。
「私たちはエルマ様の味方です。なんでもご相談なさって」
「ええ、エルマ様のためなら協力は惜しみませんわ」
「あ、ありがとうございます、お二人とも……」
少し元気が出てきたのか、さっきよりもはっきりした笑みを浮かべてくれたけれど、それでもエルマ様の表情がいつものそれに戻ることはなかった。こうしている間も屋敷ではミリセント様がギレッセン様に擦り寄っているのかもしれない。
エルマ様が次の予定があるからと先に帰られた後も、応接室は重い空気に包まれていた。リーゼ様も珍しく眉間に深い皺を刻んでいる。
「ベルトラム家はどうなっているのかしら?」
「私も詳しいことは……でも腹立たしいですわ。ミリセント様は楽な方に流れた方じゃありませんか。そのせいでエルマ様がどれほど苦労なされたことか……」
思わず漏れた言葉にリーゼ様の怒りが滲んでいた。卒業二年前に急に嫡子にされたエルマ様。それまでの淑女科の勉強以外にも当主としての勉強も追加されて、学園で五年かけて学ぶことを二年で成し遂げるためにどれほど苦労なさっていたか。それもギレッセン様への恋心があったから頑張れたのね。そんなエルマ様を蔑ろにするなんて……許せないわ。
「でも……下手に手を出せませんわね」
「ええ。エルマ様もギレッセン様を想っていらっしゃるとなると……余計なことをして拗れては目も当てられませんし……」
私もリーゼ様も恋愛の経験がないから助言のしようもないわ。ミリセント様についても詳しく存じ上げないし……互いに重いため息をつくばかりでこれといった妙案は浮かんでこなかった。
「そう言えばイルーゼ様、侯爵様とはいかがですの?」
「……そう、ですわね。ヴォルフ様は何かと気遣ってくださいますし、実家よりもずっと快適ですわ」
「よかったですわ。世間の噂もあるから心配でしたの」
リーゼ様がホッとした表情を浮かべた。心配をおかけしていたのね。ヴォルフ様は感情のない冷酷な方だと世間では言われているから。
王太子が盛大にため息をついて弟を窘めた。
「そこは申し訳なく思っています。夫人には何かお詫びさせていただきます」
「好きにしろ。だが次はないぞ」
あの暗殺者に比べれば大したことではないがイルーゼは気にしているかもしれない。こいつには釘を刺しておくべきか。また面倒を起こされても厄介だ。あれに余計な苦労をかけるのはわかり切っている。予想される憂いは出来るだけ遠ざけておくべきだ。
「わかりました。近いうちにお詫びの品をお贈りします。伺っても?」
「構わんが先触れはしろよ」
来るのは構わないがフレディと同じ感覚では困る。
「もちろんです。ありがとうございます」
「いいなぁ、俺も行きたい……」
「兄上は仕方ありませんよ。私とは立場が違いますから」
「はぁ、なんだよ、二人とも。羨ましい……」
盛大にため息をついたが仕方がないだろう。誰かが王位に就かなければならないんだ。
「兄上よりも侯爵の方が王に向いていたかもしれませんね」
「そうだよね! そう思うだろう!」
王太子が目を輝かせた。何を言っているんだ。黒髪緑目の王など誰も歓迎しないだろうが。
「そんな窮屈な立場は御免だ」
「そんなぁ……」
「侯爵、考える余地もなしですか。兄上、諦めてください。いいじゃないですか、侯爵がいてくださるから兄上の治世は安泰ですよ。逆に侯爵の仕事、兄上に出来るんですか?」
「暗殺者が忍んでくる生活だ。退屈はしないだろう」
王太子とブレッケルが黙り込んだ。なんだ?
「どうした?」
「いや……君が冗談を言うなんて思わなくて……」
「ええ、私も驚きました……」
事実を言っただけで冗談を言ったつもりはないのだが。さっきも賊が忍び込んだと言っただろう。どうしてそうなる?
「ふふ、君が少しでも変わってくれたなら嬉しいよ」
「そうですね、父上も母上も喜びますよ」
二人して嬉しそうだがどういう意味だ? 話が見えん。が、問い詰める価値はないように思える。この二人なら尚更だ。
「はぁ、あとは姉上かぁ……生きているのなら早く出てきてほしいよ」
「……そうだな。可能性は低そうだけど……」
王女の行方不明は国王夫妻の表情にも影を落としていた。いずれ死ぬと決まっていたとはいえこんな終わりは望んでいなかっただろう。遺体が見つからないのでは諦めも付かん。厄介だ。
その後ブレッケルが帰るというので共に帰ろうとしたが王太子に呼び止められた。まだあるのか? ちょうどいい、聞いておきたいことがある。
「ナディア王女と親しかった者でまだ生きている者はいるか?」
「え? 祖父の妹だろ? どうかなぁ……亡くなって随分経つし」
世代的には祖父の代、しかも義母が死んだのは異母兄が駆け落ちして俺が家に戻った後だ。あれから二十年近くが経った。生きていれば六十も半ば、同年代は五侯爵家ではミュンターの爺くらいしかいない。
「使用人でもいい」
「君、何考えているの?」
「お前が言っただろう、兄はあの爺の子ではないかと」
「え? あれ本気にしちゃったの?」
お前が言い出したんだろうが。こいつにしてはいい着眼点だったと思ったんだが。
「あの女に仕えていた侍女がまだ屋敷に残っていた。話を聞いたら随分親密だったと答えた。父よりもずっとだ」
それだけで通じていたとは言えないが、あの二人は時折、内々の話があるからと侍女を遠ざけていたという。それは婚姻直後から始まり、義母が死ぬまで続いた。
「……大叔母上は、ミュンターに降嫁する話もあった気がする。わかったよ、調べさせる」
「王女と合わせて報告書を送れ」
「……俺だって暇じゃないんだけど?」
「こうして無駄話をしているくらいには暇だろう」
無駄話だなんて酷いと言っているが、今日聞いた話はとっくに把握済みだ。俺には収穫がないなら無駄話だろう。
「はぁ、イルーゼちゃんも大変だなぁ。こんな男が夫だなんて……」
どうしてそんな話になる?
「特に不満など言っていない」
「今はね。でもいずれそう思うようになるよ」
そうならないように気を付けているがこれでは足りないか? ティオやスージーは問題ないと言っていた。イルーゼからも不満はないと聞いているが。
「フィリーネはどうしているの?」
「変わりなく過ごしている」
「クラウスからの接触は?」
「今のところない。噂を流してあまり日が経っていない。向こうも慎重になるだろう」
それらしい人物が近づいたとの話はない。あの屋敷の周りは我が家の使用人が住んでいて、怪しい動きがあればすぐにわかるようになっている。
「ねぇ君、イルーゼちゃんを囮にしようとか、そんなこと考えていないよね?」
暫く黙っていると思ったら急にしかめっ面で尋ねてきた。囮、か……考えたがあれだけ行動力があると予測が難しくて使い難い。それに……
「そんなことはしない。俺の子がいるかもしれないんだ」
そう言ったら目を大きくして見上げてきた。
「なんだ?」
「いや、君が妻や子を気遣うようなことを言うとは思わなくて……」
「母や兄たちのことを思えばいくら警戒しても足りることはないだろう」
「……確かに」
立て続けに殺された兄たちと兄を庇って死んだ母。フレディが後継を辞退した今、また同じことが起きる可能性は否めない。王太子がソファに身を預けて大きく息を吐くのが見えたが、こうして見るとイルーゼの方が動じていない気がする。いや、こいつの場合は何をしても大袈裟なんだが。
「イルーゼちゃんに同情するよ……こんな男の嫁になったせいでしなくてもいい苦労をする羽目になって……」
「妻にしろと言ってきたのは向こうだ」
「それでも、初夜に賊が侵入することまでは織り込んでなかっただろう?」
そうかもしれないが最初に危険だと伝えてある。辞退する機会は何度もあったが迷っている風はなかったぞ。
「で、イルーゼちゃんとは仲良くやっているの?」
「ああ」
「ああって……ちゃんと会話した? 閨も無理強いしなかっただろうね?」
「話もしたし無理強いもしていない」
これまでにないほどに話をしたし、閨も痛みを感じないように時間をかけた。不満は聞いていないし、ティオやスージーからも苦言はない。大丈夫なはずだ。
「それならいいけど……あんまりがっつくなよ。君の体力に付き合える女性なんかいないに等しいんだから」
「わかっている」
「本当にわかっているのかなぁ。君、仕事ばっかりしているようにしか見えないけど、ちゃんと発散してたの?」
「余計なお世話だ」
「君だから心配なんだよぉ……」
知ったばかりの餓鬼でもあるまいに。少なくともお前よりは発散していたぞ。
「馬鹿な話を続けるなら帰る」
「そんなこと言わないで!」
「用があるのか? ないなら帰る。俺も暇ではない」
明確な答えがなかったからさっさと奴を置いて部屋を出た。後ろで何か言っていたが相手をしている暇はない。この数日の間に仕事が溜まっている。フレディではまだ全てを任せるのは難しい。守るために手配せねばならないことも山のようにある。
屋敷に戻るとティオとイルーゼが出迎えた。イルーゼに王女の生死が不明になっていることを話さねばならんが、ここでは言えん。着替えが終わったら話をすると告げて別れた。途端、ティオに呼び止められた。手には一通の手紙がある。
「ハッセ子爵家の若夫人からフレディ様にお手紙が来ております。いかがいたしましょうか?」
「ハッセ?」
意外な名前が出てきたな。フレディが懸想していた娘か。確か婿を迎えて領地にいるはずだが。そう言えば、クラウスから麻薬を買っていた客のリストに婿の名があった。泣きついてきたか。
「俺から話す。フレディを呼んでくれ」
着替えをしながら命じるとティオが部屋を出ていった。着替えが終わった頃にフレディが現れた。
「叔父上、お戻りでしたか? 何か?」
「ハッセから手紙が届いている」
「……アイシャから? 今更なんの用で……」
フレディが訝しげに手紙を受け取って読み始めた。俺が先に目を通してもよかったがフレディのことは信用している。その姿勢は崩したくない。
「……話になりませんね」
そう言って手紙を渡してきたので目を通した。案の定、夫が麻薬の件で捕縛されたので助けてほしいというものだった。
「どうする?」
「何も。手を貸すつもりはありません。今更です」
「今更か」
「はい」
吹っ切れたのか? その表情に迷いはないように見える。だが、醜聞になるほどに想った相手だろう。本当にいいのか?
「放っておけば爵位返上、あの一家は平民になるかもしれんぞ」
「それでもです。こんな時だけ助けてほしいと言われても困ります。俺から断りの手紙を書きます。ティオ、今後は手紙を受け取らなくていい」
「かしこまりました」
吹っ切ったらしいな。本人がいいのならそれでいい。いつまでも守り続けていては成長出来ん。
「返事を書きます。叔父上、中を確認してから送ってください」
「見せる必要はない」
「……ありがとうございます。ですがけじめとして確認してほしいのです」
「わかった」
頭を下げたフレディは、再度お願いしますと笑みを浮かべながら出ていった。
「変わったか?」
以前は俺の顔色を窺うような自信のなさそうな目をしていた。最近は俯くことも減って顔色もいい。小さい頃から成長を見守ってきたが随分明るくなったように見える。
「左様でございますね。もしかすると奥様の影響かもしれません」
「イルーゼの?」
「はい。奥様と接する機会が増えて色々と考えを改められることがおありだったようです。貴族として情よりも責務を優先すべきとの考えに感化されたご様子です」
「そうか」
あれが隣にいればフレディは当主としてやっていけたかもしれない。その可能性を考えてもよかったな。その場合、確実に尻に敷かれただろうが。
「ティオ、イルーゼから不満は出ていないか」
「いいえ、特には。どうかされましたか?」
「いや……何かあったら教えてくれ」
頷くティオを横目で見ながらイルーゼの元に向かった。
◆ ◆ ◆
ヴォルフ様が王宮からお戻りになった後、衝撃的な話を伺ったわ。あのリシェル様が生死不明になったと。幽閉されている屋敷が火事になり、別の屋敷に移動する間に賊に襲われて馬車ごと川に落ちたらしい。共にいた女性騎士が遺体で見つかり、リシェル様と侍女はまだ所在が知れず捜索中だという。
「移動した頃は既に日が暮れ始めていた。もし身代わりを立てていても気付かなかっただろう」
夕方ならその可能性も否定出来ないわね。誰かがリシェル様を助け出そうとしたってことかしら? 驚きはしたけれどそうであっても不思議じゃない。クラウス様が手を貸したのかしら? それともリシェル様の取り巻きの方々? 彼らは毒虫を使って私を害しようとしたことが発覚して今は不遇の身だと聞いているわ。処分を不満に思い、リシェル様を救い出そうと動いても不思議じゃないわね。
「警備は強化したが警戒は怠るな」
「わかりました」
この前の暗殺者のような例もあるわ。気を抜かないように気を付けないと。誰も傷ついてほしくない。ザーラの二の舞は避けたいわ。
そのザーラだけど、ようやく医師から仕事に戻ってもいいとお墨付きが出た。傷も目立たなくなったと聞いてホッとしたわ。彼女だって未婚の令嬢だもの。男性に興味がないと言っていたけれど、いいご縁があったら幸せになってほしい。この屋敷にはブレンやアベルのように貴族籍を持ち、有能で独身の男性が何人もいるわ。ティオの話では職場で縁を繋いだ人も少なくないという。
「お前の兄から手紙が来ていた。一度話がしたいそうだ」
「それは事業の件で?」
「だろうな」
ヴォルフ様が自力で立つ覚悟があるなら訪ねてくるようにと兄に言っていたけれど、その気になったのかしら。お義姉様が上手く転がしてくれたのならいいけれど。
兄がお義姉様と共に訪ねてきたのはそれから三日後だった。二人を迎えたのは私たちが暮らす東棟ではなく客人を持て成すための南棟の応接室。妻の実兄だから東棟に迎えるかと思ったけれど、ヴォルフ様は兄を信用していないのね。でも仕方ないわ、私も信用していないもの。応接室にヴォルフ様と入ると、ソファに腰かけてお茶を飲んでいた兄とお義姉様が立ち上がった。ヴォルフ様は手で制して座るよう促す。向かい側の席に腰を下ろすとティオがお茶を淹れてくれた。
「それで、どうするつもりだ?」
挨拶もそこそこにヴォルフ様が切り出した。兄相手では形式的な挨拶も不要ってことね。兄は挨拶しようとしていたところを遮られて渋い顔をしたけれど、ヴォルフ様には逆らえない。大人しく今後の計画を説明し始めたものの……
「話が長くて要領を得ないな。もっとわかりやすく説明しろ」
早々にヴォルフ様に指摘されてしまった。でもこれに関しては兄が悪いわ。やたら勿体ぶった言い方で何を言いたいのか私も理解出来なかったもの。この人、計画の内容をちゃんと理解しているのかしら。兄が顔を赤くし、汗を拭きながら必死に話をまとめて説明し直した。
「話にならんな」
ヴォルフ様の答えは簡潔だった。でも仕方がないわ。計画の目標もそれに至るための準備も何もかもが『これから詳しく詰める』ばかりで中身がなかったのだから。こんなの学生のレポートよりも薄くて現実味がないもの。
「しかし、侯爵様……!」
「俺が望むのは現実的に達成可能で、確実に利が見込まれる計画だ。絵空事に興味はない」
「そ、そんな言い方はないでしょう!? これでも一生懸命考えたものなのですよ!!」
兄が唾を飛ばさんばかりに声を上げた。もしかして兄の能力はこの程度しかないの? だったら騙されたのも納得なのだけど、残念すぎるわ……
「考えただけでは意味がないと言っているのだ。俺が求めているのはガウス家の負債を確実に減らし、少なくとも五年後には利益を出せるような計画だ。このやり方では十年経っても利など得られない」
ヴォルフ様は容赦なかったけれど、私でも兄の計画の薄っぺらさは理解出来た。これでは助けようと思っても手が出せないわ。だって成功するとは思えないもの。
「そんな……」
「失敗するとわかっているものに投資する気はない」
私が嫁いだことに胡坐をかいても無駄ってことよね。そんな無駄な優しさはヴォルフ様にはないわよ。
「これでは貴殿が爵位を継ぐのは不安でしかないな」
「な、何を! 我が家の嫡男は私です。私以外に継ぐ者など……」
兄は訳がわからないといった風にヴォルフ様を見上げた。元から察しがいい方ではないけれど、両親の確執やカリーナに子が出来たことは知らないのかしら? 私は話していないし、父が……いえ、あの人が自分の都合の悪いことを話すとは思えないわね。
「ガウス家の後継は貴殿である必要はないということだ」
「ま、まさか、フィリーネの子が……」
「フィリーネだけとは限らん。イルーゼが産んだ子でも問題はない」
「な!」
本当に想定していなかったことに驚いたわ。あんな詐欺に騙されたら普通は廃嫡、最悪勘当されて追放なのに。男子が自分だけだからと、そんな可能性は少しも考えていなかったのね。
「そ、それは乗っ取りではありませんか!」
「嫁いだ娘の二人目三人目の子が実家の後継になるのは珍しくない。より優位に立つために格上の家に嫁いだ娘の子を嫡子にする家もあるくらいだ」
そうね、兄よりもゾルガー家の血を引く私の次男の方が立場が強く発言力も大きい。父は隠居するには早いし、私の子の成長を待つ時間もある。貴族ならいかに利を多く得るかを考えるのは当然だもの。
「ふっ、ふざけないでください!! そのようなこと、許されるはずがない!!」
「決めるのはガウス伯爵と王だ。前にも言ったが俺はガウス家に興味はない。このまま爵位返上になろうと構わん。イルーゼが望むなら王から取り戻して子に渡すくらい造作もないからな」
「な……! ゾルガー侯爵といえどそのような暴言、受け入れかねます。失礼する!!」
そう言うと兄はさっさと腰を上げて行ってしまった。お義姉様が慌てて立ち上がる。
「申し訳ございません、侯爵様。失礼しますわ。イルーゼ様……」
「謝るのはこちらの方ですわ。兄が申し訳ありません。また後日、ゆっくりいらしてください」
私が答えるとお義姉様は眉を下げながら笑みを浮かべて兄を追いかけていった。交渉決裂ね、どうしようもないわ。
「ヴォルフ様、申し訳ございませんでした」
「お前のせいではない」
「ありがとうございます」
「ガウス家はこれから生まれる子に継がせる方がいいかもしれないな」
「そう、ですね」
あの様子では兄を再教育しても期待出来そうにないわね。だったら姉かカリーナの子を後継として育てた方がずっとマシかもしれない。それでもダメなら私の子かしら。
「どうにもならなければお前の子を後継にする」
やっぱりそうなるわね。ガウス家で育てても父や兄の複製品になっては意味がないもの。それくらいならこの家でしっかり教育した方がよさそう。お義姉様はともかく兄には任せられないわ。
兄夫婦が来た翌日、国王陛下がリシェル様の件を公にした。川に落ちて行方不明になっていること、もし発見した者がいたら速やかに騎士団か町や村の有力者に報告すること、一月経っても現れなかったら死亡と見なすとも。こんな風に王家が公表するのは珍しいけれど、身を隠せば王女の身分を失ってしまうから効果はありそうに思えた。
◆ ◆ ◆
それから十日が経った今日はエルマ様とリーゼ様を招いてのお茶会。お二人とは婚姻式以来で、エルマ様の婚姻式は二月後に迫っている。彼女が婚姻したら一層気軽に会えなくなってしまうから、今日はたくさん話をしようと思っていたのだけど……
「エルマ様、どうなさいましたの? なんだかお疲れのようですが……」
いつも凛としたエルマ様の表情に陰りを感じた。リーゼ様も同じように感じているのか心配そうな視線を向けている。
「何か心配事が? 私たちでよければ力になりますわ」
「……ありがとうございます。実は……」
暫くためらっていたエルマ様だったけれど、憂いのこもった息を吐いた後、その理由を話してくれた。
「ええっ? お姉様が離婚?」
「ええ。半月ほど前から家に戻っていますの」
エルマ様の憂いの元は姉のミリセント様だった。後継の座を嫌がって、既成事実を作って逃げるように嫁いだミリセント様。根回しもなく結んだ縁は婚家にとっても不本意だったようで、結婚生活は居心地のいいものではなかったらしい。実家よりも格下の伯爵家での生活と周囲の無理解にミリセント様はこんなはずじゃなかったと夫を責め、不満しか言わない妻に愛想を尽かした夫は愛人に逃げた。三年経っても子が出来ず、愛人を第二夫人として迎える話が持ち上がり、ミリセント様は怒り狂って婚家を出たという。
ベルトラム侯爵は出戻りを許さなかったけれど、夫人が娘可愛さに屋敷に入れてしまった。それがエルマ様の苦悩の始まりだった。ミリセント様はあろうことかギレッセン様に擦り寄ったのだ。婚姻が近づいて彼がベルトラム侯爵家に移り住んでいたのもよくなかった。穏やかな性格の彼はミリセント様を強く拒絶出来ず、母親も傷心中だから暫く大目に見てほしいと言っているのだとか。
「さすがに節操がなさすぎますわ」
「そうですわ。家と婚約者を捨てておきながら今更戻りたいだなんて……」
私もリーゼ様も開いた口が塞がらなかったわ。何をお考えなのかしら?
「御父君は何も仰いませんの?」
そもそもよく侯爵がお許しになったわね。勘当同然ではなかったの?
「父はそんなことで一々騒ぐなと……でも母は姉に同情的で。元々あの二人は母娘というよりも姉妹のような感じでしたから」
「騒ぐなって……お姉様を追い出すのが筋でしょうに」
「ええ、そんなことをされたら私でも家を出ますわ。そんな姉も婚約者もいりませんもの」
いくら仲がいいとはいえ、さすがにそれはないでしょう。エルマ様がどんな思いで後継としての役目を果たそうとしているのかわかっていたら姉の肩など持てないわよ。
「それで、ギレッセン様はなんと?」
「彼は何も。十年以上姉の婚約者だった方です。二人の仲は悪くありませんでしたし、私よりも付き合いが長いのでどうお考えなのか……」
ちょっと待って。ギレッセン様の対応も酷くない? エルマ様は複雑な気持ちを呑み込みながらも歩み寄ろうとしていたのに。
「エルマ様、お気をしっかり。今はエルマ様が後継者です。ミリセント様は逃げ出された方。今更戻ろうとしても世間が許しませんわ」
「そうですとも。こんなことがまかり通ればベルトラム家は筋を通さない家だと後ろ指を指されてしまいますわ。国を導く立場の侯爵様がそのような愚を犯すとは思えません」
私たちの励ましにエルマ様が瞳を揺らして淡い笑みを浮かべたけれど……
「エルマ様、もしかしてギレッセン様のことを……」
「イ、イルーゼ様!」
青褪めて見えたエルマ様の頬にさっと赤みが増した。時折ギレッセン様の話になると表情が強張っていたから苦手なのかと思っていたのだけど、その逆だったのね。よくよく話を聞くと、エルマ様は昔から優しく接してくれたギレッセン様を慕っていたのだとか。
「私たちはエルマ様の味方です。なんでもご相談なさって」
「ええ、エルマ様のためなら協力は惜しみませんわ」
「あ、ありがとうございます、お二人とも……」
少し元気が出てきたのか、さっきよりもはっきりした笑みを浮かべてくれたけれど、それでもエルマ様の表情がいつものそれに戻ることはなかった。こうしている間も屋敷ではミリセント様がギレッセン様に擦り寄っているのかもしれない。
エルマ様が次の予定があるからと先に帰られた後も、応接室は重い空気に包まれていた。リーゼ様も珍しく眉間に深い皺を刻んでいる。
「ベルトラム家はどうなっているのかしら?」
「私も詳しいことは……でも腹立たしいですわ。ミリセント様は楽な方に流れた方じゃありませんか。そのせいでエルマ様がどれほど苦労なされたことか……」
思わず漏れた言葉にリーゼ様の怒りが滲んでいた。卒業二年前に急に嫡子にされたエルマ様。それまでの淑女科の勉強以外にも当主としての勉強も追加されて、学園で五年かけて学ぶことを二年で成し遂げるためにどれほど苦労なさっていたか。それもギレッセン様への恋心があったから頑張れたのね。そんなエルマ様を蔑ろにするなんて……許せないわ。
「でも……下手に手を出せませんわね」
「ええ。エルマ様もギレッセン様を想っていらっしゃるとなると……余計なことをして拗れては目も当てられませんし……」
私もリーゼ様も恋愛の経験がないから助言のしようもないわ。ミリセント様についても詳しく存じ上げないし……互いに重いため息をつくばかりでこれといった妙案は浮かんでこなかった。
「そう言えばイルーゼ様、侯爵様とはいかがですの?」
「……そう、ですわね。ヴォルフ様は何かと気遣ってくださいますし、実家よりもずっと快適ですわ」
「よかったですわ。世間の噂もあるから心配でしたの」
リーゼ様がホッとした表情を浮かべた。心配をおかけしていたのね。ヴォルフ様は感情のない冷酷な方だと世間では言われているから。
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