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3巻
3-3
「……ねぇ、リーゼ様。恋ってどんなものなのかしらね」
「恋、ですか……」
私は恋をしたことがない。結婚は政略だからそういう感情は持たないようにしていたし、ハリマン様は好みじゃなかったから惹かれることもなかった。
「私も、ですわね。ローレンツ様は兄のような存在ですから」
「リーゼ様の場合はライバルでもありますものね」
「ふふ、最近はそんな感じですわ」
リーゼ様は苦笑しながらそう答えたけれど、ローレンツ様はリーゼ様を想っているように見える。リーゼ様に向ける視線は私たちに向けるそれとは違うし、時には私たちに渋い表情を見せる。あれは嫉妬ではないかしら……
「よくわからないわね、恋って」
「ふふ、やろうとして出来るものではなさそうですわ。でも、イルーゼ様は侯爵様に恋をなさってもよろしいのでは?」
「え?」
そんな風に言われるとは思わなくて驚いたわ。ヴォルフ様に、恋?
「だって、もう夫婦ですもの。侯爵様は恐ろしく見えますけれどイルーゼ様にはそんなことはないのでしょう?」
「ええ、まぁ……」
怖い、とは感じないわ。根は優しい人だと思うし。
「結婚してから互いを知り恋に落ちる夫婦もいるそうですわ。侯爵様は信用出来る方のようですし、夫婦になった今なら安心して恋が出来るのではありませんか?」
そういう考えもあるのね。確かにヴォルフ様は凛々しくて男性らしくて素敵だわ。夫人たちが熱の籠った目で見るのもわかるもの。愛を期待するなと言われたけれど……私が好きになるのはいいのかしら?
「……どんな状態になったら、恋をしたと言えるのかしら?」
「まぁ、それは人それぞれなのではありませんか? ふふ、イルーゼ様、そのご様子なら既に恋しているのかもしれませんわね」
「……私が?」
そんな風に思ったことはなかったわ。だってこの結婚は政略で契約だから。
「そんなことを尋ねられるということは既に気になっていらっしゃるのではありませんか? その方が他の女性から興味を持たれて嫌だと感じたら、もう恋の入口に立っているそうですわ」
先日読んだ物語にそう書いてありました、とリーゼ様が微笑んだ。ヴォルフ様に恋をするなんて考えもしなかったけれど……いいのかしら? そうなったらどんなに素敵かしらと思う自分がいた。
でも、それはヴォルフ様との約束を違えることにならないかしら? そう気付いたら急に気持ちが冷えた気がした。せっかくいい関係を築けているのに、この気持ちを知られたら壊れてしまうかもしれない……
やっぱりダメだわ。信頼を失うなんて耐えられない。余計な感情を持たなくてもヴォルフ様の妻は私で、お子を産むのも私だもの。それで十分よね。これ以上考えるのは……危険だわ。
◆ ◆ ◆
エルマ様たちとのお茶会から十日ほど後、お義姉様から手紙が届いた。エルマ様も心配だけどこちらも頭の痛い内容で、兄が毎日のようにどこかに出かけて夜遅くまで帰ってこないとあった。ヴォルフ様に話をすると既に把握されていて、兄が通っているのは商人らが集まる倶楽部で、事業の損失を埋めるためにあちこちに声をかけているのだという。
「そんなに無節操に声をかけて、大丈夫なのでしょうか……」
あっさり騙された兄だから不安しかなかった。焦っているのでしょうけれど、これ以上損失を出されたら実家が破産してしまうわ。お義姉様のためにもそれは避けたいのに。
「あれが誰と何をしているかは監視している」
さすがはヴォルフ様ね。その言葉にホッとしたわ。でも……ヴォルフ様から聞いた話は全く安心出来るものではなかった。また怪しい商人の話に乗り、騙されつつあるという。
「そうですか。やはり兄は……」
「廃嫡する」
私が口にする前にその先を言われてしまったわ。言葉にするのを躊躇ったことに気付かれてしまったかしら。こんな弱気な態度ではゾルガー夫人として相応しくないと思われたかもしれない。もっと強くならないと……
「無理はするな。言い難いことは俺に言わせればいい」
「ですが……」
「俺には痛む心がないから問題ない。今回は家族の話だ。決断し難いことは理解している」
もしかして私のためにそんな風に言ってくださっているのかしら。
「お前は度胸もあって気も強いが、まだ世に出たばかりだ。それに汚い世界を知らん。いきなり俺と同じことが出来るとは思っていない。フレディもそうだ。荷が重いと思うことは俺にやらせればいい」
その言葉に目の奥が熱くなった。大丈夫だと、自分のペースでいいと言われているようで安堵が胸に広がる。やっぱりこの人に感情がないなんて信じられないわ。
「ありがとうございます。きっと追いつきますから、それまではよろしくお願いします」
「気負わなくていいと言っただろう。無理に汚れる必要もない」
それはヴォルフ様が汚れているという意味なのかしら? そんなことはないわ。混乱を招かないよう秘密裏に手を回すのは社会の秩序を守るためにも必要な行為。実家だってこのまま破産すれば多くの取引先に損害を与えてしまうし、使用人や民にかけなくてもいい苦労をかけてしまう。それを回避するために誰にも知られないよう手を回すことを、汚れるなんて言葉で片付けたくない。綺麗ごとだけでは世の中は回らないもの。
それからヴォルフ様は兄の廃嫡に向けて動き出して、私はお義姉様を呼んでその旨を話した。お義姉様も前回の訪問で覚悟は出来ていたらしく、寂しそうな笑顔で了承してくださった。あんな兄でも夫婦として二人の間には私にはわからない何かがあるのでしょうね。
それから数日後、ヴォルフ様は父を呼び出した。少し会わない間に一層老け込んだわね。兄がまた騙されそうになって実家の状況がよくないのでしょうけれど。
「伯爵、長男は廃嫡しろ」
「……それは、決定事項でございますか」
「そうだ。今回の被害は甚大だ。なのに実効性のある対策を考えられなかっただけでなく、また怪しい商人に騙されそうになっている。被害が出る前に片を付けろ」
ヴォルフ様が淡々と告げる言葉を父は顔を青くして聞いていたけれど、最後には大きく肩を落として俯いてしまった。手が小さく震えている。兄には愛情があったのかしら。
「わ、私が責任を取って爵位を……」
「貴殿にはこれからも当主としての務めを果たしてもらう」
「……かしこまり、ました……」
絞り出すように父が答えた。父もわかっているのでしょうね、兄では無理だと。父も出来た当主ではなかったけれど、ワイン事業は堅調であんな怪しい商会と手を結ぶようなことはなかったわ。当主としては父の方がマシだった。それに現時点では爵位を返上するほどではないのよね。損害は大きくてもまだ建て直しが可能だとヴォルフ様はお考えだから。
「しかし……あれが納得するか……」
確かにあの兄に納得させるのは大変でしょうね。いえ、何を言っても納得しなさそう。
「納得しなければ、これを使え」
そう言うとヴォルフ様が小瓶を懐から取り出してテーブルに置いた。手のひらに隠れてしまうほどの大きさの薄灰色のガラスで出来たそれは、静かにその存在を主張していた。
「飲めば高熱が出て、熱が下がったあとは手足に麻痺が残る」
「これ、が……」
子どもがかかる病気の一つに、大人になってからかかると重症化して麻痺が残るものがある。それと変わらない症状と経過になる毒があると、貴族なら一度は耳にしたことがあるはず。私は実物を見るのは初めてだけど、父もそのようね。
「どうしてもと言うならこれを飲ませろ。手足が不自由になれば廃嫡するしかなくなる」
父は呆然とガラス瓶を見つめていた。あんな風に育てた責任を取って飲ませろと仰るのね。
「使わないなら返してもらう。この薬は王家が管理しているものだ」
「……かしこまりました」
重苦しい空気の中、父はそう答えて瓶を手にした。屋敷を後にする父の背は丸く、随分小さくなったように見えた。そこには私が恐れていた昔の面影は見つからなかった。
それから十日後、兄が高熱を出して寝込んだとお義姉様から連絡があった。父の説得は功を成さなかったのね。こうなることがわかっていたし納得もしていたけれど、いざそうなると胸がざわついたのは、僅かに残っていた家族の情のせいだったのかもしれない。
一方、そうしている間に姉の方にも動きがあった。兄が熱を出したとの連絡があった翌日、姉から私宛に手紙が届いたのだ。その中身を読んだ私はすぐにヴォルフ様の執務室に向かった。
「どうした?」
「姉の元にクラウス様から手紙が届いたそうです。姉からの手紙にそのように……」
そう言いながら姉の手紙を渡すと、ヴォルフ様は手に取って文字を追った。そこにはクラウス様から、会いたい、腹の子は俺の子か? あれからずっと気にしていたなどの文字が並んでいた。
「そう、か。一度会いに行くか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。姉の様子を確かめたいと思っていたところだ。都合のいい日を知らせろと返せ」
「わかりましたわ」
ヴォルフ様に言われた通りに手紙を送ると翌日返事が届いた。いつでもいいというのでヴォルフ様が五日後を指定した。
姉の元に向かうその日、私は飾りが少ない濃緑のシンプルなデイドレスを纏い、宝飾品も控えて地味な格好に徹した。妊娠中の姉を刺激したくなかったから。
「お待たせしました」
今日の供のザーラと共に玄関ホールに向かうと、ティオとアベル、その後ろに護衛騎士が立っていたけれど……
「ティオ、ヴォルフ様は?」
肝心のヴォルフ様の姿がないわ。一緒に行くと仰っていたわよね?
「ここだ、イルーゼ」
「え?」
声がした方に視線を向けて、思わず息を呑んだ。そこには茶のかつらを持ち上げて綺麗に撫でつけられた黒髪を晒すヴォルフ様がいた。ゾルガー家の騎士服を纏っている。変装していくとは思わなかったから驚いたわ。
「俺がいると本音を出さないかもしれないからな」
かつらを被り直すと長めの前髪で険しい目元や鮮やかな木々のような色の瞳が隠れ、少し背を丸めた姿はもっさりとした感じの平凡な騎士に見えた。同行する騎士は皆背が高いから違和感なく溶け込んでいるわ。
「どうした?」
「いえ……別人にしか見えなくて……」
大抵のことは卒なくこなされる方だと思っていたけれど、変装までお上手だとは思わなかった。言われなかったら気付かなかったわ。
「今から俺はただの騎士だ。むやみに話しかけるなよ」
「は、はい」
確かに侯爵夫人が護衛騎士に声をかけることは基本ない。でも、そう言われても気になってしまうわ。アベルたちと馬車に乗り、ヴォルフ様も含めたゾルガー家の騎士が馬車を守るように囲った。ヴォルフ様は車窓のすぐ側にぴったりと添って馬に揺られているけれど、やっぱり別人にしか見えないわ。
「旦那様はあの姿で時々街や領地に行かれるのです。慣れていらっしゃいますから大丈夫ですよ」
車窓からヴォルフ様を眺めているとアベルがこっそり教えてくれた。それってお忍びで視察に行くためよね。この姿の時はグンターと名乗っていることも教えてくれたけれど、あの溢れんばかりの威圧感と存在感はどこに行ったの?
「旦那様は優秀でお強く、とても多才な方です。あの方に初めてお会いした時の衝撃は昨日のことのように覚えています」
いつだったか、茶の瞳を輝かせてアベルがその日について語ってくれたことがあったわ。伯爵家の三男に生まれた彼は継ぐ爵位もなく騎士を目指していたけれど、ヴォルフ様に出会って人生が変わったと言っていた。騎士を辞退してゾルガー家の門を叩き、ヴォルフ様の従者にしてほしいと願い出て、四年前にようやくその地位を手に入れたと。ゾルガー家の使用人の忠誠心が強く結束が固いのはヴォルフ様に心酔している者が多いからなのでしょうね。
姉が住むのは王都の西側にある裕福な平民たちが居を構える一角。貴族街ほどの華々しさはないけれどお金をかけているのがわかる、中級程度の屋敷が並んでいる。その中でも特にこぢんまりとしていて木々が多く植えられている屋敷の前に止まった。護衛騎士の一人が門を守る騎士に声をかけると、鈍い音を立てて門が開いた。そのまま馬車で玄関まで進む。
玄関でアベルの手を借りて馬車から降りた。騎士に前後を守られて中に進む。ヴォルフ様は私のすぐ後ろにいるらしい。久しぶりに会う姉。最後に会ったのは姉が領地に送られる直前だった。あれから五か月ほど経ったかしら。私はゾルガー侯爵夫人になり、姉は実姉ではなくいとこだったと知った。私たちの立場が変わってしまったせいか、今までにない緊張感を覚えた。
案内されたのは応接室だった。部屋に入ると姉は既に二人掛けのソファに座っていた。玄関に出迎えなかったから待たされるかとも思っていたけれど、お腹が目立ってきているから動けなかったのね。身近に妊婦がいたことがないから勝手がわからないわ。向かいの席に着くとここの使用人がお茶の準備を始め、ザーラとヴォルフ様、そして護衛騎士一人が室内に留まった。ヴォルフ様は私の後ろ側に立っているみたいだけど姉は気付いていないようだ。
「お元気そうで何よりですわ」
「……侯爵様は、ご一緒ではないの?」
「ヴォルフ様はお忙しい方ですから」
一緒に来ていないとは答えていないし、嘘は言っていないわ。あからさまにホッとした表情を浮かべたけれど、それほど気にするのによく不義理をし続けたわね。
「お子はいかがですの? お腹、大きくなりましたのね」
産み月はまだ先だけど元から細かったせいかお腹が目立つわ。
「順調とお医者様は言っていたわ」
「そうですか」
無事に育っているのならいいわ、子には罪がないもの。それにしても嫌味の一つもないなんて気持ち悪いわ。何か企んでいるのかしら……ヴォルフ様がいるから滅多なことはないと思うけれど不安が積もる。
「クラウス様からの手紙よ」
そう言って姉が紙の束をテーブルの上に置いた。すぐに本題に入るとは思わなかったわ。手紙を材料に何かを要求してくるかと身構えていたから。あっさりしすぎていて益々怪しく感じるわ。
「中を見ても?」
「構わないわ。そのために呼んだんだから」
そういうことならと遠慮なく中身を検めさせてもらった。手紙は質素な紙で上位貴族が使うようなものではなかったけれど、綺麗な筆跡は上位貴族のそれだった。後ろにいるだろうヴォルフ様にも見えるようにと手紙を持って中身に目を通す。手紙には姉と子を労る言葉と、会いたい旨が記されていた。でも宛名も差出人の名も書かれていないわね。用心してのことかしら。
「これはいつ?」
「手紙を送った二日前に門に挟まっていたそうよ」
「二日前?」
「ええ。始めは誰宛かわからなくて……私の手元に来た時には丸一日は経っていたわ」
確かに宛先が書かれていなかったら、たらい回しになるのも仕方がないわ。ゾルガー家の使用人と言っても万能ではないもの。
「手紙はこれだけ?」
「ええ」
「それにしても……これだけでは何もわからないわね」
「そうね。子について記されてあるからクラウス様からだと気付いたけれど。彼、王都にいるの?」
尋ねてくるってことは姉も知らないのね。かなり警戒していそうだし、居場所に繋がりかねない話は書いてこないわよね。
「わからないわ。ヴォルフ様も追っているけれど、行方が掴めないと仰っていたから」
実は王都にいる可能性があるのだけど、それを姉に言うつもりはない。
「そう……」
「お会いしたい?」
「わからないわ。この子の父親だけど、私を捨てた人だし……」
そう言ってお腹を撫でながら目を伏せた。クラウス様は逃げている最中も、捕まって領地に幽閉になってからも姉に手紙一つ送ってこなかったと聞く。それでは愛想を尽かしても仕方がないかもしれない。
その後は実家の様子を尋ねられたけれど、あまり答えられることはなかった。兄の廃嫡や母が離婚を求めていること、その母が倒れた実母を見舞うために自身の実家に帰っていること、そして姉の出自、どれも妊婦に話すには刺激が強すぎる。今日の訪問はそれらを話すべきかどうかを判断するためでもあるのだけど、臨月を迎えているから子が生まれて落ち着くまでは話さない方がよさそうね。
その後はたわいもない話をしていたけれど、姉に疲れた様子が見えたので切り上げることにした。まだ聞きたいこともあったけれど今日は様子を見に来ただけだからこれで十分だわ。ヴォルフ様はどうかしら? 目的が果たされたのならいいのだけど。
馬車に乗り込んで門を潜り、通りに出た。貴族街よりも人の往来が少なくて塀で囲われていない家もあるわ。
「イルーゼ! 伏せろ!」
物珍しさに外を眺めていると聞き慣れたヴォルフ様の大声が響き渡った。続けて、馬車が激しく揺れて窓が割れた。隣に座っていたザーラが私を抱きしめるように庇い、反対側にいたアベルは割れた窓を警戒するように床に片膝をつく。何が起きたのかはわからないけれど何かが起きたことだけはわかった。
「馬車から降りるな」
ヴォルフ様の声に扉を開けるべきかと迷っていたアベルの手が止まり、そのままカーテンが閉められた。外の様子がわからなくなった中、護衛騎士に混じってヴォルフ様の声が聞こえた。恐怖に鳥肌が立つ。ヴォルフ様は大丈夫かしら? 何が起きているのかわからないから余計に不安が募る。それでも暫くすると外が静かになった。
「イルーゼ、無事か?」
馬車のドアが開いてヴォルフ様の姿が見えた。まだかつらはそのままだけど衣装には乱れもないし、怪我をした様子は見えなくてホッとした。
「無事です。ヴォルフ様は?」
「問題ない」
その言葉でやっと緊張が解れるのを感じた。何が起きたのかと気にする私に、ヴォルフ様は荷車が馬車の横から突っ込んできたのだと告げた。近くの屋敷に納める食材を載せた荷車を牽いていた老馬が機嫌を損ねて暴走し、細い横道から飛び出してきたと。老馬は慌てて向きを変え、その弾みで荷車が私の乗る馬車の側面に突っ込んだのだ。
「怪我をした人はいませんでしたの?」
「ああ、荷車に乗っていた下男が一人軽い怪我をした」
「そうですか……それで済んだのならよかったですわ」
クラウス様のこともあって襲撃されたのかと思ったけれど、だったら偶然の事故かしら。どうしても悪い方に考えてしまうわ。でも、本当に大したことがなくてよかった。もし馬車と荷馬車の間に挟まれてしまったら死んでいたかもしれないもの。
「奥様、ご無事でよろしゅうございました」
屋敷に戻るとティオとロッテが出迎えてくれた。荷馬車のことを聞いて心配をかけてしまったみたいね。申し訳ないわ。
自室に戻って着替えを済ませるとヴォルフ様の執務室に向かった。執務室ではかつらを取っていつもの服に着替えたヴォルフ様がブレンやアベルと話し込んでいた。こうして見ると存在感が凄い。さっきまでのあれは夢だったのかしらと思うほどだわ。
「イルーゼか」
「お邪魔でしたか?」
あの荷馬車の件もだけど姉の件もどう思われたのかが気になるわ。邪魔なら部屋に戻ろうと思ったら顎でソファを示された。そこに腰を下ろすとティオがお茶を淹れてくれた。いつもの味と香りに神経が高ぶっていたのだと今更気付いた。
アベルたちとの話を終えたヴォルフ様が小さな紙を渡してきた。視線を向けると小さく頷かれたので目を通す。
「ヴォルフ様、これは……」
「姉の部屋に隠されていたものの写しだ。クラウスからのものだな」
その二枚の紙には姉に指示する内容が記されていた。一枚は姉に対してヴォルフ様への復讐を唆すもので、もう一枚はクラウス様からの手紙を理由に私を屋敷に呼ぶようにと書かれていた。
「これって……」
「姉からの呼び出しはクラウスが仕組んでいた」
「では姉はクラウス様と?」
「ああ、どんな方法で連絡を取ったのかはわからないが、屋敷の中に協力者がいるのかもしれない。もしくは出入りする業者か」
使用人の可能性は低いと思うけれど、王都の邸だけでも百人以上の使用人がいる。いくらヴォルフ様でも別邸の使用人まで掌握するのは難しいわよね。上級使用人や護衛はヴォルフ様に直接目通りするし、教育が行き届いているから簡単に裏切ったりはしないでしょうけど、下級使用人は直接会うことがないし、主を軽く見る者も一定数はいる。お金を握らせれば連絡役くらいは引き受けるかもしれないわね。
「それではあの荷馬車は偶然ではなく?」
「いや、そこはわからん。何か仕掛けてくるかもしれないとは思っていたが」
さすがはヴォルフ様、手配が早い。いえ、早すぎるわよね。もしかして……
「旦那様、まさかとは思いますが……イルーゼ様を囮になさったのですか?」
「そうなるな」
私の疑問をティオが言葉にし、ヴォルフ様があっさり認めてしまった。やっぱり気のせいじゃなかったのね。ヴォルフ様が変装して同行したことからして変だと思ったのよ。ということは、あの訪問は姉の部屋を探るためのものだった? そういえば姉と話をしている間アベルがいなかったわね。どうしたのかと思っていたけれど……
「旦那様! わかっていて奥様を危険に晒すなど……!」
ティオが声を荒らげた。珍しいわ、彼がこんな風に感情を露わにするなんて。
「対策は万全にしていったぞ」
「そういう問題ではありません! アベルもです。どうして旦那様を止めなかったのですか!?」
「申し訳ございません」
ティオの怒りがアベルにまで飛び火してしまったわ。アベルは大きな身体を縮こめてティオに謝ったけれど、ヴォルフ様に心酔している彼が命令を拒むなんて無理よね。
「旦那様、万が一のことがあったらどうなさるおつもりだったのです!! イルーゼ様は使用人のように鍛錬しているわけではありません! もしかしたらお子がいるかもしれない御身ですのに。二度とこのような真似はお控えください!」
「だが……」
「よろしいですね!?」
「わかった」
ティオが見たこともない剣幕でヴォルフ様に詰め寄り、ヴォルフ様が素直に従ったけれど……ティオってもしかしてこの屋敷で最強なのかしら?
「イルーゼ、すまなかった」
「い、いえ、お気になさらず……」
謝られたけれど、私はあまり気にしていなかった。ヴォルフ様は大丈夫だという確信があったから動かれたのでしょうし。
「それでヴォルフ様、これからどうなさいますの?」
「そうだな、クラウスが王都にいて姉と接触しているのははっきりした。協力者を見つけ出して泳がせ、居場所を探る」
ヴォルフ様がティオを窺いながらそう答えたけれど、そうなるわよね。姉にこれ以上罪を重ねさせないためにも早々にクラウス様を見つけ出したいわ。さすがにこれ以上の醜聞は姉の子や実家のためにも遠慮したいもの。
その日の夜、ヴォルフ様が寝室にやってきたのは随分遅くなってからだった。あれからお忙しかったようで夕食も別だったし、話をする暇もなかった。
「すまなかったイルーゼ。あんなことは二度としない」
ベッドの端に腰かけたヴォルフ様に再び謝られたわ。あれからまたティオに何か言われたのかしら。ティオは結婚して以来、一層過保護になってしまったのよね。私がヴォルフ様のお子を宿しているかもしれないから。
「お気になさらないでください。私は気にしていませんから」
「だが、危険に晒すべきではなかった。襲撃の可能性は考えていたが、あのような形で事が起きるとは思っていなかった。完全に防ぐことは無理だとわかっていたのに」
あれはヴォルフ様にも想定外だったのね。でも、それでわかった事実もあるから結果的にはよかったのではないかしら。
「飛び込んでみないとわからないこともありますわ」
「お前は度胸があるな」
「そうでしょうか。でも部屋に籠っていても何も進みませんわ」
もしかして呆れられたかしら? でも今日の件は無駄じゃなかったはず。
「姉はどうなりますの?」
まさかクラウス様に手を貸すなんて。てっきり見限ったと思っていたのに。
「監視を強化したいところだが、そうするとクラウスは警戒するだろう。あれは闇社会とも繋がりがあるから厄介だ。早く捕まえるためにもこのまま泳がせる」
そうよね、彼の捕縛を優先したいわ。ずっと警戒し続けるのは大変だもの。姉はどうなろうとも自業自得だけど、お腹の子のためにも大人しくしていてほしいわ。そう思っていたらヴォルフ様に押し倒され、大きな身体が視界を占めた。
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