あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫

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第二部

避妊薬

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「旦那様、いつの間にそんなものを!! 一体どういうことです!?」

 声を荒げたのは私ではなくいつも冷静沈着なティオだった。その様子からティオも知らなかったのだと悟ったけれど……思いがけない言葉に思考が鍵を掛けられたように動かなかった。それでもティオが怒ってくれたお陰か、頭に上りかけていた血がすぅっと引いていくのを感じた。

 少しずつ思考が戻ってくると、次に感じたのは怒りだった。最初に私に子を産めと仰ったのはヴォルフ様なのに避妊薬を飲ませていたなんて……どうしてそんなことをしたの? 相談もなしに。それに些細なことでも話してほしいと仰ったのはヴォルフ様なのよ。私はその都度こんなことまで……と思いながらも報告してきたのに……共に築き上げてきたと思っていた全てが砂のように崩れていく気がした……怒りは熱くなるだけではないのね。心の軸が静かに冷えてそれが全身に広がっていく…

 その後に現れたのは途方もない絶望だった。黙って避妊薬を飲ませるほど私の子を望んでいらっしゃらなかったのかと、その事実に全てを否定されたような気がした。私を気に入っていて下さったのではなかったの? 至らない私だけどそう仰って下さったから今まで踏ん張ってこられたのに……

「旦那様、黙って避妊薬を飲ませるなど、離縁されても仕方のないことでございます。どうして私に相談して下さらなかったのですか」
「すまなかった、イルーゼ。ティオも。そこまで怒ることだとは思わなかった」

 ヴォルフ様が頭を下げて謝られた。ティオも驚いたのか目を丸くしている。初めて見たわ、ヴォルフ様が頭を下げて謝罪する姿を。

「どうして、そんなことをなさったのですか?」

 出てきた声は思った以上に固く乾いたものだった。でも許してほしい。震えるのを抑えるだけで今は精一杯だから。この半年、月の物が来るたびに期待と絶望に振り回されたわ。あの感情も全て無駄だったのだと思うと泣きたくなるけれど、そんな真似はしたくなかった。

「……姉の、出産を見て……」

 暫くの間の後、ヴォルフ様から出た言葉は酷く歯切れの悪いものだった。姉の出産って……

「私の姉ですか? その出産がどうかされましたか?」
「……不快だった」

 続きを促すように尋ねると、返ってきたのはその一言だった。不快だった? 姉の出産が?

「旦那様、それはフィリーネ様の出産で不快と感じられたということですか? 何故です?」

 ティオがヴォルフ様の言葉を補足するよう、先を促すようように問うた。不快って、アルトナーの後継を産んだこと? それとも出産を間近に見て怖く感じた? 確かに男性の中にはそう感じる方がいると聞くけれど。

「…………わからん」

 返ってきた答えにティオと顔を見合わせてしまった。こんなヴォルフ様を見るのは初めてだわ。一体どうなさったの?

「わからないと仰られましても……フィリーネ様がお子を産んだことがお嫌だったのですか? それとも赤子が? 確かに生まれたばかりの赤子を見て驚く方はいらっしゃいますが……」
「……赤子ではない。それなら孤児院で見た」

 時々こんな風にヴォルフ様の過去が顔を出す。孤児院の頃の記憶は殆ど覚えていないと仰っていたけれど……

「孤児院で……ではそこで嫌な気分になられたことが?」
「嫌な気分……」

 そう呟くとヴォルフ様は顎に手を当てて考え込んでしまわれた。

「……何かが、あったような気がする。何かは思い出せんが……酷く不快だった。あの時、そのことを思い出した」

 基本的に何に対しても感情を動かさないヴォルフ様が嫌悪感を……もしかしてご自身が生まれた時のことを……いえ、それはあり得ないわよね。産まれた直後の記憶など残らないもの。

「孤児院で嫌な気分を……そうなった理由に心当たりは?」

 ティオがゆっくりと導くように質問を続ける。

「……あんなにも、苦しむとは思わなかった……」

 姉は陣痛が強くならずに長く苦しんだわ。最悪命の危険があるとも言われたし。

「旦那様は、奥様の出産に不安を感じられたのですね」
「……そう、かもしれん。死を感じた時と同じだった」
「死を……」

 何度も暗殺者に狙われているヴォルフ様。いつもすぐに気付かれていたから不思議に思っていたけれど、勘のようなものが働くということ?

「つまり旦那様は、奥様を失うことを恐れられたと?」
「……恐れる? 俺がか?」
「はい、そのように見受けられました」

 ヴォルフ様がティオを見上げたけれど、いつもの覇気は感じられなかった。

「……そうなのか。何かの、予兆かと思っていたが……」
「予兆ですか?」
「ああ。危険を感じると勘が働く。それに似ていた。だから子が出来たら何かが起きるのだと……」

 そう呟きながらもヴォルフ様は無表情だったけれど、ヴォルフ様の中では今までにない何かが起きているように見えた。何がどうなっているか全く想像も付かないけれど。それに……その姿は酷く危うく見えた。不安が募る。

 ヴォルフ様はまだご自身の感情に戸惑っているように見えたけれど、黙って避妊薬を飲ませていたことを謝って下さった。その上でヴォルフ様が感じていたものの何倍も私が不安を感じていたこと、二度とこのようなことはしないようにとティオが懇々と説いてくれたため謝罪を受け入れた。私を案じてくれたことと失うことに不安を感じてくれたことを嬉しく思う気持ちもあったから。それでも、何とも表現のしようのない胸騒ぎが残ったけれど。

 避妊薬について尋ねると、ルバーハというお茶だった。薬ほどではないが避妊の効果があって副作用がないらしい。薬よりも安いのもあって平民でよく使われているのだとか。お茶だったから誰も気づかなかったのね。避妊の薬は飲み続けると不妊になったりするらしいから避けたのだとか。私との子が要らなかったのではないとわかって身体のこわばりがようやく解けた。

 ちなみに、このルバーハ茶のことは本で見つけたらしい。それでマルガに確かめて用意して貰っていたと。ヴォルフ様、もしかしてその本ってリーゼ様から頂いたあの本じゃないわよね? いい加減返してほしいのだけど……

 その後来客があるというので私室に戻ったけれど、部屋に入った途端これまでにない疲労感を感じた。クラリッサ様の訪問に始まって避妊薬のことやヴォルフ様の変化に驚かされることばかりだったわ。一月分の気力を使い果たした気分。ティオがお茶を淹れてくれるというのでお気に入りのロアーナ産をお願いした。蜂蜜を多めにいれて。甘いものをとれば少しは疲れも取れるかと思ったから。

「ティオ、ヴォルフ様を理解するのは、難しいわね」

 思わず側に立つティオに話しかけていた。正直に言えば心の中にはまだモヤモヤしたものが残っている。昔だったら怒りが勝ってヴォルフ様を強く責めていたわ。事情を知れば知るほど考えることが増えて動けなくなっているけれど。今回も……ヴォルフ様の変化を嬉しいと思う一方で、感情という予測不可な要素が出てきたヴォルフ様に様々な思いが生まれて怒りが続かなかった。

「左様でございますね。正直申し上げて、最近の旦那様はおやと思うことが増えたと感じております」
「……それは、いい傾向なのかしら?」

 感情を取り戻したせいで精神的に不安定になり、最後は自死を選んだティオの弟。ヴォルフ様の変化の原因が感情を取り戻していることに繋がるのなら、それを素直に歓迎していいのか判断に迷うわ。今のヴォルフ様が強いのは感情を排除して理で動かれているから。それがいいのか悪いのか私にはわからないけれど、ティオの弟のように苦しむのなら今のままでいいような気もしてしまう。

「……何とも申し上げられません。弟の時は感情を取り戻すことが最善だと信じて疑いませんでした。ですが今は……」

 ティオがそこで言葉を止めてしまった。ティオにもわからないのね。でも私も同じ気持ちだわ。さっきもヴォルフ様が私のことで心を動かして下さったのを嬉しいと思ったけれど、時間が経つと不安の方が大きくなってきている。ティオの弟のようになってしまったら……そう思うと今のままの方がマシなように思える。

「……私は、どうしたらいいのかしら……」



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