出雲屋の客

笹目いく子

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出雲屋の客(一)

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 そろそろ熱が出てきそうだった。
 乳房が岩のごとく強張り、火箸を突き立てられたような痛みが耐えがたくなってきている。けれども、口入屋の前に立ち尽くしたまま佐和は心を決められずにいた。
 杉森稲荷に程近い堀留町の細道にあるその店の油障子には、『出雲いずも屋』という屋号が太字で書かれてあった。もう何十回眺めたか分からない軒下の看板には「うば御世話仕候おせわつかまつりそうろう」、「御養子縁組御世話仕候ごようしえんぐみおせわつかまつりそうろう」とある。
 晩夏の日差しに首筋を晒し、蝉時雨に包まれていると目が回ってきた。どうしよう。痛い。痛い。
 やっぱり帰ろう。そう思った途端、夫の不機嫌そうな顔が思い浮かんで心ノ臓がきゅっと縮まった。

「……ちょっと、そこのあんた」

 不意に腰高の障子が内から引かれ、女の白い顔が覗いたのでどきりとする。

「用があるならお入り。店の前で日干しのするめみたいになられたら、後生が悪くてならないよ」

 四十になるかどうかという年だろうか。婀娜っぽい切れ長の目に妙な凄みがあった。威勢のいい声に引っ張られるように足が動いて、気づけば女に促されるまま店に足を踏み入れている。店内の薄暗さに慣れてくると、狭い土間と帳場らしき小座敷が目に映った。部屋の隅に二階へ上がる狭い階段があり、奥には内所に続くのであろう唐紙がある。他に人の気配を感じないが、この人は店番なのだろうか。番頭や店主はどこにいるのだろう。

「……ここの店主はあたしだよ。あんた、奉公の口を探しにきたのかい」

 こちらの疑問を見透かしたように言って帳場に座ると、女は佐和のつま先から頭の先までを見分するように見回した。
 佐和は一瞬躊躇してから「はい」と姿勢を正した。「町内の喜左衛門店の佐和と申します。乳母奉公の口を探しておりまして、それならこちら様がいいと人伝に聞きましたもので」

 大家の喜左衛門が証人となった奉公人請状を手渡すと、染は慣れた様子で目を走らせた。

「乳持ち奉公はいつ申し入れがあるか分からないけど、必要になったらすぐに頼めるね? 乳飲み子がいるなら奉公の間手当てが出るよ。あんた、子はいるの」
「……いえ。先月に亡くしました」

 佐和が小声で言うと、女店主が請状から顔を上げた。

「……心ノ臓の病でした。ですが、いまだにお乳はよく出るんです。それでうちの人が乳持ち奉公に出ちゃどうだと申しまして」

 自棄のように笑うと、女はかすかに眉をひそめたようだった。

「佐和さん。奉公に出て障りはないんだろうね? 気が進まないように見えるよ」
「いえ、そんなことは」

 佐和は急いでかぶりを振り、弱々しく付け加えた。

「その……食べて行かなきゃなりませんので。よろしくお願い申し上げます」

 腰を折った途端に眩暈がした。驚いた女が手を差し伸べようとするのを察し、あわてて体を起こそうとすると、余計に酷くなった。

「あんた、熱があるね?」

 佐和の火照った顔を見て、女店主は何かを察したように目を細めた。

「ああ、お乳のせいだね。さっきから妙だなと思っちゃいたんだけど」

 そう言うと、ついておいで、とすっと立ち上がった。

「……あ、あのう」
「いいから、ここにゃ女しかいないんだから遠慮しなさんな。途中で倒れたら困るだろう」

 そう言って女は佐和を内所に招き入れた。さらに奥の唐紙を開けて台所らしきところへ消え、やがて手ぬぐいと空の大きな丼を手に戻ってきた。

「好きに使っていいよ。しっかり絞らないとぶり返すからね。適当にしちゃ駄目だよ」

 それらを佐和の手に押し付けながら歯切れよく言うと、水もたくさん飲みなさいよ、と大ぶりの湯飲みに入った水も勧め、女はさっさと店へ戻って行った。
 一人残され、ぼうっと蝉の遠い声を聞いた。この様子を見ただけで見抜くとは、あの人はよほど乳の張った女を見慣れているらしい。佐和は乳はよく出るが詰まりやすかった。少し油断するとすぐに寝込む破目になる。こうする間にも、胸の痛みは酷くなるばかりだった。
 思い切って胸元を開くと、乳が着物に染みないように入れていた手拭いを取り出し、かちかちに強張った乳房をぐいと絞った。激痛と共に乳があふれるのを丼で受ける。油汗がこめかみに浮かび、脳天に突き抜ける痛みで両手がふるえる。でも放っておいたらとんでもない高熱が出てしまうのだ。佐和は手ぬぐいをきりきりと噛み締めると、首筋まで真っ赤に染めながら乳房を絞り続けた。
 痛い。痛い。乳を絞る度死んだ娘の顔が脳裏に浮かび、乳房の痛みとは別の苦痛に涙が滲む。丼はすぐにいっぱいになった。なみなみと溜まった乳を台所の流しに空け、また絞る。それを数回繰り返すと大分痛みが引いてきた。熱っぽさが取れて、乳房がやわらかくなっている。どうやら大事にならずにすみそうだ。ほっとしながら手ぬぐいで汗を拭い、しばし放心していると、店の方で銅鑼声が上がったのでぎくりとした。

「お染さん、頼むよ。他に思い当たらなくてさ」

 男の声に被せるように、ぎゃあ、ぎゃあ、と赤子の泣き喚く声が響き渡る。

「どなたか、乳を分けてくださる人はいませんか」

 すがるような若い男の声がそこに混じる。
 お乳。佐和は着物を整え、思わず内所と店を隔てる唐紙に近づき耳をそばだてた。女店主の声が低く耳に届く。あの人の名はどうやら染というらしい。だがそれよりも、赤子の切羽詰まった泣き声に、苦しいほどに胸が乱れ打つのを感じた。

「……え、本当ですか」

 不意に、若い男の声が内所へ向いた気がした。はっとして身を引くと、

「佐和さん、いいかい」

 唐紙が細く引かれて染の顔が覗く。

「聞こえたかも知れないけれど、あの旦那さんのお内儀が数日前に亡くなったそうでね。貰い乳では間に合わなくて往生しているんだよ。すまないがお乳をもらえるかい」

 ぎゃああ、と断末魔のような泣き声が耳をつんざく。
 泣きたいような、いたたまれない思いが込み上げて、思わずがくがくと頭をふっていた。

「旦那さん、こちらへ」

 即座に染が叫ぶと、どっと畳の上を走る足音が迫り、唐紙がすぱんと勢いよく滑った。

「お願いいたします、お願いいたします」

 足をもつれさせるようにして飛び込んできた男が、自分が餓死寸前であるかのような形相で赤子を押し付けてくる。夢中で受け取った腕にずしりと熱い感触が伝わった。佐和が物も言わずにぐいと片胸をはだけると、泣き叫んでいた赤子が引き寄せられるように乳房に顔を向ける。開いた唇がすごい力で吸い付いた途端、乳房の奥から乳が鈍痛を伴うような勢いで迸るのを感じた。

「──あ、飲んだ。飲んでおりますよね」

 父親が目を血走らせて言う。

「はい、ちゃんと飲んでおりますよ」

 佐和も上擦った声で答えている。ぐう、ぐう、と赤子は息をするのも忘れたように一心不乱に乳房を吸う。その様子を三人で凝視していると、ふと父親の体から力が抜けた。

「……よかった。よかった」

 へたりこむようにがくりと座り、ふるえる両手で目を覆うようにする。
 視線を上げて赤子を見た両目が潤んでいる。零れた涙が目頭からまっすぐな鼻梁を伝い、鼻先からぽとりと落ちた。目は充血し、げっそりと削げた顎に無精髭が目立つ。安堵した途端気が緩んだのか、疲労がどっと顔に浮かんだようだった。

「よく、飲んでおります」

 佐和が囁くと、涙で曇った目で赤子を見詰めながら男は頷き、ゆっくりと微笑んだ。

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