調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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遭遇(二)

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 両国橋東詰めを向いた回向院の表門からは、途切れることなく出入りする子連れの参詣者が多く見受けられた。境内に入ると賑わいは一気に増し、常よりも多い水茶屋や物売りと相まって、客の呼び込みや笑い声が耳にかしましい。先月上屋敷の側用人の浜野とやってきた時の様子が嘘のようだ。
 青馬は人の多さに慌てたように久弥の袂を掴み、きょろきょろと人波を見回しながら小声で言った。

「たくさん人がいますね」
「早朝の人出はこんなものじゃない。子供ももっと多いしな」

 久弥が答えると、はぁ、と青馬は感心したように嘆息した。
 青竹の手桶を物売りから買い、真澄と青馬に手渡してやると、二人は嬉しげに顔を見合わせた。

「青馬さん、花御堂は向こうですよ」と真澄が青馬の手を取り、するすると人の間を縫って行く。本堂の前の人だかりが花御堂らしい。ゆっくりと後を追うと、溢れんばかりの色とりどりの花で屋根を葺いた小さな御堂と、潅仏盤に安置された小さな金銅の仏像が目に入った。人々が柄杓で盤の甘茶をすくっては、誕生仏に注いで手を合わせている。真澄が柄杓を手に取り甘茶を注いで見せると、促すように青馬に柄杓を譲った。青馬は花咲き乱れる御堂の屋根を陶然と見上げ、背伸びして物珍しそうに水盤を覗き込んでから、茶をすくってちょろちょろと御仏に注いだ。それから二人して合掌すると、目を見合わせて楽しげに笑った。

「お師匠様もどうぞ」

 青馬が頬を火照らせながら駆け寄ってきて、柄杓を手に押し付ける。久弥は唇を緩め、同じように甘茶を注いで手を合わせた。青馬は真澄を見上げて何やら得意気であった。
 慕わしげに真澄を見上げる青馬と、唇を引いて美しく微笑む真澄の横顔を見守る内に、つい夢想している自分に気付く。

 もし、このしがらみから自由であったなら。
 もし……

 その途端、浮舟の諦念を浮かべた侘しい眼差しと、四肢を投げ出し、血だまりに斃れている刺客の死体が脳裏を過った。
 わっ、という子供らの笑い声が耳を打ち、久弥は思料を振り払うように瞬きをした。参道脇の甘茶売りの周りに群がる子供たちを見て、青馬を呼んだ。

「甘茶のふるまいはもう終わってしまったから、そこの甘茶売りから買っておいで。真澄さんの分もな」

 紙入れから小銭を出して青馬の手に握らせると、青馬はぱっと目を輝かせた。

「……はい」

 袂に大事そうに金を落とすと、真澄の白魚のような手をそろりと握る。二人は寄り添うようにして甘茶売りの方へと歩いていく。
 それを見送っていた久弥は、ふと視界に入った男に目を留めた。
 参道脇にいるその男は、手拭いを吉原かぶりにし、着物を尻端折りにした、ごくありふれた身なりをしている。その男がなぜか久弥の注意を引いた。花御堂には見向きもせず、男はじっと行き交う人々の顔を見ているようだった。それも、子供ばかりを睨めつけている。
 親から少し離れ、青竹から甘茶をすすって歩く九つかそこらの少年を見て、男は不意にひょこひょこと近付いた。親しげに何か話し掛けると、子供の右手をひょいと掴む。
 袖をぐいと捲り上げるのを見た瞬間、血の気が引いた。

(……こいつ)

 即座に真澄と青馬の姿を探すと、甘茶売りの老人から、青竹に茶を注いでもらっているのが目に入った。滑るように人波の間をすり抜けて二人に近付くと、真澄が振り返って目を瞬かせた。

「お師匠? 血相を変えてどうなすったんです」
「……いや、何でも。ちょっと妙な男を見掛けたもので……行きましょうか」

 真澄と青馬が顔を見合わせた。
 その時、行き過ぎる人のざわめきの中に、じわじわと近付いてくる足音を聞き分けて、久弥はさっと振り返った。

「おっと、どうも」

 一間ほど後ろにいた吉原かぶりの男が、ぎょっとしたように目を見開いた。

「何か」

 呟くように尋ねると、男が、はぁ、と黄色っぽい歯を見せて笑った。一見小奇麗にしているようで、どこか荒んだ空気を纏った男だった。きれいに髭を当たってはいるが、濁った肌色に生気のない目をしている。その目が舐めるように青馬に注がれるのを感じ、久弥は視線を遮るように間に立った。

「……いや、失礼いたしやした。ちっと人探しをしておりやしてね。十くらいの器量のいい男の子なんですよ。ちなみに、そちらは旦那のお子さんで」
「そうですが」

 間髪入れずに答えると、男の目が残念そうに久弥と青馬、そして真澄を見比べた。
 驚いたように真澄がこちらを凝視するのを感じる。
 言わないでくれ、と強い視線を素早く送ると、真澄がかすかに目を細めた。

「……こりゃあどうも、ご勘弁を。えらくお若ぇ親御さんだなと思いやしたもんで。いや、ご無礼の段ご容赦おくんなせぇまし。実を申しますと、あっしの友人の主が先日の神田の大火事で亡くなりやして。その方のお子も行方知れずになっておるんでございますよ。憐れでござんしょう。
ですがどうもお子は生きておられて、どこかに逃れたらしいって話なんですよ。で、御救小屋も必死に当たったし、両国も浅草もくまなく探したんですが見つからねぇそうで。右腕に打ち身を負っているそうでしてね。まだ痕が残っているんじゃねぇかと言うんですよ」
 
そう言う男の視線が、青馬の右腕にちらちらと注がれた。

「あっしも友人に手伝いを頼まれて、今日も藁をも掴む思いでここまできたんでやすよ。そうしたら、そちらのお子さんが、聞いた人相によく似ているなぁと、こう思ったもんで、つい」

 背後で、青馬の気配がみるみる鋭く張り詰めるのを感じた。

「……それはご心配なことでしょう」
「お気の毒ですこと。早く見つかるといいですね」

 久弥が言うと、真澄が静かな声で続いた。賢い娘だ。それに、柳橋芸者だけあって、人の感情の機微を読むのに長けている。感謝の念が胸に沸いた。
 男は、へぇ、と腰を屈め、

「ありがとう存じます。お心当たりがございましたら、室町二丁目の自身番まで、『春日』の手代、正吉をお訪ねくだせぇまし。どんな些細なことでも結構でございますんで」

 そう言って踵を返し、男がゆるゆると離れて行った。
 男の背中を伺いながら青馬を見下ろすと、青馬は顔色を失い、棒立ちになったままおこりのようにふるえていた。    

「青馬」

 低く囁くと、強張った虚ろな目が久弥の顔をぼんやりと見上げる。額にびっしりと汗が浮いているのを見て、胸が絞られるようだった。

「青馬さん、どうしたの。顔色が……」

 その様子に真澄も息を飲み、慌てて青馬の前にしゃがみ込んだ。

「気分が悪いようです。すみませんが、家に戻った方がいいかも知れない」
「ええ、ええ、もちろん。かわいそうに」

 真澄が青馬の手から青竹を取り、手拭いを出して青馬の額の汗をそっと押さえる。青馬は目を見開き、硬直したまま反応すらしなかった。
 視線を感じて久弥は肩越しに背後を見た。さっきの男が、少し離れた場所から人波を透かしてこちらを見ている。体温のない、表情の読めぬ灰色に澱んだ両目が、獲物を観察するかのようにじっと青馬を見詰めるのを感じ、うなじの毛が逆立った。

「……青馬、乗れ」

 さっと片膝をつくと、後ろ手に青馬を引き寄せて背に乗せた。そのまま立ち上がるなり、真澄を促して歩き出す。
 背に乗せた青馬は、板のように体を強張らせたまま浅く呼吸していた。はげしい鼓動が背中に伝わり、久弥は唇を歪めた。表門を出たところで「あら、お師匠」と通りかかった誰かの声が聞こえた。門人か近所の住人らしかったが、足を止めることなく歩き続けた。

「心配するな。家に帰ろう」

 軽く揺すってやりながら話し掛けるが、蛇に睨まれた蛙のように声も出せずにいる。

「青馬さん、ごめんなさいね。人が多くていけなかったかしら……出掛けなかったらよかったわね」

 真澄が小走りに隣を歩きながら、気遣わしげに幾度も見上げた。

「そんなことはないですよ。青馬は喜んでいました」

 そう言ってから、自分が飛ぶような大股で歩いているのに気付き、久弥は足を緩めた。背後の気配を探ると、先ほどの男が尾けている様子はないようだったが、背中に男の不気味な視線がへばりついているかのような不快感が消えなかった。

「……申し訳ない。速すぎましたね」

 慌てて言うと、真澄はかすかに息を弾ませながら首を振った。

「いいんですよ。青馬さん、早く帰りましょう」

 白い手が伸び、小さな背をゆるゆると撫でさする。青馬が小さく息を飲んだかと思うと、悪い夢から揺り起こしてもらったかのようにゆっくりと深い息を吐いた。そうして背を撫でられる内に、青馬は久弥の肩に頬を乗せ体重を預けてきた。いつの間にか、背中に伝わる拍動が緩んでいた。
 感謝を込めて真澄の目を見ると、娘はかすかな不安を目に浮かべながらも、滲むようにやわらかく微笑んだ。
 青馬は幼子のように、無心に背にしがみついている。真澄が手に提げた青竹の筒の中で甘茶がかすかな水音を立てるのを聞きながら、久弥は壊れ物を運ぶように静かに歩いた。
  
***

 真澄を家に送り届けると、青馬は背中でうつらうつらと寝入っていた。
 青馬を夕日の差し込む縁側から居間に上げ、真澄が置いた座布団に頭を載せてやる。青馬は久弥が与えた犬張子を抱いて丸くなり、気を失うように眠り込んでしまった。
 少し離れた、黒々とした影を落とす庭木の下に、無言で真澄を誘った。足音を忍ばせて近付いて来た娘の、眉宇のあたりが濃く翳っている。久弥は背中を向けて座敷に横になっている少年を見やると、真澄に目を戻し口を開いた。
 不意の東風が、緑の葉を揺らして通り過ぎる。真澄は紅の滲んだ唇を結ぶと、しばらくの間黒目勝ちな瞳を伏せて、蕾のほころびかけた躑躅つつじを見下ろしていた。

「……お師匠、私、春日の旦那さんのお座敷に上がったことがあります」

 声を落としてそう言うと、細い肩を下げて静かに息を吐いた。  

「お酒を過ぎる方だったので、お迎えに来たお店の方が難儀なさってましてね。亡くなられた方のことを噂するのは下品ですけれど、お酒が入ると愚痴が多くおなりになるんですよ。だから、それ以来あの方のお座敷はお断りしていました」 

 かすかに目を細めて顔を上げ、真澄は一瞬口を噤んだ。

「……お内儀様のことや、奉公人のことをこぼしておられました。お迎えにいらした手代さんを、ただ飯食らいだの、鈍間だのなんだのと、悪し様に罵っていらっしゃって。手代さんが物騒な目をして耐えていらしたので、よく覚えています」

 同席していた別の店の旦那に、あの人は婿養子だからお内儀に頭が上がらないんだよ、と耳打ちされたという。

「あの鯔背な手代といい仲なんじゃないかって、前に噂が立ってさ。酒が入るとあの通り人前でもいびり倒すもんだから、空気が悪くなって仕様がないよ」

 まぁ、鬱屈は分からんでもないけどさ、と唇を歪めてその客が付け加えた。
 手代は正吉という名だったか、と尋ねるまでもなかった。
 拳を握り締めて黙る久弥に、真澄がやわらかな声で言った。

「……ねぇお師匠。あの子、とってもいい子ですねぇ。かわいらしくて、ずうっとうちに置いておきたいくらい。いなくなったりしたら嫌ですよ。また迷子にさせたりしないで下さいね」 

 眠り込んだ青馬を背負って家に戻ると、障子を透かして夕日の差し込む部屋に、床を延べて寝かせてやった。犬張子を抱いた青馬は、小さな顔に黒く鋭い影を刻み、憔悴しきった様子で夜着の下に丸くなった。
 そのまま、夕餉の時刻を過ぎても昏々と眠り続ける少年の気配を、居間の縁側で庭を眺めながら聞いた。

(ーー見付かってしまったかもしれないな)

 灌仏会で遭遇した男の視線を思い出しながら考える。
 青馬の父親は、人探しに破落戸ごろつきを雇ったのだろうか。
 後を尾けられてはいなかったが、父親に話を告げたかも知れない。

……似ているのか。

 あの男は、青馬の容貌が、正吉によく似ていると気付いたのだ。親子なのだから当然だろう。そう思いながら、胸がかすかに痛んだ。
 折鶴を手の中に包み、夕闇の落ちかかる庭を眺めながら、久弥は長いこと物思いに沈んでいた。
  
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