調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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父子

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 夕刻、青馬は浅蜊と蛤でいっぱいになった手桶を抱え、髪や着物から潮の甘い香りを漂わせながら帰ってきた。そして生まれて初めての汐干狩がどんなものであったか話をしようと飛びついて来て、月代を剃った久弥を見てきょとんとした。

「……お師匠様、どうして髪を変えたんですか?」

 不思議そうな青馬に、久弥はただ清澄な眼差しを注いだ。

「夕餉の後で話そう。……楽しかったか」

 青馬は、はい、と笑顔になり、善助と勇吉が貝の掘り方を教えてくれた話や、蟹やヤドカリを見た話を頬を上気させて語った。
 その日の夕餉の後、片付けを終えた久弥は、稽古部屋に入っていくと三味線を浚っていた青馬の前に座った。
 茜色に燃える夕日に障子が染まり、久弥の前には黒々とした影が伸びている。
 三味線を置いて無心にこちらを見上げている、銅色を映した青馬の顔を見下ろすと、そっと息を吸った。

「今日、町役人のところへ行ってきた。お前を私の子として山辺の籍に入れることが叶ったので、そのように届けてきた」

 刹那、青馬の表情に空白が生まれた。
 どういうことなのかと考え込むように久弥の目を覗き込み、次いで、意味を覚って息を飲むのが見て取れた。浪人は町人と同じ扱いであるので町奉行の管轄下にあり、その末端たる町役人の支配を受けるが、武家は町奉行の管轄の外にある。久弥と共に山辺家に入れば、青馬ももはや町人ではなく武家の子息となるのだ。

「山辺の家督相続からは外すのが条件であるが、子は子。他家へ養子に出ぬ限り、何があろうとも、未来永劫お前は私の子だ」

 青馬の茫然とした顔が幸福そうに輝くのを、痛ましい思いを押し殺して見詰めながら、久弥は唇を引いて微笑んだ。

「お前は今日から山辺青馬だ。いいな」

 青馬が浅く息をしながら、はい、と夢見るような表情で頷いた。

「ありがとうございます」

 上擦った声で言うと、青馬は嬉しげに袂を握り締めた。それから、やまべそうま、と口の中で繰り返し、零れるような満面の笑みを浮かべた。
 その顔に見入ってから、久弥は言葉を継いだ。

「私と父子の縁を結んだ祝いに、お前に祝儀を贈ろうと思う」

 立ち上がって部屋の隅の桐の長箱の前に行き、正絹の長袋から『春駒』を取り出した。青馬の前に三味線を押し出し、座り直す。

「これは、お前に譲る」 

 春駒を見下ろし、青馬は喜びが吹き飛んだかのように身を固め、目を瞠った。

「これがどんなによく鳴るか、知っているな。これに振り回されぬくらいに腕を上げるまで、焦って手に取ろうとするな。これは荒馬だ。乗りこなせる自信がつくまで、芸を磨きなさい」

 そう語る内、青馬がぎこちなく顔を上げ、食い入るような視線を向けた。

「──なぜ、ですか。まだ、俺には弾けません。なのに、なぜ、今なんですか」

 声に不審が混じる。大きな両目が答えを探すように揺れ、視線が久弥の顔の上をさ迷っていた。
 晴れて父子となった暁には、門人を集めて披露目の祝いを催してやろうと思っていた。
 近江屋のご隠居や、橋倉家、真澄も招いたらさぞ喜ぶだろう。
 春駒ではなく、青馬の年に見合ったものを贈ろうと、あれこれ思料を巡らせていた。いい席を取って、三座へ歌舞伎を観に連れていくのでもいい。犬張子を可愛がっているから、子犬や子猫を贈ったら、夢中になって世話するかもしれない。江戸から足を伸ばして東海道を上り、川崎大師に詣で、金沢八景か鎌倉に泊まり、江の島へ寄ったらどうか。そんなことを考えるだけで、心が弾んだものだった。

……だが、すべては虚しくなった。 

「……青馬」

 さんざん嘆いた後なのだから、平静でいられるつもりだった。
 しかし、喉を掴まれたように声を出すことができない。
 強張った久弥の顔を見詰め、青馬が青ざめて凍りついた。 

「……お父上、ですか。そうなんですか」

 ぽつりと言った青馬の顔が引きつったように歪み、青く澄んだ瞳の奥で、何かが壊れるのが見えた気がした。

「ーー弟が、死んだ。私が世継ぎにならねばならん。もう、私しかいない」
「嫌だ」

 軋むような叫びが耳を打ち、久弥は歯を食い縛った。

「侍には戻らぬと言ったのに、約束を破るのですか?三味線弾きでいると言ったのに」

 あっという間に双眸から涙が吹き出すのを、声もなく見下ろした。
 拳で畳を叩くようにして、嫌だ、嫌だ、と青馬は声を放って泣いていた。

「お侍に戻るなんぞ許さない!」

 嗚咽混じりの叫びが細い喉からほとばしり出る。あとは、言葉にならなかった。久弥は畳に爪を立てて泣く青馬を見詰めたまま、彫像のように動かなかった。
 部屋に差し込む血のように真っ赤な夕日が、大火の朝を思い起こさせる。
 紙のように白い顔をした、虚ろな表情の子供の姿が目に浮かんだ。
 あの時の少年は、こんな風に泣き喚く気力もなかったな、と静かに思った途端、胸が砕けるような痛みが走った。

「……すまん」

 喉を絞るような掠れた声に、青馬がびくりと肩をふるわせ顔を上げた。
 涙で汚れた赤い顔を見詰める内に、己の鼻の脇を、熱いものが次々と転がり落ちて行く。

「──すまん」

 囁くようにただ繰り返す久弥を見て、青馬の顔が苦悶するように歪んだ。
 わななく唇を幾度か開きかけ、やがてがっくりと小さな肩を落とした。
 もう嗚咽は聞こえなかった。ただぽたぽたと、青馬の顔から滴り落ちて畳を叩くもののかすかな音が、耳に届くばかりだった。

「もう、会えないんですか」

 消え入るような声が、しんと静まり返った部屋に滲んだ。

「……そんなことはない。会いにくる。文も出す」

 言えば言うほど、虚しさだけが胸を喰んだ。
 春駒を押しやって、黙って両手を差し伸べると、気配を察して青馬が顔を上げた。よろよろと近寄ってきた青馬をさっと抱え上げ、膝に乗せて袂に包む。物も言わずに襟元に顔を圧し付けてくる子供を、やさしく揺すった。
 やわらかく熱い、小さな体が細かくふるえている。

ーー幸せだった。

 己の持てるすべてを与え、久弥を慕ってついて回る無邪気な青馬を育てる日々は、この上なく幸せだった。
 できることなら、いつか独りで歩けるようになる日まで、共に歩いてやりたかった。

「……ちちうえ」

 たどたどしく、掠れた声で青馬が呼んだ。
 刹那、涙が溢れ前が見えなくなった。嗚咽が後から後から突き上げ、止まらない。久弥は体を折り、呻くように泣いていた。
 心残りがないはずがない。
 久弥の半纏に包まりいくら帰りを待っても、もう戻って来てはやれないのだ。
 胸が潰れそうに痛かった。腕にきつく力を込めて慟哭する久弥を見て、青馬が驚いたように啜り泣くのを止めた。
 小さな手がそろそろと伸び、濡れた頬を拭おうとするのを感じ、また涙が流れた。

「父上」

 あどけない、小さな声が耳元で呼ぶ。
 幼子のように、久弥が与えた名を一心に呟いていたのを思い出す。
 久弥の右手を握り返す、小さな手のやわらかさを思い出す。
 壊れ物のように青馬を背に負って歩いた日を。紫檀の棹を、この上なく嬉しそうに抱えた日を。青馬が連れ去られる恐れに駆り立てられながら、無我夢中で走った夜を。悠々と空を泳ぐ真鯉を、ただ満ち足りた心地で見上げた日を思い出す。

「……打つや……太鼓の音も澄み渡り……」

 青馬がしゃくりあげながら唄っている。
 幸福になれと、祈るように過ごした日々だった。けれど、与えられたのは久弥の方なのだ。青馬という宝を与えられた、己こそが幸いだったのだ。

「……お前は一人じゃない。真澄さんが、側にいてくれる。皆が、見守っていてくれる」

 己に言い聞かせるように囁いた。
 燃えるような向島の秋が、目の奥に浮かぶ。
 お前は一人じゃない。
 しっかりと青馬を腕に抱き、久弥は幾度も胸の内で繰り返した。 

 だから、お前は大丈夫だ。
……大丈夫だ。

***

 それから数日は、真澄が自分の身の回りの品を松坂町の家に運び込み、家の中を整えるのに忙しく出入りしていた。襷掛けをした真澄が台所を片付けているのを目にしたり、家の中に真澄の持ち物が増えて行くのを見るのは、何やらこそばゆく、妙な心地だった。中食や夕餉を一緒に取ることもあった。帰りが遅くなれば、青馬を連れて三人で竪川沿いを歩き、真澄の家まで送っていった。また真澄に間が抜けていると言われるだろうなと思いながら、それが心が踊るように嬉しかった。
 青馬は真澄が本当に移ってくるのだと実感してはしゃいだかと思うと、久弥が行ってしまうのだと思い出して悄然とし、掴まえようとするように久弥の袖を握り締めては、目に涙を溜めて悲しみに耐えていた。可能な限り稽古をつけてやりたかったが、山辺家との遣り取りもあって時は限られていた。それでも少しの暇を見つけては曲を浚い、青馬も張り詰めたような集中力を見せ、久弥の教えることを懸命に全身で学び取ろうとしていた。
 門人には、急な事情により江戸を離れなくてはならなくなったと告げ、他の師匠を紹介するか、希望するなら真澄の稽古に通ってもらうように話をした。

「お師匠がお帰りになられるのを、心待ちにしております」

 と多くの門人が惜しんでくれた。
 近江屋の隠居と、倅である店主の惣左衛門そうざえもんへも挨拶に出向いた。久弥の話を聞き終えた二人は、蒼白になって長いこと押し黙っていた。

「……なんてことだ」

 やがて隠居がぽつりと零すと、赤くなった目からぽろりと涙を落とした。

「小槇の若君でおられましたか……」
「叶うなら気楽な浪人のままでおりたかったのですが、もはや状況が許してくれなくなりました」

 自嘲気味に言うと、隠居の息子が身を乗り出して口を開いた。

「しかし、ご世子に立たれれば、江戸の中屋敷にお住まいになられますでしょう。青馬さんや真澄さんにお会いすることもおできになるのでは……」
「馬鹿を言いなさい」

 文右衛門が顔を顰めた。

「ご世子が勝手にお屋敷を離れて、町中を出歩いたりできるわけがない。ご正室をお迎えになれば尚更だ」

 惣左衛門が文右衛門によく似た顔を強張らせて、ぼそりと言った。

「……お目出度いお話の筈でございますのに、失礼ながら、ちっとも心が晴れない気が致しますねぇ」

 隠居が節くれ立った指で目元を拭い、大きく嘆息する。

「青馬さんと真澄さんのことは、私共がよぅく気を付けておきます。ご心配は無用です。しかしお師匠、私はお師匠のことの方が気掛かりですよ。お大名家のお跡目争いというのは恐ろしいものでございましょう」

 久弥はわずかに微笑んだ。

「ありがとうございます。こういう家に生まれたからには、仕方のない仕儀です」
「……どうにか、ならないものでしょうかねぇ」

 文右衛門は、久弥の諦念を浮かべた顔を痛ましげに見詰めて呟いた。

「……お師匠、こんなのはあまりにもむごい。お家やお国のためとはいえ、あなたをこんな風に連れていくとはあまりにも……」

 語尾が掠れて聞こえなくなった。
 誰も、言葉を発しなかった。静まり返った座敷に、庭木をさわさわと揺らしながら、湿り気を帯びた皐月の風が忍び込んでいた。 


 橋倉家には、文を出した。長い文になった。
 すぐに橋倉が飛んで来て、玄関先で久弥の顔を見るなり、わなわなとふるえて凍りついた。
 そして、久弥の袖を掴んで俯いている青馬を見ると、我に返ったように息を吸った。

「……青馬、心配すんな。俺たちも坊主どももついてるからよ。なぁ。心配すんな」

 喘ぐようにして繰り返しながら、泣き腫らしたような赤い目で凝然と久弥を見上げる。

「橋倉先生。このようなことになり、本当に……」

 膝をついた久弥が言いかけると、

「お師匠、よしてくれよ。あんたが一番辛いだろうよ。きっちり青馬を自分の子にしなすったんだ。よくやりなすったよ。……よかったなぁ、青馬。これでお師匠がどこにいたとしても、お前さんはお師匠の子だよ。それもお大名家の子だぜ、誇りに思いなよ」

 唇をへの字にしながら、橋倉は青馬に語り掛けた。
 はい、と青馬が小さな声で答えた。

「父上が文を書いてくれるので、字をたくさん覚えて返事を書きます」

 押し黙った橋倉の顎がわななき、浅黒い頬を涙が伝う。
 やがて、ひび割れたような声を励まして言った。 

「……ああ、がんばらねぇとな。父上が喜ぶぜ」

 はい、と頷いて久弥の肩に顔を伏せた青馬を見下ろして、橋倉は拳を握り締め、静かに涙を流しつづけた。

  
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