調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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別離の朝

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 残夜ざんやの空に、羽衣のような薄雲がたなびいている。
 最後に朝餉を作ってやりたくて、夜が明けやらぬ前から起き出していた。
 藍色に沈む台所で、竈に揺れる赤い火を見詰めながら丁寧に飯を炊き、葱と豆腐の味噌汁をこしらえる。生姜をきかせた煮はまぐりと、しらす干しに大根おろしを添え、漬物も出す。残りの飯は梅干しを入れて握り飯にし、竹籠に入れて布巾を掛けておいた。中食に真澄と食べてくれるだろう。
 まだだいぶ暗いのに、気配を感じたのか青馬が起き出してきた。囲炉裏端に整えられ、あたたかそうに湯気を立てる膳を、久弥の半纏に包まったままぼんやりと見ている。

「顔を洗っておいで」

 久弥が言うと、腫れぼったい目を瞬かせ、こっくりと頷いた。
 顔を洗い、半纏を脱いだ青馬と膳の前に座り、箸を取る。
 青馬は味噌汁を一口飲んで、飯を口に運ぶと、もぐもぐと無言で口を動かしていたが、箸を下ろすとそれっきり動かなくなった。
 台所の格子窓からうっすらと差し込む曙光が、膳から立ち昇る湯気を白く浮かび上がらせる。
 久弥は箸を置くと、膳を脇に寄せ、何も言わずに青馬を膝に抱き上げた。
 とんとんと背中をやわらかく叩いてやると、青馬は口を噤んだまま、力なく襟元に顔を押し付けた。ゆるやかに明らんでくる外の気配を感じながら、時の許す限り、久弥はただそうして座り込んでいた。

 明け六ツの時鐘があちらこちらで鳴り響く頃、山辺家の指図を受けた髪結いが訪れ、月代を剃り、髪を結い直した。それが済むと、稽古部屋で着慣れた長着を脱ぎ、側用人から届けられていた着物に身を包んだ。
 山辺家の定紋である丸に剣片喰紋が染め抜かれた、海のように鮮やかな紺青色の色紋付の羽織と小袖、精好仙台平せいごうせんだいひらの袴、白足袋に印伝花緒の草履と、華美ではないが贅を尽くした装いだった。最後に脇差を差し、袂に青馬が折った鶴を落とした。真澄に習って青馬が折った、千代紙の鶴だ。それから打刀を持って長袋に入れた紫檀の三味線を抱えると、稽古部屋を出た。
 所在なげに廊下で膝を抱えていた青馬が立ち上がり、今にも泣き出しそうな目で久弥の出で立ちを凝視している。久弥は黙ってその目を見返すと、草履に足を入れて玄関土間を出た。つられるように、青馬がとぼとぼとついてくる。
 三味線を持っていったところで、弾く機会があるとは思えなかった。三味線弾き上がりの庶子が長唄なぞを奏でていたら、下賎の生まれの若君よ、と顔をしかめる家臣や、三味線弾きの若君に藩主が務まるのか、と疑念を抱く領民も出てくるだろう。ただでさえ殺伐とした状況下で、あらゆるところに家臣の目がある城内や中屋敷で暮らすのだ。三味線片手に唄など唄えるわけもなかった。
 けれども、たとえ手に取ることさえなくとも三味線は絆だった。母と、真澄と、青馬と己をつないでいるものを、置いていくことなどできない。そして、久弥がこれまでの人生を賭けて精進し、血肉の一部としてきたものが、共に暮らした日々を通じ、血のつながりを越えて青馬の内にも残されていると信じている。
 それが青馬の心を少しでも支えることを、願わずにはいられなかった。
 青白い朝靄の中を、静かに迎えがやってきた。
 長棒引戸の乗物が生垣の外につけられ、陸尺ろくしゃくが待機している。神谷や浜野をはじめとする山辺家の侍六人に、槍持ちとはさみ箱持ち、草履取りらがその前後にひっそりと佇む。
 通りを見遣ると、薄闇の奥に真澄の姿があった。
 真澄は根が生えたように立ち竦んで迎えの列を見詰めていたが、やがて意を決したように唇を結んで歩み寄ってきた。

「……あとを、よろしくお願いします」

 真新しい朝日を映し、かすかに揺れる瞳に見入りながら言うと、娘は薄く紅をひいた唇をふるわせ小さく頷いた。

「何かあれば、いつでも上屋敷に知らせて下さい」

 そう付け加えながら、白い頬に手を伸ばしたくなる衝動を堪えた。
 この数日でずいぶん窶れてしまった、と胸が痛んだ。真澄が纏う鉄線の白い花を散らした小袖と、一つ結びにした潔い黒の帯が、細い体の線をいっそう儚く感じさせる。
 何も、残してはやれない。何も、約束してやることもない。不義理をしてばかりいる。
 それでも今夜、青馬が一人きりの家で眠らずにすむことが、そして明日、辛い朝を一人で迎えずにすむことがありがたかった。
 手のひとつも握ったことがないのが今更に悔やまれ、いや、不用意な行為は真澄を苦しめるだろうと思い直し、己の未練に内心で苦笑いした。

「体を、厭って下さい」
「……お師匠も……」

 真澄の両目がすうっと潤み、急いでしばたかせた長い睫毛を湿らせる。何を言えばいいのか逡巡するようにしばらく黙ると、娘はこくりと喉を鳴らして唇を動かした。

「……どうぞ、ご息災で」
「ありがとう」

 清潔な日の光に浮かび上がる真澄の面差しを目に焼き付け、久弥は目を細めた。
 それから、棒立ちになって青ざめている青馬に近づいた。不安気に両目を大きく瞠り、青馬は通りに控える迎えと久弥とを交互に見た。

「山辺青馬」

 久弥は背筋を伸ばして青馬の前に立つと、やわらかい目で子を呼んだ。

「……精進せよ」

 涙を溜めた両目が、懸命に久弥の顔を見上げる。
 同じ言葉を囁いた母の顔が思い浮かぶ。糧にしろ。悲しみも苦しみも、己の糧にしろ。死に行く母がそう口にした心が、強い祈りが、己を支えてきた。
 そして、久弥が己の子に贈ってやれるものも、やはりそれ以外にはなかった。

「はい」

 声を振り絞って答えると、青馬は言葉を探すように唇を幾度か動かした。

「……父上も、お気をつけて」

 うん、と頷くと、久弥は微笑した。
 乗物に乗り込む久弥を見て、青馬がすがるように真澄の袖を握り締めた。
 真澄が青馬をしっかりと抱き寄せ、血の気の失せた顔にきつく唇を噛んで、こちらを見詰める。
 小姓が音もなく引き戸を閉めると、格子窓を透かした二人の顔が怯えるように歪んだ。
 久弥は袂に手を入れ、折鶴を取り出して息を吹き込み、窓にかざしてにこりとした。
 青馬がはっとしたように喘ぎ、真澄にしがみつく。娘は細い喉をふるわせながら、青馬の背を懸命に撫でていた。
 音もなく進み出た浜野が、二人に向かって一礼した。

「……ご出駕」

 浜野が低く声を張ると、陸尺達が低く声を合わせ、そろりと乗物が持ち上がった。
 ちちうえ、と青馬が身を乗り出すのを、真澄がぐっと抱き止め、耳元で何かを囁いた。
 青馬が伸ばしかけた手を止めて、まだ信じられぬように格子の中を凝視するのを、久弥は胸が張り裂けそうな思いで見詰め返した。
 陸尺の力強い足運びと共に、滑るように二人が視界から消えた。見慣れた木斛もっこくの生垣を背景に、乗物を守って歩く侍の姿が清らかな朝日に浮かび上がる。
 何事だろうかと、足を止めて列を眺める人の姿もちらほらと見えた。

「ーー父上……」

 茫然とした、必死に己を求める頑是がんぜない声を遠くに聞くと、久弥は鶴を包んだ手を瞼に強く押し当てた。

ーー悲しみも、苦しみも、糧にしろ。

 負けるな、と青馬に呼びかける声は、己に言い聞かせる言葉でもあった。
 拳を固く握り締め、乗物の中の暗がりを見据えた。
 目覚めはじめた本所の町のざわめきが耳に届く。しじみ売りや納豆売りの威勢のいい声が方々で響いている。朝の早い職人やお店者の交わす挨拶や、朝湯へ繰り出す男たちの活気もさざ波のように聞こえてくる。
 すべての感情を飲み込みながら、久弥は瞬きもせず闇を見詰めていた。
 着慣れた着物のように肌に馴染んだ表の音が、もはやひどく遠かった。

***

 青山家上屋敷に到着した一行は、今度は御勝手御門ではなく、威風に満ちた長屋門の表御門へと迎え入れられた。公に山辺家の若君となった久弥は、嗣子となる存在であることを公儀に印象づける必要がある。ゆえに、むしろ衆目に姿を晒すべきである、と仰々しい道行きを渋る久弥に諏訪家老らは訴えた。家木側は当然宗靖への挑戦と受け取るであろうし、実際にその通りなのだ。これまでの刺客相手の鍔迫り合いを離れ、三味線弾きの若君が、世子の座を賭けて全面的に争う意志を布告するための行列だった。
 ぴりぴりと張り詰めた空気の中、門を入って乗物を降りた久弥を、山辺家と青山家の重臣たちが安堵した様子で出迎えた。
 諏訪らに導かれて表玄関に上がり、御殿の書院へと進む。
 部屋には既に三人の侍がいて、平伏して久弥を迎えた。神谷、浜野、本間ら側用人、それに迎えの中にいた侍がそれに加わり、上座に着いた久弥の脇手に諏訪が座った。

「御前と下野守様にお目通りいただきます前に、若君にお目に掛けたい者たちがございます。若君に従い舞田へご同行申し上げると共に、御前のご上意にて家木の上意討ちを仰せつかった仕手たちにございまする」

 久弥がかすかに目を細めると、諏訪が小さく頷き、侍たちに顔を向けた。

「上屋敷の本間と浜野、これは小姓組の染田兵之進にございます。こちらの三名は小槇より罷り越しました馬廻り組頭の成瀬壮太郎、物頭の天城あまぎ彦九郎、それに徒目付組頭の北田友尚ともなおにございます。皆家中では聞こえた使い手でございます。
これら六名で二の丸御殿にて家木を討ち取り、恭順を示さぬ者もことごとく退けよとのご命令にございます。加えて、馬廻り組と御徒士組の饗庭あえば様の手勢が内部にて呼応する手筈になっておりまする」

 名を呼ばれた者が次々に叩頭するのを見渡しながら、久弥は黙って頷いた。

「この者らで城内の叛臣を一掃した後、宗靖様を城下の桃憩とうけい御殿へ護送申し上げ、若君にご入城を賜ることになりましょう。若君は饗庭家老のお屋敷にお留まりをいただき、追って仕手が首尾をご報告に上がることになりまする。御身に危険が及ぶことはございませぬゆえご安心下さいませ」

 ことは政治的な駆け引きで収まる段階にない。力でねじ伏せるということか。

「……一歩間違えば、戦になるぞ」

 低く言うと、男たちが黙り込む。
 鈍く底光りする彼らの目を見た瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。
 内乱も辞さないというわけか。……いや、大火の日から戦ははじまっているのだ。
 久弥は六人の目を凝視すると、ゆっくりと口を開いた。

「……家木側で、もっとも腕が立つのは誰か」

 久弥が尋ねると、諏訪と藩士たちが一瞬顔を見合わせ、天城が口を開いた。

「城下の一刀流道場の晴心館師範を務める、川中輔之丞すけのじょうでございましょうな。長身の得体の知れぬ雰囲気の男で、突き技の名手と聞き及びまする。家木家老に常に付き従っている男でございます」
「……その男、痩せた体躯に切れ長の目をして、唇の脇に古傷がないか」
「いかにも、仰せの通りにございます」

 天城が太い眉を持ち上げ、大きく頷いた。槍組物頭というだけあって、分厚い胸板と長身が際立つ男だった。 

「晴心館の道場主の川中家は家木の分家筋にあたり、多くの剣客を抱えてございます。お味方を切り崩そうと重役方の闇討ちを働いているのは、この川中であろうと目されておりまする。
……そういえば、五、六年ほど前に、彼奴が半年ほど姿を見せなくなった時期がございました。手酷く傷を負い、鎖骨を折られて腕が上がらなくなったと漏れ聞きました。あの時に上意討ちの命が下されていたらと悔やまれまするが……若君、あの男をご存知でおられますか」
「……それは、私が負わせた傷だ。六年前に、川中は刺客として江戸に現れた」
「なんと」

 侍たちが色めき立った。

「噂には聞き及んでおりましたが、流石のお手並みでございますな」

 声に感嘆を滲ませる北田に、久弥は苦笑いした。

「いや、負けたのは私の方だ。たまたま命拾いしたが、こちらも深手を負った」

 家臣たちが顔を強張らせ、たちまち黙り込んだ。

「皆の内で最も腕が立つのは誰だ」

 侍たちが一瞬顔を見合わせ、一斉に浜野を見た。久弥は浮かない顔で押し黙った。
 浜野は確かに並の腕ではない。上屋敷でも見たが、本身での実戦は初めてであったにもかかわらず、終始冷静であったのを思い出す。だが、川中輔之丞には歯が立つまい。たとえ六人掛かりでも、犠牲を出さずに討ち取れるとは思えなかった。家木の身辺には手練てだれが揃っているはずだ。腕の立つ仕手たちが欠けてしまえば、上意討ちの成功は危うくなるだろう。上意討ちは迅速に、かつできるかぎり隠密に、事を運ばねばならないのだ。家木を逃して公儀に駆け込まれるようなことになれば、藩主側が負ける。

「……私も加わろう」

 全員の目が吸い付くように久弥を見た。

「川中は手強い。奴と戦ったことがある者がいた方がよかろう」
「滅相もございませぬ。若君がおられればこれほど心強いことはございませぬが、万が一のことがあればすべてが水の泡。上屋敷にて心苦しくも若君のご助勢をいただいたというのに、これ以上御身を危険に晒させるわけには参りませぬ」

 諏訪が顔色を失ってにじり寄った。

「だが、そなたたちが失敗すればもはや策はない。私が生きていたとしても、家木家老の勝ちは動かぬ」

 淡々とした口調で言うと、一同が蒼白になり絶句した。
 世継ぎは藩主の一存で決定出来るものではない。藩政を押さえている家木が宗靖を支持している限り、彰久が久弥を世子に指名したとて家中が従うことは望めないのだ。

「……し、しかし……御前はお許しになられませぬでしょう」

 神谷が迷ったように声を揺らした。

「お許しを得るには及ばぬ。戦場いくさばへ赴く上は、不測の事態が避けられぬことは父上もご承知であろう。ことここに至っては、もはや力で家中を平らげる他にない。私が己の身の安全に汲々として機を逃せば、すべては手遅れになる。たとえ成功裏にことが運んだとしても、後からのこのこと名乗りを上げるような若君に、ついてくる者などおるまい」

 久弥は青ざめたまま凍りついている家臣を見渡した。
 決して負けられぬ戦だった。敗れれば彰久も久弥も強制隠居の上蟄居か、悪くすれば死罪となるだろう。父や家臣を見捨てて、己だけ本所へ戻るなどできない相談だ。上意討ちを成功させる他に道はない。機会はこの一度きりなのだ。

「そなたらが身命を賭すのなら、私もそうしよう。将とはそのようなものだろう」

 迷いのない声で言い切ると、諏訪と神谷、六人の仕手は声もなくこちら見詰め、やがて次々と平伏した。
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