30 / 36
若君の命(二)
しおりを挟む
「……本当に参ったのか」
夕御前宛ての書状を携えた急使が江戸へ発ったその日の午後、三味線を抱えて桃憩御殿に現れた久弥を見て、宗靖が呆れたように言った。
「弾いてよいと仰せになられましたので」
にこりとして応じると、明るい雨を透かして蓮の花が夢のように開く池を背にして坐った。
近侍らの好奇心を抑えきれぬような視線を感じながら、滑らかな手つきで長袋から紫檀の三味線を取り出し、撥入れから出した象牙の撥を右手に握る。
ひんやりと冷たく、手に吸い付く紫檀の棹と象牙の撥、そして右肘と右膝に感じる胴の感触に、すうっと心が和らいだ。庭園のどこかで、大瑠璃が鮮やかで玲瓏とした声を響かせる。蓮池を、甘い風が渡っていく。梢の雨粒が振り落とされて別の梢を打ち、一瞬の、潮騒のようなさざめきを起こして消えていく。縄が解けるように、固く押さえつけられていた色鮮やかなものが奔流のように胸に満ちた。凍えた体を血が巡るように、萎んでいた肺腑が息で膨らむように、意識が鮮明になった。
「……何を、弾いて差し上げましょうか?」
幸福そうに微笑んで見上げると、宗靖は気を呑まれたようにこちらを見詰め、次いでぼそりと呟いた。
「好きに弾け」
久弥は開放弦を弾きながら糸の状態を確かめ、本調子に合わせた。
雨音を遠くに聞きながら、背筋を伸ばし丹田に力を込める。すっと周囲の空気が引き締まった。
撥が糸を打った途端、澄んだ音色が肌の上を走り抜けた。
義太夫を取り入れた、力強く、それでいて滴るような情緒に満ちた前弾である。
宗靖と近侍らの意識が、一瞬にして弦の音に惹きつけられるのを感じる。前弾きが途切れ、寸の間の、しかし永劫とも思えるような静寂が落ちた。
身の程を、知らずと人の思うらん
繁き人目を忍ぶ川、水の行方のさまざまに
流れもやらぬ薄氷、解けぬ心を明かしてそれと
いうにいわれぬ我が思い
調べ掻き鳴らす
乾いた、哀切漂う歌声と、趣き深く格調高い旋律を嫋々と絡めていく。叙情に満ちていながらも、鋭く研ぎ澄ませた間が漲るような切迫感を与え、情趣に溺れることを許さない。胸を絞るように甘美な糸の音と、轟くような沈黙とが、魂に刻みつけるかのごとく殷々と鳴り響く。
影というも月の縁、清しというも月の縁
影清き名のみにて、うつせど袖に宿らず
吉野龍田の花紅葉、更科越路の月雪も
夢とさめては、跡もなし
仇し野の露、鳥辺野の煙は、絶ゆる時しなき
これが浮世のまことなる
長唄屈指の難曲とされる『三曲糸の調』である。
九世杵屋六左衛門の作とされ、浄瑠璃『壇浦兜軍記』の三段目の口「阿古屋琴責の段」を元にしている。源平合戦で敗れた平景清の行方を追及された愛人の遊女・阿古屋が、箏・三味線・胡弓を見事に演奏し、無実を証明するのである。手が至難を極める上に、字配りが特殊な難所が多く、唄い手と合わせるのがことに難しいことでも知られる雅曲だった。
本手も技巧を尽くしているが、替手はさらに超絶的な技巧を必要とするため、真澄であっても弾きこなすのは苦労する。しかしそれだけに、唄と糸を合わせた時の調べの艶麗さは抜きん出ていた。
二挺一枚の演奏が基本だから舞台で弾くのがもっぱらで、青馬の前で弾いて見せたことはない。いつか青馬が腕を上げたら、教えてやりたいと思っていた曲だった。
そして、一緒に演奏をしてみたかった。
翠帳紅閨に、枕並ぶる床の内、馴れし衾の夜すがらも
四つ門の跡夢もなし
さるにても我が夫の、秋より先に必ずと
あだし言葉の人心、そなたの空よと眺むれど
それぞと問いし人もなし
三筋四筋のいとまなければ
紫檀の棹の上を指が踊り、撥が翻る度、うねるような音色が立ち昇る。声を練り、去って行った男を思う阿古屋の無常と哀切を無心に唄う。随所にちりばめられた合方が、時に華やかに、また時に悲哀に満ちた調べを奏でて緊張感を高めていく。極限まで洗練され、抑制をきかせた曲調は、かえってそこに潜む生々しい懊悩と情念、そして人の業の深さまでも容赦なく露にするかのようだ。
宗靖と近侍たちが、引きずり込まれるように聴き入ったまま、瞬きすることさえ忘れている。
段切りの余韻が幻のように雨音に溶けていく。撥を下ろし、久弥はゆっくりと目を上げた。
宗靖が端正な顔をこちらに向けたまま、息をするのも憚るように身を固めていた。
不意に、雨音の中に鳥の羽ばたきが混じり、宗靖ははっと瞬きをした。
「……見事だ」
掠れた声で、兄が呟いた。
近侍が忘我の表情で凝然としているのを横目で見て、唇に笑いを浮かべる。
「お主は一体、何なのだ。鬼も逃げ出す剣豪かと思いきや、魂を抜くような糸と声で音曲を弾く。家督を継げば、さぞ風変わりな御前になるであろうな」
咄嗟に、気の利いた言葉を返すことができなかった。己が何であるのかと問われれば、答えはひとつしかなかった。しかし、そう答えることはもはや許されていないのだ。
だがそれが何だ。青馬を子に迎えるのと引き換えに、諦めたではないか。この兄のように命を弄ばれることに比べたら、何だ。江戸に戻れるのなら、世子であろうが藩主であろうが勤めて見せるまでだと、そう腹を括ったではないか。
握り締めた紫檀の棹の、体の一部のように馴染んだ感触が無性に哀しかった。
揶揄するように笑った宗靖の顔が、久弥の顔を見る内に強張った。
「久弥、お主もしや……」
ぽつりと言葉がこぼれた。
「世継ぎになりとうないのか。そうなのか?」
そんな馬鹿なことがあるかと疑うように、己の言葉に愕然としている。表情を険しくして沈黙する弟を、今初めて会ったかのように凝視する。
「……お主、三味線弾きに戻りたいのだな?」
信じがたいものを見るかのごとく見開かれた兄の双眸に、やがて鋭く痛ましげな光が走った。
三味線を抱いたまま、久弥は宗靖から目を逸らした。
答えることは、できなかった。
***
急使が江戸に発ち、五日が過ぎた。
評定所に持ち込まれた前代未聞の嘆願は、ただちに重役衆の元に上げられた。裃に身を包んだ名主が大挙して押し寄せたとあっては、世迷い言として訴えを退けるわけには行かなかった。判断に窮した重役衆は、藩主の裁許を仰ぐべく江戸に使いを走らせていた。
家臣の間には、様々な憶測が飛び交っているようだった。宗靖に死刑が命じられるのではないか、いや隠居と遠慮を解かれるのではないか。助命を求める領民が一揆を企んでいるのではないか。
それに呼応するように、騒ぎを聞きつけた城下の有力な商人からも、重役衆に宗靖の助命を訴える嘆願が届いていた。
「宗靖様が五年ほど前に、利根川に堀継ぎをして、東部の村々と江戸への物流を向上させようとご計画下されましたこと、我々は忘れてはございませぬ。国の東部は西部ほど地の利に恵まれず、古くから難渋してございましたので、似たような計画は以前にもございました。しかし莫大な費用と手間を要しますため、郡代様やご普請方へお願い申し上げても、お許しが出ることはなかったのです。そこで宗靖様が我々御用商人に出資を募り、河岸場開設を許す上、問屋として独占的な商いも認めると持ちかけていらっしゃいましたことは、まことにご慧眼であられたとしか申し上げようがございませぬ。
大きな出資が必要となる一方で、見返りも大きい計画でございました。しかし何より、宗靖様の東部の村々の窮状を救うというご熱意に、我々は心打たれましたのでございます。一年後に堀継ぎが完成しましてからは、東部各村と江戸とをつなぐ舟運が著しく向上致しましたのはご承知の通りでございます。我ら商人も百姓も、その恩恵に多大に浴してございます。若君のご見識とお志の高さに、感じ入らぬ者はございませぬ。かような賢君はまことに得がたく、我ら皆、若君のご進退を赤心から案じ申し上げておりまする」
城下の御用商人からそのような訴えがあったと、饗庭が小書院での合議の場で述べると、一同はそれぞれの思惑に沈んで黙り込んだのだった。
午後の政務を終えると、桃憩御殿に忍んで行くのが習慣になった。
乞われるままに、長唄はもちろん、常磐津や新内までも奏でて見せる久弥に、宗靖も近侍らもひたすら度肝を抜かれていた。
「お主にはまったく、意表を突かれる」
その日も、宗靖は屈託なく笑っていた。
名主らの訴えを耳にしているだろうが、何も尋ねようとはしなかった。
既に覚悟を決めているかのように、宗靖の様子は穏やかで、凪いだ湖面のように落ち着き払っていた。それでも涼しげな目元に疲労の影が差し、よく眠れていないのか頬に血の気が乏しかった。政変から半月あまりが経ち、いつ死刑が言い渡されるか分からぬ状況に置かれているのだから無理もない。様々な噂に一喜一憂しているのか、近習や小姓らの顔も、日に日に窶れて行くように思われた。
「……何か、ご入用なものはございませんか?召し上がりたいものや書物などは……」
思わず尋ねると、宗靖は磊落に笑った。
「余計な気を回すでない。お主の三味線のお陰で気が紛れる。馴染みの芸者でも呼んだらなおよいのだがな」
芸者、と聞いて顔色が変わったのに気付いたのか、兄がにやりとした。
「別に遊んでいたわけではないぞ。堀継ぎ普請の相談に、城下の商人たちと幾度か酒席を設けたのよ。まぁ、いい女なのは否定はせん。会わせてやろうか」
「いえ、私は遠慮申し上げます」
苦笑いすると、宗靖がふと真顔になった。
「……江戸に、お主が面倒を見ている者がいるそうだな」
「は……」
「妻と子か?」
顔から襟足まで熱くなるのを感じながら、久弥は目を伏せた。
「いえ……妻ではありませぬ。その、子の世話を頼んでいる人で……」
ふうん、という兄の含み笑いに身の置き場がない心地になる。
「子は町人だったそうだな。お主の血も受けておらぬのに、なにゆえ子としたのだ」
久弥ははにかむように頬を緩めた。
袖の中にいつも忍ばせてある、千代紙の折り紙の方に視線を落とす。
「……我が子とするならば、あれ以外にはないと思ったのです。血のつながりは、さして重要ではございませんでした」
胸に込み上げるあたたかなものと痛みとを同時に感じながら、やわらかく言った。
「それほどに可愛いか」
宗靖がふっと笑うのを見返して、久弥は相好を崩した。
「それはもう」
久弥の大きすぎる半纏を嬉しげに着込んで、ぺたぺたと家中をついて回る姿が目に浮かぶ。膝に抱いた、ちっぽけでやさしい感触を思い出す。
真澄が、愛おしんで育ててくれているだろう。そうに違いない。
そう考えた途端、娘の慟哭が耳を刺すように頭に響き、無理矢理に考えるのを止める。
「そういうものかのう」
遠い目をして宗靖が庭に顔を向ける。久弥はその横顔をじっと見詰めた。
「……そうです」
分家の出とはいえ、血のつながりはまるでない兄だ。また、いつ殺し合わねばならなくなるかもしれない。
「今は、兄上とこうして過ごす時が、愉しゅうございます」
久弥の言葉に、宗靖がゆっくりとこちらを向いた。
「……お主は、希代のお人好しだのう」
そう言って、淡く笑った。
長引く長雨の合間の、久方ぶりの夕焼けが美しい日だった。
帰り際、久弥を見送りに立った佐々岡が、表門の前で何か言いたげに顔を見上げた。
「……いかがした」
「は……」
生真面目そうな小姓頭の顔は面窶れし、額が硬く強張っている。心労がよほど蓄積しているのだろう。忠義そうな男だけに、主の命運を思っては心を痛めているのに違いなかった。
「……いえ、失礼致しました。わざわざのお運び、まことにありがたく存じまする。僭越ながら、どれほど宗靖様のお心が慰められておられますことか」
囁くように佐々岡が言った。
「そなたたちも体を厭え。兄上の御為に私も力を尽くすゆえ、希望を捨てるな」
実直そうな顔を見詰めて心底からそう言うと、男の目がかすかに揺れた。
踵を返して歩き出そうとすると、突然佐々岡が体を寄せてきた。
「若君、申し訳ございませぬ。高蔵寺の門前を避けてお通り下さいませ。御身が危のうございます。どうか」
早口にそう言うと、夕日を映して真っ赤に潤んだ目が久弥を見上げた。
途端に小姓二名と近習頭の杉本がはっと息を飲み、顔色を変えて振り返った。
「ーー刺客か」
半ば悲しげに久弥が問うと、佐々岡が肩を波打たせながらぐっと頭を下げた。
馬鹿なことを、と苦いものが込み上げた。だが、兄の近侍たちは追い詰められているのだ。名主や商人の訴えで主の命が守られるとは思っていない。それならば、久弥を亡き者にして、若君の座に返り咲く他にもはや手は残されておらぬ。そう思い詰めている。
奇襲しても手練の久弥を討ち取れる望みは薄かろうが、それでもやるしかないと、決死の覚悟の者がいるのだ。
「若い小姓二人が語らっているのを聞きました。山門の脇に潜んでお帰りがけを襲うと……止められませなんだ。まことに、お詫びのしようもございませぬ。それがしも同罪にございますれば、ご存分にお手討ちにして下さいませ」
まだ乾ききらぬ地面に蹲ると、佐々岡が喉を絞るようにして言った。
「貴様……これほどお心を砕いておられる若君に、何という愚劣な真似を……!」
「許せぬ!叩き斬ってくれる!」
小姓らと杉本が蒼白になって刀に手をかけるのを見て、門番が何事かと駆け寄ろうとする。久弥は手を上げて近侍たちを鋭く制すると、突如場違いに朗らかな声を発した。
「泉二郎。今日は久方ぶりに雨が上がったのう」
「ーーは……」
杉本が虚を衝かれたように動きを止めた。
「せっかくの機会だ。少し遠回りをして戻ろうぞ。この谷津を越える切り通しがあるそうだな。そなた、案内いたせ」
「……は、その、しかし……」
「佐々岡、そなたの進言に従い、散歩をして帰ることに致そう。着物が汚れるゆえ立つがいい。兄上が不審にお思いになる」
茫然と見上げる佐々岡の顔が、見る間に歪んだ。
はい、と動いた唇からは、声は出ずに掠れた息が漏れるばかりだった。
「若君、そのようなわけには……!」
杉本はなおも顔を強張らせて鍔元を掴んでいたが、久弥は小さくかぶりを振った。よろよろと立ち上がった佐々岡が、深々と腰を折る。ぽたぽたと顔から滴り落ちるものが、雨のように地面に染みた。
「杉本どののおっしゃる通りにございます。どうか、ご随意にお裁き下さいませ」
「何も、起きてはおらぬ」久弥は低く言って佐々岡を見下ろした。「……そなたたち、間違っても兄上のお側を離れるような真似をしてはならぬぞ。よいな」
佐々岡がぎくりとしたように顔を上げた。責任を取って腹を切るような真似をするな、と釘を刺されたのを覚って、男は啜り泣きながら再び頭を下げた。
久弥が鬱蒼とした木陰の間を谷の奥へ向かって歩き出すと、杉本と小姓が慌てて追ってきた。
「……若君、よろしいのでございますか。捨て置くわけには……」
御殿を一瞬振り返り、迷うように言う近習頭に、久弥はかすかに笑って見せた。
「何がだ。私は散歩を勧められただけだ」
杉本が絶句するのを感じながら、久弥は笑みを消して前を睨んだ。
焦燥と憤りを映すように、山向こうの空が赤く燃えていた。
***
「城内で不満が高まっておりますな。あちらこちらで言い争う者の姿や、一触即発になろうかという場面も目にしております」
城に戻り、病を得たことにしてある浜野を召し出すと、若い側用人は固い口調で言った。
「家木が担ぎ上げていた宗靖様をなぜ生かしておくのかという、強硬な意見の者も少なくありませぬ。若君のご寛大さに心打たれる者もございますが、手緩いと思う者もおりますようで。若君に心酔する者も、なぜ早々に若君がご世子にお立ちにならぬのかと、歯がゆく思っておるようにございます。
また、どなたがご世子になられるのかが決まりませぬと、迂闊に彰則様の喪に服すことが叶いませぬ。彰則様をお慕いする家臣には辛いことにございますゆえ、早急にご世子をお立て下さるよう願っている者も多いのです」
久弥は小さく嘆息した。一体、この三つ巴の家中をどう治めたらよいのかと、暗澹たる思いに囚われる。
その時、廊下に乱れた足音と、尋常ならざる昂った声が近付くのが聞こえた。
浜野が脇差に手を掛けながら素早く襖に寄った。久弥はさっと刀掛けに手を伸ばして打刀を掴むと、襖から離れて片膝を立てて蹲った。
「若君に申し上げます!」
杉本の上擦った声が聞こえた。
「江戸上屋敷より、お側用人の本間様がご到着にございます!」
それを耳にした瞬間、久弥は浜野と顔を見合わせた。
「本間か。よく参った」
襖を開け放つと、畳廊下に側用人の本間の姿があった。よほど急いで登城したのか、旅装の肩を上下に喘がせている。本間は深く一礼すると、素早く懐から書状を取り出し捧げ持った。
「御前よりご下知にございます」
奪うように奉書紙を取り上げてさっと振る。途端、「御思召有之」という字が目に飛び込んだ。
御思召有之、御慈悲之御了簡ヲ以、宗靖様之義、願書之通、御赦被仰付候……
「宗靖様の隠居と遠慮を解き、二の丸へお戻りいただくようにとの仰せにございまする」
本間の弾む声を聞きながら、全身の血が沸騰するように熱くなった。
宗靖が救われたのだ。
ざわめきが御殿の中に広がって行く。廊下を右往左往する足音と、忙しい言葉のやり取りが聞こえ、驚愕と安堵、喜びと憤りとが空気に漲るのが感じられた。
「饗庭家老を呼べ。それから桃憩御殿へ急使を遣わし、お迎えを差し向けよ」
「今すぐに、でございますか」
杉本が戸惑ったように言う。
「今すぐにだ。兄上はもはや隠居を解かれ、当家の若君にお戻りである。ただちに乗物を仕立て、二の丸御殿へお帰りを願え!」
家臣の耳に届くように声を張り上げて言うと、御殿の空気がぴんと張り詰めた。
杉本が素早く去ると、久弥は浜野と本間を引き連れて御殿表へと向かった。
昂揚が、抑えがたく胸の内に湧き上がっていた。
小雨の降りしきる宵闇の中に、二の丸南大手門からつづく赤々と燃える無数の松明の列が浮かび上がる。爆ぜる炎に照らされ、壮麗な櫓門が陽炎のように立ち上がっている。そこに、丸に剣片喰紋の定紋を入れた高張提灯に先導された一行が、厳かな足取りで現れた。
遠侍にて重役衆をはじめとする家臣団と共に待ち構えていた久弥は、車寄せに入ってきた乗物から兄が式台に降り立つと深く一礼した。
「兄上、お待ち申し上げておりました。ご無事のお戻り、大慶至極に存じまする」
胸が詰まる思いで述べると、宗靖は頬を緩めて頷いた。それから、松明に照らされた二の丸の櫓門の方角を振り返り、再び御殿の内に顔を戻した。大廊下と広間に居並ぶ家臣団を見渡しながら、感慨深げに目を細める。
「ーー出迎え、大義である」
深い吐息と共によく通る声で言い、遠侍に足を踏み入れた。
久弥が重役衆と共に背後に従うと、大廊下の両脇に居並ぶ家臣団が一斉に拝跪した。彼らの前を進む宗靖の後ろ姿は、憔悴や苦渋が影を潜め、侵し難い誇り高さに満ちていた。
夕御前宛ての書状を携えた急使が江戸へ発ったその日の午後、三味線を抱えて桃憩御殿に現れた久弥を見て、宗靖が呆れたように言った。
「弾いてよいと仰せになられましたので」
にこりとして応じると、明るい雨を透かして蓮の花が夢のように開く池を背にして坐った。
近侍らの好奇心を抑えきれぬような視線を感じながら、滑らかな手つきで長袋から紫檀の三味線を取り出し、撥入れから出した象牙の撥を右手に握る。
ひんやりと冷たく、手に吸い付く紫檀の棹と象牙の撥、そして右肘と右膝に感じる胴の感触に、すうっと心が和らいだ。庭園のどこかで、大瑠璃が鮮やかで玲瓏とした声を響かせる。蓮池を、甘い風が渡っていく。梢の雨粒が振り落とされて別の梢を打ち、一瞬の、潮騒のようなさざめきを起こして消えていく。縄が解けるように、固く押さえつけられていた色鮮やかなものが奔流のように胸に満ちた。凍えた体を血が巡るように、萎んでいた肺腑が息で膨らむように、意識が鮮明になった。
「……何を、弾いて差し上げましょうか?」
幸福そうに微笑んで見上げると、宗靖は気を呑まれたようにこちらを見詰め、次いでぼそりと呟いた。
「好きに弾け」
久弥は開放弦を弾きながら糸の状態を確かめ、本調子に合わせた。
雨音を遠くに聞きながら、背筋を伸ばし丹田に力を込める。すっと周囲の空気が引き締まった。
撥が糸を打った途端、澄んだ音色が肌の上を走り抜けた。
義太夫を取り入れた、力強く、それでいて滴るような情緒に満ちた前弾である。
宗靖と近侍らの意識が、一瞬にして弦の音に惹きつけられるのを感じる。前弾きが途切れ、寸の間の、しかし永劫とも思えるような静寂が落ちた。
身の程を、知らずと人の思うらん
繁き人目を忍ぶ川、水の行方のさまざまに
流れもやらぬ薄氷、解けぬ心を明かしてそれと
いうにいわれぬ我が思い
調べ掻き鳴らす
乾いた、哀切漂う歌声と、趣き深く格調高い旋律を嫋々と絡めていく。叙情に満ちていながらも、鋭く研ぎ澄ませた間が漲るような切迫感を与え、情趣に溺れることを許さない。胸を絞るように甘美な糸の音と、轟くような沈黙とが、魂に刻みつけるかのごとく殷々と鳴り響く。
影というも月の縁、清しというも月の縁
影清き名のみにて、うつせど袖に宿らず
吉野龍田の花紅葉、更科越路の月雪も
夢とさめては、跡もなし
仇し野の露、鳥辺野の煙は、絶ゆる時しなき
これが浮世のまことなる
長唄屈指の難曲とされる『三曲糸の調』である。
九世杵屋六左衛門の作とされ、浄瑠璃『壇浦兜軍記』の三段目の口「阿古屋琴責の段」を元にしている。源平合戦で敗れた平景清の行方を追及された愛人の遊女・阿古屋が、箏・三味線・胡弓を見事に演奏し、無実を証明するのである。手が至難を極める上に、字配りが特殊な難所が多く、唄い手と合わせるのがことに難しいことでも知られる雅曲だった。
本手も技巧を尽くしているが、替手はさらに超絶的な技巧を必要とするため、真澄であっても弾きこなすのは苦労する。しかしそれだけに、唄と糸を合わせた時の調べの艶麗さは抜きん出ていた。
二挺一枚の演奏が基本だから舞台で弾くのがもっぱらで、青馬の前で弾いて見せたことはない。いつか青馬が腕を上げたら、教えてやりたいと思っていた曲だった。
そして、一緒に演奏をしてみたかった。
翠帳紅閨に、枕並ぶる床の内、馴れし衾の夜すがらも
四つ門の跡夢もなし
さるにても我が夫の、秋より先に必ずと
あだし言葉の人心、そなたの空よと眺むれど
それぞと問いし人もなし
三筋四筋のいとまなければ
紫檀の棹の上を指が踊り、撥が翻る度、うねるような音色が立ち昇る。声を練り、去って行った男を思う阿古屋の無常と哀切を無心に唄う。随所にちりばめられた合方が、時に華やかに、また時に悲哀に満ちた調べを奏でて緊張感を高めていく。極限まで洗練され、抑制をきかせた曲調は、かえってそこに潜む生々しい懊悩と情念、そして人の業の深さまでも容赦なく露にするかのようだ。
宗靖と近侍たちが、引きずり込まれるように聴き入ったまま、瞬きすることさえ忘れている。
段切りの余韻が幻のように雨音に溶けていく。撥を下ろし、久弥はゆっくりと目を上げた。
宗靖が端正な顔をこちらに向けたまま、息をするのも憚るように身を固めていた。
不意に、雨音の中に鳥の羽ばたきが混じり、宗靖ははっと瞬きをした。
「……見事だ」
掠れた声で、兄が呟いた。
近侍が忘我の表情で凝然としているのを横目で見て、唇に笑いを浮かべる。
「お主は一体、何なのだ。鬼も逃げ出す剣豪かと思いきや、魂を抜くような糸と声で音曲を弾く。家督を継げば、さぞ風変わりな御前になるであろうな」
咄嗟に、気の利いた言葉を返すことができなかった。己が何であるのかと問われれば、答えはひとつしかなかった。しかし、そう答えることはもはや許されていないのだ。
だがそれが何だ。青馬を子に迎えるのと引き換えに、諦めたではないか。この兄のように命を弄ばれることに比べたら、何だ。江戸に戻れるのなら、世子であろうが藩主であろうが勤めて見せるまでだと、そう腹を括ったではないか。
握り締めた紫檀の棹の、体の一部のように馴染んだ感触が無性に哀しかった。
揶揄するように笑った宗靖の顔が、久弥の顔を見る内に強張った。
「久弥、お主もしや……」
ぽつりと言葉がこぼれた。
「世継ぎになりとうないのか。そうなのか?」
そんな馬鹿なことがあるかと疑うように、己の言葉に愕然としている。表情を険しくして沈黙する弟を、今初めて会ったかのように凝視する。
「……お主、三味線弾きに戻りたいのだな?」
信じがたいものを見るかのごとく見開かれた兄の双眸に、やがて鋭く痛ましげな光が走った。
三味線を抱いたまま、久弥は宗靖から目を逸らした。
答えることは、できなかった。
***
急使が江戸に発ち、五日が過ぎた。
評定所に持ち込まれた前代未聞の嘆願は、ただちに重役衆の元に上げられた。裃に身を包んだ名主が大挙して押し寄せたとあっては、世迷い言として訴えを退けるわけには行かなかった。判断に窮した重役衆は、藩主の裁許を仰ぐべく江戸に使いを走らせていた。
家臣の間には、様々な憶測が飛び交っているようだった。宗靖に死刑が命じられるのではないか、いや隠居と遠慮を解かれるのではないか。助命を求める領民が一揆を企んでいるのではないか。
それに呼応するように、騒ぎを聞きつけた城下の有力な商人からも、重役衆に宗靖の助命を訴える嘆願が届いていた。
「宗靖様が五年ほど前に、利根川に堀継ぎをして、東部の村々と江戸への物流を向上させようとご計画下されましたこと、我々は忘れてはございませぬ。国の東部は西部ほど地の利に恵まれず、古くから難渋してございましたので、似たような計画は以前にもございました。しかし莫大な費用と手間を要しますため、郡代様やご普請方へお願い申し上げても、お許しが出ることはなかったのです。そこで宗靖様が我々御用商人に出資を募り、河岸場開設を許す上、問屋として独占的な商いも認めると持ちかけていらっしゃいましたことは、まことにご慧眼であられたとしか申し上げようがございませぬ。
大きな出資が必要となる一方で、見返りも大きい計画でございました。しかし何より、宗靖様の東部の村々の窮状を救うというご熱意に、我々は心打たれましたのでございます。一年後に堀継ぎが完成しましてからは、東部各村と江戸とをつなぐ舟運が著しく向上致しましたのはご承知の通りでございます。我ら商人も百姓も、その恩恵に多大に浴してございます。若君のご見識とお志の高さに、感じ入らぬ者はございませぬ。かような賢君はまことに得がたく、我ら皆、若君のご進退を赤心から案じ申し上げておりまする」
城下の御用商人からそのような訴えがあったと、饗庭が小書院での合議の場で述べると、一同はそれぞれの思惑に沈んで黙り込んだのだった。
午後の政務を終えると、桃憩御殿に忍んで行くのが習慣になった。
乞われるままに、長唄はもちろん、常磐津や新内までも奏でて見せる久弥に、宗靖も近侍らもひたすら度肝を抜かれていた。
「お主にはまったく、意表を突かれる」
その日も、宗靖は屈託なく笑っていた。
名主らの訴えを耳にしているだろうが、何も尋ねようとはしなかった。
既に覚悟を決めているかのように、宗靖の様子は穏やかで、凪いだ湖面のように落ち着き払っていた。それでも涼しげな目元に疲労の影が差し、よく眠れていないのか頬に血の気が乏しかった。政変から半月あまりが経ち、いつ死刑が言い渡されるか分からぬ状況に置かれているのだから無理もない。様々な噂に一喜一憂しているのか、近習や小姓らの顔も、日に日に窶れて行くように思われた。
「……何か、ご入用なものはございませんか?召し上がりたいものや書物などは……」
思わず尋ねると、宗靖は磊落に笑った。
「余計な気を回すでない。お主の三味線のお陰で気が紛れる。馴染みの芸者でも呼んだらなおよいのだがな」
芸者、と聞いて顔色が変わったのに気付いたのか、兄がにやりとした。
「別に遊んでいたわけではないぞ。堀継ぎ普請の相談に、城下の商人たちと幾度か酒席を設けたのよ。まぁ、いい女なのは否定はせん。会わせてやろうか」
「いえ、私は遠慮申し上げます」
苦笑いすると、宗靖がふと真顔になった。
「……江戸に、お主が面倒を見ている者がいるそうだな」
「は……」
「妻と子か?」
顔から襟足まで熱くなるのを感じながら、久弥は目を伏せた。
「いえ……妻ではありませぬ。その、子の世話を頼んでいる人で……」
ふうん、という兄の含み笑いに身の置き場がない心地になる。
「子は町人だったそうだな。お主の血も受けておらぬのに、なにゆえ子としたのだ」
久弥ははにかむように頬を緩めた。
袖の中にいつも忍ばせてある、千代紙の折り紙の方に視線を落とす。
「……我が子とするならば、あれ以外にはないと思ったのです。血のつながりは、さして重要ではございませんでした」
胸に込み上げるあたたかなものと痛みとを同時に感じながら、やわらかく言った。
「それほどに可愛いか」
宗靖がふっと笑うのを見返して、久弥は相好を崩した。
「それはもう」
久弥の大きすぎる半纏を嬉しげに着込んで、ぺたぺたと家中をついて回る姿が目に浮かぶ。膝に抱いた、ちっぽけでやさしい感触を思い出す。
真澄が、愛おしんで育ててくれているだろう。そうに違いない。
そう考えた途端、娘の慟哭が耳を刺すように頭に響き、無理矢理に考えるのを止める。
「そういうものかのう」
遠い目をして宗靖が庭に顔を向ける。久弥はその横顔をじっと見詰めた。
「……そうです」
分家の出とはいえ、血のつながりはまるでない兄だ。また、いつ殺し合わねばならなくなるかもしれない。
「今は、兄上とこうして過ごす時が、愉しゅうございます」
久弥の言葉に、宗靖がゆっくりとこちらを向いた。
「……お主は、希代のお人好しだのう」
そう言って、淡く笑った。
長引く長雨の合間の、久方ぶりの夕焼けが美しい日だった。
帰り際、久弥を見送りに立った佐々岡が、表門の前で何か言いたげに顔を見上げた。
「……いかがした」
「は……」
生真面目そうな小姓頭の顔は面窶れし、額が硬く強張っている。心労がよほど蓄積しているのだろう。忠義そうな男だけに、主の命運を思っては心を痛めているのに違いなかった。
「……いえ、失礼致しました。わざわざのお運び、まことにありがたく存じまする。僭越ながら、どれほど宗靖様のお心が慰められておられますことか」
囁くように佐々岡が言った。
「そなたたちも体を厭え。兄上の御為に私も力を尽くすゆえ、希望を捨てるな」
実直そうな顔を見詰めて心底からそう言うと、男の目がかすかに揺れた。
踵を返して歩き出そうとすると、突然佐々岡が体を寄せてきた。
「若君、申し訳ございませぬ。高蔵寺の門前を避けてお通り下さいませ。御身が危のうございます。どうか」
早口にそう言うと、夕日を映して真っ赤に潤んだ目が久弥を見上げた。
途端に小姓二名と近習頭の杉本がはっと息を飲み、顔色を変えて振り返った。
「ーー刺客か」
半ば悲しげに久弥が問うと、佐々岡が肩を波打たせながらぐっと頭を下げた。
馬鹿なことを、と苦いものが込み上げた。だが、兄の近侍たちは追い詰められているのだ。名主や商人の訴えで主の命が守られるとは思っていない。それならば、久弥を亡き者にして、若君の座に返り咲く他にもはや手は残されておらぬ。そう思い詰めている。
奇襲しても手練の久弥を討ち取れる望みは薄かろうが、それでもやるしかないと、決死の覚悟の者がいるのだ。
「若い小姓二人が語らっているのを聞きました。山門の脇に潜んでお帰りがけを襲うと……止められませなんだ。まことに、お詫びのしようもございませぬ。それがしも同罪にございますれば、ご存分にお手討ちにして下さいませ」
まだ乾ききらぬ地面に蹲ると、佐々岡が喉を絞るようにして言った。
「貴様……これほどお心を砕いておられる若君に、何という愚劣な真似を……!」
「許せぬ!叩き斬ってくれる!」
小姓らと杉本が蒼白になって刀に手をかけるのを見て、門番が何事かと駆け寄ろうとする。久弥は手を上げて近侍たちを鋭く制すると、突如場違いに朗らかな声を発した。
「泉二郎。今日は久方ぶりに雨が上がったのう」
「ーーは……」
杉本が虚を衝かれたように動きを止めた。
「せっかくの機会だ。少し遠回りをして戻ろうぞ。この谷津を越える切り通しがあるそうだな。そなた、案内いたせ」
「……は、その、しかし……」
「佐々岡、そなたの進言に従い、散歩をして帰ることに致そう。着物が汚れるゆえ立つがいい。兄上が不審にお思いになる」
茫然と見上げる佐々岡の顔が、見る間に歪んだ。
はい、と動いた唇からは、声は出ずに掠れた息が漏れるばかりだった。
「若君、そのようなわけには……!」
杉本はなおも顔を強張らせて鍔元を掴んでいたが、久弥は小さくかぶりを振った。よろよろと立ち上がった佐々岡が、深々と腰を折る。ぽたぽたと顔から滴り落ちるものが、雨のように地面に染みた。
「杉本どののおっしゃる通りにございます。どうか、ご随意にお裁き下さいませ」
「何も、起きてはおらぬ」久弥は低く言って佐々岡を見下ろした。「……そなたたち、間違っても兄上のお側を離れるような真似をしてはならぬぞ。よいな」
佐々岡がぎくりとしたように顔を上げた。責任を取って腹を切るような真似をするな、と釘を刺されたのを覚って、男は啜り泣きながら再び頭を下げた。
久弥が鬱蒼とした木陰の間を谷の奥へ向かって歩き出すと、杉本と小姓が慌てて追ってきた。
「……若君、よろしいのでございますか。捨て置くわけには……」
御殿を一瞬振り返り、迷うように言う近習頭に、久弥はかすかに笑って見せた。
「何がだ。私は散歩を勧められただけだ」
杉本が絶句するのを感じながら、久弥は笑みを消して前を睨んだ。
焦燥と憤りを映すように、山向こうの空が赤く燃えていた。
***
「城内で不満が高まっておりますな。あちらこちらで言い争う者の姿や、一触即発になろうかという場面も目にしております」
城に戻り、病を得たことにしてある浜野を召し出すと、若い側用人は固い口調で言った。
「家木が担ぎ上げていた宗靖様をなぜ生かしておくのかという、強硬な意見の者も少なくありませぬ。若君のご寛大さに心打たれる者もございますが、手緩いと思う者もおりますようで。若君に心酔する者も、なぜ早々に若君がご世子にお立ちにならぬのかと、歯がゆく思っておるようにございます。
また、どなたがご世子になられるのかが決まりませぬと、迂闊に彰則様の喪に服すことが叶いませぬ。彰則様をお慕いする家臣には辛いことにございますゆえ、早急にご世子をお立て下さるよう願っている者も多いのです」
久弥は小さく嘆息した。一体、この三つ巴の家中をどう治めたらよいのかと、暗澹たる思いに囚われる。
その時、廊下に乱れた足音と、尋常ならざる昂った声が近付くのが聞こえた。
浜野が脇差に手を掛けながら素早く襖に寄った。久弥はさっと刀掛けに手を伸ばして打刀を掴むと、襖から離れて片膝を立てて蹲った。
「若君に申し上げます!」
杉本の上擦った声が聞こえた。
「江戸上屋敷より、お側用人の本間様がご到着にございます!」
それを耳にした瞬間、久弥は浜野と顔を見合わせた。
「本間か。よく参った」
襖を開け放つと、畳廊下に側用人の本間の姿があった。よほど急いで登城したのか、旅装の肩を上下に喘がせている。本間は深く一礼すると、素早く懐から書状を取り出し捧げ持った。
「御前よりご下知にございます」
奪うように奉書紙を取り上げてさっと振る。途端、「御思召有之」という字が目に飛び込んだ。
御思召有之、御慈悲之御了簡ヲ以、宗靖様之義、願書之通、御赦被仰付候……
「宗靖様の隠居と遠慮を解き、二の丸へお戻りいただくようにとの仰せにございまする」
本間の弾む声を聞きながら、全身の血が沸騰するように熱くなった。
宗靖が救われたのだ。
ざわめきが御殿の中に広がって行く。廊下を右往左往する足音と、忙しい言葉のやり取りが聞こえ、驚愕と安堵、喜びと憤りとが空気に漲るのが感じられた。
「饗庭家老を呼べ。それから桃憩御殿へ急使を遣わし、お迎えを差し向けよ」
「今すぐに、でございますか」
杉本が戸惑ったように言う。
「今すぐにだ。兄上はもはや隠居を解かれ、当家の若君にお戻りである。ただちに乗物を仕立て、二の丸御殿へお帰りを願え!」
家臣の耳に届くように声を張り上げて言うと、御殿の空気がぴんと張り詰めた。
杉本が素早く去ると、久弥は浜野と本間を引き連れて御殿表へと向かった。
昂揚が、抑えがたく胸の内に湧き上がっていた。
小雨の降りしきる宵闇の中に、二の丸南大手門からつづく赤々と燃える無数の松明の列が浮かび上がる。爆ぜる炎に照らされ、壮麗な櫓門が陽炎のように立ち上がっている。そこに、丸に剣片喰紋の定紋を入れた高張提灯に先導された一行が、厳かな足取りで現れた。
遠侍にて重役衆をはじめとする家臣団と共に待ち構えていた久弥は、車寄せに入ってきた乗物から兄が式台に降り立つと深く一礼した。
「兄上、お待ち申し上げておりました。ご無事のお戻り、大慶至極に存じまする」
胸が詰まる思いで述べると、宗靖は頬を緩めて頷いた。それから、松明に照らされた二の丸の櫓門の方角を振り返り、再び御殿の内に顔を戻した。大廊下と広間に居並ぶ家臣団を見渡しながら、感慨深げに目を細める。
「ーー出迎え、大義である」
深い吐息と共によく通る声で言い、遠侍に足を踏み入れた。
久弥が重役衆と共に背後に従うと、大廊下の両脇に居並ぶ家臣団が一斉に拝跪した。彼らの前を進む宗靖の後ろ姿は、憔悴や苦渋が影を潜め、侵し難い誇り高さに満ちていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
112
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる