調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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月影

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 舞田からもたらされた宗靖のための助命嘆願書を受け取った彰久は、当初一顧だにするつもりもなかったらしい。それどころか、連署血判をしてまでも己に異議を申し立てようとする名主らを脅威と捉え、謀反の首謀者として厳罰を加えようとしていたという。
 しかし、久弥から助力を乞う文を受け取った夕御前は、夫に宗靖への寛恕を訴え出てくれた。     
 まさか正室が宗靖の助命を願い出るとは夢にも思わずにいた彰久は、驚きをもってそれを聞いた。そして数日に及ぶ夕御前の懸命な説得の末、父は宗靖への処罰を解き、若君として再び城へ戻ることを許したのだった。

「母上が……」

 城に帰還した翌朝、鶴の間で本間の言葉に耳を傾けていた宗靖が、切れ長の目を大きく瞠った。

「はい。宗靖様の御身を、大変案じておいででした」

 滅多に感情を面に表さない本間が唇を綻ばせると、宗靖の表情が和らいだ。

「余のような不肖の息子に、もったいなき思し召しであった」

 穏やかな声に、隣に控える久弥と近侍らの顔に笑みが浮かんだ。

「……佐々岡。お前はいつまでそうしておるのだ。いい加減泣き止まぬか」

 部屋の隅で顔を伏せ、しきりに目元を拭っている小姓頭に顔を向け、宗靖が眉を上げて言う。

「は……申し訳ございませぬ」

 佐々岡が顔を赤くして声を詰まらせると、座敷にさざめくような笑いが広がった。一緒に笑うかのように、大瑠璃が高く澄んだ声を響かせて唄うのが、明るい小雨に霞む庭から聞こえてくる。
 血刀を提げて、この御座の間で兄と相対したのが嘘のようだ。久弥は二の丸御殿で暮らすようになって初めて、心があたたかく寛ぐのを感じていた。

「……久弥様」

 下座で目を伏せ、一同の朗らかな笑い声を聞いていた本間が、ためらいがちに低く言った。

「御前様よりお言付けを承ってございます。畏れながら、お人払いをお願い申し上げまする」

 久弥が頷くと、宗靖が席を立とうと腰を上げた。

「兄上。どうぞご同座下さい」

 久弥が平静に言うと、宗靖はつと目を細めた。

「……よいのか」
「無論にございます」

 久弥が頷くと、宗靖は頬を引き締めて座り直した。
 本間と浜野を残して近侍が去ると、束の間の静寂が広がった。

「……久弥様におかれましては、家中を平定するにあたり労苦を厭わぬお働き、大義であるとの御前のお言葉にございます。御前はご公儀にお暇を願い出ておられ、今月末に城にお戻りになられ次第、若君のご世子就任をご布告になられると仰せにございます」

 久弥は唇を引き結んだ。家中はまとまってなどおらぬ。だが、これ以上は待たないということか。

「また、久弥様のご婚儀についてお話がございました。内々にではございますが、ご婚約についてお話を頂戴しているお方がおられますため、若君にお心づもりを頂きますようにとのお言付けにございます」

 本間が目を伏せて言った途端、御座の間に満ちていた淡い光が陰った気がした。

「──そうか。どなたにあらせられる」

 宗靖の視線を感じながら、久弥は努めて平静に尋ねた。

「は。下野守様がご息女・いさ姫様にあらせられます」

 左様か、と乾いた声で言うと、宗靖が打たれたように背筋を伸ばし、次の瞬間大きく息を吸った。

「……これは、一体何だ。なぜ今お主の縁談なぞが話に上るのだ。下野守様の姫君は御年十八であらせられるはずだが、確か摂津尼崎あまがさき藩主のご正室ではないのか?」

 のっぺりと表情を失くした顔を青くして、本間は頭を下げた。

「仰せの通りにございます。しかし、ご当主の松平遠江守忠誨ただのり様はご病床にあられ、まことにお労しきことながら、ご本復はいかんともしがたいご病状でおられますとか……また、遠江守様と奥方様にはご子息はおられず、いずれ奥方様は青山家へお戻りになられるであろうと……」
「ーー正気か?」

 宗靖の目が驚愕に見る見る見開かれ、頬に血が上ったかと思うと蝋のように白く変わる。浜野が吐き気を催したかのような生気のない表情で、本間の隣で顔を伏せたまま呟いた。

「あくまでも、内々に、とのお言葉にございますれば……」
「ふざけるな。人を何だと思っておられるのだ!あまりと言えばあまりな……」

 かっと叫ぶなり、宗靖は何かに気づいたように動きを止めると、凝然と弟を見た。

「これは、何かの罰か。お主、余を救うのに父上のお怒りを買ったのか」
「……そのようなことはございませぬ。それに、青山家の姫君のお輿入れを賜るのは、罰ではなく栄誉にございましょう。兄上がお心を悩ませる必要はございませぬ」

 平らな声で応じながら、久弥は額を固くした。
 今回の騒動が、すべて久弥の企てであると父は勘付いているのだろう。夕御前の顔を立てて兄を助命する代わりに、世継ぎとなることと、この異様な婚姻を飲めということか。
 父と下野守がこのように無茶な話を持ちかけるということは、尼崎藩主の回復はもはや絶望的であるのに違いなかった。遠江守は病弱で、二十九かそこらであったはずだ。十八の姫は、駒のような扱われようにどれほど悲痛な思いでいるのだろうか。怒りを覚える気力すら萎えそうだ。婚約を整えるにしても、彰則の喪が明けるまで待たねばならない。今すぐという話ではない。そう自分に言い聞かせながらも、腹の底にどろりと濁った疲労の澱が、冷たく溜まっていく心地がした。

「……お主には、妻がおるであろう」

 宗靖が唸るように言った。本間と浜野は貝のように黙り込んだまま、身動ぎもしない。

ーー妻ではない。何の約束もしてはいない。どうあっても結ばれようのない縁なのだ。

 今更動揺などするな。胸の内で己に言い聞かせながらも、どんな言葉も凍りついた心の面を虚しく滑っていくのを感じていた。
 翌朝、もはや宗靖を誅殺する必要がなくなった浜野は、本間と共に江戸上屋敷へと帰っていった。
 浜野に託す夕御前宛ての文と、青馬と真澄宛ての文を書こうと、夜の間に文机に向かった。夕御前に助力を感謝する文を丁寧にしたためると、本所に宛てた文に取りかかった。その途端に、手が拒否するように動かなくなった。
 目に柔らかな美濃紙の純白を見詰めたまま、筆が宙でふるえた。無理矢理に言葉を連ねると、筆が乱れそうになった。何を言ってやればいいのだ。何を約束してやればいいのだ。何を書いても、嘘ばかりだ。
 襖の外に時折杉本の気配がしたが、主の張り詰めた様子を察してか、声を掛けずに去っていった。
 きつく目を閉じると、宗靖の、痛ましげに久弥を見詰める双眸が瞼に浮かんだ。

***

 宗靖が御殿に戻り、食事を共にできるようになったのが嬉しかった。
 武家の作法では食事中は極力黙するものだが、宗靖は頓着しない性質で、好きなように喋っては久弥を笑わせた。しかし、食は進まなかった。元から味気なく感じる食事に食指が動かなかったが、ますます箸が進まなくなっていた。食べねばならないと思うのだが、一口二口食べるともう冷や汗が出て酸っぱいものが喉にこみ上げてくる。汁物は無理矢理流し込めるが、他のものはどうにもならない。思い余った杉本が、城下一だという店の鰻を求めてきて膳に載せたが、一切れ口にするのが精一杯だった。
 食べることがままならず、梅雨時の蒸し暑さがことさら身に堪えた。兄や近侍が額を曇らせて見守っているのを済まなく思いながら、胃の腑に石が詰まったかのように、どうしてもものを食する気が起きなかった。

「このまま借りを作るのは我慢ならぬ。して欲しいことがあったら申せ。酒でも女でも、気晴らしがしたかったら言え」

 数日経ってとうとう宗靖が言った。伝法な口調ながら、目は深い懸念を浮かべて久弥の表情を探っていた。

「……ありがとうございます。ですがご心配には及びませぬ。暑さのせいにございましょう」
「なれば、西瓜と心太ところてんと白玉を山ほど用意させるから食せ。よいな」

 詰め寄られ、久弥は肩を揺らして笑った。宗靖であれば、本当に盥いっぱいに入れて来かねないなと思った。
 宗靖は黙って久弥の顔に目を据えたまま、笑わなかった。
 隠居を解かれた宗靖は、政務の多くを引き受けて働いていた。本来、藩主の名代を申しつけられた久弥に任じられた役目であったが、憔悴が目立つ久弥を休ませようとしているのを察して、重役たちも見て見ぬふりをした。
 弱っている場合ではない、と己を叱咤し、焦燥に耐える内に一日が終わる、その繰り返しだった。
 ある夜、書見をしていると杉本や近侍たちに早々に床に就くよう懇願され、寝間に半ば押し込まれた。
 行灯の明かりがひとつだけ灯った薄暗い部屋で、褥に座って黙然とする。
 国を治めるためにしなければならないことは山ほどある。学ばねばならぬことも膨大だ。父のように幕閣となるのであれば、猟官にも努めなくてはならない。婚約も整えなくてはならない。思い悩む暇などないのだ。
 そう幾度も考えるのに体は重く、頭の中はまるで空虚で、茫漠とした景色が広がるばかりだった。どれだけそうしていたのか、気がつくと、行灯の火が燃え尽きそうに弱々しく翳っていた。
 刹那、目だけ動かして襖の方を見た。 

「……誰か」

 小声で誰何すいかすると、襖の外の気配が動きを止めた。
 刺客の身ごなしではないが、不寝番以外に、こんな夜更けに寝間を訪れる家臣などいない。
 少しの間の後、細く襖が開いた。
 一瞬、柳橋芸者の娘の白い顔が見えた気がして凍りついた。だが薄闇に浮かび上がったのは、黒紋付姿の見知らぬ女だった。

「若君様、ご無礼をお許しくださいませ。私はあかねと申します。お邪魔をさせていただきましても、よろしゅうございますか?」

 やわらかな一重の目をした、色白の女が涼しげな声で言った。
 久弥は暫時ぼうっと、幽霊でも見ている気分で女を見詰め、生真面目に口を開いた。

「……どなたかの部屋と間違えている。若君なら、宗靖様のことでは」
「いいえ」

 女の目が可笑しげに笑みを浮かべる。

「その、宗靖様からのご命令でございます。弟君様がひどく意気消沈しておられるので、お慰めして参れと」

 唖然として声を失った。宗靖の馴染みの芸妓か。あの兄は、まったく。真澄が元柳橋芸者だとは知らぬはずだが、どういう因果で、と恨めしい気分になる。

「……お心遣いには感謝するが、その必要はない。あなたには無駄足になって申し訳ないが」

 ふふ、と茜という芸者が笑った。

「宗靖様がおっしゃった通り、身持ちの固いお方でございますねぇ。ここから問答を致しておりますと、御殿の皆様方を起こしてしまいそうです。お側でお話しさせていただいてもよろしゅうございますか」

 久弥は渋い顔で、知らぬ顔を決め込んでいる不寝番の小姓を恨んだ。宗靖に丸め込まれたか。
 茜の紅を差しただけで化粧気のない顔と、きりりとした黒紋付を見ていると、『吉原雀』が鮮やかに耳の底に蘇った。そして、やすりで擦られるように胸が灼けついた。久弥は溜め息を吐いて女から目を逸らした。
 ここで小姓を呼びつけて通用門まで送り返せば、女に恥をかかせるだろう。そう久弥が考えることも兄に読まれているのに違いないが、粋筋の女達と近い場所で働いていたせいで、どうも無下にはできなかった。

「ーー私は楽しい話相手にはならないと思うが、それでもよかったら、どうぞ」

 諦めてそう言うと、茜はにこりとして寝間に滑り込んで来た。用意のいいことに、酒器や肴を載せた黒漆に高蒔絵の宗和膳そうわぜんまで手にしている。
 久弥は女の方を見ずに立ち上がり、襖を開いて隣の休息の間へ入って行った。寝間に茜と二人きりでいるのは、あまりにも気詰まりだった。奥御殿の警護は厳重で、夜になると広縁には雨戸が立てられるのが普通だが、さすがに梅雨から盛夏の間は寝苦しいから、風を通すためいくつかは開けてあった。
 雨が上がって月が出ているらしく、障子を透かして青白い月光が淡く空気に滲んでいる。広縁を向いた障子を開けると、久弥は胡坐をかいて庭に視線を投げた。

「……月でも眺めますか」

 茜も捧げ持った膳を置いて、美しい所作で側に坐った。いかがですか、と盃を差し出してくるのをやんわり断ると、茜は思案げに瞬きしたが、それ以上勧めようとはしなかった。

「宗靖様なら、月なんぞより茜を眺めて酒を舐める方がずっとよいとおっしゃるのに。月に妬けますこと」

 えっ、と久弥が弱るのを見て、娘が小首を傾げて微笑んだ。

「それとも、月のようなどなたかのことを、考えておいでだとか?」

 耳に沁みるような、心地のいい声だった。二十三、四だろうか。華やかな美女というわけではないが、心の内にすうっと入り込むようなやわらかさと、朗らかで細やかそうな心根が感じられる娘だった。兄がこういう芸妓を馴染みにするのは、何だか意外でもあり、しかし腑に落ちる気もした。

「どんなお方なのか、惚気のろけてくださってもよろしいんですよ。私を目の前にして他の女の方の話を聞かされるような野暮は、いつもなら願い下げですけれどね。今はこの通り、暇を持て余しておりますから」

 花びらのような唇を引いてそう言いながら、茜の目はやさしかった。
 久弥は庭を向いたまま微笑んだ。池の蛍が飛びはじめたらしく、ちらちらと瞬く無数の光が闇を舞っているのが見える。

「……さぁ、そんなものではないですよ。さんざん不義理を働いたので、恨まれているでしょうしね」
「あら、意外と悪いお方なんですねぇ。お兄上様に言いつけておかなくては」

 茜が目を瞠って言うので、久弥はかすかに笑った。

「……若君様はお江戸からお出でございましたね。そのお方を、残していらっしゃったのですね」

 ふと静かな声で女が言った。
 久弥は月明かりに濡れた、淡い蛍の光が飛び交う庭をじっと見ていたが、茜に視線だけ向けて目を細めた。

「きっと、お美しい方なんでしょうねぇ」

 月光を透かす楓の葉が、さわさわと風に揺れる音が耳に届く。

「ーーええ」

 囁くようにそれだけ言うと、蛍の飛び交う青い池に映ってかすかに揺れる、白い月に視線を投げた。
 そしてじっと押し黙った後、思い直したように口を開いた。

「……その……」
「はい、何でしょう」

 身を乗り出して来る女に、久弥は自嘲気味に笑った。

「……いや。何でも」
「何ですか、おっしゃってください。ほら」

 にじり寄る茜を、久弥は束の間じっと見詰めた。

「妙な頼みなんだが……」

 はい、と茜が全身を耳にするようにしてこちらを見上げる。

「後ろを、向いていただいてもいいだろうか」
「後ろ?」

 茜が素っ頓狂な声を上げた。
 急にうなじが熱くなる。馬鹿なことを、と思いながらも、久弥は低く続けた。

「……後ろ姿が、似ているようで。ーーいや、申し訳ない。忘れてください」

 頭の形や、肩の線が似ているな、と入ってきた時に思った。
 だからどうだというのだ。そう思いながら、目は面影を茜の上に探している。 
 茜は涼しげな両目を見開いて、じっと久弥を見詰め返していたが、やがて頬を緩めた。

「もちろんですとも。お安い御用です」

 そう言って少し離れると、こちらに背を向けて畳に座り直した。
 一瞬目を逸らしたが、久弥は抗えぬ様に息を詰めて茜を見た。
 淡い月光の中に、襟から白く浮かび上がる細いうなじが見えた。
 艶やかな島田髷と、黒紋付に包まれた華奢な肩を目で辿る。

「……その方、何をなさっておられるんですか?」

 茜がそっと囁く。

「……三絃を弾きます。とても、腕がいいんです」

 答えると、茜のほっそりと優美な左手が上がり、棹を構える真似をした。右手は撥を持ち、凛とした空気を孕んで膝の上に置かれる。
 あ、と思わず息を飲んだ途端、止める間もなく片目から一筋、熱いものが流れ落ちた。
 女の後ろ姿を凝然と見詰める。心ノ臓を掴んで揺すぶられるような衝撃に、うろたえた。
 込み上げる苦い塊を幾度も飲み下す。顎が震えそうになるのを、歯を噛み締めて耐えた。

「……まぁ。泣かないでくださいな」

 茜の声が湿り、困ったように揺れる。
 泣いていません、と言おうとして、声が出せずに顔を歪めた。
 堪えても目頭から伝い落ちるものが、音もなく手の甲を叩く。
 淡く哀しげな女の後ろ姿を、久弥は幾度も瞬きしながら、見失うのを恐れるようにいつまでも目に映していた。

***

 翌朝、朝餉の席に着くと、隣に座っていた宗靖が、澄ました顔でこちらを見た。

「茜を追い返そうとしたそうだの。あんないい女を。妙な男だ」

 返事に窮する久弥を見て、白い歯を零す。

「……笑いごとではありませぬ。肝が冷えましてございます」

 眉を顰めて囁くと、兄は椀の蓋を取りながら肩を揺らした。

「そう言うな。案外気が紛れなかったか?大体あれは左褄の女だから、手なんぞ出したら噛みつかれるぞ。けしからん真似をされたら、小姓に言いつけて余を呼べと言っておいた。まぁ、お主のことだから指も触れぬだろうとは思ったが」

 暫時絶句してから、久弥は思わず苦笑いを浮かべていた。つくづく不覊ふきのお方だと思いながら、どうにも憎めない。

「……許せ。くだらん遊びをしてみたくなったのだ。小姓の奴は堪忍しろ。このまま主が弱ってもいいのかと余が脅したのだ」

 宗靖が汁椀を持ちながら言った。
 目の奥に熱を覚え、久弥は静かに俯いた。久弥をひどく案じているのだ。会ったこともなかった弟に、思うことなぞないと言った兄だった。
 夜四ツになる頃、茜は去った。宗靖が仕立てた迎えが通用門で待っているそうだった。小姓がそそくさと茜を導いて部屋を出ていくのを見送ると、久弥は茜が残した黒漆塗りの膳に目を落とした。

「月を肴になさるには、いい夜でございますから」

 と芸妓が嫋やかに、しかし妙に強引に置いていった膳だった。花鳥文様の銚子と盃の陰に、懐紙に載った一口大の薄皮の饅頭や、ほんの五粒ほどの甘納豆らしきもの、かと思えばあんかけ豆腐のようなものが入った猪口まで見える。どれも久弥の好物だ。しかし肴にしては妙な組み合わせだなとぼんやり思った刹那、最近兄や杉本らに好物は何かと質問攻めにあったことを思い出した。彼らが久弥が口にできるものをと心を砕き、少量ずつを膳に載せる姿が目に浮かんだ。
 そこに、ふっと茜の思案げな顔が重なった。何か食べさせてやってくれと、宗靖が茜に言い含めていたのに違いない。
 兄の悪戯に振り回された近侍たちが気の毒な話だ。微笑しかけ、つんとする鼻の奥の痛みに唇を噛み締めた。
 久弥は庭を向いて座ったまま、弱く明滅する儚げな光と、ゆっくりと傾いていく、池に映る潤んだ白い月影を見ていた。 
 重い足を一歩、また一歩と踏み出すごとに、帰りたい場所からは離れていく矛盾が心を苛んでいる。いったい何のために歩いているのかも、わからなくなりそうだ。
 けれども、身の内を食い荒らされるような苦しみは、和らいでいた。久弥を支え、寄り添おうとしてくれる人々の暖かさが、心を仄明るく照らしている。痛みは常に胸を刺し、面影が脳裏を去ることはない。しかし、月のない夜を一人彷徨うような虚無感は、少しずつ薄れていた。

「ーー甘納豆は美味しゅうございました」

 汁椀を取り上げながら言う久弥を、宗靖が横目で見た。 

「……しかし、ああいうお心遣いはご勘弁下さい」

 そう釘を刺して汁を口に運ぶと、かすかな笑い声が聞こえてきた。
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