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調べ、かき鳴らせ
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文月の終わり、江戸へと出立した。
まだ青い紗をかけたような薄闇が漂う早朝、二の丸御殿前の白洲に、世子と若君とを運ぶ隊列が仕立てられていた。丸に剣片喰紋の金紋先箱を担い、毛槍を立てた奴ら、その後ろに弓組・鉄砲組、黒紋付の羽織に野袴、一文字笠を被った供侍たちが続き、屈強の陸尺たちが宗靖を乗せた乗物を担ぎ、馬廻りが警護する。さらに後方に刀番や薙刀持ちらが続く錚々たる様を、旅装に身を包んだ青馬が感心したように眺めている。久弥と青馬の乗物も用意されたが、仰々しい乗物に青馬が心細げにうろたえるのを見て、しばらく一緒に歩くことにした。馬廻り組に囲まれて宗靖の乗物のすぐ後ろに並んで立つと、青馬は安堵したように久弥を見上げ、嬉しげに隊列を見回した。
やがて先立ちに先導され、隊列が二の丸の櫓門を出発した。奴や侍たちが石畳を踏む音が、青く澄んだ空気に滲む。四家老や年寄をはじめとする重役衆と、目付衆など主立った役人が列の両側に付き添い、虎の口の大手門まで発駕を見送りに供をする。三の丸の高麗門を出て堀の向こう側に目をやると、列を見送りに沿道に集まった人々の姿が淡い曙光に透かし見えた。
「見送り、大義である」
堀を渡ったところで隊列を止め、宗靖が涼やかな声を発した。深く腰を折って見送る者たちを残し、道の両側に並ぶ人々の間を歩き始める頃、朝日が輝きはじめた。
夜の名残りを吹き払うように、明け六ツの時鐘が響き渡る。
歩き出す前に、久弥はふと背後を振り返った。空が青さを増していた。昇ってくる清々しい朝日が、舞田城の純白の城壁と天守を暁色に染めていく。雨と宵闇に紛れてあの大手門を潜った日を思い出す。三層三階の天守と白亜の城郭は、日の光の下ではことに壮麗に見えるのだと聞いたが、闇の中では見えるものなど何一つなかった。
不思議そうな青馬の隣で、久弥は束の間、朝焼けに浮かび上がる白い城郭を静かに見詰めていた。
舞田から江戸までは陸路で丸一日の行程である。蜩の声と草いきれに包まれながら、どこまでも広がる松林と、豊かに実り始めた稲田を両手に見つつ脇街道を辿った。まばゆくきらめきながら悠々と身を横たえる利根川を越えた後、野田から日光東往還を歩く。やがて水戸街道追分に出会うと、後はまっすぐ街道を辿れば日本橋に至る。
一人で乗物に乗せられるのは気が進まぬらしく、青馬は結局ほとんどを歩いて過ごした。しかしかんかんと照りつける陽光に鼻の頭に汗を浮かべながらも、終始目を輝かせて疲れを見せることもなかった。皆で江戸へ帰るのだと思えば、羽が生えたように足元も軽くなるのだろう。行きは船で江戸川を遡って小槇へ来たため、街道の景色が物珍しい様子で、「あのお山は何というんですか?あの道はどこへ行くんですか?あの人は何を売っているんですか?」と久弥の袖を引いてはものを尋ね、道行く旅人を飽かず眺める様子が微笑ましかった。
「腰が痛くなってかなわぬ」と宗靖も時々乗物を降り、青馬を隣に呼んでは親しげに言葉を交わしつつ歩いた。大名家の一行に一人混じった子供の姿は目立つのか、時折しげしげと見詰めてくる旅人や村人もあった。すると青馬は笠の縁を目深に下ろし、慌てて宗靖や久弥の陰に隠れては皆を笑わせるのだった。
江戸から四番目の宿場町である小金宿で一日目の旅程を終え、本陣である大塚家にて一泊した。その翌朝、松戸宿を抜けて江戸川を渡し船で越え、新宿と千住宿を抜けた。千住大橋を渡れば、もうそこは朱引の内である。
浜町河岸にある山辺家上屋敷は、大部分の殿舎の再建が果たされていた。入母屋屋根の門構えに、唐破風屋根の番所を備えた堂々たる表門には、真新しい瓦が日に照り輝き、車寄玄関からは清冽な木と畳の香りが漂ってくる。
御殿にて彰久と夕御前に謁見し、兄に暇を乞うと、そこで一行と別れた。
浜野と杉本、それに中間一人が供につき、本所までの道のりを青馬と歩く。
大火で灰燼と化したのが嘘のように、真新しく再建された神田と両国を通り抜け、両国橋を渡る。回向院の門前町を通り過ぎ、真昼の光を反射する竪川河岸を横手に見て相生町の表通りを進む頃になると、次第に息が浅くなるのを抑えられなかった。
馴染みの煮売り屋、米屋、古着屋、蕎麦屋に鰻屋、顔を見知った棒手振りが通り過ぎる。松坂町に入ると、おや、という顔で振り向く人の姿も見える。ふと視線を落とせば、隣を歩く青馬が、そこにいるのを確かめるかのように久弥を見上げては、頬を上気させてにこりと微笑んでいる。
松坂町二丁目にさしかかった時、木斛の垣根の屋敷の前に、一人佇む女の姿が見えた。
顔も見分けられぬほど離れていても、その女が凝然と、まっすぐに久弥を見ているのがわかった。いつからそこに立っているのか、照りつける日の下に根が生えたように立ち竦む娘に向かって、久弥は引き寄せられるように歩き出していた。
絣と縦縞の着物に、粋に締めた紫のしごきの帯がよく映える。滂沱と濡れた白い頬が見えるにつれ、風を切るように歩みが早まる。体中が燃えるように熱くなるのが、強い日差しのせいなのか、それとも胸の内に吹く火のように熱いもののせいなのか、判然とはしなかった。
喉が張り付いたようで声が出ない。差し出すように両腕を伸ばしながら、真澄、と唇を動かすと、娘の頬が生き返ったかのように染まり、泣き笑うような笑みが浮かんだ。
「……お師匠」
懐かしい、耳にやわらかな声が久弥を呼ぶ。
かき鳴らす糸のように、胸が鳴っていた。
差し伸べた両手が触れるのを、幸福そうに目を潤ませて真澄が待っている。
「真澄さん」
声が迸るように溢れた刹那、身を抛つようにして胸に飛び込んできた娘を、折らんばかりにかき抱いた。
指先さえ触れたことがなかった娘に、もう、触れてもいいのだ。もう二度と、放さなくていいのだ。
真澄のはげしくふるえる体を確かめるように固く抱きながら、雲を払って眩い日差しが差すように、全身でそう覚っていた。
***
鏡の間の揚幕を出て橋掛りを進むと、磨き抜かれた床板の上に、真っ赤な紅葉の葉が数枚、はらはらと舞い落ちた。
黒紋付の久弥と真澄の後ろをついてくる、三味線を抱えたやはり黒紋付の小さな演奏者の姿に、観客の間にあたたかな笑いが広がった。
金屏風の前に毛氈が敷き詰められた、本舞台の正先で足を止める。久弥が袴の裾を捌いて座るのを見て、左隣の青馬が真似をした。さらに隣に、真澄が優雅な所作で座った。
膝の前に唄扇子を置き、白洲の観衆に向かってすっと一礼すると、青馬と真澄も三味線を抱えて辞儀をした。顔を上げると一陣の爽籟が顔を撫で、にこにこと青馬を見守る観衆に紅葉をふりかけていった。
青馬が緊張を面に浮かべながらも、凛々しく背筋を伸ばすのが横目に見える。
やがて青馬が集中したのを見計らい、久弥は小さく切れ味のいい掛け声を発した。
チンチンチン、トチチリチン、と二挺の三味線が小気味よくお囃子を奏ではじめる。青馬と真澄の連れ弾きである。澄んでいながら迫力のある前弾が響くに連れ、観客の期待が否が応にも高まるのが感じられる。
久弥は扇子を取り上げた手を膝に置くと、連れ弾きに負けぬ声量で唄い出した。
打つや太鼓の音も澄み渡り、角兵衛角兵衛と招かれて
居ながら見する石橋の、浮世を渡る風雅者
うたふも舞ふも囃すのも、一人旅寝の草枕
おらが女房をほめるぢゃないが、飯も炊いたり水仕事
麻撚るたびの楽しみを、独り笑みして来りける
越路潟、お国名物は様々あれど、田舎訛の片言まじり
しらうさになる言の葉を、雁の便りに届けてほしや
小千谷縮の何処やらが、見え透く国の習ひにや
縁を結べば兄やさん、兄ぢゃないもの、夫ぢゃもの……
久弥が声を練り、たっぷりと情感を乗せて響かせる唄と、真澄が奏でる端正で繊細な替手に、青馬が楽しげに乗ってきた。真新しかった紫檀の棹もずいぶん弾き慣れ、芯がありながら気品のある、涼しげな音色をよく引き出している。
来るか来るかと浜へ出て見ればの、ほいの、浜の松風音やまさるさ
やっとかけの、ほいまつかとな
好いた水仙好かれた柳の、ほいの、心石竹気はや紅葉さ
やっとかけの、ほいまっかとな
辛苦甚句もおけさ節
何たら愚痴だえ、牡丹は持たねど越後の獅子は
己が姿を花と見て、庭に咲いたり咲かせたり
そこのおけさに異なこと言われ、ねまりねまらず待ち明かす
御座れ話しましょうぞ、こん小松の蔭で
松の葉の様にこん細やかに、弾いて唄うや獅子の曲……
辛いことはおけさ節に紛らせてしまえ、たとえ大輪の牡丹にはなれずとも、愚痴は言わずに人生の花を咲かすのだ、と自らを鼓舞する唄は、悲哀を覗かせながらも、素朴でからりと力強い。
主旋律に青馬らしい素直さと、胸に刺さる情感が見え隠れし、聴衆を惹きつけていく。年齢にそぐわぬ無垢さと、大人びた情緒が同居する青馬の性質が、不思議な魅力のある表現を作り出している。
桟敷席には、門人や旦那衆、同業の師匠達の間に、満面の笑みを浮かべて耳を傾ける橋倉一家と、近江屋の隠居らの姿も見える。
近江屋の隠居の屋敷の一翼に設えられた三間四方の能舞台は、白洲に囲まれ、鏡の間から続く橋掛りに、老松を描いた鏡板や格天井を備えた豪華な造りである。本所に戻った久弥に、青馬のお披露目会をぜひ主催させて欲しい、と隠居は申し出てくれたのだった。
「春にはお師匠と真澄さんの祝言も控えておりますしね。ぜひまた華燭の典のお祝いに、ここで演奏なさって下さいよ」
文右衛門はそう言って、はにかむ久弥と真澄を目を細くして眺めていた。
旗本寄合となった久弥には、間もなく北本所に拝領屋敷が与えられることになっている。真澄との婚儀にあたっては、諏訪家老が真澄を養女とすることを買って出ていた。武家の娘となった上で、真澄は嫁いでくるのだ。
青馬が晒しの合方の難所を大らかに、息をするような滑らかさで鮮やかに奏でると、おっ、と観客が息を飲んだ。真澄が見事な替手で旋律に奥行きを与え、青馬の迸るような幸福感に満ちた本手を引き立てている。
奏でるのが楽しくてたまらない。嬉しくてたまらない。今この刹那が、幸福でたまらない、と青馬の三味線が叫んでいる。
角兵衛獅子を頭に被り、身軽に跳ね回る青馬が舞台に見えるようで、久弥はかすかに笑みを浮かべた。
三人の糸と唄とが響き合い、聴衆の熱気と掛け合いながら、瞬間の至上の美を紡ぎ出す。
晒す細布手にくるくると、晒す細布手にくるくると
いざや帰らん己が住家へ
華やかに、艶のある声で唄を締めくくると、観衆が秋空に漂う余韻を惜しむように、身動ぎもせず耳を澄ませるのが感じられた。
角兵衛が太鼓を鳴らして遠ざかる。祭り囃子の昂揚と、それが去った後の侘しさが、秋の空へと溶けていく。
ーー家へ帰るのだ。家族の待つ、懐かしい故郷へと。
ちらと隣を見ると、青馬はまだ角兵衛の軽業を見ているかのごとく、楽しげな表情を横顔に漂わせている。途端に、わっと万雷の喝采が上がったので、我に返ったようにびくりと肩をふるわせた。
目を丸くして盛大な歓声を送ってくる観客を見ていた青馬は、久弥と真澄を交互に見ると、やがて満ち足りた表情で微笑んだ。
大きな両目に黄金色の光が踊る。
やわらかな風が吹き抜けていく。青馬への披露目の祝儀のように、雨のような紅葉が、惜しげもなく秋風に舞った。
ー了ー
まだ青い紗をかけたような薄闇が漂う早朝、二の丸御殿前の白洲に、世子と若君とを運ぶ隊列が仕立てられていた。丸に剣片喰紋の金紋先箱を担い、毛槍を立てた奴ら、その後ろに弓組・鉄砲組、黒紋付の羽織に野袴、一文字笠を被った供侍たちが続き、屈強の陸尺たちが宗靖を乗せた乗物を担ぎ、馬廻りが警護する。さらに後方に刀番や薙刀持ちらが続く錚々たる様を、旅装に身を包んだ青馬が感心したように眺めている。久弥と青馬の乗物も用意されたが、仰々しい乗物に青馬が心細げにうろたえるのを見て、しばらく一緒に歩くことにした。馬廻り組に囲まれて宗靖の乗物のすぐ後ろに並んで立つと、青馬は安堵したように久弥を見上げ、嬉しげに隊列を見回した。
やがて先立ちに先導され、隊列が二の丸の櫓門を出発した。奴や侍たちが石畳を踏む音が、青く澄んだ空気に滲む。四家老や年寄をはじめとする重役衆と、目付衆など主立った役人が列の両側に付き添い、虎の口の大手門まで発駕を見送りに供をする。三の丸の高麗門を出て堀の向こう側に目をやると、列を見送りに沿道に集まった人々の姿が淡い曙光に透かし見えた。
「見送り、大義である」
堀を渡ったところで隊列を止め、宗靖が涼やかな声を発した。深く腰を折って見送る者たちを残し、道の両側に並ぶ人々の間を歩き始める頃、朝日が輝きはじめた。
夜の名残りを吹き払うように、明け六ツの時鐘が響き渡る。
歩き出す前に、久弥はふと背後を振り返った。空が青さを増していた。昇ってくる清々しい朝日が、舞田城の純白の城壁と天守を暁色に染めていく。雨と宵闇に紛れてあの大手門を潜った日を思い出す。三層三階の天守と白亜の城郭は、日の光の下ではことに壮麗に見えるのだと聞いたが、闇の中では見えるものなど何一つなかった。
不思議そうな青馬の隣で、久弥は束の間、朝焼けに浮かび上がる白い城郭を静かに見詰めていた。
舞田から江戸までは陸路で丸一日の行程である。蜩の声と草いきれに包まれながら、どこまでも広がる松林と、豊かに実り始めた稲田を両手に見つつ脇街道を辿った。まばゆくきらめきながら悠々と身を横たえる利根川を越えた後、野田から日光東往還を歩く。やがて水戸街道追分に出会うと、後はまっすぐ街道を辿れば日本橋に至る。
一人で乗物に乗せられるのは気が進まぬらしく、青馬は結局ほとんどを歩いて過ごした。しかしかんかんと照りつける陽光に鼻の頭に汗を浮かべながらも、終始目を輝かせて疲れを見せることもなかった。皆で江戸へ帰るのだと思えば、羽が生えたように足元も軽くなるのだろう。行きは船で江戸川を遡って小槇へ来たため、街道の景色が物珍しい様子で、「あのお山は何というんですか?あの道はどこへ行くんですか?あの人は何を売っているんですか?」と久弥の袖を引いてはものを尋ね、道行く旅人を飽かず眺める様子が微笑ましかった。
「腰が痛くなってかなわぬ」と宗靖も時々乗物を降り、青馬を隣に呼んでは親しげに言葉を交わしつつ歩いた。大名家の一行に一人混じった子供の姿は目立つのか、時折しげしげと見詰めてくる旅人や村人もあった。すると青馬は笠の縁を目深に下ろし、慌てて宗靖や久弥の陰に隠れては皆を笑わせるのだった。
江戸から四番目の宿場町である小金宿で一日目の旅程を終え、本陣である大塚家にて一泊した。その翌朝、松戸宿を抜けて江戸川を渡し船で越え、新宿と千住宿を抜けた。千住大橋を渡れば、もうそこは朱引の内である。
浜町河岸にある山辺家上屋敷は、大部分の殿舎の再建が果たされていた。入母屋屋根の門構えに、唐破風屋根の番所を備えた堂々たる表門には、真新しい瓦が日に照り輝き、車寄玄関からは清冽な木と畳の香りが漂ってくる。
御殿にて彰久と夕御前に謁見し、兄に暇を乞うと、そこで一行と別れた。
浜野と杉本、それに中間一人が供につき、本所までの道のりを青馬と歩く。
大火で灰燼と化したのが嘘のように、真新しく再建された神田と両国を通り抜け、両国橋を渡る。回向院の門前町を通り過ぎ、真昼の光を反射する竪川河岸を横手に見て相生町の表通りを進む頃になると、次第に息が浅くなるのを抑えられなかった。
馴染みの煮売り屋、米屋、古着屋、蕎麦屋に鰻屋、顔を見知った棒手振りが通り過ぎる。松坂町に入ると、おや、という顔で振り向く人の姿も見える。ふと視線を落とせば、隣を歩く青馬が、そこにいるのを確かめるかのように久弥を見上げては、頬を上気させてにこりと微笑んでいる。
松坂町二丁目にさしかかった時、木斛の垣根の屋敷の前に、一人佇む女の姿が見えた。
顔も見分けられぬほど離れていても、その女が凝然と、まっすぐに久弥を見ているのがわかった。いつからそこに立っているのか、照りつける日の下に根が生えたように立ち竦む娘に向かって、久弥は引き寄せられるように歩き出していた。
絣と縦縞の着物に、粋に締めた紫のしごきの帯がよく映える。滂沱と濡れた白い頬が見えるにつれ、風を切るように歩みが早まる。体中が燃えるように熱くなるのが、強い日差しのせいなのか、それとも胸の内に吹く火のように熱いもののせいなのか、判然とはしなかった。
喉が張り付いたようで声が出ない。差し出すように両腕を伸ばしながら、真澄、と唇を動かすと、娘の頬が生き返ったかのように染まり、泣き笑うような笑みが浮かんだ。
「……お師匠」
懐かしい、耳にやわらかな声が久弥を呼ぶ。
かき鳴らす糸のように、胸が鳴っていた。
差し伸べた両手が触れるのを、幸福そうに目を潤ませて真澄が待っている。
「真澄さん」
声が迸るように溢れた刹那、身を抛つようにして胸に飛び込んできた娘を、折らんばかりにかき抱いた。
指先さえ触れたことがなかった娘に、もう、触れてもいいのだ。もう二度と、放さなくていいのだ。
真澄のはげしくふるえる体を確かめるように固く抱きながら、雲を払って眩い日差しが差すように、全身でそう覚っていた。
***
鏡の間の揚幕を出て橋掛りを進むと、磨き抜かれた床板の上に、真っ赤な紅葉の葉が数枚、はらはらと舞い落ちた。
黒紋付の久弥と真澄の後ろをついてくる、三味線を抱えたやはり黒紋付の小さな演奏者の姿に、観客の間にあたたかな笑いが広がった。
金屏風の前に毛氈が敷き詰められた、本舞台の正先で足を止める。久弥が袴の裾を捌いて座るのを見て、左隣の青馬が真似をした。さらに隣に、真澄が優雅な所作で座った。
膝の前に唄扇子を置き、白洲の観衆に向かってすっと一礼すると、青馬と真澄も三味線を抱えて辞儀をした。顔を上げると一陣の爽籟が顔を撫で、にこにこと青馬を見守る観衆に紅葉をふりかけていった。
青馬が緊張を面に浮かべながらも、凛々しく背筋を伸ばすのが横目に見える。
やがて青馬が集中したのを見計らい、久弥は小さく切れ味のいい掛け声を発した。
チンチンチン、トチチリチン、と二挺の三味線が小気味よくお囃子を奏ではじめる。青馬と真澄の連れ弾きである。澄んでいながら迫力のある前弾が響くに連れ、観客の期待が否が応にも高まるのが感じられる。
久弥は扇子を取り上げた手を膝に置くと、連れ弾きに負けぬ声量で唄い出した。
打つや太鼓の音も澄み渡り、角兵衛角兵衛と招かれて
居ながら見する石橋の、浮世を渡る風雅者
うたふも舞ふも囃すのも、一人旅寝の草枕
おらが女房をほめるぢゃないが、飯も炊いたり水仕事
麻撚るたびの楽しみを、独り笑みして来りける
越路潟、お国名物は様々あれど、田舎訛の片言まじり
しらうさになる言の葉を、雁の便りに届けてほしや
小千谷縮の何処やらが、見え透く国の習ひにや
縁を結べば兄やさん、兄ぢゃないもの、夫ぢゃもの……
久弥が声を練り、たっぷりと情感を乗せて響かせる唄と、真澄が奏でる端正で繊細な替手に、青馬が楽しげに乗ってきた。真新しかった紫檀の棹もずいぶん弾き慣れ、芯がありながら気品のある、涼しげな音色をよく引き出している。
来るか来るかと浜へ出て見ればの、ほいの、浜の松風音やまさるさ
やっとかけの、ほいまつかとな
好いた水仙好かれた柳の、ほいの、心石竹気はや紅葉さ
やっとかけの、ほいまっかとな
辛苦甚句もおけさ節
何たら愚痴だえ、牡丹は持たねど越後の獅子は
己が姿を花と見て、庭に咲いたり咲かせたり
そこのおけさに異なこと言われ、ねまりねまらず待ち明かす
御座れ話しましょうぞ、こん小松の蔭で
松の葉の様にこん細やかに、弾いて唄うや獅子の曲……
辛いことはおけさ節に紛らせてしまえ、たとえ大輪の牡丹にはなれずとも、愚痴は言わずに人生の花を咲かすのだ、と自らを鼓舞する唄は、悲哀を覗かせながらも、素朴でからりと力強い。
主旋律に青馬らしい素直さと、胸に刺さる情感が見え隠れし、聴衆を惹きつけていく。年齢にそぐわぬ無垢さと、大人びた情緒が同居する青馬の性質が、不思議な魅力のある表現を作り出している。
桟敷席には、門人や旦那衆、同業の師匠達の間に、満面の笑みを浮かべて耳を傾ける橋倉一家と、近江屋の隠居らの姿も見える。
近江屋の隠居の屋敷の一翼に設えられた三間四方の能舞台は、白洲に囲まれ、鏡の間から続く橋掛りに、老松を描いた鏡板や格天井を備えた豪華な造りである。本所に戻った久弥に、青馬のお披露目会をぜひ主催させて欲しい、と隠居は申し出てくれたのだった。
「春にはお師匠と真澄さんの祝言も控えておりますしね。ぜひまた華燭の典のお祝いに、ここで演奏なさって下さいよ」
文右衛門はそう言って、はにかむ久弥と真澄を目を細くして眺めていた。
旗本寄合となった久弥には、間もなく北本所に拝領屋敷が与えられることになっている。真澄との婚儀にあたっては、諏訪家老が真澄を養女とすることを買って出ていた。武家の娘となった上で、真澄は嫁いでくるのだ。
青馬が晒しの合方の難所を大らかに、息をするような滑らかさで鮮やかに奏でると、おっ、と観客が息を飲んだ。真澄が見事な替手で旋律に奥行きを与え、青馬の迸るような幸福感に満ちた本手を引き立てている。
奏でるのが楽しくてたまらない。嬉しくてたまらない。今この刹那が、幸福でたまらない、と青馬の三味線が叫んでいる。
角兵衛獅子を頭に被り、身軽に跳ね回る青馬が舞台に見えるようで、久弥はかすかに笑みを浮かべた。
三人の糸と唄とが響き合い、聴衆の熱気と掛け合いながら、瞬間の至上の美を紡ぎ出す。
晒す細布手にくるくると、晒す細布手にくるくると
いざや帰らん己が住家へ
華やかに、艶のある声で唄を締めくくると、観衆が秋空に漂う余韻を惜しむように、身動ぎもせず耳を澄ませるのが感じられた。
角兵衛が太鼓を鳴らして遠ざかる。祭り囃子の昂揚と、それが去った後の侘しさが、秋の空へと溶けていく。
ーー家へ帰るのだ。家族の待つ、懐かしい故郷へと。
ちらと隣を見ると、青馬はまだ角兵衛の軽業を見ているかのごとく、楽しげな表情を横顔に漂わせている。途端に、わっと万雷の喝采が上がったので、我に返ったようにびくりと肩をふるわせた。
目を丸くして盛大な歓声を送ってくる観客を見ていた青馬は、久弥と真澄を交互に見ると、やがて満ち足りた表情で微笑んだ。
大きな両目に黄金色の光が踊る。
やわらかな風が吹き抜けていく。青馬への披露目の祝儀のように、雨のような紅葉が、惜しげもなく秋風に舞った。
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笹目様
読了いたしました。もう、滂沱が止まりません。久弥と青馬と真澄のそれぞれに孤独だった魂が幸せになれて良かったです。途中も、何度も流した涙が最後に天泣となって晴れやかな余韻に浸っております。
大名家に生まれることが強いる理不尽さ。ちょうど王家に生まれる理不尽さを『月獅』で書いているところでしたので、幾度も叩頭しながら拝読させていただきました。
大名家のお家騒動、父子とは、血の繋がりとは。幾層ものテーマが見事な音曲となって、胸に深く鳴り響いています。
deko様、ご多忙と存じますところ、再びあたたかなご感想をいただき、ありがとうございます!
それぞれのキャラクターの姿にお心を寄せていただけて、大変嬉しく存じます☺
理不尽や困難を前に、どう生きるのかを描きたいというのが一番の動機なので(しかし最後はハッピーエンドがいい!笑)、それが少しでも描き出せていたら幸いです。
ご作品も楽しみに拝読させていただきますね🎶
ご丁寧なご感想、本当にありがとうございます!
笹目様
まるで映画を観ているようです。特に、久弥が刺客と対峙する場面が、秋の風景のなか緊迫した太刀捌きと薄く吐く息とぎりぎりの気魄、そして母に対する慟哭が痛く深く突き刺さりました。
描写の一つひとつに無駄がなく、笹目様の筆致に驚くばかりです。すでに作家として活躍されていて当然だと思えてなりません。
deko様、こちらへもご感想を頂き、本当にありがとうございます!
過分なお言葉、恐縮に存じます。この秋の場面は思い入れも多いので、お言葉大変嬉しく拝見いたしました。
deko様のご作品を今拝読しておりますが、溢れるようなイマジネーションが素晴らしく、驚嘆しております。こんなファンタジーはとても書けない!と舌を巻くばかりです。
ぜひ勉強させていただきます✨
貴重なお時間を頂き、感謝申し上げます!
笹目いく子
丁寧な手法は、あらためて見習わねばならぬと、顧みる心地になります。勉強させて頂きました。
夢酔藤山様、ご感想をありがとうございます!
プロの方にお見せするには冷や汗の出る出来栄えです。大変恐縮に存じます。
こちらこそ、夢酔様のご作品を拝読しているところでして、端正で深い洞察に満ちた筆致に、さすが、と感嘆しております。
ぜひ勉強させていただきます。
お時間を頂戴し、感謝申し上げます。
笹目いく子