調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

文字の大きさ
上 下
35 / 36

夏の終わり

しおりを挟む
 幕閣である彰久は長く江戸を離れることが許されておらず、久弥が昏睡に陥っている間に、浜野らを伴い上屋敷へと発っていた。 
 家中の動揺と混乱は、ようやく収束の兆しを見せはじめていた。

「襲ったのは馬廻り組の若侍でございます。それがしもよく知る者で、宗靖様がご世子にお立ちになられると知り、不満を溜めておりました。宗靖様は若君がお願い下さいました通り、ご温情あるお取りなしを御前にお申し出下さいました。
 御前は奴を役儀取り上げの上追放とし、弟に家督を継がすとするのみでお許しになられました。皆、若君と宗靖様のご寛恕に感じ入ると共に、心より感謝申し上げております」

 成瀬が泣き腫らした目で寝間に現れ、小声で語った。

「奴は忠義な男でございます。しかし、組頭のそれがしが、宗靖様ではなく、若君こそお世継ぎたるべきであると常々語るのに感化されたのでありましょう。それがしの暗愚と浅慮、まことに痛恨の極みにございます。あ奴でなくば、あの場で若君に斬り付けたのはそれがしであったやもしれませぬ。まことに、申し訳なく……」 

 呻くようにそう言うと、成瀬は崩れるようにうずくまってぬかづいた。

「……もう、よい」

 久弥は仰臥したままやわらかく呟いた。

「兄上を、よく守ってくれた」

 本心がどうであろうと、あの時、浜野と共に真っ先に飛び出してきてくれた。成瀬は真っ赤に潤んだ目でこちらを見詰め、伝い落ちた涙で濡れた唇をふるわせると、

「……かたじけのうございます」

 と軋んだ声を絞り出した。
 久弥が宗靖の盾となったことに家臣団は深い衝撃を受けると共に、久弥が本心から世子の座を譲ったのだと覚ったようだった。宗靖の世子就任に異議を唱える声はめっきり減ったという。久弥を世継ぎにと望む派閥も勢いを失ったと聞いた。養子に入った際には少年だった宗靖とは違い、久弥はすでに二十四である。久弥の意思に反して担ぎ上げることなど、いまさらできようがなかった。
 終わったのだ。まだ多少の波乱はあるだろうが、跡目争いの決着がようやく着いたのだ。
 宗靖は無事世子に立ち、まもなく江戸中屋敷へ移る。世継ぎとして公方様にお目見えし、幕閣に挨拶を済ませた後、彰則の喪に服すこととなるだろう。

……青馬と真澄に、文を書かなくてはならない。

 江戸に戻ることはもうない、もう待つな、と別れを伝えなくてはならなかった。
 成瀬が去った仄暗い寝間で、久弥はゆっくりと瞼を閉じた。


 深手であったことに加え、食が細くなっていたせいで、なかなか熱が引かず回復に時がかかった。治ろうとする気力に乏しいせいだとわかっているが、疲労が澱のように溜まっていて、粥をすするのも億劫だった。
 床で胸の傷の痛みに耐えていた、文月を十日も過ぎた日の午後、饗庭家老が寝間を訪ってきた。
 死罪の沙汰を待ち受けるかのように青ざめた杉本の取り次ぎを聞きながら、いよいよか、と久弥は平静な気持ちでいた。

「若君に申し上げます。江戸表より御前の使いが参りました。御前は、若君が宗靖様をお守り申し上げられましたこと、大義であるとの仰せにございました」

 饗庭が寝間の端に現れ、顔を伏せたまま労るように言った。

「……左様か」
「また、今後のことにございますが……」

 そこまで言って、家老が一瞬口を噤んだ。

「二の丸よりお移りいただくことと相なりましてございます」

 次の間で杉本や近侍らが鋭く息を飲み、堪えきれずに絶望的な呻き声を漏らすのが耳に届く。桃憩御殿に蟄居か。とうに覚悟をしていたとはいえ、体が床に沈み込むような重苦しい虚しさに襲われた。
 口をきくのも気怠く、枕に頭を載せたまま黙って目で先を促した。と、陰になった饗庭の頬が、ふと緩んだ気がした。

「若君におかれましては、ご本復になられ次第、宗靖様と共に江戸へお戻りになられますように、とのお言葉にございます」

 空白があった。

「……なに」

 戸惑いを隠せずに口篭ると、家老がちらりと目を上げて笑みを浮かべた。

「江戸へ、お戻り下さるようにとの仰せです」
「ーーまことか。だが……」

 心臓が跳ねた。思わず身を起こそうとして、痛みに息が詰まった。

「御自ら逆臣を討ち家中を平定し、さらに宗靖様をお守りした若君のお働きとお志を徳とされ、分家をお許しになられました。お旗本として知行三千石を分知し、下野守様のお力添えを賜り寄合よりあい席に列せられることとなります。ご家名も、山辺を名乗ることをお許しになるとの仰せにございます」

 頬に血が上り、苦しいほどに胸が高鳴った。本当に父がそう言ったのか。大名家にあっても、子に分家を許すことは珍しい。まして、分家すれば宗家の名をはばかって姓を改めるのが習わしにもかかわらず、山辺を名乗ることを許すなど、破格の計らいだった。

「……だが、しかし。そのようなお計らいは身に余る」久弥は掠れた声で囁いた。「私は、父上にことごとく逆らって参ったのだ」 

 新田分知により分家されれば、新たに立てた家の当主となる。そして、寄合に列せられれば江戸に集住するのだ。山辺宗家を支えることには変わりはないが、若君としての立場からはもはや自由だった。寄合に属する三千石以上の旗本は無役であるから、役職に縛られるわけでもない。分家としての体面さえ保てば、実質的には何をしようと許される。

「若君。御前は、次代の藩主の弟君なれば、浪人に戻すことは難しい。少々窮屈ではあろうが辛抱するように、と仰せになられました」

 老家老がゆっくりと言うのを、信じがたい思いで聞いた。
 そんなことが己に許されるのかと、空恐ろしくさえ思われた。 

「実は過日、宗靖様は江戸にお入りになられ、下野守様に若君へのご宥恕ゆうじょを訴えておられました」
「兄上が……?」

 そっと息を飲んだ。久弥が昏睡から目覚めた後、宗靖が数日舞田を留守にしたことがあったが、そんなことは一言も聞いてはいなかった。公方様に拝謁するために、江戸へ赴いたとばかり思っていたのだ。さぞ下野守や父の怒りを買ったのではないかと不安が込み上げる。すると、それを察したように饗庭が相好を崩した。

「宗靖様は、まことに知略縦横じゅうおうのお方であられますな」

 家中に混乱を招いた責任は、ひとえに自らの不徳と未熟にあり、もはや己に世子に立つ資格はない。責を負って彰久へは蟄居を願い出ようと存ずるから、下野守から彰久へ、弟への処罰を寛恕していただけるようお取りなしをお願い申し上げたい、と訴えたという。
 そして、これから他のご閣老方へも同様に言上に伺うつもりであり、ことによっては恐れ多くも公方様にお取りなしを願うことにしようと思う、と神妙に付け加えたそうだ。

「跡目争いが表沙汰になったら、困るのは伊豆守であろう。余と伊豆守を脅す気か?小癪こしゃくな」

 下野守はそう言ってにやりと笑ったらしい。家中の騒動が公儀に問題視されれば、失政の責任を問われた藩主が改易の憂き目に合うことさえあり得るのだ。彰久が失脚すれば下野守も具合の悪いことになる。騒がれたくなければ手を貸せと、宗靖は許しを請うどころか堂々と恫喝をしているのだった。

「脅すなぞ滅相もございませぬ。浮世の欲垢煩悩よくあかぼんのうにはほとほと疲れましてございます。蟄居の後は、弟と共に仏門に入ろうとも思料しておりますれば……」
「嘘をつけ。殊勝なことを虎のような目をして言いおる」
 
 恐懼きょうくしつつ慇懃に述べる宗靖に、ついに下野守は笑い出した。
 そして捨て身の脅しをかけた宗靖をいたく気に入った様子で、下野守は彰久への取りなしを約束した。
 なんという大胆な駆け引きをしたのかと肝が冷える。そして、危険な賭けに出てまでも久弥を救おうとした宗靖の覚悟に、胸が衝かれた。

「しかし、若君。分家につきましては下野守様のご説得があったのではなく、御前が御自らお命じになられたそうにございます」

 黙って見上げると、饗庭が目尻の皺を深くした。

「諏訪家老が知らせて参りましたのですが、舞田からお戻りになられた御前は、青馬様が上屋敷にてご静養の間、足繁くお見舞いにお御足を運ばれていたそうにございます。若君が重傷を負われたと知らされた青馬様と真澄殿のご様子が、お心にかかっていたのでございましょうな。青馬様は、御前のお見舞いを心待ちになさっておられ、お二人はまことに仲睦まじいご様子であったそうです」

 夕御前から憔悴した真澄やひどく動揺して泣き暮らす青馬の様子を伝え聞いて、彰久は上屋敷に青馬を留め置いたのだという。逐一舞田から知らせがもたらされる上屋敷にいた方が安心であろうという配慮だったが、次第に青馬と過ごす時が増えていった。

「ある時など、若君がよく書物を読んで下さったと青馬様がおっしゃるので、御前が『礼記』をお教えになっておられたそうです」

 彰久は絵草紙なぞ読んだことがないのだ。『ぶんぶく茶釜』などせがまれても知らぬから、「子のたまわく、こと、物有りておこないのり有り、是を以て生きてはすなわち志を奪ふからず、死しては則ち名を奪ふ可からず……」などと威儀を正して唱えはじめ、青馬は零れそうに目を見開いてぽかんと彰久を見上げていたという。

「そなたも余の孫となったのであれば、武家の子として四書五経を学ばねばならぬぞ」と彰久が言って聞かせると、青馬は鬼灯ほおずきのように頬を赤らめ、世にも真剣な表情で「はい」と返事をした。
 彰久が枕元でゆっくりと四書五経を唱え、「しのたまわく……」と床にいる青馬が一心に、たどたどしく唱和する様子を目にした諏訪は、

「亡き彰則君のことが思い出され、涙を拭わずにはおられなかった」と饗庭に宛てたという。

「……僭越ながら、御前は彰則様と、若君のご幼少の頃も、思い出されておられたかもしれませぬな」

 喉にせり上がるものを覚えながら、久弥は息を詰めて家老を凝視していた。

「その頃には、青馬様から若君を引き離すのは無情であると、お心深くでお考えであったかもしれませぬ」

 目を閉じると、あたたかい涙が目尻を伝い落ちていった。次の間から、杉本のすすり泣きがかすかに聞こえてくる。
ーーあるいは、と心に浮かんだ。あるいは父は、久弥や青馬のためだけでなく、宗靖に筆舌に尽くしがたい辛苦を味わわせたことをも、久弥を許すことで密かに詫びているのだろうか。あの情のこわいお方が面と向かって頭を下げるなどあり得ないが、宗靖の心を汲むことで、それを示しているのだろうか……。
 どこまでも、難儀なお方であることだ。
 流された血はあまりにも多く、傷つき苦しんだ者の痛みは計り知れない。
 けれども、すべては終わろうとしている。

(ーー戻れるのだ……)

 痛みのような喜びが、深く胸を貫いた。船から見上げた遠ざかる本所の景色が、鮮やかに瞼に映る。もはや届かぬはずであった暮らしへ、戻れるのだ。永久に道を別れたと覚悟した人の元へ、再び帰ることができるのだ。
 右腕で両目を覆い、静かにこめかみを濡らしていた久弥は、やがて湿った声で囁いた。

「……ありがたき、幸せにございます、とお伝えせよ」

***

 それから二日と経たぬ内に、熱も取れて体を起こせるようになった。
 青馬と真澄の元へ戻れるのだと知った途端、みるみる体に力が戻った。現金なものだと己を笑いながらも、気がはやった。気付けば心が江戸へと飛んでいる。一日も早く治らねば、と出される食事もぺろりと平らげ、杉本や宗靖を喜ばせた。
 傷が塞がり、あと数日で床を離れられるかと思いはじめたある日、夕立が通り過ぎた。雷交じりの強い雨が駆け足で去ったのを聞いた後、江戸から迎えが到着したとの知らせを受けた。まだ江戸までの旅程に耐えられるまでには回復していないのだが、どうしたものかと思っていると、寝間の外が騒がしくなった。

「申し上げます!江戸表より本間様と浜野様がご到着にございます」

 杉本の上擦った声をいぶかしみながら布団に体を起こし、入れ、と言うと、待ち構えていたように襖が滑る。次の間に側用人たちの姿があり、襖の陰に杉本が控えているのが目に入った。
 その杉本の伏せた顔が、奇妙に歪んでいる気がした。

「若君、お加減はいかがでございましょうか。我ら、御前の命にてお迎えに参上仕りました」
「世話を掛ける。だがこの通り、まだ出発するまでには少々時が掛かりそうでな」

 久弥が笑みを含んだ声を掛けると、浜野がふつりと口を噤み、目の縁を赤くした。 

「……どうした」

 その途端、堪えきれぬように浜野がさっと顔を上げ、横を向いて呼び掛けた。

「どうぞ、こちらへお出で下さいませ。お顔をお見せして差し上げて下さいませ……!」

 襖の後ろに軽い足音がかすかに聞こえ、暫時躊躇う気配があった。
 刹那、すべての音がかき消えた。

……そんなはずはない。ーーだが。

 久弥の後ろをついて歩く、子供の足音が耳の底に蘇った。
 瞬きするのも忘れて息を止めていると、襖の陰から小さな人影が歩み出てきた。
 青馬が、立っていた。
 大きな、子馬のようにやさしげな両目が、若君の姿で床にいる男を覚束おぼつかなげに見詰めている。

「順調にご回復になられ、若君のお迎えにご同行なさりたいと強くお望みでした。それをお聞きになられた御前よりお許しを賜りました。一刻も早くお連れしたく思い、気が早いとは存じましたものの、本日参上仕りました」

 浜野が囁くのを聞きながら、久弥は黙って右手を差し伸べた。
 視界がぼやけそうになるのを堪えて、見失わなぬように青馬の顔を見上げた。

「……青馬」 

 絞り出すように呼んだ途端、青馬が縛めを解かれたようにだっと走った。
 久弥の手を小さな両手で握って枕元にへたりこむと、声を発しようと懸命に息をしている。
 黒々とした両目に涙が溢れ、真っ赤に血が上った頬にぼろぼろと零れ落ちた。

「……父上、大丈夫ですか。い、痛いですか?ご飯は、食べられますか」

 傷を覆う晒が久弥の寝間着の襟合わせから覗いているのを見て、己が痛くてたまらぬように悲痛な声で言う。久弥は、うん、と微笑んだ。

「大したことはない。お前こそもういいのか。怖い目に遭わせたな」

 青馬はかぶりを振ると、久弥の手を確かめるようにぎゅうぎゅうと握った。

「父上が大怪我をしたので、真澄さんがたくさん泣いていました。やっぱり逃げるよう言うのだったと、言っていました。でも、家に戻れると、お祖父様が言って下さいました。真澄さんは、父上がお帰りになるのを家で待っていると言っていました。お弟子さんの稽古をつけて、家で待っているから、俺がお迎えにいくようにって言いました。あの……」

 つんのめるようにして言葉が溢れ、青馬は顔を濡らしたまま息を継いだ。

「『鷺娘』を弾けるようになりました。お祖父様とお祖母様にお聞かせしたら、褒めて下さいました。真澄さんに『勧進帳』を浚ってもらっています。それから……字も毎日練習しています。お言いつけの通り、精進しています。あの、それから……」

 込み上げるもので喉が塞がり、目が熱くてならなかった。青馬が懸命に嗚咽を堪えているのを見て取ると、久弥はさっと手を伸ばして小さな体を膝に抱え上げた。そうして、いつもしてやったように、翼で包むように袂で包んだ。
 次の瞬間、青馬はむしゃぶりつくように久弥の首にしがみつき、鋭く、長く尾を引く叫びを放って泣き出した。胸を抉るような、しかし、手放しで泣けるのに安堵したかのような声だった。呂律の回らぬ声が、ちちうえ、と耳元で幾度も呼ぶ。青馬の嗚咽に合わせて揺れる視界に、俯いて頬を濡らしている杉本と、泣き笑うようにこちらを見ている浜野と本間の姿が映った。
 血のような、あたたかな雨のようなものが首筋に降りかかり、久弥は目を閉じた。 

「……よく来た」

 波打つ小さな肩に腕を回してしっかりと力を込めると、溢れた涙が鼻の脇を次々と伝い落ちた。
 青馬の髪と旅装から、夕立と汗と土埃と、日向の匂いがする。

 夏の終わりの、江戸の匂いだ、と思った。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

罰ゲームで告白した子を本気で好きになってしまった。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:482pt お気に入り:105

中学生の弟が好きすぎて襲ったつもりが鳴かされる俳優兄

BL / 連載中 24h.ポイント:418pt お気に入り:152

僕の番が怖すぎる。〜旦那様は神様です!〜

msg
BL / 連載中 24h.ポイント:795pt お気に入り:385

【R18】私の担当は、永遠にリア恋です!

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:319pt お気に入り:376

出雲死柏手

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:1,065pt お気に入り:3

悪役令嬢、職務放棄

恋愛 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:2,592

桜天女

恋愛 / 完結 24h.ポイント:667pt お気に入り:1

mの手記

現代文学 / 連載中 24h.ポイント:2,037pt お気に入り:0

処理中です...