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第四話 アランの揺らぎと、真実
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リディアが実家へ戻ってから、アランの屋敷は驚くほど静かになった。
もともと静かな家だったが、今は音が消えたような感覚すらある。
朝、アランはいつものように執務室へ向かった。
机の上には書類が山積みで、窓から差し込む光が紙の白さを際立たせている。
彼は淡々とペンを走らせる。
その姿は、周囲から見ればいつも通りの冷徹な宰相だった。
だが――胸の奥は、妙にざわついていた。
書類の端に置かれた一通の手紙が、視界の端で揺れている。
『リディアは落ち着いて過ごしております。
離縁の件、正式な手続きが整い次第、こちらも対応いたします』
差出人はリディアの父。
文面は簡潔で、余計な感情を含まない。
それなのに、アランの胸には重い石が沈んだような感覚があった。
――落ち着いて過ごしている。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
アランは手紙を伏せ、深く息を吐いた。
「……私は、何をしている」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、こぼれ落ちた独白だった。
◆
アランは、リディアを愛していなかったわけではない。
ただ、愛し方がわからなかった。
幼い頃から、感情を捨てることを求められてきた。
宰相の家系に生まれた者は、弱さを見せてはならない。
情に流されれば、政治の世界では命取りになる。
父は厳しかった。
幼いアランが泣けば、「泣くな」と叱りつけた。
喜べば、「浮かれるな」と冷たく言った。
感情を表に出すことは、弱さの証だと教え込まれた。
――だから、アランは感情を封じた。
喜びも、怒りも、悲しみも、愛情も。
すべてを胸の奥に押し込み、表情を変えずに生きる術を身につけた。
その結果、彼は宰相として成功した。
だが――夫としては、致命的に不器用だった。
◆
リディアはいつも静かに微笑んでいた。
不満を口にすることもなく、家の行事を完璧にこなし、
アランの負担にならないようにと、気配を消すように生きていた。
それが、彼女の努力だと気づいたのは、離縁を告げられた後だった。
アランは机の引き出しを開けた。
そこには、リディアが残していった小さなハンカチが入っている。
白地に薄い青の刺繍が施された、控えめで上品なものだ。
アランはそれを手に取り、しばらく見つめた。
「……君は、こんなにも丁寧に生きていたのに」
声が震えた。
自分でも驚くほど、胸の奥が痛んだ。
リディアは、アランのために努力していた。
彼の好みに合わせ、彼の負担にならないように、
彼の家に馴染もうと、必死に生きていた。
それなのに、アランは――
その努力に気づこうとしなかった。
いや、気づかないふりをしていた。
感情を向ければ、彼女を巻き込んでしまう。
政治の世界は危険だ。
宰相の妻は、常に標的になる。
だから、距離を置いた。
守るために。
――だが、それが彼女を孤独にした。
「……私は、何を守っていた?」
アランはハンカチを握りしめた。
胸の奥に、初めて後悔という感情が生まれた。
◆
その日の夕方、アランは王城の廊下を歩いていた。
窓の外には夕陽が沈み、空が赤く染まっている。
その光景を眺めながら、アランは呟いた。
「……謝らなければならない」
リディアに。
彼女を孤独にしたことに。
彼女の心を見ようとしなかったことに。
そして――。
「……彼女が望むなら、手放すべきなのだろう」
その言葉は、胸を裂くように痛かった。
だが、アランは逃げなかった。
翌朝、彼は馬を走らせ、バークス家へ向かった。
リディアに会うために。
そして、彼女の選択を受け止めるために。
◆
一方その頃、バークス家では。
「リディア様、こちらをどうぞ」
ユリウスが差し出したのは、庭で摘んだばかりの白い花だった。
小さく可憐なその花は、リディアの指先にそっと触れる。
「まあ……綺麗ですね」
「この季節に咲くのは珍しいのです。リディア様が喜ばれるかと思いまして」
ユリウスは照れたように微笑んだ。
その笑顔は、リディアの胸を温かく満たす。
「ありがとうございます。……本当に、優しい方ですね」
「いえ。私はただ……あなたが笑ってくださるのが嬉しいだけです」
その言葉に、リディアは思わず息を呑んだ。
胸が、静かに震える。
――こんなふうに言われたのは、初めて。
アランの屋敷では、笑うことすら忘れていた。
今、ユリウスの隣で、自然と笑みがこぼれる。
その変化に、リディア自身が一番驚いていた。
◆
その時だった。
屋敷の門の方から、馬の蹄の音が響いた。
リディアとユリウスが振り返ると、そこには――。
アランが立っていた。
冷たい夜風の中、彼の瞳だけが強く揺れている。
「……リディア」
その声は、今まで聞いたことのないほど弱く、切実だった。
リディアの胸が、静かに波打つ。
――ついに、向き合う時が来たのだ。
もともと静かな家だったが、今は音が消えたような感覚すらある。
朝、アランはいつものように執務室へ向かった。
机の上には書類が山積みで、窓から差し込む光が紙の白さを際立たせている。
彼は淡々とペンを走らせる。
その姿は、周囲から見ればいつも通りの冷徹な宰相だった。
だが――胸の奥は、妙にざわついていた。
書類の端に置かれた一通の手紙が、視界の端で揺れている。
『リディアは落ち着いて過ごしております。
離縁の件、正式な手続きが整い次第、こちらも対応いたします』
差出人はリディアの父。
文面は簡潔で、余計な感情を含まない。
それなのに、アランの胸には重い石が沈んだような感覚があった。
――落ち着いて過ごしている。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
アランは手紙を伏せ、深く息を吐いた。
「……私は、何をしている」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、こぼれ落ちた独白だった。
◆
アランは、リディアを愛していなかったわけではない。
ただ、愛し方がわからなかった。
幼い頃から、感情を捨てることを求められてきた。
宰相の家系に生まれた者は、弱さを見せてはならない。
情に流されれば、政治の世界では命取りになる。
父は厳しかった。
幼いアランが泣けば、「泣くな」と叱りつけた。
喜べば、「浮かれるな」と冷たく言った。
感情を表に出すことは、弱さの証だと教え込まれた。
――だから、アランは感情を封じた。
喜びも、怒りも、悲しみも、愛情も。
すべてを胸の奥に押し込み、表情を変えずに生きる術を身につけた。
その結果、彼は宰相として成功した。
だが――夫としては、致命的に不器用だった。
◆
リディアはいつも静かに微笑んでいた。
不満を口にすることもなく、家の行事を完璧にこなし、
アランの負担にならないようにと、気配を消すように生きていた。
それが、彼女の努力だと気づいたのは、離縁を告げられた後だった。
アランは机の引き出しを開けた。
そこには、リディアが残していった小さなハンカチが入っている。
白地に薄い青の刺繍が施された、控えめで上品なものだ。
アランはそれを手に取り、しばらく見つめた。
「……君は、こんなにも丁寧に生きていたのに」
声が震えた。
自分でも驚くほど、胸の奥が痛んだ。
リディアは、アランのために努力していた。
彼の好みに合わせ、彼の負担にならないように、
彼の家に馴染もうと、必死に生きていた。
それなのに、アランは――
その努力に気づこうとしなかった。
いや、気づかないふりをしていた。
感情を向ければ、彼女を巻き込んでしまう。
政治の世界は危険だ。
宰相の妻は、常に標的になる。
だから、距離を置いた。
守るために。
――だが、それが彼女を孤独にした。
「……私は、何を守っていた?」
アランはハンカチを握りしめた。
胸の奥に、初めて後悔という感情が生まれた。
◆
その日の夕方、アランは王城の廊下を歩いていた。
窓の外には夕陽が沈み、空が赤く染まっている。
その光景を眺めながら、アランは呟いた。
「……謝らなければならない」
リディアに。
彼女を孤独にしたことに。
彼女の心を見ようとしなかったことに。
そして――。
「……彼女が望むなら、手放すべきなのだろう」
その言葉は、胸を裂くように痛かった。
だが、アランは逃げなかった。
翌朝、彼は馬を走らせ、バークス家へ向かった。
リディアに会うために。
そして、彼女の選択を受け止めるために。
◆
一方その頃、バークス家では。
「リディア様、こちらをどうぞ」
ユリウスが差し出したのは、庭で摘んだばかりの白い花だった。
小さく可憐なその花は、リディアの指先にそっと触れる。
「まあ……綺麗ですね」
「この季節に咲くのは珍しいのです。リディア様が喜ばれるかと思いまして」
ユリウスは照れたように微笑んだ。
その笑顔は、リディアの胸を温かく満たす。
「ありがとうございます。……本当に、優しい方ですね」
「いえ。私はただ……あなたが笑ってくださるのが嬉しいだけです」
その言葉に、リディアは思わず息を呑んだ。
胸が、静かに震える。
――こんなふうに言われたのは、初めて。
アランの屋敷では、笑うことすら忘れていた。
今、ユリウスの隣で、自然と笑みがこぼれる。
その変化に、リディア自身が一番驚いていた。
◆
その時だった。
屋敷の門の方から、馬の蹄の音が響いた。
リディアとユリウスが振り返ると、そこには――。
アランが立っていた。
冷たい夜風の中、彼の瞳だけが強く揺れている。
「……リディア」
その声は、今まで聞いたことのないほど弱く、切実だった。
リディアの胸が、静かに波打つ。
――ついに、向き合う時が来たのだ。
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