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第145話 東堂善鬼伝(前編) 〜闘気を纏いしもの〜
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東の果てに浮かぶ群島国家"アカツキ"。
棚田《たなだ》と神社と桜が共存する山間の村に、その少年は生まれた。
名前は、善鬼(ぜんき)。
まだ十にも満たぬ頃から、善鬼は刀を振っていた。
それは村に伝わる流派でもなければ、どこかの師範に教わったものでもない。
ただ、風を切る音に耳を澄まし、鳥の動きを真似し、川に浮かぶ葉に木刀を打ち込む。すべてが、己の感覚と本能に従った“剣”だった。
「よっ……はッ!」
夕暮れの神社裏。薄紅色の桜が舞う中で、ひときわ大きな声が響いた。
善鬼は裸足のまま土を蹴り、全身の力を込めて木刀を振る。
その一撃で、稽古用の丸太がまっぷたつに裂けた。
「……また割ったんか、善鬼の坊《ぼん》は」
呆れとも、敬意ともつかぬ目で村の男衆が彼を見る。
「おーい善鬼、もう日が暮れるぞー! 飯の支度できとる!」
母の声が飛ぶが、少年は振り向かず、もう一度木刀を構えた。
「まだ。……もう一回だけ」
それは言い訳ではなく、ただ“斬りたい”という、純粋な欲だった。
その夜、村を彷徨っていた妖魔"ヌラリグモ"が現れた。
人の目を避け、闇の中で忍び寄り、子供を攫おうとしたその瞬間——
「おい、クソ虫」
闇の向こうから聞こえた、まだ幼い、けれどぞっとするような声。
「俺の村で勝手すんなや」
次の瞬間、ヌラリグモの頭部が吹き飛んだ。
鈍い音と共に、蜘蛛の脚が痙攣する。
善鬼の手には、血飛沫を吸った木刀。
それが、この少年の名がアカツキ中に広まり始めた最初の出来事だった。
「なるほど……これは、掘り出し物じゃな」
数日後、善鬼がいつものように一人で竹を斬っていると、村の入口から一人の老人が歩いてきた。
顎髭を蓄えた壮年の男。腰には年季の入った二尺五寸の打刀。
全身から滲み出る只者ならぬ気配に、村人たちは思わず道を開けた。
男の名は、"東堂絶刀斎"。
アカツキ全土にその名を轟かせる、老練の剣士にして“剣鬼”の異名を持つ男だった。
「坊主。名前は?」
「善鬼や。アンタこそ?」
「絶刀斎。……お前を、もらいに来た」
「は?」
木刀を持ったまま、善鬼は眉をひそめる。
絶刀斎は面白そうに笑った。
「その腕、お前が一人で身につけたもんやろう。誰に教わったわけでもなく、独学でここまで到達した。その素質……いや、嗅覚は天性のもんじゃ。大人になれば……いや、二十までに、アカツキ最強も夢じゃない」
「……なんで、そんなことわかんねん」
「長年、剣の道を歩いてきた目を舐めるなよ、若造」
絶刀斎は不敵に笑うと、腰の刀に手をかけた。
その瞬間、善鬼の全身に鳥肌が走った。
——斬られる。
このままいけば、一瞬で死ぬ。
善鬼の本能がそう叫んだ。
「構えを取れ。こっちも手加減はせん。覚悟を見せろ」
……気づけば、善鬼は木刀を構えていた。
言葉より先に身体が動いた。理由はなかった。ただ、戦わなければならない気がした。
「——いくで」
次の瞬間、ふたりの剣士がぶつかった。
結果は、一合。善鬼の木刀は空を切り、絶刀斎の刃は、彼の頬を浅く裂いていた。
それでも——
「面白い子やな。剣筋は粗いが、怖気づかず飛び込んできた。気に入った」
絶刀斎は鞘に刀を戻し、振り返らずに言った。
「ついてこい、善鬼。……お前は、ここで腐る器じゃない」
——それが、師弟の始まりだった。
◇◆◇
アカツキの首都・暁城。
将軍を頂点とするこの国の最上位決闘の場、"御前試合"。
その年の最終日。選ばれし剣士たちが、桜吹雪の舞う庭園に集められていた。
「——次、東堂善鬼 対 東堂絶刀斎」
その名が呼ばれた瞬間、場内がざわめく。
「師弟やないか……」
「絶刀斎の弟子って、あの天才剣士の……?」
人々の視線が、若き剣士へと注がれる。
黒い羽織に身を包み、足音も静かに、善鬼は庭の中央へと歩み出た。
その目には一片の迷いもない。
「……爺さん。手加減はナシやで?」
「無論や。そもそも、お前にゃ最早“師匠”の顔して教えられることなど残っとらん」
絶刀斎もまた、細身の体を真っ直ぐに立て、静かに刀を構える。
「来い、善鬼」
その一言と同時に、空気が裂けた。
二人の剣士が、砂塵を巻き上げるように踏み込み、ただ一合——
その刹那、勝敗は決した。
「……!」
絶刀斎の瞳がわずかに見開かれる。
刃と刃が触れた瞬間、己の剣筋が一瞬、重さに押し負けた。
——否。正確には、“圧”だ。
剣技の研ぎ澄ましではなく、善鬼の背中から吹き上がるような凄まじい“闘気”。
まるで大河の奔流の如き魔力の奔りが、その一太刀に宿っていた。
次の瞬間、絶刀斎の刀が弾かれ、袂が裂ける。
「……見事や」
絶刀斎が静かに息を吐き、膝を折った。
ざわめきが、歓声に変わる。将軍の間の桜が、風に舞った。
「勝者、東堂善鬼!」
それは、師を超えた瞬間だった。
誰もが認めた、アカツキ史上最高の“天才剣士”の誕生。
そして——この日から、善鬼は心のどこかで信じ始めた。
(闘気の大きさこそ、剣士の“格”や。技や経験は、最後の決め手にならん)
それは、後に彼の価値観を根底から支える“信念”となっていく。
師を超えた者に、もはや国の中に“敵”はいない。
善鬼は、十九の春に旅立った。
己の剣を試すため。未知を斬り裂くため。
「ほな、行ってくるわ」
道の途中、絶刀斎に言い残した言葉はそれだけだった。
「……阿呆が。帰ってこんでも、わしは生きとる」
師はそう呟き、背を向けた。泣いてなどいなかった。——たぶん。
善鬼はその足で北の山へと向かった。
そこには、ある噂があった。
"飛竜《ひりゅう》"が棲みついた、と。
山一帯を縄張りにし、村を焼き払い、旅人を喰らう巨大な翼竜。
「……丁度ええ。名のある相手や」
雪解けの頃、善鬼は単身でその山に踏み入った。
そして三日目。
雪が深々と積もる尾根の上——
「グオオォォォオオ!!」
咆哮と共に空を裂く影が降下する。
幅十メートルを超える翼。鋭い爪と牙。黒鉄色の鱗を纏った飛竜が、善鬼めがけて襲いかかる。
「……お前、なかなかの面構えやんけ」
善鬼は構える。
足を割り、腰を落とし、背中から空へ抜けるような斬撃の型。
「——抜くで」
一閃。
風が止まり、雪が舞った。
次の瞬間、飛竜の首が空中で跳ね、重力に引かれて地へ墜ちた。
肉を裂く音、血飛沫。
だが善鬼の木綿の羽織には、一滴の返り血もなかった。
「……あんま、手応えなかったな」
小さく肩を回し、刀を鞘に収めたときだった。
「……クォ……」
竜の巣の隅に、まだ殻を割って間もない小さな竜がいた。
鱗も柔らかく、震える身体で善鬼を見上げている。
「……なんや。お前、こいつの子か?」
善鬼は、肩の力を抜いてしゃがみ込む。
「……俺が斬ったんは、あいつや。お前には罪はない」
手を伸ばすと、竜の子は怯える様子もなく、すり寄ってきた。
ぬくもりが、掌に伝わる。
「ふっ……妙なやっちゃな」
善鬼は微笑んだ。
「ほな、お前は今日から“卍天丸(ばんてんまる)”や」
その日から、善鬼と一匹の竜との旅が始まった。
——人と竜。
どちらも、まだ“何者でもない”存在だった。
だがその背には、確かに風が吹き始めていた。
棚田《たなだ》と神社と桜が共存する山間の村に、その少年は生まれた。
名前は、善鬼(ぜんき)。
まだ十にも満たぬ頃から、善鬼は刀を振っていた。
それは村に伝わる流派でもなければ、どこかの師範に教わったものでもない。
ただ、風を切る音に耳を澄まし、鳥の動きを真似し、川に浮かぶ葉に木刀を打ち込む。すべてが、己の感覚と本能に従った“剣”だった。
「よっ……はッ!」
夕暮れの神社裏。薄紅色の桜が舞う中で、ひときわ大きな声が響いた。
善鬼は裸足のまま土を蹴り、全身の力を込めて木刀を振る。
その一撃で、稽古用の丸太がまっぷたつに裂けた。
「……また割ったんか、善鬼の坊《ぼん》は」
呆れとも、敬意ともつかぬ目で村の男衆が彼を見る。
「おーい善鬼、もう日が暮れるぞー! 飯の支度できとる!」
母の声が飛ぶが、少年は振り向かず、もう一度木刀を構えた。
「まだ。……もう一回だけ」
それは言い訳ではなく、ただ“斬りたい”という、純粋な欲だった。
その夜、村を彷徨っていた妖魔"ヌラリグモ"が現れた。
人の目を避け、闇の中で忍び寄り、子供を攫おうとしたその瞬間——
「おい、クソ虫」
闇の向こうから聞こえた、まだ幼い、けれどぞっとするような声。
「俺の村で勝手すんなや」
次の瞬間、ヌラリグモの頭部が吹き飛んだ。
鈍い音と共に、蜘蛛の脚が痙攣する。
善鬼の手には、血飛沫を吸った木刀。
それが、この少年の名がアカツキ中に広まり始めた最初の出来事だった。
「なるほど……これは、掘り出し物じゃな」
数日後、善鬼がいつものように一人で竹を斬っていると、村の入口から一人の老人が歩いてきた。
顎髭を蓄えた壮年の男。腰には年季の入った二尺五寸の打刀。
全身から滲み出る只者ならぬ気配に、村人たちは思わず道を開けた。
男の名は、"東堂絶刀斎"。
アカツキ全土にその名を轟かせる、老練の剣士にして“剣鬼”の異名を持つ男だった。
「坊主。名前は?」
「善鬼や。アンタこそ?」
「絶刀斎。……お前を、もらいに来た」
「は?」
木刀を持ったまま、善鬼は眉をひそめる。
絶刀斎は面白そうに笑った。
「その腕、お前が一人で身につけたもんやろう。誰に教わったわけでもなく、独学でここまで到達した。その素質……いや、嗅覚は天性のもんじゃ。大人になれば……いや、二十までに、アカツキ最強も夢じゃない」
「……なんで、そんなことわかんねん」
「長年、剣の道を歩いてきた目を舐めるなよ、若造」
絶刀斎は不敵に笑うと、腰の刀に手をかけた。
その瞬間、善鬼の全身に鳥肌が走った。
——斬られる。
このままいけば、一瞬で死ぬ。
善鬼の本能がそう叫んだ。
「構えを取れ。こっちも手加減はせん。覚悟を見せろ」
……気づけば、善鬼は木刀を構えていた。
言葉より先に身体が動いた。理由はなかった。ただ、戦わなければならない気がした。
「——いくで」
次の瞬間、ふたりの剣士がぶつかった。
結果は、一合。善鬼の木刀は空を切り、絶刀斎の刃は、彼の頬を浅く裂いていた。
それでも——
「面白い子やな。剣筋は粗いが、怖気づかず飛び込んできた。気に入った」
絶刀斎は鞘に刀を戻し、振り返らずに言った。
「ついてこい、善鬼。……お前は、ここで腐る器じゃない」
——それが、師弟の始まりだった。
◇◆◇
アカツキの首都・暁城。
将軍を頂点とするこの国の最上位決闘の場、"御前試合"。
その年の最終日。選ばれし剣士たちが、桜吹雪の舞う庭園に集められていた。
「——次、東堂善鬼 対 東堂絶刀斎」
その名が呼ばれた瞬間、場内がざわめく。
「師弟やないか……」
「絶刀斎の弟子って、あの天才剣士の……?」
人々の視線が、若き剣士へと注がれる。
黒い羽織に身を包み、足音も静かに、善鬼は庭の中央へと歩み出た。
その目には一片の迷いもない。
「……爺さん。手加減はナシやで?」
「無論や。そもそも、お前にゃ最早“師匠”の顔して教えられることなど残っとらん」
絶刀斎もまた、細身の体を真っ直ぐに立て、静かに刀を構える。
「来い、善鬼」
その一言と同時に、空気が裂けた。
二人の剣士が、砂塵を巻き上げるように踏み込み、ただ一合——
その刹那、勝敗は決した。
「……!」
絶刀斎の瞳がわずかに見開かれる。
刃と刃が触れた瞬間、己の剣筋が一瞬、重さに押し負けた。
——否。正確には、“圧”だ。
剣技の研ぎ澄ましではなく、善鬼の背中から吹き上がるような凄まじい“闘気”。
まるで大河の奔流の如き魔力の奔りが、その一太刀に宿っていた。
次の瞬間、絶刀斎の刀が弾かれ、袂が裂ける。
「……見事や」
絶刀斎が静かに息を吐き、膝を折った。
ざわめきが、歓声に変わる。将軍の間の桜が、風に舞った。
「勝者、東堂善鬼!」
それは、師を超えた瞬間だった。
誰もが認めた、アカツキ史上最高の“天才剣士”の誕生。
そして——この日から、善鬼は心のどこかで信じ始めた。
(闘気の大きさこそ、剣士の“格”や。技や経験は、最後の決め手にならん)
それは、後に彼の価値観を根底から支える“信念”となっていく。
師を超えた者に、もはや国の中に“敵”はいない。
善鬼は、十九の春に旅立った。
己の剣を試すため。未知を斬り裂くため。
「ほな、行ってくるわ」
道の途中、絶刀斎に言い残した言葉はそれだけだった。
「……阿呆が。帰ってこんでも、わしは生きとる」
師はそう呟き、背を向けた。泣いてなどいなかった。——たぶん。
善鬼はその足で北の山へと向かった。
そこには、ある噂があった。
"飛竜《ひりゅう》"が棲みついた、と。
山一帯を縄張りにし、村を焼き払い、旅人を喰らう巨大な翼竜。
「……丁度ええ。名のある相手や」
雪解けの頃、善鬼は単身でその山に踏み入った。
そして三日目。
雪が深々と積もる尾根の上——
「グオオォォォオオ!!」
咆哮と共に空を裂く影が降下する。
幅十メートルを超える翼。鋭い爪と牙。黒鉄色の鱗を纏った飛竜が、善鬼めがけて襲いかかる。
「……お前、なかなかの面構えやんけ」
善鬼は構える。
足を割り、腰を落とし、背中から空へ抜けるような斬撃の型。
「——抜くで」
一閃。
風が止まり、雪が舞った。
次の瞬間、飛竜の首が空中で跳ね、重力に引かれて地へ墜ちた。
肉を裂く音、血飛沫。
だが善鬼の木綿の羽織には、一滴の返り血もなかった。
「……あんま、手応えなかったな」
小さく肩を回し、刀を鞘に収めたときだった。
「……クォ……」
竜の巣の隅に、まだ殻を割って間もない小さな竜がいた。
鱗も柔らかく、震える身体で善鬼を見上げている。
「……なんや。お前、こいつの子か?」
善鬼は、肩の力を抜いてしゃがみ込む。
「……俺が斬ったんは、あいつや。お前には罪はない」
手を伸ばすと、竜の子は怯える様子もなく、すり寄ってきた。
ぬくもりが、掌に伝わる。
「ふっ……妙なやっちゃな」
善鬼は微笑んだ。
「ほな、お前は今日から“卍天丸(ばんてんまる)”や」
その日から、善鬼と一匹の竜との旅が始まった。
——人と竜。
どちらも、まだ“何者でもない”存在だった。
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