どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。

夏目

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第一章 夜の女王とミミズク

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 まずハルが私にさせたのは服を着替えさせることだった。汚れているとはいえ、ギスランの用意した極上のドレスだ。これでは身分がばれてしまう。
 そこで、ハルが同じ貧民の女に頼み込んで服を用意した。麻製のざらざらとした服だった。私はこの時初めてこんな質の悪い服を着た。
 こんなに軽い服は初めてだ。浮き足立つ私に服を提供し、着るのを手伝ってくれた貧民の女はくすりと笑った。
 彼女の名前はモニカというらしい。私が高位の人間だからか、口をきこうとしない。
 花冠や装飾具も彼女に預けた。興味深げにしげしげと見つめるモニカの姿がおかしかった。
 着替え終わると、ハルがやってきて私を引率するように手をひいた。


 私が着替えたのは、外の小屋だった。貧民達の服を洗う部屋らしい。その部屋には汚れた服とともに光電機械が置かれていた。どうやら、機械を使って洗濯するようだ。仕組みを詳しく聞こうとしたが、モニカは喋らないし、ハルは仕組みをしらないようだった。
 童話の世界では、貧民は川まで水を汲みにいき、洗濯をしていた。それが今では屋内で済ませられる。
 ダンの感嘆が頭を過ぎった。科学は魔術を呑み込み、誰もに恩恵をもたらしている。おそらく一番恩恵を受けているのは、貧民達だ。労働の時間が短縮される。
 そう思ったところで、なにかが頭に引っかかった。
 恐ろしいものが頭を過ぎった気がした。

「今日は無礼講。誰も眠らない不夜城になる。歌も歌うし、いつもよりちょっと豪勢な食事をする」
「本当に私が混ざっても大丈夫なのよね?」
「この学校にいる貧民の数、知らないの? そりゃあ、このあいだので減っちゃったけど、それでも百人はいるよ」
「百人!?」

 こんな狭い家に百人も住んでいるというの?!
 嘘だ、絶対入らない。外で寝る人間が何人も出るはずだ。

「夜勤で働いてる奴らもいるから、生徒の数はもっと多い。それとは別に大人の貧民には別の住処が用意されてる。でも、今日は大人達も混ざる。三百人ぐらいになってるかも」
「多すぎよ!」
「いや、少ない。本当はもっといなきゃだめなんだよ。でも大人の貧民を増やすのは、来月になるって。……でも、三百人いたら、あんたが混ざってても違和感ないよ」

 確かに、三百人もいれば私がいても違和感がないだろう。今の私は貧民の格好をしているし、森にいたせいか土臭い。誰も王族だとは思うまい。

「でも、忠告しとく。俺から離れないように!」

 ぎゅっと強く手を握られる。
 ハルは人嫌いそうな見た目をしているのに、触れることへの躊躇いがない。
 貴族は言葉巧みなものが多いが、触れ合うことに慣れていない者も多い。親とさえろくに会話しない子供もいるほど。
 ハルは、貴族の令嬢に言い寄られていた。そういう肉体的な接触が、令嬢には魅力的に映ったのかもしれない。
 それに、なんだかんだ言って、ハルは面倒見がいい。家に帰りたくないという私を放置せず、連れてきた。

 ぎゅっと握り返す。
 貧民達がたくさんいる。そう思うとそわそわと
 落ち着かなくなる。
 貴族ならば扱い方を知っている。上手く立ち振る舞うことは出来ないが、知っているということは安心にもつながる。
 しかし、貧民のことはろくに知らない。
 ーーハルから離れないようにしよう。


 貧民の家はこう言ってはなんだが、壁のある家畜小屋だった。
 木材で作られたその家は、他の階級の寄宿舎に比べればやや大きい。中は、昔の貴族の屋敷のように大広間と寝る部屋しかないらしい。男女別の部屋はあるものの個人の部屋はないという。
 家の中に入った瞬間、耳が壊れるほど大きな音があちこちから聞こえてきた。笑い声、泣き声、しゃがれた歌に喧嘩の音、それを囃し立てる男達の声、競りをするような溌溂とした声まで様々なもので充満している。臭いも酷くて、食べ物の香りと体臭がぐちゃぐちゃに混ざって、鼻が馬鹿になってしまう。土の臭い、汗の臭い、その他に汚物や吐瀉物の臭いに混じって酒の臭いがする。
 度肝を抜くような無秩序さに、意識が遠のきそうになった。
 ハルは、三百人程度だ、と言っていたが、おそらくもっと多い。見渡す限り、人ばかりで、床が見えない。
 酔いが回ったのか倒れ込む人。それを介抱する女。仲間と飲み比べをしようとする巨漢。踊り子にちょっかいを出そうとする男。喧嘩をし合う男達を囃し立てる女達。王都を縮小したみたいだ。千差万別な人が入り乱れている。

「すごい……」

 貴族の寄宿舎では舞踏会が開かれる。その舞踏会でも、こんなに活気にあふれてはいない。人も、これほどまで集まりはしない。
 幻惑の地という言葉が浮かんできた。家の中に入って数分も経っていないのに、頭の中が興奮でいっぱいだ。
 この秩序のない空間は人の深淵を照らす光があるような気がした。この場所では、道徳的な行いも、非道徳な行いも同じことのようだ。だって、殴り合う男達の隣で、祈りを捧げている者がいる。凄まじい光景だ。
 清貧と貞淑を律とする聖職者がここにいたら卒倒しそうだ。だが、私にはその光景が色鮮やかに映った。人を嘲笑し、誑かし、足を引きずり合う。華やかだけの貴族の世界より、ずっと魅力的だ。
 淑やかなふりをしなくてもいいというところも気に入った。人波をかき分け、少しだけ豪華だという食事にありついたり、踊る女達に混ざってみたい。

「あんたがここでひれ伏せって言ったら、みんなひれ伏すかもしれないよ」
「そんな野暮な真似はしないわ。……ちょっとだけしたいって欲もあるけど。でも、そんなのいつでも出来ることだもの。今やる必要はないわ」

 ハルはしばし驚いたように目を見開いた。

「なんていうか、お貴族様って業は深い」
「いつも人に指図ばかりするから慣れてるの。息をするように命令を下す。それが当たり前だと思っているの」
「命令は訊く方にも問題があると思うが?」
「そうかしら、その唇がどれほど聡明であるかわからないのに、従えと強制させられるのよ、理不尽極まりないわ……。って、だれ、お前」
「おや、やっと気が付いたね。ハル、こんなところに立ち止まっていては邪魔極まりないよ。進んでくれ」

 違和感なく紛れ込んできたのは眼鏡をかけた気難しげな青年だった。
 技師や学者といった風貌だ。服は周りの貧民とそう変わりないが、他の貧民に比べ、何処か異質だった。

「イル、来たんだ」
「来てはいけないと言われていないからね。それにしても相変わらず人が多いことだ」

 イルと言われた青年は辺りを見回してため息を吐いた。

「酒が飲めると思って来てみたのだけど、無駄骨だったかな」
「あるんじゃない? 寄宿長はまだ飲んでるみたいだし」
「そうだね、じゃあ分けて貰おう」
「寄宿長はカンドと一緒に飲んでると思う」
「どうも。ハル、今日は歌わない?」
「……さあね」

 そういうと、イルはずんずんと人ごみに躊躇うことなく進んでいく。
 髪が見えなくなる頃、ハルが彼の紹介をしてくれた。

「イルだよ。変な奴、だけど、いい奴かな」
「剣奴なの?」


 イルは指に剣たこが出来ていた。リストにも一時期出来ていたことがあったので分かる。
 そうは見えないが、あの男、剣が扱えるのか。
 剣奴というのは、つまり奴隷の剣士のことなのだが、この国では平族や貴族に従属する貧民という意味で使われることが多い。
 詳しくは私も知らないが、一部の才のある人間は他の貧民とは違う待遇を受ける。貴族や裕福な平族が援助するためだ。
 学者風の風貌なのに、剣奴なのか。ちぐはぐな印象を受けた。

「なんで分かったの?  イルは剣奴っぽくないのに」
「手を見ると、それがどんな人間か分かるのよ」

 そう言って教えてくれたのはリストだ。

「でも妙な奴ね、剣奴ならばこんな場所にこなくていいのではないの?」

 他の貧族に混ざる必要はない。個別に部屋だって用意されているはずだ。
 そういうと、ハルは相好を崩した。

「変な奴だから」

 その一言で片付けられるのは、流石に可哀想じゃないか?

「歌って?」

 イルが言っていたことを蒸し返すと、ハルがきゅっと口元を引き締めて目尻を赤くし、黙り込んだ。




 そのあと、ハルと一緒にいろいろな人と喋った。話しかけた瞬間、にこやかに応じてくれる者もいれば、嫌そうに顔を顰める者もいる。頭を垂れず、毅然と私を見遣る。
 貧民の階級に落ちた気分だ。誰も王族だからと媚びたりしない。
 ざわざわと波のように心が騒めく。不思議だ、胸の突っ掛かりが取れたみたいに、体が軽い。

 女達に混じって、曲に合わせてはちゃめちゃなダンスを踊る。ダンスは苦手だが、それは周りの女達も変わらない。貴族の真似をした気取った踊りのせいで動きがぎこちないからだ。
 今ならば、私が一番上手いと、当たり前のことを愉快に思った。

 その姿を見て、なにを思ったのかハルが歌い始めた。ハルが歌うと、皆がこちらに目を向けた。私もハルを凝視してしまう。
 驚いたことに、ハルは女神に愛されたような美声を持っていたのだ。聖歌隊の一員のように、力強く、繊細に声が伸びている。
 イルが歌わないの? と疑問を問いかけた意味が分かった。
 人魚の歌声は人を酔わせるほど美しいというが、ハルの歌声はその人魚の歌そのものだ。
 澄んだ声が周りに祝福をもたらすように紡がれる。

「人が一人いなかったせいで、戦争に負け、戦争に負けたせいで国はなくなり、国がなくなったせいで王族がいなくなり、王族がいなくなったせいで女神が怒った。怒った女神は、憤怒によって土地を焦土とかしてしまった」

 童謡だろうか?
  聞いたことのない歌だ。

「なにもかも、一人がいないせい」

 ……含みのある歌だ。教訓染みたものを感じる。
 ハルが歌い終わると、歓声が起こった。もっと聴かせろと、皆がハルをせっついている。
 長身に纏わりついて絡む、筋肉隆々な男達を見て噴き出すと、ハルに荒んだ眼差しを向けられた。
 その後、なぜか私はハルの歌声に合わせて踊りを踊ることになってしまった。綺麗な踊りだと褒める外野がいなければ、直ぐにでもやめたいぐらい。
 でも、私が踊ると、貧民達がわあと湧くのだ。
 きらきらとした瞳が私をきちんと捉えて、囃し立ててくる。
 なかには、気安く話しかけてくる奴らもいる。
 酒を飲ませようとしたり、感化されたのか一緒に踊りだそうとしたり、不躾にも口説こうとする者まで。
 でも、彼らと接するたび、自分のなかでぱあんと硝子瓶が割れるような音がする。そして、絵の具でも塗ったように鮮やかに心が色付く。
 人との触れ合いが、こんなに心踊るなんて初めて知った。
 今まで、本のなかに求めて来た温かさがここにある。
 サロンにぽつんと一人。周りに令嬢達はいるのに、近付いてはこない。そんな窓の外にいる鳥を見るような虚しさはない。

 体が近くなると心も近くなるのかもしれない。
 彼らと私は同一のもののような気持ちになった。そこに、貴賎の壁は存在しない。
 ただ、人と人が交誼を結んでいるだけ。
 平等という言葉が頭を散らついた。
 それが本当に存在するならば、どんなに素晴らしいことなのだろう。




 靴は服と一緒に履き替えていたからいいものの、何曲も踊らされると流石に疲れてくる。

 床に座り込むのも初めてだ。絨毯も敷いていない、硬い木の床。
 ハルはまだ、周りに急かされて歌っている。周りの人間達は、うっとりと聴き入っている。悲痛そうに泣いている集団もいるが、リストが酒を飲むと泣き上戸になる奴も現れると言っていたから、その類だろう。
 疲れて、壁に寄りかかっているとイルが酒瓶を持って隣に腰掛けた。眼鏡の位置を整えて、横目で見つめてくる。

「天使の歌みたいだろう」
「ええ、才能ね」

 イルは澄まし顔で酒瓶を傾け、ぐびぐび喉を鳴らしていた。

「そう。ハルは才能がある。貴女のところで飼ってやれない?」
「……どういう意味?」
「お貴族様だろう、貴女は」

 周りを見渡す。
 幸い、ハルが歌っているおかげで誰も私達の会話を聞いてはいないようだ。
 微睡むように、ハルの歌声に耳を傾けている。

「手が綺麗すぎる。そんな手、貧族の女はしていないよ」
「……そう」

 私が手で彼を剣奴だと思ったように、イルもまた私を手で貧民ではないと気づいたらしい。
 手を掲げる。この綺麗な手が私と貧族を隔てていた。

 ーーこの世が終わるならば終われ、国が亡びるなら亡びろ。たった一人、私だけが富貴であるならば。

 王族ならば、誰よりもこの世界で幸せで、偉大で、荘厳であらねばならない。
 母の言葉が蘇る。
 だが、私はここに来て、ますます思うようになったのだ。一人だけ富貴な世界は本当に幸せなのかと。そう声高に主張しなければ幸せだと周りに示せないのではないのか。富貴であらねばと、自分を縛り付けているだけでは。
 だって、ここにいるだけで楽しいのだ。
 一人だけの孤高の世界よりずっと。
 豪華な食事も、綺麗な服もいらない。
 そんなものがなくても、人の温かさが蝋燭の炎よりもなお、心にあかりを灯している。
 それだけでは、なぜいけないのだろう。
 なぜ、富貴であらねばならないの? 今の私には、答えが見出せない。

「なんだってこんなところにお貴族様がいるんだ?  ……まあ、大方、ハルがまたお節介焼いているんだろうけど」
「また?」
「ハルは悲嘆しているものを放っては置けない。特に女子供は庇護の対象だとばかり」

 雨に打たれた子犬を拾うハルの姿が、頭に浮かんだ。
 うん、ハルならやりそうだ。短い付き合いだが、ハルのやりそうなことは分かってきたぞ。
 しかたないなと言わんばかりの顔をしつつ、抱きかかえるのだ。あの姿形からは想像出来ないほど、ハルは清廉な魂を持っているのだと思う。

「この間も、泣く貴族令嬢に声をかけてしまったと。相手はなんでもないことで泣いていたというのに、それから雛鳥のような懸命さで言い寄られて困っているらしい」

 初めてハルを見かけた日にハルに言い寄っていた子爵令嬢のことだろうか。
 認めてしまうのは癪だが、少し……、いや大分嫌だが、ハルが他の人間を目にかけていると思うと、悔しい。
 取られたように感じるのは、私が貧族ではないからだろうか。

「貴女もそういう経緯だろう。なぜ、ここに案内したかは理解に苦しむが」
「お貴族様がここに来てはいけないの?」
「その質問は、王族に家畜と一緒に酒を飲みたいのかと尋ねているようなものだよ」
「でも、あなた達は人間よ」
「へえ、そうか、その反応はなかなか面白い。お貴族様で俺達を人間だと思う人種がいるなんて。だが、やめてほしいな」
「なぜ」
「生きている世界が違うから」
「同じ世界だわ」

 イルは片眉を上げて、戯けるように続けた。

「住んでいる地面が繋がっているだけ。現実問題、貧族と貴族では見ている世界が違いすぎる。圧政を敷くものと、搾取されるものが同じ目線で物事を見れるはずがない」
「では、同じ目線にすればいい。高見から見物する人間を引きずり落として。あるいは引っ張りあげて」
「貴女は地下新聞を作っているお仲間? やめてくれよ、俺は一欠片とはいえ、貴族の恩寵を受ける身なんだから。いらぬ誤解を招くのはごめんだ」
「そうじゃない。でも、そうするべきではないの」

 そうだと、納得するように頷く。
 私は富貴でありたくない。一人ぼっちは嫌だ。
 一人だけ、楽しい世界のどこがいいのだ。
 ならば、平等になるべきではないのか。
 商家の娘の言葉を、私は理想論だと突き放した。だが、商家の娘こそ正しかったのではないか。
 ーー法のもと、王も貴族も平族も貧族も清族も、平等。
 それがあるべき姿なのでは。
 それに、王族としてしか私が生きられないというのならば、皆、王族と変わらないものになってしまえばいい。
 そうなれば、彼らだって人間として生きることができる。汗と泥の臭いを漂わせずに済むのではないか。

「平等になるべきだと? それこそ、国賊の考えだ。平等なんてものは古臭いカビの生えた法書にしか載ってない」
「でも、お前も人間で、私も人間よ。どこに差異があるの」

 鼻白むようにイルは黙り込んだ。

「女はこうも感情的に物事を解決しようとする。だから、苦手なんだ」
「なんですって?」

 女を軽んじたな。突き刺す眼差しをくれてやる。イルは多少たじろいだが、同じだけ強い目で見つめ返してきた。

「そもそも、貧族は敗戦国の民を奴隷として扱う為に用意された階級だ。いわば時代が求めた適切な運用装置。それが年月をかけて、様々な移ろいを見せながらここまで続いている」
「……だから、なんだと言うのよ」
「分からない? ご令嬢は頭のなかにお花畑でも詰めているのかな。歴史ぐらい学んではいない?」

 こいつ、穏やかな物腰なのに、刺々しい言い方をするか、普通。

「一度、貧族と平族は貴族と王族を陥れ、平等を成し遂げた。三百年前の革命だ。でも、その後何が起こったか。女神が怒り、旱魃が起こった。そうかと思えば何十日と豪雨が吹き荒れた。何万と死んだよ」

 残念なことに、三百年前の革命後の変遷は習っていない。三百年前の詳細な記述がないからだ。虫食い穴のように、三百年前の正式な歴史書はない。記載する者がいないほど、動乱の時代だったということなのだろう。
 文字を書ける貴族が殆ど残っていなかったから、とも考えられる。当時、平族や貧族は文字書きが出来なかった。
 貴族が何百人も斬首され、逃げ延びた貴族達は文字を書き連ねる余裕はなかったのだろう。
 だからか、三百年前の出来事については、むしろ口伝で語り継がれる貧族達の方が詳しい。
 生きてきたなかで貧族に教えを説かれたことがない。だから、初めて聴く話だった。
 だが、妙な既視感を覚えた。
 私はどこかでその話を聞いたことがあるような気がした。
 ーーさっきのハルの歌?
 いや、確かに女神が怒りというところは似ているけれど、ハルの歌よりももっと酷似していなかったものを聞いたはずだ。

「清族が女神の鉄槌だと言って、再度革命だ。再び王族が立った。女神は、貴人が貶められるのは我慢ならないらしい。俺達に死ぬまで働いていろとおっしゃる」
「それは偶然でしょう。貴族や王族が倒れたから天が荒れたのではない。ただ、天が荒れ、時同じくして貴族や王族が倒れた。それだけの話では?」
「無駄に賢い平族達ならばそう言うのだろうが、教養のない貧族は違う。未だに、あの災いは天が我らに与え給うた大罪の証だと疑わない。だから、地下で暗躍している馬鹿どもとは共闘などしない」
「でも、だからと言って平等が疎ましいと感じるの? そうではないでしょう。切望しながら、諦めている。それは自分では手に出来ないと思い違いをしているだけ」

 イルは、皮肉げに口元を歪ませた。

「いっとくけど、女神の天罰だけで、貧族が消極的になっているわけじゃない」
「どういうこと。他にもなにかあると?」
「夢がないんだよ」
「夢?」
「抱くべき夢がない。三百年前、労働から解放された貧族はそのまま労働をし続けた」

 なぜ?
 労働が嫌だから、蜂起し、強制する貴族や王族に対抗したのではないのか。
 なのになぜ、やめない。
 なぜ、放蕩の限りを尽くさない。
 貴族や王族がやったことをやろうとしない。平等だ、というのならば、貧族だって、素晴らしい衣装で身を包み、飽くなき欲望を貪るべきなのではないのか。

「なぜならば、他にやることが思いつかないからだ。貴族や王族を倒してもーーいいや、倒さなくても、貧族のやることは一つしかない。死ぬまで働き続けること!」

 なんだ、それ。
 おかしいじゃないか。
 きっと、私ならば貴族や王族に労働をさせ、自分は遊んで暮らすだろう。
 例え、それが平等という名に反していたとしても、やられたことはやりかえしてやりたいと思う。
 自分が味わった屈辱を、味あわせてやりたいと願うはずだ。
 それすら、抱けないほど、従うということが当たり前なのだろうか。
 やられたからやりかえしてやりたいと願う気持ちさえ抱けないのか。

「夢は? と問われた時に貧族は答えられない。ただ、夢という言葉の途方もなさを知って恐怖する。成したいことがない、やりたいことが存在しない。今を生き、明日を迎えられればそれでいい。夢なんて邪魔だ。ーー学はないが、貧族は歴史に学べる。もう一度、人が平らになったところで、指図してくれる人がいないと困るだけだ」

 踏みつけられなければ生きていけない。命令がないとどうしていいか戸惑う。
 価値観の差に愕然とする。
 生きている世界が違う。イルの言う通りなのかもしれない。
 感情の共有は出来るのに、価値観の共有は出来ないのだ。これまで営んできた生活のせいで、同じ空間にいても彼らと私とでは性質が全く違う。
 夢さえ命令がないと抱けないのか。
 これでは、人の形をした家畜と変わらない。
 もどかしい。
 私はもう、彼らが人間だと知っているのに、彼らを知ろうとするたびに家畜として生きる彼らを知ってしまう。
 私は変えたいと思った。利己的な理由であろうと、貧族がこのまま隷従するのを見ていられない。だが、彼らはそれを望んでいないのか。
 いや、望んでいると言えと命令しなければ、同意を求められないのか。
 違うと否定したい。貧族はそこまで自我を喪っていないはずだ。

「まあ、お貴族様の考えも別に賛同できないってわけじゃないけどね。だが、これは命令を聞く方の問題だ。貧族の根幹が変わらない限り、平等になりたいと思うのは難しいだろう」

 黙り込んでしまった私に、イルは突然、何を思ったのか艶やかに微笑した。

「貧族を平等に、か。ハルに懸想したのか? まあ、あれはよくよく見るといい男だし、性格もなかなかいい。惚れるのも無理はない。身分差さえなければ最高の男だろう」

 気配が軟化した。これ以上話しても、きっと私が黙り込むだけだろう。
 イルの太股を強めに叩いてやった。
 だれが惚れたりするか、馬鹿め。


 貧族の食事は脂ぎったものが多かった。彼らだけしか食べれない馬の肉も食べた。イルと早食い競争の真似事もした。張り合っていると、ハルがやってきて、呆れ果てた。
 ハルの隣にいた巨漢は、私のことを見るなり大笑いした。

「いい食べっぷりだぜ嬢ちゃん」
「あんた、女なんだから、少しはお淑やかにしなよ」
「お、ハルの連れか? なんだよ、モニカだけでなくこんな嬢ちゃんまで恋人の一人か」
「……カンド、それは流石に不謹慎だ。酒の飲みすぎだろう」

 イルがむっとした険のある声を出した。カンドと言われた巨漢は口角を下げた。体躯がいいせいか、妙な威圧感がある。

「うるせぇよイル。こんな細腕の嬢ちゃんに負けるオメェの話なんか聞くか」
「うるさい。この女の胃袋がおかしいだけだよ。なぜ、俺より容量が大きいんだ。実は男だったりする?」
「そんなわけないでしょ」
「お、勝気な嬢ちゃんじゃねえか、どうだ、俺の嫁になんねえか。って、ハルなんで肘鉄食らわせやがる! さては本当に恋人なのか?」
「カンド、酔い過ぎ。水ぶっかけられたい?」
「動揺してんのか? そうむくれんな、お前のだってんなら手出ししねえって」
「……水樽のなかに突っ込んでやる」

 ハルが負の感情を詰めた声を出した。
 家族みたいだと、ぽろっと口から溢れていた。視線が突き刺さる。

「カンドと家族はいや」
「よく分かってんじゃねえか、嬢ちゃん。こいつは末弟ってところだな」
「俺は長男ね」

 周りの貧族達まで、家族だったら何役かという話に参加し始めた。

「あんたは末妹ね」

 ハルが意地悪な瞳を和らげて優しく笑った。
 ……嬉しいけど、複雑だ。
 せめて長女がいい。

 温かく、長い夜は段々と明けていく。
 朝日が昇る頃には、不夜城は喧騒ではなく、寝息しか聞こえなくなった。
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