106 / 320
第二章 王子殿下の悪徳
101
しおりを挟む
螺旋階段を降っていく。
隙間風が吹き付け、腕で胸を隠し暖を取る。
階段の壁には蜘蛛の巣が張っていた。手をつけると網状の銀糸が張り付く。指で取ろうにも絡まって、上手く外せなかった。
下に下に、ただ歩んでいく。
先導するリュウが少し振り返り、私とサガルの歩調に合わせる。
たどり着いたのは、赦しをこう男の像の前だった。像の頭を許すように撫でると、壁が歯車のような音を立てて動き始める。
大きな樅の木が立った丘が見えた。草花がそよいでいる。太陽の光は満遍なく大地に注がれていた。天を見上げて、思い直す。これは人工的な光だ。太陽光ではない。太陽の臭いがしなかった。洋燈の光のような臭いがする。
土を運んで種を蒔き、ここで育てたのだろうか。木はすくすくと成長し、立派な葉をいくつも吊り下げている。
ゆっくりと人影が近付いてくる。その姿は近づくごとにどんどんと大きくなっていく。サガルの眼前に来た時にはすでに顔を上げても、視界に頭が入りきらなかった。首のところできれてしまう。
首が木のように伸びた毛むくじゃらの男だった。サガルに一礼すると、長い首筋を晒すような格好になる。そして、すぐに顔をあげる。長い棒がそのままぶんぶんと振り回されるような威容に足が後ずさる。
男は恐れを抱かれたと思ったのか、おずおずと私に花を差し出した。甘い香りのする桃色の花だった。
「ありがとう」
サガルが声をかけると、また頭を下げて踵を返す。ここは彼らのような人間のための楽園なのだろうか。穏やかに吹く風が毛むくじゃらの男の髪を揺らしている。
「こっちに来て」
サガルが手を引いた。リュウの姿はいつの間にやらなくなっていた。
サガルに手を引かれるまま後ろをついていくと次々に奇怪な姿をした生き物達と出会った。彼らは温和で、まるで争いを知らないかのようにのびのびと過ごしていた。
人間のような姿をしているもの、していないもの。それぞれ半々といったところだろうか。
馬面の男は足だけが人間に似ていて、足の指が五本あり、踝から前に足が突き出ていた。
逆に鳥のような女は顔は人間で、乳房も人間のものと相違ないのに、太ももから足先にかけて鳥の引き締まり枝のように細い脚をしていた。
目の前を通ると、彼らは作業を止めて軽くお辞儀をする。殆どが花や木に水やりをしている。けれど遊んでいるのか追いかけっこをしている二人組もいた。微笑ましくて、つい目で追いかけてしまい、サガルに笑われてしまった。
「追いかけっこしてみる?」
驚いて首を振る。サガルはますます上機嫌になる。
「僕達は外で駆け回るなんてことできなかったもんね。追いかけっこもしたことがなかった」
サガルの肌は太陽も月も同じように嫌った。それに、私達は塔のなかにいたのだ。外を駆け回る機会なんてなかった。
「あそこで駆け回っている子達はもともと一つに繋がっていたんだよ。体が癒着していたんだ。結合双生児といってね、生まれた時から一緒だったんだ」
だが、今は体がくっついているようには見えない。人の形をした二人が追いかけっこをしている。
「姿は蟹みたいだった。とても優美で左右対称な姿だったな……。清族が僕に内緒で二人を切り離してしまったんだ。貴重な研究材料になると言ってね。両方生き残ったのは奇跡だよ。離れ離れになった双子はどちらか片方か、両方。死ぬ方が多いんだって。離れると悲しくて死んでしまうんだろうね」
サガルは私の手を握って高く手を挙げて振る。気がついた彼らが振り返してくれた。手が銀色の義手だった。右と左の銀色の輝きが重ね合わせるように手を挙げている。
「二人はここを出て施設に送られることになっているんだ。留まればいいと言ったんだけど、二人ならばどんな場所でも生きていけると頑なに信じているみたいだった。外に出ていろいろな場所を見て回りたいんだってさ」
二人でならば……。
幼稚な考えだとはサガルは言わない。ただ、それが実現不可能なことが分かっているのだろう。言葉の奥で仄暗い闇が渦巻いている。
体が繋がっていたからこそ、彼らは二人で一人だった。何もかもを共有して、慈しみあっていられた。切り離され、離れ離れになった今、自我が芽生え二人だけの世界は崩壊していく。そうでなくとも、否応無しに世間に放り出される事になるのだ。
二人だけでは生きていられない。世界はそんなに優しくない。人間はそこまで善良ではない。天国のようなこことは比べ物にならないぐらい活気に満ちていて、乾いていて、歪んでいる。善と悪は渾然一体で、愛情も憎悪も簡単にひっくり返る。
人の世界は不確かだ。もやもやとしたつかみどころのない感情が支配している。理論でも、理性でもない。簡単に崩れて落ちてくる崖のようなもので、誰も近寄り難いのに尖頭に立って覗き込んでしまう魅力に満ちている。
その事にいずれ気がつく。一緒にいられなくなった私達のように。
「僕達はここを見て回ろうか。外の世界なんか見ても面白くないよ。僕達は、僕達だけはずっと一緒にいようね」
サガルにとってここは、癒しの空間なのだろうか。気に入っている美しい生き物。穏やかな気候、緑豊かな自然。揃えられた完璧な人工物達。このなかで一生を過ごしたいのだろうか?
鼻歌をうたいながらサガルが道を再び歩く。私とサガルは手を繋いだままだ。ゆっくりと腕を振り子のようにふった。
幸せで、地獄の中にいるみたいに不幸せだった。相反する感情が爆発しそうなのに、声にすることはできない。
ふふっと笑われる。
「カルディア、大好きだよ」
その日の夜は草木が生い茂る人工的な森の中の小屋で一泊した。サガルは私と体を絡ませてぐっすりと眠った。
翌日にはいつもの籠の寝台の部屋に戻った。寝るときは、いままで以上にくっついて寝るようになった。一緒に生まれたわけでも、同じ腹から生まれたわけでもないのに、サガルと体を触れ合わせると懐かしさでいっぱいになった。いっそのこと、結合双生児のように一緒に生まれてこれればどれだけよかっただろうか。離れたら死ぬのだと思って生きてこれたらどれほどよかったか。
ぼんやりとした頭にイルの声がする。
泣きじゃくり、赦しを乞うている。ごめんなさいと繰り返している。私はおかしい。ずっとずっと昔から、異常をきたしたまま野放しにされている。サラザーヌ公爵令嬢のように表面化しにくいだけで確実におかしいのだ。私も病院に入れられるべきなのに、免れている。
どうしたらいいの、ギスラン。倒れ臥す体に問いかけても、答えは返ってこない。
眠気が訪れない。サガルの腕をそっと外し、床に寝そべる。そうするとギスランが近付いてきて、目の前で止まる。喉から血を流したまま、私に寄り添っている。
急に甲高い叫び声がした。光に誘い込まれる蛾のように声の方に這っていく。どうやら扉の外から声がするようだ。扉は鍵がかっていて開かない。しかたなく、扉に耳をつけて感覚をそばだてる。
「サガル、サガル!」
聞き覚えがある声にぞっとした。あの女がサガルを呼んでいる。甘ったるい、惑乱した声で愛人に呼びかけているように。
「出てきてちょうだい。貴方が来ないと皆興醒めして帰ってしまうの。わたくしが相手すると言っても、無言でいなくなってしまうのよ。……みんな、貴方の新鮮な体がほしくて来てくれているのよ」
顔に影が出来た。起き上がったサガルが私を抱き締めた。扉に背を向けて、私の体ごと丸くなる。仰け反った体を保つためにサガルの首に手を回した。
「なにがそんなに気に入らなかったの? 公爵夫人と寝させたから? あの枯れた女と一夜を過ごすのは苦痛だった? それはそうよね。あの女、香水の臭いで誤魔化しているつもりなんでしょうけど、酷い加齢臭がするものね。そのくせ、精力が有り余っているせいで……ああ、嫌だ嫌だ、鳥肌が立ってきた」
カタカタと体が震えている。サガルはあの女を恐れているのだ。扉越しだというのに、声だけで。
「それとも男爵の倅と交わらせたのがまずかった? 正気を失った彼に酷いことをされたって聞いたわ! でも、大丈夫! あの男には母様も酷い目に合っているのよ。お前だけじゃないわ!」
正気を失っているのはお前の方だと言ってやりたい。なにが自分も酷い目に合っている、だ。
なら、酷い目に合わないように守ろうとなぜ思わないんだ。サガルは血の繋がった実の息子。どうして酷い真似が出来るんだ。
震えるサガルのことがわからないほど狂ってしまったのか?
「ねえ、出てきて、サガル。わたくし達、親子でしょう? 一心同体のはずだわ。お前の痛みはわたくしの痛み。わたくしの痛みはお前の痛み。分け合って生きて生きましょう」
サガルが返答しないことに焦れたのか、ぐずぐずと鼻を鳴らし、縋るように涙声を出す。
「嫌いになってしまったの? わたくしにはお前しかいないというのに? 寂しいわ、サガル。顔だけでも見せてちょうだい」
嫌だと、首筋の近くでサガルが返答する。
大声で返すことが出来ない。首に回った腕に力を入れる。弱々しい抵抗に、歯を食いしばるほどの怒りを覚える。
「……どうしても、会いたくないのね。こんな場所にわざわざ出向いてやっているというのに?! お前を塔から出すんじゃなかった! あそこでのたれ死んでいればよかったんだ。恩知らずめ!」
泣き落としは通用しないと悟ったのか、汚い言葉でサガルを罵る。サガルの耳を塞ぐ。
汚い言葉をこれ以上注ぎ込まれたくなかった。サガルが受けるべきものじゃない。
「大切なあの馬鹿女のことはいいのね! お前がわたくしに尽くさないなら、もう殺してしまって構わないんだから。そもそも、お姉様の子なんて生かしておく必要はないのよ。死体をお前の前に引きずり出して、内臓を食らってやるわ! いいのね、お前は自分の妹を見殺しにするのよ!」
それではまるでサガルは私のために今まで責め苦に耐えてきたようじゃないか。私を守るために、あの女の言う通りに振舞ってきた?
目の前のサガルはゆっくりと目を細めて、笑う真似をした。
それだけで、サガルが私に悟らせないようにしていたことを察してしまう。仕事だと、社交だと言っていた。
けれどそれは方便で、本当は私を守るために淡々とこなしていたのか。
あの女は何度も私を殺そうとしている。サガルとの約束は守られていない。それでも、従うしかなかったのか。彼女は王妃だから。権力と人を集める美を持っているから。私が無力だから。
対抗できる力が私にはない。それどころか卑屈で社交嫌い、性格も捩くれていて敵を作りやすい。そんな女のためにサガルはぼろぼろになっていたのか。
誰も助けてくれなかった。
こんな簡単なことなのに。
馬鹿だ。馬鹿すぎる。サガルの言葉にいい気になって、浮かれて、本質を見抜けていなかった。
酒を浴びるほど飲んで正気をなくすほど追い詰められているのに、恐ろしいと警戒してばかりだった。ここに閉じ込めたのだって、サガルなりに思うところがあるのかもしれない。ギスランを撃ったのも、あの女の手下だと勘違いしたせいなのではないか。
そう理由をつけても、サガルを許せない自分がいた。ぐちゃぐちゃな感情を丸めて捨てるように力を込めてしがみつく。
「サガル、人殺しになんかなりたくないでしょう? 母と一緒に遊びましょう? ねえ、出てきて……」
サガルを誘う魔女の声だ。悪徳へと誘う悪魔の囁き。耳を傾けて仕舞えば最後、骨の髄まで貪り尽くされる。女はあらゆる感情を揺さぶり、サガルを意のままに操ろうとしている。
男にも女にもサガルの体を売り渡して、自分の虚栄心を満たしたいらしい。目が潰れるほどの美しさを持っているのに、周囲に飽きられている。その途方もなさに愕然とする。あの女は、美しさが霞むほど交わり、溺れていたのだ。美人は三日で飽きる。
どれほどの美姫でも、慣れには勝てない。人は飽きる生き物だ。愛や恋にも倦怠期が訪れるように、永遠なものはない。
「お前は兄達のようにわたくしを見捨てたりしないわよね? ……おぞましい女だと軽蔑していないでしょう? 早く、顔を見せて。安心したいのよ」
女の声がいつまでも響く。耳を塞いだまま、私達は縮こまり、嵐が過ぎ去るのを丸まって待った。
隙間風が吹き付け、腕で胸を隠し暖を取る。
階段の壁には蜘蛛の巣が張っていた。手をつけると網状の銀糸が張り付く。指で取ろうにも絡まって、上手く外せなかった。
下に下に、ただ歩んでいく。
先導するリュウが少し振り返り、私とサガルの歩調に合わせる。
たどり着いたのは、赦しをこう男の像の前だった。像の頭を許すように撫でると、壁が歯車のような音を立てて動き始める。
大きな樅の木が立った丘が見えた。草花がそよいでいる。太陽の光は満遍なく大地に注がれていた。天を見上げて、思い直す。これは人工的な光だ。太陽光ではない。太陽の臭いがしなかった。洋燈の光のような臭いがする。
土を運んで種を蒔き、ここで育てたのだろうか。木はすくすくと成長し、立派な葉をいくつも吊り下げている。
ゆっくりと人影が近付いてくる。その姿は近づくごとにどんどんと大きくなっていく。サガルの眼前に来た時にはすでに顔を上げても、視界に頭が入りきらなかった。首のところできれてしまう。
首が木のように伸びた毛むくじゃらの男だった。サガルに一礼すると、長い首筋を晒すような格好になる。そして、すぐに顔をあげる。長い棒がそのままぶんぶんと振り回されるような威容に足が後ずさる。
男は恐れを抱かれたと思ったのか、おずおずと私に花を差し出した。甘い香りのする桃色の花だった。
「ありがとう」
サガルが声をかけると、また頭を下げて踵を返す。ここは彼らのような人間のための楽園なのだろうか。穏やかに吹く風が毛むくじゃらの男の髪を揺らしている。
「こっちに来て」
サガルが手を引いた。リュウの姿はいつの間にやらなくなっていた。
サガルに手を引かれるまま後ろをついていくと次々に奇怪な姿をした生き物達と出会った。彼らは温和で、まるで争いを知らないかのようにのびのびと過ごしていた。
人間のような姿をしているもの、していないもの。それぞれ半々といったところだろうか。
馬面の男は足だけが人間に似ていて、足の指が五本あり、踝から前に足が突き出ていた。
逆に鳥のような女は顔は人間で、乳房も人間のものと相違ないのに、太ももから足先にかけて鳥の引き締まり枝のように細い脚をしていた。
目の前を通ると、彼らは作業を止めて軽くお辞儀をする。殆どが花や木に水やりをしている。けれど遊んでいるのか追いかけっこをしている二人組もいた。微笑ましくて、つい目で追いかけてしまい、サガルに笑われてしまった。
「追いかけっこしてみる?」
驚いて首を振る。サガルはますます上機嫌になる。
「僕達は外で駆け回るなんてことできなかったもんね。追いかけっこもしたことがなかった」
サガルの肌は太陽も月も同じように嫌った。それに、私達は塔のなかにいたのだ。外を駆け回る機会なんてなかった。
「あそこで駆け回っている子達はもともと一つに繋がっていたんだよ。体が癒着していたんだ。結合双生児といってね、生まれた時から一緒だったんだ」
だが、今は体がくっついているようには見えない。人の形をした二人が追いかけっこをしている。
「姿は蟹みたいだった。とても優美で左右対称な姿だったな……。清族が僕に内緒で二人を切り離してしまったんだ。貴重な研究材料になると言ってね。両方生き残ったのは奇跡だよ。離れ離れになった双子はどちらか片方か、両方。死ぬ方が多いんだって。離れると悲しくて死んでしまうんだろうね」
サガルは私の手を握って高く手を挙げて振る。気がついた彼らが振り返してくれた。手が銀色の義手だった。右と左の銀色の輝きが重ね合わせるように手を挙げている。
「二人はここを出て施設に送られることになっているんだ。留まればいいと言ったんだけど、二人ならばどんな場所でも生きていけると頑なに信じているみたいだった。外に出ていろいろな場所を見て回りたいんだってさ」
二人でならば……。
幼稚な考えだとはサガルは言わない。ただ、それが実現不可能なことが分かっているのだろう。言葉の奥で仄暗い闇が渦巻いている。
体が繋がっていたからこそ、彼らは二人で一人だった。何もかもを共有して、慈しみあっていられた。切り離され、離れ離れになった今、自我が芽生え二人だけの世界は崩壊していく。そうでなくとも、否応無しに世間に放り出される事になるのだ。
二人だけでは生きていられない。世界はそんなに優しくない。人間はそこまで善良ではない。天国のようなこことは比べ物にならないぐらい活気に満ちていて、乾いていて、歪んでいる。善と悪は渾然一体で、愛情も憎悪も簡単にひっくり返る。
人の世界は不確かだ。もやもやとしたつかみどころのない感情が支配している。理論でも、理性でもない。簡単に崩れて落ちてくる崖のようなもので、誰も近寄り難いのに尖頭に立って覗き込んでしまう魅力に満ちている。
その事にいずれ気がつく。一緒にいられなくなった私達のように。
「僕達はここを見て回ろうか。外の世界なんか見ても面白くないよ。僕達は、僕達だけはずっと一緒にいようね」
サガルにとってここは、癒しの空間なのだろうか。気に入っている美しい生き物。穏やかな気候、緑豊かな自然。揃えられた完璧な人工物達。このなかで一生を過ごしたいのだろうか?
鼻歌をうたいながらサガルが道を再び歩く。私とサガルは手を繋いだままだ。ゆっくりと腕を振り子のようにふった。
幸せで、地獄の中にいるみたいに不幸せだった。相反する感情が爆発しそうなのに、声にすることはできない。
ふふっと笑われる。
「カルディア、大好きだよ」
その日の夜は草木が生い茂る人工的な森の中の小屋で一泊した。サガルは私と体を絡ませてぐっすりと眠った。
翌日にはいつもの籠の寝台の部屋に戻った。寝るときは、いままで以上にくっついて寝るようになった。一緒に生まれたわけでも、同じ腹から生まれたわけでもないのに、サガルと体を触れ合わせると懐かしさでいっぱいになった。いっそのこと、結合双生児のように一緒に生まれてこれればどれだけよかっただろうか。離れたら死ぬのだと思って生きてこれたらどれほどよかったか。
ぼんやりとした頭にイルの声がする。
泣きじゃくり、赦しを乞うている。ごめんなさいと繰り返している。私はおかしい。ずっとずっと昔から、異常をきたしたまま野放しにされている。サラザーヌ公爵令嬢のように表面化しにくいだけで確実におかしいのだ。私も病院に入れられるべきなのに、免れている。
どうしたらいいの、ギスラン。倒れ臥す体に問いかけても、答えは返ってこない。
眠気が訪れない。サガルの腕をそっと外し、床に寝そべる。そうするとギスランが近付いてきて、目の前で止まる。喉から血を流したまま、私に寄り添っている。
急に甲高い叫び声がした。光に誘い込まれる蛾のように声の方に這っていく。どうやら扉の外から声がするようだ。扉は鍵がかっていて開かない。しかたなく、扉に耳をつけて感覚をそばだてる。
「サガル、サガル!」
聞き覚えがある声にぞっとした。あの女がサガルを呼んでいる。甘ったるい、惑乱した声で愛人に呼びかけているように。
「出てきてちょうだい。貴方が来ないと皆興醒めして帰ってしまうの。わたくしが相手すると言っても、無言でいなくなってしまうのよ。……みんな、貴方の新鮮な体がほしくて来てくれているのよ」
顔に影が出来た。起き上がったサガルが私を抱き締めた。扉に背を向けて、私の体ごと丸くなる。仰け反った体を保つためにサガルの首に手を回した。
「なにがそんなに気に入らなかったの? 公爵夫人と寝させたから? あの枯れた女と一夜を過ごすのは苦痛だった? それはそうよね。あの女、香水の臭いで誤魔化しているつもりなんでしょうけど、酷い加齢臭がするものね。そのくせ、精力が有り余っているせいで……ああ、嫌だ嫌だ、鳥肌が立ってきた」
カタカタと体が震えている。サガルはあの女を恐れているのだ。扉越しだというのに、声だけで。
「それとも男爵の倅と交わらせたのがまずかった? 正気を失った彼に酷いことをされたって聞いたわ! でも、大丈夫! あの男には母様も酷い目に合っているのよ。お前だけじゃないわ!」
正気を失っているのはお前の方だと言ってやりたい。なにが自分も酷い目に合っている、だ。
なら、酷い目に合わないように守ろうとなぜ思わないんだ。サガルは血の繋がった実の息子。どうして酷い真似が出来るんだ。
震えるサガルのことがわからないほど狂ってしまったのか?
「ねえ、出てきて、サガル。わたくし達、親子でしょう? 一心同体のはずだわ。お前の痛みはわたくしの痛み。わたくしの痛みはお前の痛み。分け合って生きて生きましょう」
サガルが返答しないことに焦れたのか、ぐずぐずと鼻を鳴らし、縋るように涙声を出す。
「嫌いになってしまったの? わたくしにはお前しかいないというのに? 寂しいわ、サガル。顔だけでも見せてちょうだい」
嫌だと、首筋の近くでサガルが返答する。
大声で返すことが出来ない。首に回った腕に力を入れる。弱々しい抵抗に、歯を食いしばるほどの怒りを覚える。
「……どうしても、会いたくないのね。こんな場所にわざわざ出向いてやっているというのに?! お前を塔から出すんじゃなかった! あそこでのたれ死んでいればよかったんだ。恩知らずめ!」
泣き落としは通用しないと悟ったのか、汚い言葉でサガルを罵る。サガルの耳を塞ぐ。
汚い言葉をこれ以上注ぎ込まれたくなかった。サガルが受けるべきものじゃない。
「大切なあの馬鹿女のことはいいのね! お前がわたくしに尽くさないなら、もう殺してしまって構わないんだから。そもそも、お姉様の子なんて生かしておく必要はないのよ。死体をお前の前に引きずり出して、内臓を食らってやるわ! いいのね、お前は自分の妹を見殺しにするのよ!」
それではまるでサガルは私のために今まで責め苦に耐えてきたようじゃないか。私を守るために、あの女の言う通りに振舞ってきた?
目の前のサガルはゆっくりと目を細めて、笑う真似をした。
それだけで、サガルが私に悟らせないようにしていたことを察してしまう。仕事だと、社交だと言っていた。
けれどそれは方便で、本当は私を守るために淡々とこなしていたのか。
あの女は何度も私を殺そうとしている。サガルとの約束は守られていない。それでも、従うしかなかったのか。彼女は王妃だから。権力と人を集める美を持っているから。私が無力だから。
対抗できる力が私にはない。それどころか卑屈で社交嫌い、性格も捩くれていて敵を作りやすい。そんな女のためにサガルはぼろぼろになっていたのか。
誰も助けてくれなかった。
こんな簡単なことなのに。
馬鹿だ。馬鹿すぎる。サガルの言葉にいい気になって、浮かれて、本質を見抜けていなかった。
酒を浴びるほど飲んで正気をなくすほど追い詰められているのに、恐ろしいと警戒してばかりだった。ここに閉じ込めたのだって、サガルなりに思うところがあるのかもしれない。ギスランを撃ったのも、あの女の手下だと勘違いしたせいなのではないか。
そう理由をつけても、サガルを許せない自分がいた。ぐちゃぐちゃな感情を丸めて捨てるように力を込めてしがみつく。
「サガル、人殺しになんかなりたくないでしょう? 母と一緒に遊びましょう? ねえ、出てきて……」
サガルを誘う魔女の声だ。悪徳へと誘う悪魔の囁き。耳を傾けて仕舞えば最後、骨の髄まで貪り尽くされる。女はあらゆる感情を揺さぶり、サガルを意のままに操ろうとしている。
男にも女にもサガルの体を売り渡して、自分の虚栄心を満たしたいらしい。目が潰れるほどの美しさを持っているのに、周囲に飽きられている。その途方もなさに愕然とする。あの女は、美しさが霞むほど交わり、溺れていたのだ。美人は三日で飽きる。
どれほどの美姫でも、慣れには勝てない。人は飽きる生き物だ。愛や恋にも倦怠期が訪れるように、永遠なものはない。
「お前は兄達のようにわたくしを見捨てたりしないわよね? ……おぞましい女だと軽蔑していないでしょう? 早く、顔を見せて。安心したいのよ」
女の声がいつまでも響く。耳を塞いだまま、私達は縮こまり、嵐が過ぎ去るのを丸まって待った。
0
あなたにおすすめの小説
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
逃した番は他国に嫁ぐ
基本二度寝
恋愛
「番が現れたら、婚約を解消してほしい」
婚約者との茶会。
和やかな会話が落ち着いた所で、改まって座を正した王太子ヴェロージオは婚約者の公爵令嬢グリシアにそう願った。
獣人の血が交じるこの国で、番というものの存在の大きさは誰しも理解している。
だから、グリシアも頷いた。
「はい。わかりました。お互いどちらかが番と出会えたら円満に婚約解消をしましょう!」
グリシアに答えに満足したはずなのだが、ヴェロージオの心に沸き上がる感情。
こちらの希望を受け入れられたはずのに…、何故か、もやっとした気持ちになった。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
家出を決行した結果
棗
恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。
デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。
自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。
※なろうさんにも公開しています。
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる