encore

夏目

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 姫様。
 わたしはあなたのことをお慕い申し上げております。
 父の押し付けてきた縁談も、言い寄ってくる男どもも、全てわたしの目には入りません。
 姫様。可愛らしくて、愛らしい貴女。
 真っ直ぐな眼差し。熟れた林檎のような頬。なだらかな円を描く艶やかな唇。
 細過ぎて折れてしまいそうな腕の柔らかさと言ったら! 
 心配過ぎて、貴女を支える杖になりたいぐらいです。
 わたしは心配でたまりません。
 姫様は、誰よりも可愛らしい。だから、他の貴婦人どもに虐められているのではないですか? 
 純粋な姫様をどこぞの淫婦が誑かしているのではありませんか?
 王都の深い煙は、姫様には毒でございます。
 決して内腑に入れて、内側から腐らせちゃいけません。
 他の女の香水の臭いも、甘いスコーンの香りも、姫様を甘く蕩かせる毒でございます。
 姫様は、ローズマリアで一生過ごしましょう。
 王都には足りないものが、あの場所にはございます。
 ああ、泣かないで。
 大丈夫、わたしが姫様のことをせせら笑った女どもを懲らしめて参りますので。
 わたしは姫様のたった一人の味方です。裏切ったりなんかしません。
 命ある限り、姫様のために身を尽くします。

 熱っぽく書かれた文字が急に無機質なものに変化する。
 変遷をなぞるように、文字をなぞる。

 猫が一匹死んだ。
 呪いに使った。
 姫様を虐めた奴は、死んだに違いない。路地裏の猫。鼠を狩るのが上手な、姫様に可愛がられていた猫。
 そういえば、父にお願いしたことは進んでいるだろうか。
 姫様は世界で一番可愛らしい。なのに、ローズマリアにある屋敷は彼女に似合わない粗末なものだ。
 だから、父の財を使って、彼女の可憐さに見合う住む場所を整えたい。
 薔薇だらけの庭園や広い寝室。磨かれた食器達。彼女の生活を彩るものを、洗練された、輝かしいものにしたかった。
 父はわたしに頭が上がらない。口でわたしに勝てず、頭でもわたしを負かすことが出来ないからだ。
 男に産まれていればと嘆かれた。完璧な跡取りになれたのに、と。
 ふと思うことがある。自分が男だったら……?
 きっと、どんなことをしても姫様を手に入れ、甘やかしただろう。
 欲しいもの、似合うもの、全て彼女のものにした。
 彼女にはその権利がある。可愛らしさは罪だ。姫様はその罪を背負って生きている。健気で、可愛らしい方。
 父に手紙を書こう。
 やってくれるまで、何度も、何度も。
 姫様の真っ赤なドレスを想像する。
 血よりも濃い、シースルーの真紅。唇の色も同じにして、きつめのシャドウをまぶたの上に乗せる。
 姫様のために別荘を用意したい。
 海が見える絶景な場所がいい。白いワンピースと麦わら帽子も姫様にはよく似合うに違いない。

 姫様を着飾り続けるのがわたしの責務。わたしの仕事。わたしの生きがい。


 パタリと手記を閉じる。
 もうずっと読み続けた愛読書。諳んじれるのに読んでしまうのは、この本が心に棲み着いているからだ。
 もうすぐ、嵐がやってくる。
 空が黒く変色し、気味な風は顔を叩くように過ぎていく。遠雷が響く。雨の臭いが鼻をつんと揺さぶった。

「……姫様、ね」

 己が出来る人間だとは露ほども思ったことがない。ただ、引力でもあるかのように、この口と頭は相手を翻弄し意のままに操ることが出来た。農奴を操るのも、商人をいなすのもお手の物だ。両親はその才を買い、貴族の遊び相手に選んだ。今もなお、その遊戯は続いている。
 まるで、この手記は自分の生まれ変わりなのではないかと思うことがある。男として産まれてこなかったわたしが、男として蘇ったのだと。
 やめどきは今なのかもしれない。
 だが、やめる気は無かった。執着が去らない。いつまでも幼い頃の妄執が抜けない。
 これから起きることは変えられないのだろう。
 ごうごうと風が吹く。そっと窓を閉めて嵐に備えた。



●●●


 マリアナが病気で来られない。
 そう聞いた時はたしかに落ち込んだ。だが、せっかくオペラを観に来たのだ。楽しまなければ、席を取ってくれたマリアナに申し訳ない。

「ロイドは観劇によく来るの?」
「いや……。体が弱くて、あまり外には出ないんだ」
「ならば、何が好き? 私は、庭で寝そべることが好きよ。太陽の日差しのなか、綺麗な蝶が舞うの。宝石のような蝶々なんだよ」
「……! ジュディは、蝶々が好きなの?」
「好きよ。美しいもの!」
「僕も、好きだ。光沢のある翅がひらりと宙を舞う。その姿を夢想するだけで心がいっぱいになる」

 マリアナの婚約者であるロイドはとても人が良かった。蝶の標本が趣味で、今度見せてくれると約束してくれた。
 ロイドの赤らんだ頬は林檎のように火照っていた。観劇前の興奮だけとは思えない。

「俺も好きですよ。と言っても知識があるのは養蜂だけど」
「養蜂?」
「俺の家はそもそも農家なので。爵位は金で買いましたけど、農地の管理は今でもやってるんですよ」
「そ、そうなんだ……。いいなあ。僕も一度でいいからそんな暮らしをしたいな」

 カドックは分かりやすく眉を上げる。その態度に、ロイドは縮み上がったようだ。威嚇しているような眼差しだった。

「農家なんてろくなものじゃない。なろうとなんて、思わないことですね。大変過ぎますから」
「……ご、ごめん。軽率だったね」
「カドック! 言い方が悪いわ! ロイド、誤解しないで。農業は難しいの。日照りや旱魃ですぐに作物が駄目になってしまうから」

 すぐに間に入ったが、ロイドは萎縮したままぼんやりとした返事しかかえさなくなった。観劇が始まり、中休憩に入ると、ロイドは体調が優れないからと言ってそそくさと帰ってしまった。

「ど、どうしてこんなことになるの……」
「どうしてでしょうね。不思議だなあ」

 カドックはロイドのことなんてお構いなしだ。どうでもいいと思っているに違いなかった。気にする素振りも見せない。
 親友のアリアナの婚約者。今後も付き合っていく大切な人なのに!
 一人納得出来ない気持ちを抱えながら、カドックを見る。もうすでに彼の関心はロイドから移ってしまっていた。

「お嬢、俺、オペラの良さが全くわからなかったんですけど。そのオペラグラスで観ると違います?」
「もう! ……面白くなかったの? 鬼気迫る恋愛模様なのに?」

 婚約者のいる男が娼婦にうつつを抜かし、骨抜きにされる物語だ。
 男は娼婦に気に入られる。だが、女の心は秋のように移り変わった。すぐに男を捨てて別の男の元へ。うち捨てられた男の独白で、前半は終わった。
 これから、男が女を取り戻しに行くのだろう。後半の展開に胸が高鳴る。

「歌ってるなーって感じっすね。歌詞は繰り返しだし、薄っぺらくないですか?」
「ば、馬鹿! 観客に分かりやすくしてあるの! それに音が加わるとまた違うでしょう?」
「違いますかね? ……私の目を見て。私に落ちない男はいない」

 カドックは娼婦の歌詞を歌い上げながら、ジュディの腰を掴んで引き寄せた。女性パートを男性声で喋っているので、音程が外れているが、悪くない。
 掠れるような甘い声で歌い上げられる。

「う、上手い……。カドックもオペラ歌手になれるね」
「こんな歌でいいんですか? 変なの。お嬢も歌って下さいよ」
「う、歌っても笑わない?」
「下手だったら笑いますね」
「じゃあ、だめ……」

 音痴ではないが、もし笑われたらと思うと勇気を出すことが出来なかった。カドックはそんなジュディを知っていた、とでもいいたげに目を細めて笑う。親しげな笑顔にもじもじしてしまう。どうしてか、カドックの顔を見れない。
 正装をしているからだろうか。
 カドックのために仕立て上げられた紳士服は彼をきちんとした貴族の男にしていた。
アールグレイのような鮮やかな紅茶色の背広に、白シャツ。蝶ネクタイは緑がかっており、単調な合わせに刺激を与える。スラックスのシルエットはストンと落ちるように細く、足の長さを強調していた。
 もともとカドックは農民とはいえ、国王に気に入られ、爵位を持つ貴族の子息だ。兄がその地位を継いでいるが、彼もまた貴族に違いはない。農民の出と言われても臆さず、気負いもしない。カドックは上等な服を着ていても、カドックを貫く。そのぶれない心が逆に高貴な貴族らしかった。
 事情を知らなければ、美男子だ。もてはやされているに違いない。

「……お嬢、なんで照れてるんです? 腰抱いているから?」
「……そう。恥ずかしくなってきたの」

 目の前の顔がかあっと赤くなっていく。体が離れていった。さっきまでジュディの腰に回っていた手が、今度はカドックの顔を隠している。

「お、俺も恥ずかしくなって来たじゃないっすか」

 肌に羞恥の色がのる。ジュディはますますカドックの顔が見れなくなってしまった。

「お嬢、まだ続き観ます? せっかくですし、抜け出して見回ってみませんか?」
「抜け出すって……オペラを?」
「王都には面白いものがいっぱいありますから。他を見て回りましょう?」
「それは困るなー」

 ゆったりとした声がカドックを遮った。天鵞絨のカーテンを背にして、カインとアベルが寄り添って立っていた。

「俺達とお話しましょう、ジュディ」
「ついでだ、カドック君もついておいでよ」

 二人の足が揃って開く。静止を促しても二人はとまらなかった。仕方なく、カドックとともに背中を追う。向かう先は劇場で最も目立つボックス席。舞台袖に最も近い場所だった。
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