文明トカゲ

ペン牛

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一 啓示の女

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 僕は子供の頃から、人といると決まってこう聞かれる。
『遠くの方見てるけど、何を見てるの?』
 子供の頃は、正直に見ているものを答えていた。
『黒い服を着た女の人だよ』
 その女が僕にしか見えないものである、ということにはすぐ気づかされた。気づかされてからはちょっとぼおっとしてた、とか、天気がどうなるかなぁと思って、とか、とにかく適当な誤魔化しを口にするようになった。
 女の姿はどれだけ遠く離れていてもはっきりと見えた。けれど女が着ているものの正体が外国の喪服であると判明したのは遅く、中学生の時だった。女の顔を見たことは一度もない。常にベールで覆われているからだ。
 女は常に何かを指さしている。常に僕の遥か遠くに現れるが、何を指さしているかはどうしてか、わかる。それが人であれ物であれ、僕にとって害となるものである、ということは共通していた。
 だから僕は女が指さしたものを避けていればよかった。そうすれば嫌な思いも辛い思いもしないで済む。避けられないこともあったが、その場合もこれから悪いことが起きる、と覚悟することができた。その女は僕にとって、平穏な人生の指針そのものだった。だが、それでも、

 ――ねぇ、あの人いい感じじゃない? 声かけてみようかな――
 ――え、声かけるって、あの人女の人じゃないの?――
 ――嘘、女の人!? あ、でもよく見たら――
 ――なんであんな恰好してるんだろ、紛らわしいよね――
 ――ほんと~、っていうか女相手にドキドキするとか最悪なんだけど――
 ――どんだけサカってんだよって感じだよね――
 ――ちょっと本人の前で言う? 普通さぁ――

 生きることは、とても、鬱陶しい。
(……せめてもうちょっと声落としてくれないかな)
 こういう時、決まって僕は息を潜める。臆病さと、何より異常なのは僕の方だ、という自覚。二十年に満たない僕の人生の中で、この二つに打ち勝った記憶はない。ただ通り過ぎるのを待つ。ほら穴に飛び込んで滝のような雨から逃れる狐のように。
(なんでもいい、別のことを考えよう――そうだ、ビベリダエには今日どのくらいお客さんが来るだろう)
 ビベリダエというのは僕のバイト先で、海野さん夫妻がやっている喫茶店のことだ。大学進学のために上京した僕は、引っ越し先の町を探検している時に海野猛さんの奥さん――雪子さんと出会った。
『本当に助かったわ。ありがとうね。お兄さん』
 買い物袋が破れて困り果てていた雪子さんを、僕は助けた。助けたといっても破れた買い物袋の中身をリュックに入れて家まで運んだだけだ。しかし、雪子さんにとってそれは感動に値する出来事だったらしい。
 雪子さんの家へと向かう道中で、僕達は世間話をした。まずお互いに名前を名乗り、そして今自分がどんな立場にあるのかを教え合った。雪子さんは今五十三歳で、同い年のご主人と喫茶店を経営していると言った。僕が学生で、上京したてであり、いいバイトはないか探しているところだ、と言うと、雪子さんは、
『まぁ! それじゃあうちで働いてくれないかしら。お給料はそんなに高くないけど、お客さんはあまり来ないから、学生さんにはちょうどいいんじゃないかと思うの』
 お兄さんみたいな礼儀正しくて優しい人がお店を手伝ってくれたら、主人もきっと助かるわ――雪子さんはそのように続けた。本来僕はお兄さんと呼ばれることと、お姉さんと呼ばれることのどちらにも違和感がある。けれど雪子さんの口から出るお兄さんという呼びかけは、不思議なほどしっくりと馴染んだ――自分の口で訂正しなければならないことを寂しく思うほどに。僕はなけなしの勇気を振り絞って、自分は女なのだ、と雪子さんに告げた。すると雪子さんは、
『あら、女の子だったの!? 信じられない――今の女の子ってすっごく恰好いいのねぇ! びっくりしちゃった』
 雪子さんは、屈託のない笑顔でそう言った。救われた、と思った。些細な、あまりにも些細なことだけれど、それでも僕に絡みついた無数の呪いのようなものの一つが、その時確かにほどけたと感じたのだ。僕はその場で、是非ご主人のお店で働かせてください、と雪子さんに言った。
『あら、いいの!? てっきり断られると思ったんだけど――ありがとうね、えっと、楓ちゃん、でいいかしら?』
 今までは、ちゃんも君もつけてほしくはなかった。しかし、いや、やはりというか、雪子さんが僕の名前につける、ちゃん、は特別な響きで、僕はそれを自分でも信じられないほどあっさりと受け入れた。
(あぁ、そうだ。あそこに、あそこにさえ行けば、僕は、僕でいられる)
 講義室を後にする。その時、声が聞こえてくる。

 ――あれ、男女? 女男? ま、いっか、どっちでも――

 男の声だった。無視をして、早歩きでその場を去る。なんでもよかった。ここから離れることさえできれば、もうなんでもよかったのだ。
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