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一の段
六
しおりを挟む床板に一枚敷いたぼろの畳の上で、落窪はふと目を覚ました。曹司は闇に包まれていたが、細く開けた妻戸から差しこむ月明かりのおかげで、落窪には室内の様子がわかっていた。何せ落窪は、長年燈台すらない暮らしをしているのだ。かつては吸いこまれるような夜闇が怖く震えていたこともあったが、暗い夜にはとうに慣れた。妻戸を開けておくことで明かりを取りこめることに気がついてからは、雨風のない日はいつも、戸を閉め切らないようにしていた。常人には心もとなく感じる柔い月明かりでも、落窪にとっては燈台の火と同じくらい眩く頼りがいのある光なのである。
月明かりを頼りに幾度か部屋の中を見渡したが、縫いかけの袴が見当たらない。きっと、阿漕が縫い上げて持って行ってくれたのだろう。あるいは、小納言か弁の君か。二人とも北の方付きの古参女房だが、落窪の境遇を気の毒がって、たまに手伝いに来てくれるのである。落窪はありがたさにそっと両手をあわせる。あれは蔵人少将の表袴(うえのはかま)(束帯(そくたい)のときに着る袴。束帯は出仕時に着る装束)であり、早急に仕立てるよう強く言いつけられていたのだ。
我が家では蔵人少将をたいそう心をこめてもてなしているようだ、ということは、屋敷から出ない落窪にもわかる。大君や中君が結婚したときとはまるで違う。それほど蔵人少将という方は素晴らしい人物なのだろう。
自分とはまるで異なる境遇のその公達に思いを馳せながら、落窪はふたたび目を閉じた。立派な蔵人少将様と比べて自分はどうだ。身体の奥がむず痒く、明日、明後日にでも発情期が始まろうとしている。
男の身のくせに男を欲しがる淫乱になり下がる。それは、落窪にとって何より悍ましい身体の変化であった。
(嫌だ……嫌だ……)
二年前の北の方の形相が、落窪に駆けつけた屋敷中の面々の不快そうな目つきが、火照った脳裏をめぐる。あんな視線にさらされるのはもう嫌だ。そう呟きながら、落窪はふたたび寝入っていた。
「ふむ。全体的に素晴らしい。しかし、ここの合わせの縫いは手が乱れているように感じる。実にもったいない」
美意識の高い蔵人少将は、自身の慧眼を語りたがる癖があった。そこで、仕立てられた袴をとくと観察し、いまひとつの点を指摘する。三の君は顔を赤くしながら「うちの女房に強く言っておきますわ!」と語気も荒く返した。
庇の隅に控え、夫婦の会話を聞いていた阿漕は、憤りを隠すのに必死だった。
(姫様を女房扱いするなんて……!)
そして同時に、自身の手抜かりに舌打ちした。蔵人少将が指摘したところは、阿漕が縫い上げた部分だったのだ。阿漕とて縫い物が下手なわけではない。落窪に縫い物を教えた師でもある。しかし、落窪の技がたいそう素晴らしいがゆえに、相対的に阿漕の縫った部分が下手に見えてしまったのだった。
三の君はおそらく、落窪をひどく責めるだろう。落窪に落ち度がないことを伝えたいが、そうすると自分が手を貸したことがばれてしまう。ともすると、ますます落窪は辛く当たられるに違いない。黙っていることしかできない自分に腹が立つ。
しかし、もっとも許せないのは、蔵人少将の言葉を聞いた北の方の言いざまである。
「蔵人少将殿が袴の出来栄えを褒めていたことを決して落窪に言うのではないよ。調子に乗るからね。ああいうのは自信を持たせないほうが使い勝手がいいんだ。一度褒めたらきっと、じいさんになっても慢心し続けて技術が落ちる一方に違いないんだから。だから落窪には一生不出来なところだけをあげつらってやるほうがあの子のためなのさ。わかったら、落窪には蔵人少将殿に叱られたことだけ伝えなさい」
それを聞いた他の女房たちのなかには「ひどい言いようだわ」と落窪のことを哀れむ者もいたが、北の方に言われては誰もが口をつぐむしかないのだった。しかし、阿漕は違う。
「蔵人少将様が姫様のお仕立てを褒めてらっしゃいましたわ」
その日の晩、床に伏した落窪にそう伝えると、彼はとても嬉しそうに笑った。中納言家の面々は、落窪の縫い物を褒めたためしなどないからだ。
「蔵人少将様は、とても素敵な方なんでしょう? そんな人に褒めていただけるなんて気が引けるけれど……」
(あなたに恋文を送った右近中将様のほうがよっぽど人気のある方ですよ)
あれからも右近少将から文は届いていたが、落窪は見ようともしなかった。それどころか、北の方に露見することを何より恐れ、すべて焼いてほしいとまで言っていた。
しかし、北の方の言い草だと、落窪を一生子飼いにするつもりのようだった。今を逃せばもう落窪を助け出せる人間は現れないかもしれない。こんな機会は二度とないのだ。
阿漕は拳を握って、ある決意を固めた。
それから数日後。炎天下のなか、中納言家の面々は石山寺に参拝に出かけた。京からの道のりは長く、当然泊まりがけである。以前落窪が縫っていた姫君たちの晴れ着は、この日のために用意したものだったのだ。
落窪は当然のように置いていかれた。この時代、京から琵琶湖のそばに建つ石山寺までの道のりは、片道だけで一日がかりの大旅行であり、屋敷に引きこもってばかりの女たちにとって、旅は一世一代とも言える大きな行事だったので、女房たちはこぞって同行したがった。美しい女房を大勢連れ、派手な行列をなして行くことは、中納言家の見栄にもなる。そのため、北の方は極力たくさんの女房、従者たちを連れていけるよう采配したので、希望した者はたいてい同行を許された。もちろん、道中を警護する侍たちもたくさん用意する。手配された牛車は十台にものぼり、たいそう華やかな行列になった。
阿漕も同行するよう言われたが、阿漕は落窪がいない旅など行くつもりはなかったので断りを入れていた。
「おまえはそうやって、落窪に義理立てしているんだろう。それとも落窪がおまえに行くなと命令したのかい?」
落窪がそんなことを言うはずがなかった。むしろ、自分のことを忘れて羽根を伸ばしてきたらいいとさえ言ったのだ。黙っていると、北の方はふっと嘲笑した。
「あの子は縫い物さえしていればいいんだから、留守役が似合いなんだよ。だいたい落窪のような女装した醜男なんて、世間様に晒すのが恥ずかしくて連れだって歩くなんてごめんだろう?」
なんのために彼が似合いもしない女の格好をしているのか。悔しくて悔しくて、顔から作り笑いが消えそうになるのを阿漕は必死にこらえた。
「いいえ、あたし、本当は一緒に行きたいんです。でも、北の方様もご存じのとおり、あたし、新婚なのですわ。夫が、あたしと数日でも離れるのは嫌だってうるさくて……」
「そんなこと言うのは新婚のうちだけだよ」
夫に恋人を作られたあげく忘形見を引き取らされた北の方は、憎々しい口調で吐き捨てたが、かくして阿漕の留守役はかなった。彼女はこの三日のうちに、ある目的を果たすつもりだった。
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