ETERNAL CHILDREN ~永遠の子供達~

ラサ

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02 新しい世界

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 ひっきりなしに届く不快な音が、覚醒とともに大きくなっていく。
 それはマナにとっては、紙が散らばる音に聞こえた。たくさんの紙が、床に落ちていく音。心の何処かで、それは違うとも思っていたが、他に思い当る音を知らなかった。そんな音を聞きながら、マナはゆっくりと瞳を開けた。
「――」
 はじめに視界に映ったのは、薄暗い天井の壁だった。
 光の明度も彩度も、マナが今まで見たことのないものだった。
 まだ夢を見ているのかもしれない。そう、マナは感じた。何故、こんなに暗いのだろう。さっきまで、あんなにも明るかったのに。
 二、三度瞬きをしても、マナに視界の光の加減は変わらなかった。
 だが、背中にあたる、ベッドの感触が違う。
 体に触れているシーツの感触も。
 奇妙な違和感が、徐々にマナの意識を覚醒させていく。

(何かが違う)

 五感の全てが、訴えかけていた。
 マナは飛び起きた。
 そして、視界にその少年を見いだして驚く。
「――」
 見たこともない容姿だった。彼女が今までに見た人間やクローンは皆髪も瞳も黒かったのに。
 だが、ここにいる少年は違う。銀の髪に赤い瞳。抜けるような白い肌を持っている。
「あなたは、誰 ?」
「ユウ」
 低い声で、少年は名を告げた。端正な容姿は、まだ少し、少年らしいあどけなさを残している。
「ここは、どこ?」
「ドームの外だ」
「え!?」
「ドームの外だ」
 繰り返し、少年は言った。それでも、マナはその言葉が信じられなかった。
 さっきまで自分はドームにいたのだ。それなのに、どうして。
 マナの思いを察してか、少年は身体を預けていた壁面の布から身体を離し、それをざっと横に引いた。
 布のかけられていた壁にはそのままガラスをはめこんである。
 この剥出しの作りは、何世紀か前の物だと彼女は確信する。
 そしてその向こうには、彼女のまだ見たことのない世界が拡がっていた。

「嘘……」

 思わずベッドから立ち上がり、窓に駆け寄り、そのまま立ちすくむ。
 薄闇よりも濃く影を落とす巨大な闇が見える。
 それは全て前世紀の遺物だった。
 かつては繁栄を極めただろう高く聳え断つ建造物は、今は見る影もなく廃れ、錆びれ、崩れかけている。今いるこの部屋も、それと同じ廃墟なのだろう。
 宵の薄闇の中、聞いたことのない騒めきがひっきりなしに耳にこだまする。
 窓の端に映る、外に蠢く巨大な影。
 マナの恐怖はいよいよ高まる。
「いや…あたしを帰して。このままじゃ死んじゃう、ドームに帰して…」
「死ぬ? あんた、病気なのか?」
 訝しげにユウが問う。しゃがみこんだマナに、近づいてくる。
「いや、傍に来ないで…」
 恐怖で、マナは混乱していた。
 その眼差しを、少年は強ばったような青ざめた顔で見ていた。
「俺が恐いのか? あんたたちとは違う姿だから、恐いのか?」
「――」
「でもこの姿は、俺が望んだものじゃない」
 ユウは苦々しげに顔を歪めていたが、今のマナにはそんなことを思いやる余裕はなかった。
 その時、一枚ドアの向こうで声がした。
 ユウが振り返る。
 マナはいよいよ身を竦める。
「ユウ、帰ってきたのかい」
「おじいちゃん」
 ドアが片側だけ奇妙に斜めの角度で開いた。
 部屋に入ってくる人物を見るなり、マナは悲鳴をあげた。
 薄汚れた見慣れぬ型の長衣を身に纏い、長い杖を持った老人の姿は、マナの瞳には異様にしか見えなかった。髪は見事な白髪で、同じく白い髭が顔の下半分を覆い胸までとどいている。
「おやおや、嫌われてしまったようだの」
 さほど気にしたふうもなく、老人は微笑った。微笑うとかすかに見える皺のある肌に、さらに深い皺が刻み込まれる。
 だが、マナは顔を両手で覆ったまま震えている。
 声を殺して泣いているようだった。
 老人はその様子を眺め、それからユウに視線を向ける。
「ユウ、その子のお守りはおまえに任せることにしよう」
「おじいちゃん!!」
「私を当てにしていたのかい? それは見当違いというものだよ。私は反対した。おまえは聞かなかった。おまえの行動は、おまえが責任をとりなさい。お休み」
 ゆっくりと杖に体重を預け、老人はユウに背を向けて、来たときと同じに静かに部屋を出ていった。
 ゆっくりと、ユウはマナを振り返った。
「マナ、泣くなよ。おじいちゃんは恐くない。優しい人だ。それに俺、あんたを殴ったりとか、そういうことしたりしないよ」
 優しくかかる声。だが、マナは泣きじゃくったまま首を振り続ける。
「いや。いや。帰りたい。博士のところに、フジオミのところに帰りたい」
「マナ…」
 自分にのびてきた手を気配で感じ、マナは心底怯え、身を竦ませた。両手で顔を隠し、少しでもこの恐怖から逃れる術を探した。
 だが、震える身体は、やがて何の危害も与えられないことを訝しみ、恐る恐る顔をあげた。
 ユウはそこから動かずに、じっとしていた。目が合うと、振り切るように視線を逸らす。
 マナは、自分の反応に傷ついた顔をしたユウに、驚いた。
 それは、高ぶっていた感情を落ち着かせるのに、十分だった。
 涙が、いつのまにか止まった。
 そのまましばらく、マナは少年を凝視し、少年は唇をきつく咬んだまま顔を背けていた。
 彼は別に、危害を加える気ではないのだ。自分一人が恐がっているだけなのだ。そう理解すると、まだ少し恐怖は残ったが、心には余裕ができた。
 ユウは動かない。
 マナはゆっくりと立ち上がり、ユウのそばへと近づいた。
 実際に行動することで確かめると、今度は疑問が浮かぶ。

 なぜ彼は、自分をここへ連れてきたのか。

「…ユウ…?」
 それでも、ユウはマナを見ようとはしなかった。
「俺はただ――」
 ためらうような低いユウの声が、マナの心に素直に届いた。
「あんたと、話をしたかったんだ――」
「ユウ…」
 ユウはとても淋しそうに見えた。
「ここには、あなたたちしかいないの?」
「ああ」
 では、無理もない。あんな奇妙な人物と二人だけなんて、自分になら耐えられない。
 ひとりよがりな解釈を、マナはした。そう考えると、彼女はユウが可哀相になった。
「ひとりだったの?」
「ああ」
「淋しかったの?」
「ああ――」
 ゆっくりと、マナはユウへ手をのばした。
 ユウは動かなかった。
 少し安心して、マナはユウの手を優しく握った。
 ユウは、奇妙な顔つきでマナを凝視している。
 マナはまた少し不安になったが、笑って言った。
「手をつないでいると、あたたかでしょう? 具合が悪くなると、博士にこうしてもらったの。こうすると、淋しくないのよ」
 促されて、ユウはマナの横に座った。手はつながれたままだ。
 不思議なことに、触れた手から、波のように穏やかな感覚が伝わる。そんなことは、今までにはなかったが、それが逆に、マナを落ち着かせた。
「あたし、まだ少しあなたが恐いの。だから優しくして。怒らないで。そうしてくれたら、あたし、あなたといても恐くなくなると思うの」
 ユウは不思議そうな顔をしてマナを見つめた。
「――恐くなければ、俺といてくれるのか、マナ?」
「ええ」
「どうすれば、恐くない?」
 真摯な眼差しを、ユウはマナに向けた。マナは少し戸惑った。
 赤い瞳がじっとこちらを見つめている。見れば見るほど、ユウの容姿はマナには不思議なものに思える。
「――その瞳」
「え?」
「あなたの瞳で見ると、みんな赤く見えるのかしら?」
「――」
 しばしの間をおいて、ユウは声をあげて笑った。その表情は歳相応にあどけなく、マナの恐怖心を残らず拭い去るには十分だった。
「ひ、ひどいわ。あたし、本気でそう思ったのに」
「じゃあ、マナの瞳は茶色いけど、みんな茶色に見えるのか?」
「ち、違うけど、でも、本当に、綺麗な赤だから――」
「綺麗?」
 ユウは訝しげな表情でマナを見つめた。なぜそんなことを言うのかわからないといった表情だった。
「綺麗よ。濁ってない、本当に綺麗な赤。あたしも、こんな綺麗な色だったらよかったのに」
 マナは顔を近づけて、じっとユウの瞳を覗き込んだ。
「ずっと昔には、もっとたくさんの人がいて、ここだけじゃない、海の向こうの別の大陸で生活していたんですって。その人達は、あたしとは違う種で、髪の色も瞳の色も違うの。金の髪や銀の髪、瞳の色は青や緑。あなたみたいな赤い瞳をしていた人も、きっといたのね」
「マナは変わってる」
「変わってる?」
「誰も俺の髪や瞳のことは話さなかった」
「どうして?」
「俺がこの髪と瞳を嫌いだからさ」
「こんなに綺麗なのに?」
「そう面と向かって言ったのはマナだけだ。だからマナは変わってるのさ」
「綺麗なものは大好きよ。だから、ユウの髪も瞳も好きだわ」
 膝の上に頭を預けて、マナはユウへ視線を向けた。
「どうしてかしら。さっきまで、あなたがとても恐かったの。でも、今は違う。何だか、初めて会った気がしないの。懐かしいような気が、するの。変ね。本当に、初めて会ったばかりなのに…」
 話し疲れたのか、いつのまにかマナは微睡み始めていた。睡魔にまけて、目蓋が閉じられた。
「マナ?」
 ユウはそっと名前を呼んだ。だが、返事はない。ユウはマナの顔を覗き込んだ。まだ幼い少女の寝顔に、ユウは苦痛に耐えるかのような表情を向けていた。
「――」
 そうして、朝が来るまであどけない寝顔を見つめていた。


 外が明るくなっていくのに気づくと、ユウはマナを起こさないように静かに抱き上げ、ベッドへと横たえた。そうして、そっと部屋を出た。
 階段を下り、すぐの部屋をノックする。
 返事はないが、ユウはドアを開けた。中に入ると開いたままのカーテンから差し込む光で、すでに部屋は明るかった。
 老人はベッドにはいなかった。窓に斜めに背を向けた揺り椅子に腰を下ろしていた。
 ユウは黙ってそちらの方へと向かった。
 目を閉じていても老人が起きていることに、気づいていた。
 明けてゆく薄紫の中で、揺り椅子の軋む音だけが静かに響く。明るく照らされた老人の顔に、まだそう濃くならない影が優しく落ちた。
「おじいちゃん――」
「気がすんだかね」
 ゆっくりと老人は目を開け、ユウに手を差し伸べた。
 ユウは黙ってその手をとる。
「ごめん、おじいちゃん。俺、悪いことをしたよ」
「誰に対して、悪いと思っているんだね?」
「――」
「ユウ、あの娘はおまえの望むものにはなれんよ。それを、忘れんようにな」
「わかってる――」
 ユウは静かにその場に座り込んだ。
 失われたものを求めるのがどんなに愚かなことか、ユウはすでに知っていた。
「でも、おじいちゃん。マナは、俺の手を優しく握ってくれたよ。朝になるまで、そうしていてくれた」
「――」
「おじいちゃんと同じに、あたたかな、手をしてた……」
 ずっと、欲しいものがあったのだ。ずっとずっと、それだけが欲しくて。
「ちゃんとわかってるよ。子供じゃないもの。俺だってもう、わかってるんだ」
 瞳を閉じて、ユウはそれきり動かなかった。老人は優しく、ユウの髪を撫でていた。





 マナが目を覚ましたのは、太陽が顔を出してからだった。
 いつのまにかベッドに横たえられていたことに気づき、起き上がるとまず窓へと向かう。
 青い空に浮かぶ雲は、流れるように動いていく。
 初めて迎える朝の明るさと、熱、光の強さは、皮膚に心地よい刺激を与えてくれた。
 崩れた廃墟の群れから顔を出す巨大な樹木は濃い緑を風に揺らめかせていた。
「昨日の音は、これだったのね――」
 木々の騒めきも、昨日と違って優しく耳に届いた。
 地は足の長い草が一面覆い尽くし、風の方向を指し示し、靡いていた。
 風に揺れるたびに微妙に色を変える緑達。

「ああ なんて綺麗なのかしら…」

 これまでになく、マナは眼に見える美しさというものを実感した。
 直に見る自然の景色に、これほどまでに感じるものがあるのだということも、彼女は知らなかったのだ。
 もっと身近に、見て、感じてみたい。
 思ってしまえば、後は簡単だった。
 やり方もわからない鍵も、試行錯誤で解いて窓を開ける。
 一斉に風がマナの長い髪を後ろへと靡かせた。
「きゃ――」
 その勢いに、思わず瞳を閉じる。
 眼に見えない何かがぶつかってくるような、そんな突然の感覚だった。
 強いだけの感覚は、やがて身を包むように穏やかで優しいものへと変わる。
 マナは自分の髪が緩やかに背中に触れては離れるのを確認して、瞳を開けた。
 剥出しの手が、風にさらされている。
 開いた指の隙間を、風が抜けていく。
 ただそれだけのことが、マナにとっては風に触れているという重大な現実だった。
 風を感じていることも、全てが夢のようでいて、けれども確かな現実なのだ。
 こうしてここに立っていると、昨日までの自分のいたあの銀色のドームがいかにもつくりものめいた絵空事のようにも思える。
 それほど、マナのこの体験は深い衝撃を彼女に与えたのだ。
「なんて綺麗なの。こんな世界が、あったなんて……」
 チチチと、木々のざわめきの間から聞こえる音。
 マナはどこかで聞いたことがあると思った。どこでだっただろう。
 ばさばさと、梢の間から飛び出したものを見て、マナは納得した。
「〈鳥〉ね! 鳥のさえずりだわ!!」
 以前学習した教科ディスクの中にあった映像を思い出していた。種類はもう覚えていないが、小さな可愛らしい鳴き声は、記憶の隅に残っていたのだ。
「なんていう鳥なのかしら」
 聞いてみようと思って、そこで、はたとマナは気づいた。
 ユウがいない。
 周囲を見回すと、奥のドアは開きっぱなしになっていた。
 顔を出して覗いてみると、そこは長い廊下だった。
 廊下の両脇の壁には、今マナがいる部屋と同じ造りのドアが等間隔に備え付けられていた。
「ユウ……」
 呼んでみたが、返事はない。
 左側に視線を向けると、階下へと通じる階段の手摺りに気づいた。
 たくさんのドアをあけてユウを探すより、まず下へ降りてみようとマナは考えた。
 マナは知らなかったが、この廃墟はかつては多くの人間が宿泊する場所として使われていたのだ。その階だけでも部屋数は多くあった。
 階下へ降りてみると、造りが変わっていた。外へ通じる、これまたガラス張りの入り口がある。広い空間だが、四方にどこへ続いているのかわからない細い通路がたくさんある。 階下へと通じる階段のすぐ隣の部屋の扉だけが開いていることに気づき、マナはそっと覗き込んだ。
 ユウと老人がいる。
 老人は木でできた椅子に座っていた。
 その膝に頭を持たせて、ユウは動かなかった。
 初めて見たときは驚いたが、もう老人の姿に怯えることはなかった。
 どうしてあんなに怯えたのか、今は不思議なくらいだ。
「――」
 何だかひどく、その光景はあたたかくて、なぜかマナには声がかけられなかった。どうしようかと考えてしばし過ぎた時、
「マナ?」
 不意に、ユウが気づいた。
 マナのほうが驚く。
 互いの視線が相手を認め、ユウは慌てたように老人から離れた。
「あの、あたし、目が覚めたら誰もいないから」
 ユウはマナに声もかけずに部屋を出る。
 走るように細い通路の一つへと消えていく。
「マナ、入っておいで」
 揺り椅子に座ったまま、老人は声をかけた。
「ユウは朝食の支度をしに行ったんだよ。それまで、私の相手をしておくれ。おまえさんに話があったんだよ」
 マナは言われたとおり部屋へと入った。
 老人の傍のベッドの上に座る。
「あの、昨日はごめんなさい。あたし、驚いてしまって、それで」
 老人は首を軽く振って微笑んだ。
「いいんだよ。人間は、未知なるものを恐れるようにできている生き物だ。知った上でどう判断するかが問題なのだよ」
 マナは、その穏やかな老人の態度に安堵した。
 そうなったら、今度は好奇心を押さえ切れなくなった。
「ユウとあなたは、どうしてこんな廃墟に住んでいられるの? ここは古い時代に造られたものでしょう? 管理システムのない不便な建造物だとディスクで見たのに」
「ドームでしか生きられないと、教えられたのかね?」
 マナは素直に頷く。
「だが、私達は生きている。人から教えられることも大事だが、自分で実際に確かめ、知ることもとても大事なことだ。おまえさんは私達とともに一晩この廃墟で過ごし、何事もなくこうしてここにいる。それが、おまえさんの判断すべき事実なのだよ」

 事実。

 その何度も使い古された言葉は、老人の唇から語られると、ひどく重要な響きを持っているように感じられた。
「私達は登録を抹殺された人間なんだよ。もうどれぐらい前なのかもわからないが、我々の何十代か前の祖先が、ドームを離れて外の世界で生きることを選んだ。わずかな機器と、食料となるだろう種子を持ってな。当時の生活は困難を極めたと聞くよ。無理もない。それまでの人々は、全てを機械に頼って生きていたのだから。挫折して戻っていった者もいたという。だが、残った人々はこの世界とバランスよく共存することを学び、そうして私達の代まで続いてきたのだ」
「信じられない。そんなことが、可能なの…」
「マナ、おまえさんは、今までドームの中の世界しか知らなかっただろうが、もっとずっと、それこそ気が遠くなるほど遥かな昔には、我々はこの空の下で自由に生きていたのだよ」
「――」
「昔の人間にできたことが、今の我々にできないと思うのかね。身体的に、退化したわけでもない。退化したのは、精神の面においてなのだよ」
 深い、心に染み透るような声を、マナは聞きもらさないようじっと耳を傾けていた。
「どんなに時が過ぎようとも、世界はいつでも我々に優しい。それを先に切り捨てたのは、我々の方なのだ」
 老人は、大きな窓から見える、足早に影を落としては去っていく雲を、瞳を細めて見送った。
 その顔は、この景色を愛おしむ想いに溢れていた。
「外の景色を見て、美しいと思わんかね。この世界は、美しい光と色に満ちている。どの時代より、きっと今、世界は一番美しいだろうと私は思っている。
 この廃墟が、かつてはこの地の至る所に立ち並んでいた時代、大気は汚れ、水は淀み、地は腐り、木々は死んでいた。
 だが今、大気は澄み、水は潤い、地は清らかに、木々は優しく歌う。
 連鎖という言葉を知っているかね。全ては循環するのだよ。植物も、動物も、もちろん人間も、全てが等しく地上をめぐる生命の環の中にあった。
 だが、人間はいつからかその環の中から外れてしまった。この時代の中で、今は人間だけが異質なのだ。我々がこのような時代を迎えたのも、当然のことなのかもしれん…」
「――」
 マナは正直、老人の言うことを全て理解できたわけではなかった。
 ただ、熱心に聞き入っていたそのわけは、老人の言葉が今までマナの学んだどれにも当てはまらなかったからだ。
 抽象的な概念と証明のない思想。
 マナはそのことにとても興味を覚えた。
 物思いにふけるマナに穏やかな視線を向け、老人は言葉を繋ぐ。
「ユウを、許してやっておくれ。あの子はまだ子供だ。我々が大事に大事に甘やかして育ててしまった。優しい子だが、とても淋しがりなのだ」
「あなたが、いたのに?」
「私がいてもだよ。あの子にとって必要なのは、決して手に入らないものだ。それ以外の何を与えても、あの子は決して満たされないのだ」
「ユウの欲しいものって?」
「決して会えないもの。決して許されないもの。決して愛せないもの。あの子が望んでいるものは、そういったものだ。あの子自身がそれを一番よく理解している。だから、淋しいのだ。
 そして今、ユウはおまえさんの中に、手に入らなかったものを重ねている。だが、おまえさんはそれにはなれない。おまえさんはいずれ戻る子だからな。すまんが、それまでは私達と一緒にいておくれ。ユウも落ち着けばおまえさんを返す気になるだろう」
「いいわ。あたし、ここが何処かもわからないの。ひとりでは帰れないわ。きっともう少ししたら、博士が来てくれるかもしれないし、それまでは一緒にいてもいいわ」
「ありがとう、マナ。おまえさんは優しい子だね。では食堂へ行こうか。きっとユウが朝食を作ってくれているはずだ」
 老人が杖を支えに椅子から立ち上がり、ドアに向かってゆっくりと歩きだす。マナはその後ろ姿に、無意識のうちに呼び掛けていた。

「おじいちゃん」

 呼んでから、マナは狼狽えた。
 呼んでみたかったのだ。
 ユウが老人をそう呼ぶのが、とてもあたたかく、優しい感じがしたから。
 振り返った老人は、そんなマナの動揺を気にしたふうもなく、次の言葉を待っている。
「そう、呼んでもいい…?」
 ためらいがちにかかる声に、老人は穏やかに微笑う。
「ああ。いいとも。さあ、食事にしよう」


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