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 こちらへ近づいてくるその娘は、まだ十四、五歳の少女のようだ。背に翼がないので翼弦の眷属ではなく人間だ。
 九曜は当初、陵雲山に住む者は皆翼弦の眷属かと思っていたが、中には人間もいた。
 翼弦が気まぐれに拾った人間や翼弦に弟子入りをした者など、様々だ。
 木龍こと幻以が凌雲山に人間の姿で入り込めたのはそのような理由からだと思われる。
 九曜は娘の存在に手に汗を握った。もしこの娘が角を曲がるのだとしたら、身を隠す場所がない。
 数瞬後、九曜の心配は杞憂に終わった。
 籠を持った娘は九曜のいる角を曲がることなく壁添いの部屋に入っていく。
 九曜が安心したその時だった。
 ふいに九曜は胃のあたりから込みあげてきた不快感にうめき声をあげた。
 近づいてくる娘の足音に九曜は慌てふためくが、立て続けに襲ってくる嘔吐感が打開策を講じさせてくれない。
 手で口元を押さえて思わずうずくまってしまった九曜の目の前に、籠を持った娘が現れた。
「あ、貴方は……?」
 娘は籠を廊下に置いて、九曜の顔をのぞき込む。
「初めて見るお顔ですが……」
 娘は宝物庫の掃除をうけもったことがないのだろう。九曜の存在を知らないようだ。
 嘔吐感にさいなまれた九曜は娘の相手をする余裕がなかった。
 地面のところまで行って、ひとしきり嘔吐してから、九曜は応じる。
「見苦しい……ところを……見せてしまった」
「ご気分がお悪いようですね。とりあえず、わたくしの部屋で休まれてくださいませ。お茶を煎じて差し上げますわ」
「とりあえず口をすすぎたい」
 九曜は口内に充満する胃液に鼻腔を刺激されて顔をしかめながら、娘と一緒に壁伝いにある娘が入ろうとしていた部屋に入った。
 娘が自分の部屋だといっていた女官の宿坊の一室である簡素なその部屋には、必要最低限の生活道具が一式そろっていた。
 水がめの水で口をすすいだ九曜は、娘からテーブルに案内されて席に着いた。お茶を用意されて湯呑を手に取ると、改めて娘の顔を見る。
 黒い髪を側頭部で二つに丸く結ったその娘は、化粧を施してはいるものの、まだあどけない顔をしていた。黒い瞳には曇りがない。
「大丈夫でございますか?」
「ああ、もう落ち付いた。礼を言う」
 九曜は部屋の隅に置かれた先ほどの籠に目をやる。籠にはたくさんの衣類が積まれていた。九曜は初め、それらを洗濯物かと思っていたが、急な場合を除いて、就寝前に洗濯の仕事をする者などいない。
「それは?」
「繕い物ですわ」
「大量だな」
「新入りの仕事です。まだ簡単な仕事しかできませんから。朝までに終わらせなければなりませんの」
「そうか。手伝おう」
 九曜は椅子から立ち上がった。
 娘が手振りで制したが、九曜は聞かない。籠の中の衣類を一枚手に取った。下男が着る衣服の縫い目がほつれたものだ。
 仙洞で仙人の孔雀の弟子として、他の弟子たちと一緒に様々な仕事をこなしてきた。繕い物など、九曜には簡単なことだった。
「裁縫道具を借りる」
 九曜は棚の上に置かれていた裁縫箱を取ると、テーブルの上に衣服とともに運び、箱の蓋を開けた。
 毎度の仕事なのか、針山の針にはすでに糸が通されていた。
 九曜は椅子に腰かけると、繕い物を始めた。
「男の方なのに、慣れておりますのね」
 感心した様子の娘の声に、九曜は口元に笑みを浮かべる。
「男ばかりの所帯だったからな」
 女もいたにはいたのだが、仕事を男女別に振り分けられるほどの比率ではなかった。
 ほつれた部分を縫い終え、玉止めをして糸の始末をして、九曜は次の衣服の繕いに取りかかる。
 九曜を眺めていた娘も繕い物に取りかかった。
 二人で黙々と仕事をしているうちに時が流れた。
 籠の中の衣類を全て繕い終えた時、九曜は目の疲れを癒すために眉頭の下の両脇を少し揉んでから思い出したように顔を上げた。
「私の名は九曜だ。お前、名は?」
「六花といいます。九曜さん、お陰で助かりました。今夜は徹夜だと思っておりました」
 晴れ晴れとした顔で娘は言った。案外愛くるしい顔をしていた。
 その名が九曜の心に少なからず衝撃を与え、琥珀色の瞳の中にある瞳孔が開いて刹那の間、危険な光を宿したことなど、娘は幼さゆえに気付かない。
 六花は、先ほどの古株の女官たちの話に出てきた、くだんの娘ではないか。
(ほう……これが……幻以が気に入っているという……)
 
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