理科準備室のお狐様

石澄 藍

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7.式島先生

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 土蜘蛛の牙が、頭から被りつこうと迫ってくる。
 竜次が死を覚悟した、そのときだった。

 突然、土蜘蛛との間に、木製の引き戸が現れた。壁もない、何もない空間に。

 土蜘蛛の動きが止まる。
 竜次もその現実味のない光景に、頭が追いつかない。

(この引き戸、どこかで見覚えがあるな……。戸の一部が焦げたみたいに黒い。どこで見たんだっけ?)

 ぼうっと、そのようなことを考えていた。

 戸がガラガラと音を立てて、開く。
 竜次の側には、何もなかった。何かが出てくるわけでもなく、そのまま向こう側が見える。
 だから、土蜘蛛の側で起こっていることが、そのまま見えた。

 土蜘蛛側にはどこからともなく、人が現れた。
 いや、引き戸から出てきたことは間違いない。しかし、竜次側から誰かが通りぬけたわけではなく、別の空間から戸を通ってきたとしか考えられなかった。

 体格からいって、男だろう。暗くて、顔はよく見えない。
 男が引き戸を通りぬけると、戸は風に吹かれた蝋燭の火のように揺らいで、そのまま消えてしまった。

 竜次も土蜘蛛も驚きで、それをただ見守っていることしかできなかった。まるでこの教室の中だけ、時間が止まったかのようだった。

 やがて、静寂を破ったのは男だった。竜次をふり返り、話しかけてきた。

「無事ですか? 竜次くん」

 思いのほか、優しい声だった。しかも、どこか聞きおぼえがある。

 ちょうどそのとき、窓から月明かりがさしこんできて、男の顔が見えた。
 眼鏡をかけた柔和な笑顔が、こちらに向けられている。
 それは、竜次が知っている顔だった。

 式島しきしまホカゲ。歳は20代後半から30代くらいだろう。
 竜次のクラスの化学の授業を受けもっている教師だ。いつもどおり、担当科目がひと目でわかる白衣を着ている。
 髪はボサボサになっているのを誤魔化すために、後ろで小さく纏められていた。

「何で、先生が……?」

 声に出してから、気づいた。

(あっ! さっきの突然現れた引き戸、この学校の教室の戸だ)

 先ほど竜次がこの教室に入ったときに通った戸も含めて、この学校の戸に使われているのと同じ引き戸だった。
 しかも、先ほど式島が通ってきた引き戸は、一部が大きく黒ずんでいた。
 この学校の理科準備室の戸は、生徒の悪戯なのか、焦げた跡がついている。それと完全に一致していた。

(でも、何で理科準備室の戸が急に、何もない空間に現れたんだ……?)

 式島は廊下にいるあきのほうを向いて、呼びかけた。

「灼くん! 駄目じゃないか、一般人を危険に晒しちゃあ」
「すみません……」

 式島の声は穏やかだったが、教室の外で奮闘している灼の声は、いつになく小さかった。

(まさか、灼たちが手伝っている教師って……。だから灼の奴、やたら理科室を気にしていたのか)

 ガチガチガチ――!

 そのとき、今まで無視されていた土蜘蛛が牙を鳴らし、乱入者に糸を吹きかけた。
 邪魔が入ったことを、怒っているようだ。

 式島はそちらを見もせずに左へ飛んで、軽々と避けた。

「やれやれ……。私が来ても、引いてはくれないみたいだねえ」
「この土蜘蛛、産卵のために、まだこの学校に来たばかりよ。管理者を知らないわ……」

 竜次のすぐ横で、女の子の声がした。ビクッとして見ると、いつの間にかあかりが立っていた。
 呼吸は多少荒いが、怪我はないようだ。

 式島は燈を一瞥すると、土蜘蛛に向きなおった。

「それじゃあ、燈さん。ひと仕事しましょうか」

 式島はいうなり、袖をまくりながら、左手を身体の横へ真っ直ぐに突きだした。
 背後から燈が駆けよる。そのまま式島の左前腕を浅く、刀でスパッと斬った。鮮血が飛びちる。

 竜次はあまりのできごとに、茫然とした。
 時代劇ではあるまいし、目の前で実際に人が斬られたところなど見たことがない。正直、血が苦手なこともあり、見たくもなかった。

 しかし、それだけではなかった。

 飛びちった血しぶきがかかった箇所から、まるで火をつけられでもしたかのように、燈が燃えあがった。

「燈ちゃん!!」

 早く火を消さなくてはと思うが、竜次は糸でぐるぐる巻きにされていて動けない。

 すると、火ダルマの少女がこちらに向かって歩いてきた。炎に包まれているというのに、しっかりとした足どりで。
 何故か、刀身まで勢いよく燃えている。そのまま、少女はその刀を竜次に振りおろした。

 竜次はとっさに、目をつぶった。鋭い刀の風圧が頬に当たる。
 しかし、刀で斬られた感覚はなかった。
 恐る恐る目を開けてみると、身体に巻きついていた糸が、熱で溶けていくところだった。

「ちょっと、ビビった……」

 竜次は、ホッと胸を撫でおろした。
 糸で巻かれていた部分を見てみると、両腕が火傷をしたようにただれていた。見るからに痛々しく、正視に耐えない。
 しかし、不思議と痛みはなかった。

「今はアドレナリンが出ているから。でも、落ちついたら痛くなると思う。その前に手当てをするから、待っていて」

 燈にいわれ、竜次は素直に頷く。しかし、そこでハッと我に帰った。

「火! 大丈夫なの!?」

 先ほどに比べると火の勢いはすっかり落ちついているものの、まだ燈やその周囲は燃えていた。
 しかし、そこで初めて竜次は気がついた。

 燈の青い瞳は紅く染まり、頭には獣の耳が生えていた。
 竜次の視線に気づき、燈は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。

「心配してくれて、ありがとう。でも、実はわたし、狐のお化けなの。この火は狐火だから、わたし自身は燃えないわ」

 なんと、目の前の狐耳の少女は人間ではなかった。
 竜次はここに来た目的、信也のいっていた怪談の幽霊を思い出す。
 白い髪の幽霊が出る――あれは、燈のことだったのだ。

 燈は放心している竜次をひとり置いて、今度は式島のほうへ歩いていった。

「お待たせ」

 式島の前腕からは、まだドクドクと鮮血が流れでていた。
 燈はおもむろに顔を近づけると、その血を、傷を舐めはじめた。その仕草は妙に艶かしかった。

 少しすると、みるみるうちに式島の傷が治っていく。
 治ったのを見届けると、燈は土蜘蛛に向きなおった。

 ガチガチガチガチ――。

 土蜘蛛が歯を鳴らす。敵意というよりは、恐れといった感情の表れのようだ。
 しかし、抵抗の意思はあるらしく、燈に糸を連発して飛ばす。

 燈は避けたり、燃えている刀で斬ったりした。
 先ほどまでと比べても、動きに余裕がある。
 あっという間に土蜘蛛との距離を詰め、その足を1本斬りおとした。

 ギギギギギギギ――。

 土蜘蛛が、声にならない悲鳴をあげる。
 燈が土蜘蛛に語りかける。

「どうする? これ以上続けるなら、もう容赦しない。あなたの子どもたちも、今までみたいな峰打ちじゃすまないよ」

 その言葉に土蜘蛛は観念したらしく、すっかり大人しくなった。





「いいかい? この学校では、人を襲ってはいけないよ。管理者である私の指示には従ってもらう――」

 式島が土蜘蛛に、説教なのか注意事項なのか、いろいろと話してきかせている。
 土蜘蛛に人の言葉がどれくらい理解できているのかはわからないが、学習能力の高さが怖い。

 竜次はというと、事態が収拾したことで緊張の糸が切れ、脱力していた。
 床に座っていると、燈がやって来た。

(そういえば、手当てをしてくれるっていっていたっけ……)

 ぼんやりしていると、燈がいきなり竜次の腕を舐めはじめた。

「っ!?」

 思わず手を引っこめようとしたが、燈に強く握られており、叶わなかった。

「じっとしていろ。燈様の力で、傷を癒やしている」

 外の死闘も終わったらしく、灼が合流してきた。しかし、どこかムスッとしている。
 竜次はドギマギしながら、されるがままになっていた。

「契約者のホカゲを治すときみたいにはいかないから、気休め程度だけどね」
「あ、ありがとう」

 舐められるのは恥ずかしかったが、そのおかげで傷の見た目がずいぶんマシになった気がする。

 燈はひとしきり舐めおわると、灼のボディバッグを漁って、救急箱を取りだした。
 慣れた手つきで薬を塗り、包帯を巻いていく。あっという間に、処置が終わっていた。

 手当てが終わったのを見計らうように、式島が近づいてきた。

「さて、竜次くん。君もいろいろと聞きたいことがあるだろう。ここでは何だし、私の部屋においで」

 いうやいなや、式島は白衣のポケットから大きめの黒い鈴を取りだした。

 チリーン――。

 それを鳴らすと、どこからともなく、先ほどの引き戸が現れた。

「さあ、いやっしゃい」

 式島の声は穏やかだが、どこか断れない威圧感を放っていた。
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