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一 盲目
二枚め
しおりを挟む閉館が迫る館内のスタッフルームで、僕はすすり泣きながら動けずにいた。
泣き出さずに我慢していたのが、今になって溢れた。未知の騒音に乱された僕の心はそうそう泣き止んでくれない。
もうすぐ僕の安らぎの時間がやってくる。それまでの辛抱だ。
退館時間の十五分前にアルバイト先を出て、家に向かう道をふらふらと歩いた。
陽が傾いて、沈んでいくそばから、夕闇が空に伸びてくる。まるで向こうから暗闇がやってくるみたいに、夕陽と入れ替えに、明かりが乏しい夜がやってくる。
辺りはすぐに真っ暗になって、更ければ更けるほど、静寂が戻ってくる。街灯の薄明かりが、仄かに心までじんわりと照らしてくれようで、急に安心感を覚えた。
居心地の良い闇の時間。僕にとって、日中の騒音で負った傷を修復するための時間。落ち着きを取り戻すために欠かせない一時だ。
夜にどっぷりと浸かった町を歩いて、騒がしい人はたまにいるけど、昼間ほどじゃない。
ひどく心が荒んだ日は特に念入りの月光浴に限る。みんなが見上げることを忘れてしまった天上の眼差しが、こちらに向かって微笑んでいる。
夜は何でも隠してくれる。
僕は今、日頃の恐れや不安から解放されて、きっと安らかな緩んだ表情を浮かべていると思う。心からの安堵が顔に滲み出ているだろう。
誰かにこの姿を見られなくてよかった。まるで死に急いでいるみたいに思われたくなかったからだ。
僕は違う。毎日を生き抜くために、憩いの夜を必要としているのだ。死ぬために、夜に隠れにいっているわけじゃない。
冴えた夜の散歩で、冷静さを取り戻してくると、昼間の難聴の彼のことが浮かんでくる。至近距離で大声を出されたのは久しぶりだった。
図書館っていう場所のこと、よく知らないんだな、もったいない人。そう思い込むことにした。
快活そうな青年で、いかにも本とは無縁そうだけど、大学のレポートか何かで必要になって探しにきたという感じだった。
僕だって大学生の端くれだから言いたい。大学の図書館の有能さを差し置いて、わざわざ地域の図書館を真っ先に利用しなくてもいいじゃないか。
あんなに専門性が高くて、学生の自主性を尊重した志の高い場所はそうそうない。加えて、勉学と研究の邪魔にならないよう、限りないまでの静寂を貫いて、少しの話し声さえも嫌われる。最高の静寂が居座る、いわばベストサイレントスポット。
図書が集う場所は、静かな知が棲まう洞窟。無音の孤独という独り闇の中をさまよって、手探りで答えや考えを掴んでいく。
書の中に浸っている人は無言だ。想像に入り込んでいる。思考に言葉や些細な物音を挟む余地などないぐらいに。
浅い眠りのときのように、微かな音が彼らを引き戻してしまう。邪魔する意図はなくても。だから、他者の領域を不必要に侵さないためにも、徹底して助けが必要なことは示さなければならない。
実は音がつらいんです。なんて後付けの理由は、無意識のうちに加害者となってしまった当人に失礼だし、事前に示して置かなかったことは被害者の過失だ。
しかし、僕だって、彼を傷つけたかもしれない。今思い返してみると彼は多分、僕の消え入りそうな音を拾いながら、口の動きや表情を見ていたのだ。
普段もそうやって人の顔を直視して逸らさないのかと思うと、僕の方が気恥ずかしくなってしまった。
常識のない人に出会うと自分の価値観を振りかざしたくなってしまうのは、僕の悪い癖だ。普段は猫ほどの臆病で小さな生き物なのに、いきなり虎ぐらいの大きな生き物の毛皮を着て、必死に吠えて、威嚇し始める。
犬の遠吠えが聞こえた。肩が跳ねる。僕の恥ずかしいまでのこびりついた偏見をとがめるように、責めるように、あちこちで大合唱が始まった。
家の明かりが見えてくる。ホッとしたのと同時に、大きなため息をつかざる得ない。楽しい時間は終わり。毎夜、奇妙に再生され続ける夢の中をもがいて、明日を待つしかない。
闇雲に逃げ惑った先々に、落とし穴はなかった。その代わりに、出口もなかった。行き場を失った歪んだ盲目さが、いつか誰かを傷つけて、取り返しの付かないことになるんじゃないか、と罪の意識に苛まれるのだ。
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