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約束を忘れて
しおりを挟む日中、外へは出られないし、季節というものを味わってこなかったので、今がどういう時節なのか分からない。それもこれも、沢代が季節感のない服装で汗一つかかずにやってくるから、余計だった。
「ねえ、楠城。結婚式、挙げようよ」
左手の薬指に誓いのキスを。行為中は優しくしてほしい。などなど。今日も沢代の奇妙な〝お願い〟に付き合わされるのか。
「花で着飾って……」
「花は好かん」
「なんで」
人間の結婚式の何たるかを力説していた沢代がぎょっとした目でこちらを見た。
「とにかく。花というものには懲り懲りなんだ」
「じゃあ、なんで〝花〟嫁って言ったの?」
花をやたらと強調して、押し通そうとしてくる。
「父からそう教わった」
「お父さんってどんな人」
距離を詰められる。吸血鬼に無闇に近づくなどあれほど言っているのにだ。
「……忘れた」
嘘だ。薄灰色の髪、白銀の瞳、薄灰褐色の肌。貴様に似ているなどとは絶対に言うまい。
「楠城のケチ」
沢代は子どもっぽくほおを膨らませてしまう。花嫁の機嫌を損ねるとあとが面倒だ。
「貴様とは似ても似つかん。第一、無闇に近づいて来ない人だったからな」
「そうなんだ。それで、それで?」と話の先をねだられるが、「もうこれきりだ。満足しろ」と強制的に終いにした。
花がダメなら、木の枝で冠を。味気ない部屋に彩りをと造花を。お茶ぐらいなら飲めるだろうと、〝お揃い〟だとかいうマグカップを。殺風景だった俺の部屋に、沢代の痕跡が積み上がっていった。
毎日のように沢代はやってくる。ニコニコと笑っていたり、顔を赤らめていたり、作ったような笑顔を浮かべていたり、様々な表情を見せに来る。騒がしいことこの上ない。
弁当を食べながらの沢代の一方的な会話を少し、そのあと性行為に及ぶ。
いつしか警戒も解け、彼が洞穴に勝手にやってくるのも慣れてしまった。
「ねえ、七星」
沢代は俺のことを名前で呼ぶようになった。その声にはふんだんに甘さが乗っており、絡める腕の感じも誘うようでいやらしい。
「僕、七星といられて幸せなんだ」
またいつもの、性行為の前戯に口にする、戯言を抜かしている。
腕に抱きつかれ、顔を埋められる。スンと鼻を鳴らす気配を感じた。
「なんの真似だ?」
沢代がなにをしたいのか、俺には分からなかった。
「幸せだなって思っただけ」
上目づかいの目は、すでに欲を孕み、潤んでいる。俺は吸い寄せられるように、唇を奪った。
台に押し倒し、シャツを剥ぎ、愛撫に時間をかけ、花嫁の体を愛してから、性器を挿れる。
ゆっくりと抽挿を繰り返せば、沢代の甘い声がひっきりなしに上がる。
花嫁を絶頂に導き、快楽の頂点で血を吸う。至高の行為だ。
沢代が果てると同時に、首筋に牙を埋める。彼が放った白濁で、腹がぬるりと滑る。待ち望んだ芳醇な血の味。久方ぶりの射精。あぁ、俺の花嫁に俺の精を注ぐことが叶った。欲が満たされる。
「しち、せい……」
余韻に浸っていると、いつもは気絶するはずの沢代がかすれた声で俺を呼んだ。
「キス、して、優しいやつ」
甘えるようにたどたどしく、背中に腕を回してくる。花嫁の要求に応え、俺は口内の血を舐め回してすっかり吸血を終えてから、ゆっくりと唇を重ねた。
「七星ってば、愛してくれてるのかわかりにくいよ」
今日は沢代の体力も気力も尽き果てず、行為後の余韻を二人で味わっていた。
「花嫁を喜ばせるにはどうしたらいいいか知ってる?」
沢代は無邪気に笑って、胸元に顔を寄せた。
「七星が僕との行為を楽しんで、尊くてかけがえのない、美しい時間を過ごすことだよ」
答える暇など与えてはくれなかった。もう最初からそう諭すのが決まっていたかのように。
「そういうものなのか」
「そうだよ」
彼から求めて、唇を寄せてくる。応じて、口づけを返し、交わし合う。
どこもかしこも、甘い。貪りたくなるほど絶品だ。そそる匂いに、暴きたい欲望が日に日に抑えきれなくなっていく。俺の花嫁は完成が近かった。
それなのに今日も帰してしまった。一方的に多大な愛を注いでくる、愛しい花嫁を。帰るなと一言でも言えば、彼──グレンは留まってくれただろうか。
彼がぱったりと来なくなった。陽が完全に傾く度に外へ繰り出し、彼の姿を探した。待てども待てども彼は姿を現さない。胸の下の辺り、胃のような箇所が重く、胸が詰まったような苦痛を覚えた。
幾度目かの陽が落ちる。大きく拓けた場所に足が向く。こうなると初めから分かっていた。それなのに、吸血鬼の本能は、花嫁を求めて止まない。
奴らは見せしめにと、俺が囚われる管理区に、奪った花嫁を入れる檻を置いた。
俺の花嫁、沢代グレンは大きな白い檻の中、衣類を一切身につけない状態で拘束されていた。
吸血鬼の花嫁を吸血鬼から遠ざけ、接触を断ち、日の下にさらして、花化させる。それが人間の目的だった。
「……に、これ」
目を覚ましたグレンの困惑する声がした。
「やだ、これ、なに! 嫌だ!」
彼が叫んでも、俺は助けられない。彼が囚われた檻は、吸血鬼の近づけない素材で作られている。白い檻に触れれば吸血鬼は、陽に焼かれて確実に死ぬ。この白き檻から、花嫁を奪い返せたことは一度もなかった。
「誰か、誰か、いませんか。七星、どこ」
花嫁が俺を求めているのに。
「ここにいる」
「助けて、お願い」
お願いを聞かなければならないのに。
「俺はその檻に近づけない」
吸血鬼がその白き檻に近づくことはできないのだ。
「俺がお前の妻子を」
「やめて」
自棄になり、楽になろうとした。
「言わないで、お願い」
お願い。今度は聞いてやらなければと口を噤む。
「ずっと胸に抱えて苦しんで」
グレンの笑った声がする。身震いがした。
「お願い、七星」
「なんだ」
もう彼の生命の終わりが近い。檻の外、遠くから、即座に答えた。
「僕のこと─で」
雑音が声を遮る。だが俺は理解した。賢い彼は知っていたのだ。教える機会を見失った、吸血鬼が花嫁を永久に我が物とできる儀式を。
「────は忘れて。約束」
記憶が黒く塗りつぶされる。
夜よりも暗い闇が晴れたとき、夜明けが近いことを知った。
「業火に焼かれるってどんな感じかな」
体が硬化し、徐々に動けなくなり呻いていたが、グレンは笑っていた。
「先に向こうで待ってるね、七星」
それきり彼は項垂れる。一切の言葉を紡げぬまま、彼の体はみるみる石のように硬化し、石灰化していく。彼の体が動かなくなってから、背の花が一層大きく花開くようになり、人間だった体は原型を留めない形へと変貌していき、花の一部となって食われていった。
陽が昇る前の未明の時間、純白の花が大きく咲き誇り、囚われた檻を壊した。
わだかまりが胸を過ぎる。地に根を張ったように足が重い。絶命する直前の、笑った顔がいつまでも頭から離れない。
陽の焼けるニオイが遠く空の向こうから漂ってくる。朝が、夜の命を奪いに来る。
襲い来る朝の気配よりも、俺は目の前の花に戦慄していた。苗が死して尚も、花の成長は止まらず、森の木々をなぎ倒していく。土に潜れない根が変形しながら地上を暴れ、のたうち回っている。花が大きくなりすぎて、支えきれないのだ。
少し前まで人間の姿形を為していた愛しい者。見るかげもなく、物言わぬ花となり、肥大化していく。
押しつぶされて殺される。化け物らしくない恐怖の感覚が迫り上がってくる。
理解した。俺は花嫁──人間と同じ感性を得たのだ。そして花嫁を失ってしまった俺の中からはいずれ、芽生えた人間の感覚が消えていく。
何も残らない。沢代グレンの何もかもが俺の中には残らない。
化け物になっていく花を前に、ぼう然と立ち尽くしていた。抉られる痛みを感じる。暴れていた根が俺に突き刺さっていた。
暴走する根に投げ飛ばされる。刺さっていた根は、硬化してしまい、割れて力を失い、地に落ちた。
焼ける痛みで目が覚める。朝が迫るのを忘れて、正気を失い、白い花に破壊の限りを尽くした。
騒音に気づいて来たであろう、略奪者たちは、白い花よりも脆く、ありったけの力を振るう俺を前に、鮮血を散らしていった。
早くこうしていれば良かった。グレンを失わずに済んだ。全部、全部、もう遅い。
俺の暴走は止まらなかった。白い矢が一斉に射撃され、集中砲火を幾度か浴びせられるまで。
目が覚める。己の巣窟、暗い檻の中。棺の上に仰向けになっている。
シュウシュウと音を立てて、体が修復をしているようだが、外傷の痛みを感じない。ただ、胸の奥がひどく痛む。
もういない彼と、約束をした。思い出せない。
覚えている限りの記憶をたぐり寄せる。呼ぶ声、そそるニオイ、甘美な血の味。こぼれた言葉、誰にも奪われたくない、二人の秘密にしよう。そして、最後の笑った顔。
これがグレンの復讐か。手ひどいものだ。これが喪失の痛み。奪われることに慣れすぎて、忘れてしまっていた感情。もっと早く気づいていれば何か変わったのか。
せめて、漆黒の荊で、もう離れないように結んでいれば……?──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────彼の記憶を見ている君はだあれ? ダメだよ、これは僕だけのものなんだから。この約束は誰にも渡さない。
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