夕凪と小春日和を待つ日々

阪上克利

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前だけ向かずに周りも見る

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『元気でよろしい!!』

 桁外れに大きな声で言われたからあたしの腕の中にいた夕凪ゆうなは余計に泣き出してしまった。

 赤ちゃんは、その小さな身体で凄まじい勢いで泣く。
 自分の生命力をそこにすべて注いで自身の存在を訴えかけるような泣き方だ。
 夕凪ゆうなが生まれる前、病院で勧められて、区役所で行われている育児教室に行った。
 あまり気乗りしなかったが育児なんて分からないことだらけだし……とりあえず行ってみようと思った。
 会場は夫婦が多かった。
 あたしは大きなお腹を抱えながら一人で参加した。
 本当に不安だった。
 場違いな場所に来たような感覚だった。

 周りは大きなお腹を抱えた女性が多く、場違いではないはずなのに……。

 唯一違うのは、横に寄り添う夫という存在がいないということだった。でもそれだって一人で来ている女性も少なくなかった。
 こんなところにいるはずのない子供がここにいるという視線が痛かった。
 
 もしかしたらそんなことは誰も思っていなかったのかもしれない。
 どこかに後ろめたさがあるから、本来はないはずの悪意を感じてしまったのかもしれない。

 だから……違和感……。

 ただ……

 確かに、心細かったし、視線も痛かったけど、参加して良かったと思う。
 この子を産むと決めたのはあたし自身だ。どんな違和感だろうが冷たい視線だろうが、それは甘んじて受けると決意してそこにいるということを自覚させられた。

 それに助産師さんたちはみんな優しかった。
 あたしと生まれてくる命にだけ目を向けてくれており、その理由には目もくれていないような優しい対応がとてもありがたかった。
 育児をする心構えとかをここで学べたような気がする。
 不安なことがあればいつでも連絡するように言ってくれて、今まで世の中に味方がいないように感じていたあたしに救世主が現れたように思ったのを覚えている。

 その時に助産師さんはあたしに言った。

『生まれたばかりの赤ちゃんは本当によく泣くからストレスをためすぎないようにね。どうしても泣き止まない時は安全な場所にそっと赤ちゃんをおいて一息つくといいわよ』

 夕凪ゆうなは本当によく泣く。
 夕凪ゆうなの泣き声を聞くと、自分がつらい思いしてでもこの子を産んでよかったと思う。
 こうやって全身をつかって自分の存在をアピールしているのだ。

 そこで……確かに生きているのだから。

 今のところ夕凪ゆうなが泣くことに関してはストレスはあまり感じない。
 そんなあたしでも、バスの中で泣かれるのは非常に困る。
 赤ちゃんの声を嫌がる人もいるだろうし……

 それでなくてもあたしは特別な環境で子供を育てているのだから周りの視線が痛いのだ。

 大きな声で声をかけてきたのは、あたしが住んでいるアパートの隣の家の初老のおじさんだった。
 毎朝、何をやっているのか知らないが大きな声で気合を入れている声がアパートにまで響く。
 怖そうなおじさんなのでなるべく顔を合わさないようにしている。
 だけど実はこのおじさん。
 あたしが住んでいるアパートの大家なのだ。
 だからいつも避けていくわけにはいかない。

 最初に挨拶に行ったときは、若くて優しそうな女の人が対応してくれた。
 赤ちゃんを抱いて若い女性が両親と挨拶に来る……。
 これはもう見るからに『ワケアリ』だろう。
 にもかかわらず、このお姉さんはそんなこと一切顔には出さなかった。
 心の中でどう思っているかは分からないけど。

 出産するまでの間。
 あたしは実家にいて、あまり外にはいかないようにはしていたが、産婦人科に行く時だけは仕方ない。
 母親は一緒に来てくれたが、病院の待ち受けで、大きくなったお腹を見たほかの患者さんたちの視線が痛かった。

『ホントに大丈夫なの?』
 医師や看護師からも何度も同じことを聞かれた。
 その言葉の裏にある悪意はあたしの胸に突き刺さった。

 本来なら味方になってくれそうな大人たちまであたしと生まれてくる子供を攻撃してきている感じがした。この世の中は間違いを犯したものに対して、徹底的に冷たい。

 ここに至るまで、あたしはそれを嫌というほど感じていた。
 だから、バスの中で大きな声で話しかけてきた大家のおじさんに対してもあたしは不安しか感じなかった。
 あたしに対する攻撃はいくらしてくれても構わない。
 でも夕凪ゆうなは関係ない。この子を傷つけることはやめてほしい。

『男の子かな? 女の子かな?』

 おじさんは夕凪の顔を覗き込んで言った。
 思いのほか優しい口調にあたしは驚きを隠せなかった。
 おじさんに話しかけられたことでパニックになっておじさんの話す内容にまで頭が回らなかったのだ。
 あたしは『お……女の子……です』とビクビクしながらおじさんを見ながら言った。

『そうかそうか! 赤ちゃんは元気に泣いてるのが一番だな』
『あ……はい……。あ、ありがとう……ございます……』

 あたしは下を向きながら言った。
 おじさんの顔はまともに見れなかったが、声が大きいだけで悪意は全く感じない。
 顔は怖いがいい人なのかもしれない。

『お父さん。そんな大声あげたら余計泣いちゃうじゃない』

 おじさんの背後には若い女性がいた。
 アパートに引っ越してきた時に挨拶に行った時にいたあのお姉さんだ。

『あら? あなた。うちのアパートの……』
浦野春海うらのはるみです』

 つい緊張してフルネームで名乗ってしまった。
 ここのところフルネームで名乗ることが多いような気がする。
 学校に通っていた頃はこんなことはなかった。
『別にフルネームで名乗ることもなかったな……』と心の中の冷静なあたしがつぶやく。

『今からお仕事かしら? 何か困ったことがあったらなんでも言ってちょうだいね』

 お姉さんは両親と挨拶に行ったときと同じように優しかった。
 あたしは区役所の育児教室に出かけた時に助産師さんたちと話した時と同じような暖かいものを感じた。

 大家さんたちは次の停留所で降りて行った。
 いつの間にか夕凪ゆうなは泣きやんで静かに寝息を立てていた。
 静けさを取り戻したバスはあたしを職場に連れて行ってくれた。
 おかげであたしは無事に出勤することができた。

 さあ、今日もがんばろう。
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