夕凪と小春日和を待つ日々

阪上克利

文字の大きさ
10 / 14

妊娠

しおりを挟む
 妊娠していた職員はあたしより随分年上の職員だった。
 随分年上と言ったが世間一般では若い部類に入る年齢だと思う。
 仕事以外ではあまり話をしたことがない。
 なんだか地味な感じの女性で、名前は佐野さんだったと記憶している。下の名前は憶えていない。

 佐野さんは普段から少しテンポが遅い。
 最初はさぼっているのかな? と思ったのだが……そうでもなかった。というのも仕事中に何度も外にたばこを吸いに行くようなこともしなかったし、入浴介助も遅いながらも一生懸命やっていたから。

 妊娠が分かってからは入浴介助はできないでいた。
 そもそも妊娠中にあんなハードな仕事をさせるものではない。
 あたしは佐野さんと組んで仕事するときは進んで入浴介助を引き受けることにした。

『赤ちゃん……楽しみですね』

 あたしは休憩時間に佐野さんに言った。
『……ありがとう……』

 佐野さんはあまり話をしない人だった。
 でも赤ちゃんの話をしている佐野さんはどこか嬉しそうだった。
 赤ちゃんはやっぱりこうやって生まれてくる方が幸せなのだ。
 
『親は選べない』
 そんな言葉がある。
 夕凪ゆうなに幸せのハンデがあるのはとりもなおさずあたしのせいなのだが、これからは精一杯できることをしてあの子を幸せにしてあげたい、と佐野さんの横顔を見てあたしはあらためて思った。

『病気じゃないんだからさ。仕事なんだしちゃんとやってくれないと困るのよね』
『でも……』
『あたしはフロアを見るので手一杯なのよ。分かる??』

 休憩時間を終え、あたしと佐野さんが利用者のおじいさんやおばあさんがいるフロアに戻った時にかけられた声は佐野さんに対する威圧的な言葉だった。

 先日、ホーム長からしばらく佐野さんは入浴介助に入れないと職員の前で通達があったのだが、それをよく思わない人間もいる。
 実におかしな話だ。
 妊娠中は激しい動きは厳禁であることは一般常識だし、子供を産んだことのある女性であればなおさら分かるはずだ。

 なのに……ここでは味方のはずの女性が敵になる。

『あたしがやりますよ』

 思わずあたしは言った。考えるより前に言葉が出てしまった。
 正直、ここのところ連続で入浴をしているので、身体が悲鳴を上げ始めているのは分かっている。
 でも佐野さんに何かあったら、と思ったら……いてもたってもいられない。
 彼女のお腹には命がいるのだ。

『あなたは関係ないでしょ』

 威圧的な言葉があたしにも投げつけられる。
 この職員の名前は谷井田さん。あたしの母親ぐらいの年齢で何かにつけて文句の多い人だ。

『関係ないことはないと思います。佐野さんは妊娠しているんだから入浴は他の人がやるべきだと思います。だからあたしがやると言ったんです』
『あのね……この人はね。甘やかすと何もやらないの。それにあなたは若いから知らないと思うけど、妊娠は病気でもなんでもないのよ。教わらなかった?』

 谷井田さんはあたしが妊娠して高校を辞めたことを知っている。
 そのことは、隠してなどいないから職場の全員があたしの素性は知っているのだが……何かにつけて『教わらなかった?』と言ってくるその表情の裏には『高校中退したんでしょ? あなたみたいなバカに一から十まで教えてやってるのよ。ありがたく思いなさい』という上から目線の悪意が隠されている。
 彼女はそれを隠しているつもりなのだろうけど、人を傷つける意図のある悪意というのはむき出しにした鋭利な刃物のようだ。隠そうとしても、どうしても相手に伝わってしまう。

『区役所や病院で教えてもらいましたよ。病気ではないけど、激しい動きはしてはいけないって。だから入浴はダメだと思います。そう判断したからホーム長もああ言ったんじゃないんですか?』
『あなたの言っていることは教科書に書いてあることであって世の中はそんなことでは通じないのよ』
『じゃあ、佐野さんの身に何かあったら谷井田さんは責任とれるんですか?』
『何かあるわけないじゃない! 余計なこと言わないで早く仕事しなさい』
『分かりました。じゃあ入浴いってきます』

 あたしは振り向きもせず入浴介助の準備をした。
 たぶん……後ろからすごい形相であたしを見つめている谷井田さんの視線が痛い。
 最後の方はかなりきつい言い方で返してしまったと思う。
 あたしのような何も知らない若造が失礼な言い方をしてしまったかもしれないと少し気を揉んだが……かまうものか。

『大丈夫?』
 佐野さんがそっとあたしについてきて小さな声でつぶやいた。

 大丈夫に決まってる。
 佐野さん。
 赤ちゃんを守ってあげて。
 そう強く思った。

『大丈夫ですよ。それより谷井田さんはフロアみていてくれるみたいだし、入浴のきつくないところだけ手伝ってもらってもいいですか?』
 あたしはとげとげした気持ちをできるだけ奥にしまい込んで笑顔で佐野さんに言った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

不貞の末路《完結》

アーエル
恋愛
不思議です 公爵家で婚約者がいる男に侍る女たち 公爵家だったら不貞にならないとお思いですか?

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

処理中です...