夕凪と小春日和を待つ日々

阪上克利

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妊娠

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 妊娠していた職員はあたしより随分年上の職員だった。
 随分年上と言ったが世間一般では若い部類に入る年齢だと思う。
 仕事以外ではあまり話をしたことがない。
 なんだか地味な感じの女性で、名前は佐野さんだったと記憶している。下の名前は憶えていない。

 佐野さんは普段から少しテンポが遅い。
 最初はさぼっているのかな? と思ったのだが……そうでもなかった。というのも仕事中に何度も外にたばこを吸いに行くようなこともしなかったし、入浴介助も遅いながらも一生懸命やっていたから。

 妊娠が分かってからは入浴介助はできないでいた。
 そもそも妊娠中にあんなハードな仕事をさせるものではない。
 あたしは佐野さんと組んで仕事するときは進んで入浴介助を引き受けることにした。

『赤ちゃん……楽しみですね』

 あたしは休憩時間に佐野さんに言った。
『……ありがとう……』

 佐野さんはあまり話をしない人だった。
 でも赤ちゃんの話をしている佐野さんはどこか嬉しそうだった。
 赤ちゃんはやっぱりこうやって生まれてくる方が幸せなのだ。
 
『親は選べない』
 そんな言葉がある。
 夕凪ゆうなに幸せのハンデがあるのはとりもなおさずあたしのせいなのだが、これからは精一杯できることをしてあの子を幸せにしてあげたい、と佐野さんの横顔を見てあたしはあらためて思った。

『病気じゃないんだからさ。仕事なんだしちゃんとやってくれないと困るのよね』
『でも……』
『あたしはフロアを見るので手一杯なのよ。分かる??』

 休憩時間を終え、あたしと佐野さんが利用者のおじいさんやおばあさんがいるフロアに戻った時にかけられた声は佐野さんに対する威圧的な言葉だった。

 先日、ホーム長からしばらく佐野さんは入浴介助に入れないと職員の前で通達があったのだが、それをよく思わない人間もいる。
 実におかしな話だ。
 妊娠中は激しい動きは厳禁であることは一般常識だし、子供を産んだことのある女性であればなおさら分かるはずだ。

 なのに……ここでは味方のはずの女性が敵になる。

『あたしがやりますよ』

 思わずあたしは言った。考えるより前に言葉が出てしまった。
 正直、ここのところ連続で入浴をしているので、身体が悲鳴を上げ始めているのは分かっている。
 でも佐野さんに何かあったら、と思ったら……いてもたってもいられない。
 彼女のお腹には命がいるのだ。

『あなたは関係ないでしょ』

 威圧的な言葉があたしにも投げつけられる。
 この職員の名前は谷井田さん。あたしの母親ぐらいの年齢で何かにつけて文句の多い人だ。

『関係ないことはないと思います。佐野さんは妊娠しているんだから入浴は他の人がやるべきだと思います。だからあたしがやると言ったんです』
『あのね……この人はね。甘やかすと何もやらないの。それにあなたは若いから知らないと思うけど、妊娠は病気でもなんでもないのよ。教わらなかった?』

 谷井田さんはあたしが妊娠して高校を辞めたことを知っている。
 そのことは、隠してなどいないから職場の全員があたしの素性は知っているのだが……何かにつけて『教わらなかった?』と言ってくるその表情の裏には『高校中退したんでしょ? あなたみたいなバカに一から十まで教えてやってるのよ。ありがたく思いなさい』という上から目線の悪意が隠されている。
 彼女はそれを隠しているつもりなのだろうけど、人を傷つける意図のある悪意というのはむき出しにした鋭利な刃物のようだ。隠そうとしても、どうしても相手に伝わってしまう。

『区役所や病院で教えてもらいましたよ。病気ではないけど、激しい動きはしてはいけないって。だから入浴はダメだと思います。そう判断したからホーム長もああ言ったんじゃないんですか?』
『あなたの言っていることは教科書に書いてあることであって世の中はそんなことでは通じないのよ』
『じゃあ、佐野さんの身に何かあったら谷井田さんは責任とれるんですか?』
『何かあるわけないじゃない! 余計なこと言わないで早く仕事しなさい』
『分かりました。じゃあ入浴いってきます』

 あたしは振り向きもせず入浴介助の準備をした。
 たぶん……後ろからすごい形相であたしを見つめている谷井田さんの視線が痛い。
 最後の方はかなりきつい言い方で返してしまったと思う。
 あたしのような何も知らない若造が失礼な言い方をしてしまったかもしれないと少し気を揉んだが……かまうものか。

『大丈夫?』
 佐野さんがそっとあたしについてきて小さな声でつぶやいた。

 大丈夫に決まってる。
 佐野さん。
 赤ちゃんを守ってあげて。
 そう強く思った。

『大丈夫ですよ。それより谷井田さんはフロアみていてくれるみたいだし、入浴のきつくないところだけ手伝ってもらってもいいですか?』
 あたしはとげとげした気持ちをできるだけ奥にしまい込んで笑顔で佐野さんに言った。
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