書庫『宛先のない手紙』

中村音音(なかむらねおん)

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再就職の壁を突き破る。

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 数年ごとに波状的に襲い来る進化型致死感冒が日常になったご時世、高波は転職したくて会社を変えるわけじゃない。
 会社がなくなって、いたしかたなく。

 私はまだいい。
 かつての同僚の話を聞くに、「性懲しょうこりもなくまた出社しやがった、感冒退職者のくせに」感冒難民と揶揄やゆされどおし、いびりは連日。元来荒い気性の再就職先、口の悪さは覚悟していたが、想像以上にいたたまれなくなって、先般辞表を提出したという例もある。

 いわれのない非難は、よほど意志が強固でない限り耐えきれない。

 仲のよかった友なのに、彼はせっかくの再就職を再離職で幕を閉じた。
 以来、連絡は絶えた。


 確かに世間の目は、今どきとくに転職に冷ややかだ。
 たまたま転職期が高波に重なっただけでも、受け入れる側はそうはとってはくれない。採用担当が内情をわかっていても、それとは別に現場では現場の思惑が渦を巻く。
 仮に上司が「心配にはおよばない」と説得したって、現場が上司の方便ととれば真実が空を切る。

 かくゆう私も、なかなか現場になじめずにいた。

 仲間に入ろうと思っても、はじかれてしまう。
 明らかにこれまでの転職とは空気の重さが違っていた。
 油が水にそそがれたように、交るはずはないと線を引かれた向こうには、逆立ちしたって入れない。
 単なる思い込みでも、生息する領域が水だ油だと思い込み信じれば、絵に描いた餅も実体を持つ。
 そうした差別、これまで世界のあちこちであったし、現代社会にも未だにはびこっている。


「仕事は9時に始まるのよ」
 9時出社に惑わされた私が悪いのか、最初の洗礼はこれだった。
 みんなはすでに席に着き、9時きっかりに作業に取り掛かっていた。

「この書類、書き方違うんだけど。教えたでしょ」
 教えてもらったことなどいちどもない。

 ランチ時間も孤独だった。
「ごはん、どこに食べにいったらいいのかしら?」
「あら、聞いてなかったの? 手持ちか前日予約の配達弁当なのよ」
 聞いていなかった。
 誰も教えてくれなかった。

 私はいつもひとりだった。
 話しかけてもプリンにスプーンが刺さらないみたいに、するりと表面を撫でていく。
 下手に出ようが媚びへつらおうが、お願いします教えて、と頭を下げようが、鉄壁のガードは私を受け容れようとしてはくれなかった。

 辞めちゃおうかな。
 そう考えたこともあった。
 でも、辞めたら次を見つけるのにまた苦労しなければならない。
 仮に次があったとしても、きっと今の二の舞。同じことが起こる。

 それに、仲のよかった同僚のこともある。
 彼から話を聞いたとき、情けないわね、それでも男? 意地を見せなさいよ、と叱責しっせきした自分が、今の私を責めてくる。

 情けないわね、それでも女? 意地を見せなさいよ。
 
 あのときの私が、今の私を繰り返し責めてくる。


 意地と忍耐のせめぎ合い。

 こんな毎日にはほとほとまいる。


 いい加減にしてっ!


 家に帰ると、私は物言わぬ壁に文句を言っていた。
 一度や二度のことではない。
 意識し始めてから、カレンダーに×印を書き入れていた。
 いい加減にしての×印、もう39こ目。

 いったいいつまでこんな日が続くのだろう?



 あるとき、決定打があった。

「あのお、パソコンで処理する経費処理なんですけど」
 私より半年先に入社した新卒の先輩。
 彼女は10歳年下の渡辺直美みたいな女の子。経理にいることはわかっているけど、交流がないから名前を憶えてはいなかった。
「なんでしょう?」
 私は敬語で応えた。
「先月も違っていたので、気になって」
 えっ、違ってるって、誰も指摘してくれなかったわよ!

 こんなこと、今に始まったことではないから慣れっこだけど、それでも私は私なりにいちばんいいと思われる方法でやってきた。
 それらはことごとく裏目に出ていた。
 今回もまた。
 いたたまれなさが、喉から上がってくるのがわかった。

 日々奈落ルビの底にいる私は、さらに谷間の深みに落ちていく。
 こんなこと、いつまで続くんだろう?
 おそらくは、私が根負けするまで。
 
 げんなりする。


 それから私は思いを巡らせてみた。
 我が社の渡辺直美は会社の味方。あるいは会社は彼女を味方にしているのかもしれないけれど、彼女が把握しているということは、すでに社内の誰もが私に「またダメダメちゃんのばってんか」と烙印らくいんを押しているんだろうな。

 私は彼女に、会社が踏ませようとしている手順を、両手を献上するように差し伸べて教示を受けた。
「次からはちゃんとしてくださいね」
 彼女の言い方は、素っ気なかった。
 彼女ばかりではないから、素っ気なくされることにも慣れている。
 だけど、彼女の言葉には少し違った気配があった。去り際、不思議な言葉を残したこともある。
「間違ってもいないんですけど」
 そのときは、彼女の投げかけを理解することができなかった。


 しばらくして、経理の手順が変わるとのお達しがメールでまわった。

 手順を読むと。

 あれ? 私が間違っていたとされた手順だ。
 こっちのほうが効率的だし間違いがないことは、前職でよく知っていた。

 でも、会社にはその会社なりの作法がある。
 たとえ悪しき習慣だとしても、うまくやっていくには郷に従わなければならないのだ。

 それがひっくり返ったということは、我が社の渡辺直美が上層部にかけあったとしか考えられなかった。

 もしかして、彼女が初めての味方になる?
 そんな淡い期待も生まれた。
 

 廊下ですれ違いざま、社内の渡辺直美に声をかけた。
「この間はありがとう」
 ある意味、賭けでもあった。
 私は彼女がムーブメントを仕掛けた張本人か、カマをかけてみたのだった。

 すると。
「よりよい方法を取り入れていくことが会社のためですから」

 私は確信した。
 22歳の女の子が、頑なな会社のしがらみを崩したことを。
 そして、その張本人が彼女だったことを。

 しばらくして、我が社の渡辺直美から社内ランでメールが届いた。
 渡部直子という名だった。
「今日、早く終わりますよね? 仕事終わったら、お茶しません? 少し話したいのです」

 それは、向こう側とこちら側とを隔てる氷の一部が溶ける瞬間であった。
 それは、たった少しの、ちっぽけな通路でしかなかった。
 しかしそれは、暗闇に敷かれた導きの光だった。
 ロング・アンド・ワインディング・ロードだった。
 道は狭く身をかがめても縮こませても通れないトンネルもある。
 そんなときには息を肺いっぱいに吸い込んでから、一気に吐き出し身を縮め、小さくしてから通り抜けた。
 ワインのコルクが抜けるみたいに、通り抜けるとき、すぽんと音がした。
 すぽん。
 すぽん。
 いったいいくつのトンネルを過ぎただろう。

 音がだんだん大きくなってきたような気がした。

 おそらく最後のトンネルを抜けるとき、ひときわ大きな音がした。
 すぽん。
 そこには祝福の声が舞い、ファンファーレが鳴り響いていた。

 職場のみんなが満面の笑みを私に向け、口々に私にエールを送ってくれていた。



 あれから2年。
 溶解は進み、私は頑なに拒まれてきた張った氷の反対側に立っている。渡部直子がきかけをつくってくれたおかげで。
 誰かに手を引かれることって、とても大事で素敵なことだと私は知った。

 そして今では新しく入社してくる、煙たがれる失職者のめんどうを見る役職に就いている。
 私は、最初から手を差し伸べる。
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