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自分は食事をしたいだけなのに、何故こんなに逃げ隠れるようなことをしなくてはならないのだろう……そう思ったアニエスの瞳に、涙が滲む。
一生懸命、信用して貰うための土台をこの街で築いてきたつもりだったのに。

そしてアニエスは、ふと自分の勤め先である定食屋のことを思い出した。


先程のブノワの話しぶりからすると、恐らくアニエスはしばらく人前に出ることが叶わなくなる。ということは、当然働きに出ることも出来なくなる訳で。

(定食屋の主人と女将さんとにだけ、迷惑をお掛けしたお詫びと、最後のご挨拶に伺わないと……)

とはいえ、ブノワからは外に出ないように注意されている。

しかし、ブノワが言う通り、街の噂が広まってからでは益々アニエスは外に出られなくなるだろう。
一日経過してから行動するのでは、遅すぎる気がした。

(うちのお店はお昼過ぎに一度、店を閉めるから……チャンスがあるとすれば、その時だけ)

夜になれば、店がまた開く。
そうすれば、根も葉もない尾ひれのついた噂が主人達の耳に届くだろう。
早ければこのお昼時にも情報が入っているかもしれないが、お昼は客も滞在時間が短く、回転も早いからそこまで気にすることではない。
問題は夜で、夜にお酒が入った滞在時間の長い客達が、主人達に酒のツマミとして話題にした時が問題だ。


アニエスは、ブノワが早く帰宅することを願いながらギリギリまで部屋で待機し、間に合わなくなる直前でメモを書いてブノワの部屋をそろっと出て行った。


定食屋の裏口に回ったアニエスは、深呼吸してから扉を開けた。

「……こんにちは」
「アニエス!?」
「アニエスちゃん!!」
女将さんと主人の反応で直ぐに、アニエスは察した。

二人は驚きながらも顔を見合せ、駆け寄ることを躊躇する主人の前に、女将さんが腕組みをしてアニエスの方に向き直ったからだ。

「……ご迷惑お掛けして、すみません」
アニエスが深くお辞儀をすると、女将さんはため息をついた。

「……淫魔だったって、聞いたけど」
「……はい、ハーフ、なんです……」
アニエスは女将さんの顔を真っ直ぐに見れず、下を向いたまま、尻尾だけスカートからひょいと覗かせた。


「……悪いが、うちではこんな騒ぎを起こした淫魔は雇えない」
「……はい」
主人の言葉に、アニエスは涙が溢れないよう、ぎゅっと目を瞑る。
やっぱり、淫魔だってだけで、信じて貰えなかった。主人も女将さんも、本当の娘のように可愛がってくれていたのに……

「……私はショックだったよ」
女将の言葉に、スカートをぎゅっと握りしめる。
「何で、アニエスが淫魔だって、赤の他人から聞かされなきゃならないんだい?」
え、と思って、アニエスは顔を上げる。


女将さんも主人も、アニエスと同じく目に涙を浮かべていた。
「アニエスに、私達は信じて貰えなかったってことだろう?」
「はじめのうちに話してくれてれば、信じてくれれば、顔出しするホールじゃなくてバックヤードで働かせたのに」

二人は悔しそうに言う。
「うちは客商売だから、看板娘がどんなに可愛くても、殺人未遂とまで言われた淫魔は雇えないんだよ……」
「ごめんな、アニエス」


その時やっと、アニエスは気付いた。
信じて貰えなかった、と感じたのは自分だけではなかったことに。


「……ごめんなさい……」
「本当に!よく働いてくれる看板娘がいなくなったら、うちは大損害なんだよ!」
女将さんは、腕組みしたまま泣き笑いした。
アニエスもつられて、泣き笑いする。


「アニエスちゃん、これからどうするんだい?」
そう聞かれて、ブノワのことを勝手に話す訳にもいかず、アニエスは「ひとまずこの街から離れます」と答えた。
「ああ、それがいい。よし、少ないけどこれを持っていきな」

主人は金庫を開けると、中のお金をごそごそと皮の袋に詰めてアニエスに渡す。
「ご迷惑掛けた上に、これは頂けません」
アニエスは慌てて二人に返そうとしたが、彼らは笑って言った。

「あげるなんて言ってないよ」
「十年後でも二十年後でもいいから、出世払いしてくれ」
「ああ、途中で結婚でもしたなら、ご祝儀ってことにしとくれ」
アニエスは二人の優しさに涙腺が崩壊し、そのまま抱き付いた。

「ありがとうございます、必ず返しに来ますね……!!」
「ああ」
「気をつけてな。この街の連中、噂を鵜呑みにして殺気立ってる奴もいるから、絶対に家には近付くんじゃないよ」
「この帽子あげるから、顔を隠して行きなさい」


アニエスは二人と別れを告げ、女将さんのくれた帽子を目深にかぶって無事に教会へと戻った。
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