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葵妃
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夜の闇に愛されたような女性だった。
葵妃――紅春鈴は、黒真珠の瞳に桃花を映して、うっそりと笑みを深める。
春の舞に、異様な熱気を見せた会場内はすでに熱が冷め、賑やかさを取り戻している。桜妃の元に戻ろうとした桃花の袖をちょいとつまんで引き留めた葵妃様に、桃花は気が気でならなかった。
先日の月餅毒事件は、霞がかかったまま。毒を盛ったのは侍女の玲香だが、毒として使われた紅山草の入手経路は謎である。医局から持ち出せる容量は制限されており、玲香の部屋からは持ち出した数よりも多くの紅山草が見つかっている。
他に入手先があったと考えられ、真っ先に候補として挙げられたのが紅家の姫君である葵妃だった。
「とっても素晴らしい舞だったわ」
後宮に来てから聞きなれてしまった賛辞の言葉に「アリガトウゴザイマス」と片言で返事をする。
頼みの綱の桜妃は王様とのお喋りに夢中で、助けは求められない。
何よりも気にかかっているのは、羽林軍を取り仕切る茶総大将の一言だ。
「紅家に気を付けろ」と、彼は言ったが、桃花には何をどう気を付ければよいのかわからないし、どうして気を付ければいけないのかもわからない。紅家なんて、普通に暮らしていれば関わることのない大貴族だ。
後宮に来てからこそ、貴い御方たちと関わるようになったが、そうでなければこれからも、いままでも、交わることなんてないと思っていた。
「緊張していらっしゃる?」
「エッ、いや、あの……わたしを呼び止めたのは、なにか用があったのでしょうか?」
恐る恐る伺う桃花に、きょとりと目を丸くした葵妃は、扇で隠した口元をつまらなそうに尖らせた。
ずっと噂の舞姫と話をしたかったのに、こうも怯えられてはつまらない。椿妃よりもずっと優しくて、桜妃よりもずっと常識的で、蘭妃のようにおかしくないと自負しているが、何が彼女を怯えさせているのだろう。面白くなくて、その蒼い瞳に映してほしくて、ついイジワルをしたくなってしまった。
するりと、音もなく伸ばされた指先が、舞姫の髪に挿さる簪をさらりとすくっていく。
「あっ」
「うふふ、素敵な簪ね。蒼に、蓮に、水紋――あぁ、蒼桃真官吏からいただいたのね。とても素晴らしい簪だわ。貴女の蒼い瞳ともよく合っているし……けれど、そうね、そうだわ、今度紅玉の簪を贈りましょう! それを付けて、ぜひ舞を見せてちょうだい?」
「あ、あの、返してください」
「こぉんな、独占欲の塊みたいな簪がいいの?」
「気に入ってるんです」
空に透かしたり、傾けたり、細い手のひらの上で弄ばれる簪に冷や汗が止まらない。涼やかで落ち着いた性格の女性と聞いていたが、目の前の葵妃様はイジワルな女性にしか見えなかった。
得体の知れない雰囲気に藪をつついたら蛇が出てきそうで、睨まれた蛙のように身動きが取れなかった。
桃花と葵妃は、よく見たら似た面立ちをしていた。形の良い猫目に、艶やかで真っすぐな黒髪は同じ夜の闇色。全然違う顔の造りだけど、ひとつひとつの目鼻立ちはそっくりだった。
確信めいたものを抱いた葵妃は、いっそう笑みを深くして、香る花のような色を醸し出す。
桃花の影に、父の顔を思い出した。目尻の綺麗な瞳、形の良い眉。小さな耳たぶは柔らかそうで、紅い色がよく映えそうだ。
蒼い簪よりも、紅色で染め上げたい。どうして身にまとっているのが蒼い簪に薄藍の衣なのだろう。チリチリと焼ける頭の奥に、手のひらに収まる簪を破壊してしまいたい衝動に駆られた。
どうにも、蒼桃真という男とはそりが合わない。紅家と蒼家というだけで対立する理由になるのだが、古来より、この両家は仲が大層悪かった。やたらと衝突しあい、顔を見合わせれば嫌味の応酬で、主上に引っ付いて後宮内をうろちょろする桃真が気に食わなかった。
蒼家直系の次男坊で、椿妃とは従妹関係にあたり、やたらと幅を利かせているムカつく男だ。にへらにへらと笑みを浮かべて、歯が浮くような台詞ばかり。彼がこの少女を見つけてきたというのも気に入らない。もっと早くに、蒼桃真よりも先にこの子に出会っていれば、と。
「その簪は、僕が桃花に差し上げたものですよ」
ひょい、と手のひらから奪われた簪が、桃花の元へと帰ってくる。
ほら、現れた。苦々しい感情を笑顔で覆い隠して、蒼い衣の男に視線を流す。
「あら、蒼様、せっかくの宴席ですのにこちらに来てもよろしいのでして?」
「えぇ、大事な舞姫の一大事ですから。この簪は、桃花のものです、いくら葵妃様でも差し上げることはできませんよ」
「あら、あら。わたしに似合う色ではなくってよ」
存外に、蒼なんて身に着けるかこの野郎、と副音声が聞こえてくる。
「桃真様……」
「ねぇ、貴女、彼のどこがよろしいの? 蒼家の簪なんて、容易に身に着けるものじゃなくってよ。蒼家に嫁入りすることがどういう意味か、理解してらっしゃるのかしら?」
「よ、嫁入り……?」
思わず、ぽかんとオウム返しした桃花に「あら」と口元を押さえる。どうやらこの少女は、男から簪を贈られる意味を知らないらしい。
それも含めて、厭らしい男だ。面白くなって、つい口を挟んでしまう。
「男性から女性へ簪が贈られるのは、求婚を意味していてよ。そしてそれを身に着けるということは、求婚を受け入れたも同じ。貴女、知らなかったの? 可哀そうに、蒼様に騙されているのね。桜妃様も、どうして教えてあげないのかしら」
心の中で口元は大きく弧を描いている。
「え、エッ、求婚!?」
「葵妃様、お戯れを。さぁ、桃花、桜妃様のところへ戻ろう」
「ちょっと、ちゃんと説明しろっ」
「はいはい。戻ったら教えてあげるから。――それじゃあ、葵妃様、失礼しますね」
弓形を描いた瞳は鋭く葵妃を射抜き、余計なことを言うな、と言わんばかりの眼光が非常に愉快だった。
葵妃――紅春鈴は、黒真珠の瞳に桃花を映して、うっそりと笑みを深める。
春の舞に、異様な熱気を見せた会場内はすでに熱が冷め、賑やかさを取り戻している。桜妃の元に戻ろうとした桃花の袖をちょいとつまんで引き留めた葵妃様に、桃花は気が気でならなかった。
先日の月餅毒事件は、霞がかかったまま。毒を盛ったのは侍女の玲香だが、毒として使われた紅山草の入手経路は謎である。医局から持ち出せる容量は制限されており、玲香の部屋からは持ち出した数よりも多くの紅山草が見つかっている。
他に入手先があったと考えられ、真っ先に候補として挙げられたのが紅家の姫君である葵妃だった。
「とっても素晴らしい舞だったわ」
後宮に来てから聞きなれてしまった賛辞の言葉に「アリガトウゴザイマス」と片言で返事をする。
頼みの綱の桜妃は王様とのお喋りに夢中で、助けは求められない。
何よりも気にかかっているのは、羽林軍を取り仕切る茶総大将の一言だ。
「紅家に気を付けろ」と、彼は言ったが、桃花には何をどう気を付ければよいのかわからないし、どうして気を付ければいけないのかもわからない。紅家なんて、普通に暮らしていれば関わることのない大貴族だ。
後宮に来てからこそ、貴い御方たちと関わるようになったが、そうでなければこれからも、いままでも、交わることなんてないと思っていた。
「緊張していらっしゃる?」
「エッ、いや、あの……わたしを呼び止めたのは、なにか用があったのでしょうか?」
恐る恐る伺う桃花に、きょとりと目を丸くした葵妃は、扇で隠した口元をつまらなそうに尖らせた。
ずっと噂の舞姫と話をしたかったのに、こうも怯えられてはつまらない。椿妃よりもずっと優しくて、桜妃よりもずっと常識的で、蘭妃のようにおかしくないと自負しているが、何が彼女を怯えさせているのだろう。面白くなくて、その蒼い瞳に映してほしくて、ついイジワルをしたくなってしまった。
するりと、音もなく伸ばされた指先が、舞姫の髪に挿さる簪をさらりとすくっていく。
「あっ」
「うふふ、素敵な簪ね。蒼に、蓮に、水紋――あぁ、蒼桃真官吏からいただいたのね。とても素晴らしい簪だわ。貴女の蒼い瞳ともよく合っているし……けれど、そうね、そうだわ、今度紅玉の簪を贈りましょう! それを付けて、ぜひ舞を見せてちょうだい?」
「あ、あの、返してください」
「こぉんな、独占欲の塊みたいな簪がいいの?」
「気に入ってるんです」
空に透かしたり、傾けたり、細い手のひらの上で弄ばれる簪に冷や汗が止まらない。涼やかで落ち着いた性格の女性と聞いていたが、目の前の葵妃様はイジワルな女性にしか見えなかった。
得体の知れない雰囲気に藪をつついたら蛇が出てきそうで、睨まれた蛙のように身動きが取れなかった。
桃花と葵妃は、よく見たら似た面立ちをしていた。形の良い猫目に、艶やかで真っすぐな黒髪は同じ夜の闇色。全然違う顔の造りだけど、ひとつひとつの目鼻立ちはそっくりだった。
確信めいたものを抱いた葵妃は、いっそう笑みを深くして、香る花のような色を醸し出す。
桃花の影に、父の顔を思い出した。目尻の綺麗な瞳、形の良い眉。小さな耳たぶは柔らかそうで、紅い色がよく映えそうだ。
蒼い簪よりも、紅色で染め上げたい。どうして身にまとっているのが蒼い簪に薄藍の衣なのだろう。チリチリと焼ける頭の奥に、手のひらに収まる簪を破壊してしまいたい衝動に駆られた。
どうにも、蒼桃真という男とはそりが合わない。紅家と蒼家というだけで対立する理由になるのだが、古来より、この両家は仲が大層悪かった。やたらと衝突しあい、顔を見合わせれば嫌味の応酬で、主上に引っ付いて後宮内をうろちょろする桃真が気に食わなかった。
蒼家直系の次男坊で、椿妃とは従妹関係にあたり、やたらと幅を利かせているムカつく男だ。にへらにへらと笑みを浮かべて、歯が浮くような台詞ばかり。彼がこの少女を見つけてきたというのも気に入らない。もっと早くに、蒼桃真よりも先にこの子に出会っていれば、と。
「その簪は、僕が桃花に差し上げたものですよ」
ひょい、と手のひらから奪われた簪が、桃花の元へと帰ってくる。
ほら、現れた。苦々しい感情を笑顔で覆い隠して、蒼い衣の男に視線を流す。
「あら、蒼様、せっかくの宴席ですのにこちらに来てもよろしいのでして?」
「えぇ、大事な舞姫の一大事ですから。この簪は、桃花のものです、いくら葵妃様でも差し上げることはできませんよ」
「あら、あら。わたしに似合う色ではなくってよ」
存外に、蒼なんて身に着けるかこの野郎、と副音声が聞こえてくる。
「桃真様……」
「ねぇ、貴女、彼のどこがよろしいの? 蒼家の簪なんて、容易に身に着けるものじゃなくってよ。蒼家に嫁入りすることがどういう意味か、理解してらっしゃるのかしら?」
「よ、嫁入り……?」
思わず、ぽかんとオウム返しした桃花に「あら」と口元を押さえる。どうやらこの少女は、男から簪を贈られる意味を知らないらしい。
それも含めて、厭らしい男だ。面白くなって、つい口を挟んでしまう。
「男性から女性へ簪が贈られるのは、求婚を意味していてよ。そしてそれを身に着けるということは、求婚を受け入れたも同じ。貴女、知らなかったの? 可哀そうに、蒼様に騙されているのね。桜妃様も、どうして教えてあげないのかしら」
心の中で口元は大きく弧を描いている。
「え、エッ、求婚!?」
「葵妃様、お戯れを。さぁ、桃花、桜妃様のところへ戻ろう」
「ちょっと、ちゃんと説明しろっ」
「はいはい。戻ったら教えてあげるから。――それじゃあ、葵妃様、失礼しますね」
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