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桃夜
しおりを挟む柔らかな猫っ毛に、甘い顔立ちをした年上の男の人。とても優しい夢を見せてくれる人だった。数多くいるお客様の中で、彼だけがはっきりと桃花の目に映って見えた。
桃夜、と名乗った彼の人は、決まって桃花が舞台に立つ夜に現れて、いつも同じ席に座った。甘い――そう、桃の香りのする、柔和な男の人だった。雰囲気は桃真のように穏やかで、一人称が僕というのも同じ、名前に桃がついているのも、なんだか運命を感じた。
遊女たちが暮らす棟の裏、ちょうど桃花の部屋の前に桜の木があり、身軽なその人は木に登って桃花との逢瀬を楽しんだ。桃花よりもずっと背が高くて、大きな手のひらで頬を撫でられると心がふわふわして、胸が温かくなった。
「君は籠の鳥だね」
目を細めてそう言った彼が、どんな感情だったのかわからない。上品な猫のような人だった。
いつも微笑を湛えて、桃花と話しているときだけ笑みが深くなる。低い声音は耳に心地よくて、ずっと聞いていたかった。
恋だったか、と聞かれれば、初恋だったと答えよう。遊郭の男衆のように荒げなくない、大人の男性に惹かれていた自覚もある。桃夜のような男の人は周りにいなかったというのも、桃花の初恋を助長させただのだろう。
格子窓越しの、ささやかな逢瀬だった。遊女たちの部屋の窓には、脱走しないように格子がはめ込まれている。かろうじて手首が通る隙間で、伸ばされる大きな手に自らすり寄っていた。
口づけも、体を交じ合わせることもない、指先を絡め、頬を撫でられ、髪を梳かれるだけのささやかな逢瀬だった。
桃夜が光雅楼を訪れ始めたのは春の盛りの頃。高い背に、緩やかな服装、結わえられることなく背中で揺れるふわふわの髪。どこかの貴族の子息だろう桃夜に、裏では遊女たちが誰が彼の座敷に行くかで揉めていた。
七日に一度、桃花の舞台だけをみにや舞台が終わればすぐに帰ってしまう遊び人。当時は舞姫とはやし立てられ、渦巻く嫉妬の最中にいた桃花は別の嫉妬で苦しめられた。けれど、それも苦ではないほど、桃夜との逢瀬は楽しかった。
珍しく内儀様がくれた団子を食べながら、窓辺で月見をしていた時だ。
「こんばんは、お嬢さん」
突如聞こえてきた声に、団子がのどに詰まりかけた。咽る桃花に「驚かせるつもりはなかったんだ」と謝ったのが桃夜だった。
天女がひとり寂しく月見なんて味気ないだろう、と笑う彼は夜の月のように冴え渡る美貌をしていて、ドキリと胸が高鳴った。二本あった団子を「食べる?」と聞いたら嬉しそうに笑う者だから、ついつい、格子から手を差し伸べてしまったのだ。
ほっそりとした指先が団子を受け取るよりも早く、手首を掴み、引き寄せられる。
「っ!?」
「――天女からの恵みだなんて、僕はなんて幸運なんだろうか、面布で顔を隠さなければ、君の美しさに皆骨抜きになっていただろうね。格子があるのが憎たらしいが、きっと、これがなければ僕は君を攫って行っていただろう」
ちゅ、と手の甲に口づけられて、手を放される。荒げない男衆としか接したことのない桃花にしてみれば、なんて気障ったらしくて浪漫主義だろうかと思った。
かぁっと顔が熱くなって、恥ずかしくて勢いよく窓を閉めた。「またね、天女のお嬢さん」と聞こえた声に、胸がずっとドキドキしていた。
月の美しい夜は、桃夜との逢瀬の時間になった。桃夜から甘菓子や氷菓子をもらい、桃花は格子窓から手を差し伸べるだけ。
するりと、細い手首を大きな手のひらが包み込んで、いたずらに指先を唇で食まれる。爪紅を塗られて、乾くまで手のひらを弄ばれたりもした。
――逢瀬は、長くはもたなかった。誰かが密告したのだろう。部屋の窓は閉ざされて、しばらくの間、舞台に上がらせてもらうこともできなくなった。どうして、と内儀様に問うても「言いつけを破った仕置きよ」と部屋に閉じ込められてしまうばかり。
ずっとひとり、狭く小さな部屋に押し込められて、会えない日々が続いた。胸が苦しくて、身が焦がれる思いだった。
ある日、こっそりと、部屋を抜け出して廊下を走り抜ける。柔らかなあの人の後ろ姿を探して、禿たちが慌てているのを横目に、彼の姿を見つけた。
襖の隙間から見える、汗ばんだ体と艶めかしく絡まる足。気分を高める香が焚かれて、桃花には決してできないことをしている大華の遊女と、桃夜。息を飲み、体を固くした桃花はその光景が脳裏に焼け付いて忘れられなかった。
目を見開き、大粒の涙が溢れるのを耐えられなかった。慌てる禿たちに手を引かれるまま部屋へと戻り、目元に濡れた布を押し付けられて、汗ばんだ体を清められて、呆然と座り込んでいた。
此処は花街・遊里。金がなければ遊べない、夜の花が咲く不夜の街。
ささやかな触れ合いで、逢瀬だけでよかったのに、どうしようもなく心が苦しかった。涙が溢れて、止められなかった。
遊女の悲恋は、よく舞の題材に取り上げられる。わかっていたはずだ。遊女がまともな恋をできるはずがないと。
舞うことしか取り柄のない桃花と、お喋りも上手で楽もできて色ごとにも長けた遊女であれば、誰もが後者を選ぶだろう。
――それから、窓を開けることをやめた。遊女とは名ばかり。舞しかできない、出来損ないのわたしが、恋をするだなんて烏滸がましいことだったんだ。
桃真と接していると、あの優しい日々を思い出す。桃真と桃夜。似ても似つかぬふたりだけど、なぜか重なって見えてしまうのだ。桃真は桃夜じゃないのに、声音や、仕草や、影が重なって、胸が苦しくて、真綿でじりじりと首を絞められていく、閉塞感に陥るのだ。
『桃花』
重なった声に、振り向いてしまいたくなった。
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