第九皇女は氷華の騎士伯爵に囲われる

白霧雪。

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第30話

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 ニコニコと、快活に笑う男に菊花は困っていた。

「君があの冷血漢のスイートハニーかぁ! 噂には聞いていたけど、まさか本当に実在していたとは思わなかったよ!」
「……妖やら天女やらと言われることは多々ありますが、わたくしはれっきとした人間でございますので」
「アヤカシ? テンニョ? なんだい、それは」

 ユハ・アンジーと名乗った彼はヴィンセントが敬愛する上司だと自称した。
 藤乃が渋い顔で頷いたので、上司なのは本当だろうが、敬愛している、という部分は信用ならなかった。

 どこか軽薄な雰囲気のユハと、真面目なヴィンセントが肩を並べている姿が想像できない。
 そもそも、騎士たちは訓練中だったが団長の彼がこんなところで油を売っていていいのだろうか。

 問いかけられればそれに応えて、あとはユハがひとりで喋っている奇妙な空間だった。
 ちなみに、ヴィンセントの執務室である。藤乃に連れられて部屋に入ると、すでにソファでくつろぐ彼がいたのだ。避けられない邂逅だった。

 こぽこぽこぽ、と紅茶の注がれたカップが置かれる。
 物の配置が屋敷の執務室と似ていて、温かいカップを口元まで運ぶとほっと吐息が零れた。

「なぁ、君とエンフォンは兄妹なんだろう」
「そうで、ございますね。……あの、燕風兄上は、その、御無事なんでしょうか……怪我や、病気はしていらっしゃいませんか?」

 そっと、囁く声だった。
 か細く、かすかに震えている。以前なら、そんな心配をしなかった。だって、兄上たちは皆強かで、負けなしだったから。

 不安に、恐怖に声が震える。
 兄たちが死んでしまうかもしれない不安、ひとりになってしまうかもしれない恐怖だ。
 生きていれば、離れていても繋がりは断ち切れない。死んでしまえば、そこで終わりだ。

「さぁ、俺は騎士団内での行動しか把握していないからね。それ以外のことはわからないな。まぁ、うちの部下たちとよく切磋琢磨しているようだけど。……あぁ、ヴィンセントも稽古を付けてやっているのをよく見るよ。聞いてないのか?」
「……――ヴィンセント様は、わたくしが知ることを嫌がりますので」

 曖昧に微笑む。
 学ぶことは許してくれるけど、知ることを彼の人は許してくれない。

 母のこと、兄や、弟のこと、ほかのきょうだいたちのこと。
 忘れてしまえと言わんばかりに、彼は新しいことを教えて、新しいものを与えてくれる。

 向けられる独占欲と執着心。
 ドロドロになるまで煮詰めた愛が、時折溢れてくるのが心地よかった。

「きょうだいを、心配するのはいけないことですか?」
「サピロスは欲深くて嫉妬深いからな。身の振り方に気を付けるのは良いことだよ。――しかし、君のその心配はどこか他人事のようにも聞こえるんだ」

 にぃっと弓形に笑んだ顔は、御伽噺に出てくる猫のようだ。

「君、きょうだいの心配しか口にしていないじゃないか。一国の皇女なら、仕えていた者たちや民のことを心配するもんじゃないのか? 言っちゃぁなんだが、今まで攻め落とした国のお姫様たちはそうだったぜ。『私の命はどうなってもいいので、罪のない民や子供たちはお助けください』ってね」
「――……」

 ぱち、と金色が爆ぜる。

「――……ふふっ、なるほど、確かに」

 つい、吹き出して笑ってしまう。ユハの言う通りだ。

 頭で考えて、心配している素振りをしていたけど、本当に心配していたわけじゃない。だって、死んで繰り返せばまた元通りになるんだもの。

 生きろ、と兄上が言ったから、菊花は生きているだけ。
 ヴィンセントに縋って、愛されて、人形のように生きている。

 死ぬのは怖い。
 痛いのは嫌い。
 苦しいのは嫌だ。

 ――けれど、死ぬことでそれらから解放されるなら、菊花は喜んで死を選べる。だって、繰り返せば痛くも苦しくもないんだもの。

「なぁ、君は一体、ヴィンセントをどうしたいんだ?」

 紫玉の瞳が眇められ、笑みを消したユハが静かに問いかける。

「仰っている、意味がよくわかりませんわ」

 こてん、と首を傾げた。

「逃げようと思えば、君は逃げられるだろう? そこのメイドも、そうとうの手練れだけれど、戦わずして逃げるなら、君はそれをやってのけれる実力がある。君だけじゃない。他の皇子や皇女もそうだ。ふとした瞬間、足音が無くなる。気配が希薄になる。そこらへんの暗殺者よりもずっと、暗殺者らしいじゃないか。君なら、ヴィンセントの寝首を掻こうと思えば掻けるだろうに」

 ユハは心底不思議だった。
 わざとらしい足音に、やけに静かな心音。
 他の者たちは気付いていないだろう。ユハだから――神に呪われたアンジー家の当主だから気づくことができた。

「杞憂ではございませんでしょうか。わたくしはあまり武芸は得意ではありませんので。ヴィンセント様に敵うはずがございません」

 はんなりと、お姫様らしく微笑む、人間味の薄い少女。
 こういう時はこういう反応をしなさい、と教え込まれたような完璧な受け答えだった。

 けれど、ユハの第六感が告げるのだ。この少女は、『歪』であると。

 ヴィンセントの異常な愛を受け止める皿に穴が空いているのだ。

『死』への恐怖心が極端に薄く、今、生きている事実さえ異なるように思える。――死の匂いを、まとっている。

 こういう時、愛妻の彼女がいてくれたらいいのに、と思ってしまう。

 興味本位でヴィンセントの囲っている愛猫の顔を見に来たのだが、早々に立ち去っていればよかったと後悔する。
 首を突っ込んじゃいけない問題だ。魔法には詳しくないんだから、面倒事は勘弁してほしい。

「……なぁ、君。近々自殺でもする予定でもあるのか?」
「なっ……!? アンジー公爵閣下! いくら閣下といえど、お嬢様になんてことを、」
「いいのよ、藤乃。それは、どういう意味でしょうか?」

 本当に、わかっていないのだろうか。
 飄々とした笑みを崩すことのないユハが、珍しく眉根を寄せ、とても静かな声音で呟いた。

「君からは、死の匂いがする。冷たくて、寒い、まるで深い海の底のような。けれど、どこか甘ったるい、腐った花の臭いもするんだ」
「……あら、まぁ」

 ぱち、と瞬いて、くんっ、と鼻を鳴らしたが、ユハが言うようなにおいは感じ取れなかった。
 藤乃を振り向くけれど、彼女も険しい顔を横に振る。

 妄言、にしては悪趣味だし、心当たりがないわけじゃない。むしろ、二度も死んでは繰り返しているのだから納得がいくものだった。

「公爵閣下様は、そのようなことにお詳しいのですか?」
「俺の愛妻が、魔法使いでね。そっち方面にちょっとばかし敏感なのさ。……で、死ぬ予定でもあるのか? できれば辞めて欲しいんだが。ヴィンセントが荒れる様子が目に浮かぶ」

 はぁ、と溜め息を吐いたユハは軽薄な雰囲気だし、飄々とした見た目通りの男なのだろうが、部下は大切に想っているのかもしれない。
 ただ単に、ヴィンセントが荒れて仕事どころではなく、自身に事務仕事が回ってきたら嫌だなぁ、くらいにしかユハは考えていなかった。

「で、どーなの?」
「…………わたくしも、死にたくないのよ」
「お嬢様?」

 初めて、感情が揺れた声だった。

「――でも、多分、もうきっと、遅いの」

 泣いてしまうんじゃないかと、ドキリと心臓が嫌な音を立てた。

 甘い、甘ったるい臭いが強くなる。
 毒々しい、花の蜜のような香りだ。

 全身に鳥肌が立って、匂い立つ『死』に、思わず立ち上がってしまった。

「――ヴィンセントを呼んでくるよ。君の兄上が殺されていたら可哀そうだし」
「え、」

 返事を待たずに、執務室を後にする。

 甘すぎる臭いに、嗚咽が零れた。昼に食べた愛妻弁当を廊下にぶちまけるところだった。

「団長? こんなところで何をなさってるんです? 暇なら訓練場にでも行ってください」

 タイミング良く、向かいからやってきた副団長。
 いつも以上に雰囲気が刺々しく、白いはずのシャツは点々と赤が飛び散っていた。

「…………おまえ、」
「はい?」
「女の趣味最悪だな」
「は?」

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